伊達晴宗(だて はるむね 1519年~1578年)は東国一の愛妻家であり、嫁さらいであり、奥羽を二つに割った過激な革命家である。伊達家第15代当主。通称は次郎。
わしはこなたが気に入った、もらい受けるぞ
1519年第14代当主・伊達稙宗の長男として出生。幼名は称次郎。
1533年元服の際、将軍・足利義晴の偏諱を受けて次郎晴宗と名乗った。 以降天文の乱による家督相続まで父の覇道に従って忍従の時を過ごす。
1534年(諸説有り)父の政略による岩城重隆の娘・久保姫(笑窪御前、晩年には栽松院と号す)の輿入れを承諾した。
が、岩城重隆は伊達、相馬、田村の縁戚による結びつきを脅威に思っていたためこれに反発、白河の名門・結城義綱の嫡男・結城晴綱との先約がある旨断りを入れた。
するとこの婚儀を斡旋していた稙宗の娘婿・相馬顕胤が激怒、伊達・蘆名・石川・二階堂諸氏と語らいのちの進軍の下準備に入っていく。この騒動の最中に晴宗は配下の者を密かに岩城方へ潜行させ、久保姫の人となりを調べている。 その報告はみどりご(赤ん坊)の頃からえくぼが可愛い、奥州に比類なき佳人であった。
かくして晴宗は決意を固めた。嫁盗りである。 結城家への輿入れの日、自ら手勢数百を率いて花嫁行列へ突撃、駆け寄る護衛を蹴散らして逃げ惑う侍女をそっくり生け捕りにし、なんと輿の強奪に成功してしまう。
この時怯える姫になんと声をかえたかは伝えられていないが、晴宗に向けられた顔には愛らしいえくぼが二つあったに違いない。白馬の王子様ならぬ「荒馬に乗った人さらい」にまさかの一目惚れ!である。これぞ戦国のロマンス(?)
この驚天動地の事態に岩城・結城諸氏は混乱、伊達・相馬の進軍を阻もうと奮戦するが大敗を喫してしまう(滑井合戦)
娘をさらわれた岩城重隆は結城家への建前もあり頑なに反伊達派を貫き、久保姫へ勘当を申し付けた。
当の久保姫は「私は毎日毎日幸せに暮らしています。心配しないで下さい。」というノロケたっぷりの手紙を何通も送り続け、やがて根負けした父は第1子を跡継ぎに貰い受けることを条件に婚礼を正式に認めた。
※ついには天文の乱で晴宗の味方までしている。
結城義綱は息子の嫁を奪われた上、領地も削り取られた。とんだとばっちりである。
晴宗は生涯久保姫を愛し続け、側室を持たなかった。久保姫もその愛に応え6男5女を産み上げた。 夫の死を見届けた後は出家し栽松院と名乗って政宗治世まで生き、右目を失明した幼少期の政宗を諸難から守り通した。
長じてからも政宗は年一回の御挨拶を欠かさなかったという。
1542年のちに弟・実元の居城となる大森城を築城。
天文の乱
1539~1540年にかけて稙宗派筆頭・相馬顕胤への領地割譲や、三弟・伊達実元の越後入嗣など、晴宗にとって看過できない問題が生じてくる。 父はすでに齢50を越えているがなお盛んであり、しかしてかくいう晴宗もいよいよ20を迎え心気充実の盛りである。嫁はかわいいし。
いずれ家督を継ぎ、身代を立てるにしても、こうも身を削る政策を続けられては自分の代でやがて逼迫してしまうは必定。このような危惧を抱いた晴宗はまたも決意を固めた。父押し込めである。
※事実縁組政略(=洞 うつろ)による稙宗の影響力は多大であり、特に相馬の侵攻に対しては晴宗・輝宗・政宗の三代に渡って苦闘していくこととなる。
1541年ついに稙宗を西山城へ幽閉。これを稙宗重臣・懸田義宗と相馬顕胤の配下によって盗み出されたため晴宗は懸田の城へ軍勢を差し向ける。相馬顕胤より非行を諭す書状が届くが進軍続行。稙宗退去の提案を受けて停戦。
※この裏で稙宗→懸田→相馬の縁組が成立している。鬼謀衰えず。
1542年重臣の中野宗時・桑折景長らと共謀して父を再び西山城へ幽閉。今度は稙宗重臣・小梁川宗朝に救出され、またも合戦に至る。これに奥羽の諸氏入り乱れて参戦したことで大規模な権力闘争に発展、天文の大乱となった。
1544年戦乱の最中、嫡男・彦太郎が誕生している。跡継ぎの誕生は戦勝の一助となったに違いない。久保姫大手柄。
はじめ晴宗方は押される一方となったが、6年間の戦闘の内に稙宗方に内紛が起きて離反者が相次ぎ、将軍・足利義輝の調停を承けて晴宗方有利の内に決着した。
これにより晴宗はようやく家督を相続して第15代当主となり、稙宗は丸森城に隠居した。
主な稙宗派…相馬顕胤、懸田義宗、小梁川宗朝、田村隆顕(愛姫の祖父)他大崎、葛西、畠山、石川、黒川、国分等
主な晴宗派…中野宗時、桑折景長、岩城重隆、鬼庭元実・良直(後の左月斎)他大崎、葛西、相馬、畠山、黒川等
乱の中心にあった伊達実元は稙宗方の部将として信夫郡大森で戦い、乱の終結とともに上杉入嗣の際贈られた引出物「竹に雀」の家紋を稙宗・晴宗へ献上して帰服した。 これに対し晴宗は、のちに大森城主を任じたり娘を娶らせることで応じた。
統治の問題
武勇によって旧制度に風穴を開けることに成功した晴宗であったが、それまで従属下にあった勢力に独立を許してしまうなど代償は決して小さいものでは無かった。さらには大乱によって乱れた家中の統一にも腐心していくこととなる。
1553年には「晴宗公采地下賜録」を作成して戦中に乱発された論功行賞や知行安堵状を破棄、新たに家臣団の知行割を再編している。同年にはなおも反抗する懸田義宗らを攻め、懸田氏を滅亡させている。
1555年左京大夫・奥州探題に任官。嫡男・伊達輝宗元服。将軍・足利義輝の偏諱を受けている。
この頃から中野宗時、桑折景長ら一部の家臣の特権を認めざるを得なくなり、専横を許し始めてしまう。
※領地の不可侵(守護不入)、私税(棟役…建物の税、段銭…田畑の税、藍役…藍染染料の税、酒役…酒の税)、土地の売買、刑罰権(惣成敗)など、知行地に関する諸権利
これらについてもともと稙宗も認めてはいた。だが塵芥集などの介入政策が反発を招き、失脚の憂き目を見ている。
晴宗は彼ら強権勢力の後押しによって家督相続を達成し、さらには中央との外交で父を上回る功績を手中にできた。
その代償として、自身の支配権を大幅に譲歩してでも彼らの権利を保障する必要に迫られていたのである。
当然、従属下勢力の独立と家中に対する支配力の縮小による国力低下は明白だったため、ここでさらなる政策の転換を余儀なくされる。
結局己も子女を佐竹、岩城、蘆名、留守、二階堂、石川、国分諸氏に入嗣、入嫁させ勢力の回復に努めるしかなくなったのである。親の政策に反目して争った晴宗であったが、その影響力には抗い難く、いわば「戦後処理」に忙殺される年月を過ごしていく。
1563年功が実り、室町幕府により奥州では蘆名氏とならんで二家だけが正式な大名として認可される栄誉を賜る。
1564年相馬盛胤と名取郡で争い敗戦。
同年次男(嫡男)・輝宗に家督を譲って杉目城へ隠居するが実権は握ったままであった。また中野宗時らの強大な権力保持も続いており、このことが親子に諍いを生じさせた。
1565年稙宗死去に乗じて相馬盛胤に丸森の一部を略取される。
1570年相馬盛胤によって丸森城陥落。この隙に長男・岩城親隆が相馬に奪われていた岩城領木戸・富岡を奪回。
同年中野宗時・牧野久仲親子が謀反の罪で輝宗によって追放される。引き際を悟った晴宗は実権を輝宗に移譲した。
ここに至ってようやく親子のわだかまりは氷解し、杉目城において開かれた一門・家来衆を招いた宴会では孫・梵天丸が和歌を詠んだりしたという。
1578年(天正5年12月5日)孫・政宗の元服に祝いの使者を遣わした一ヶ月後、杉目城で死去。享年59。
補足
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 60 | 政治 | 69 | 魅力 | 79 | 野望 | 68 | 教養 | 69 | ||||||
覇王伝 | 采配 | 79 | 戦闘 | 60 | 智謀 | 69 | 政治 | 74 | 野望 | 67 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 124(B) | 智才 | 138(A) | 政才 | 150(B) | 魅力 | 81 | 野望 | 72 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 58 | 智謀 | 76 | 政治 | 81 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 76 | 戦闘 | 51 | 智謀 | 76 | 政治 | 81 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 57 | 智謀 | 68 | 政治 | 73 | 野望 | 83 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 49 | 知略 | 68 | 政治 | 75 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 49 | 知略 | 68 | 政治 | 75 | 教養 | 63 | ||||||||
革新 | 統率 | 61 | 武勇 | 55 | 知略 | 76 | 政治 | 84 | ||||||||
天道 | 統率 | 61 | 武勇 | 55 | 知略 | 76 | 政治 | 84 | ||||||||
創造 | 統率 | 60 | 武勇 | 57 | 知略 | 76 | 政治 | 80 | ||||||||
大志 | 統率 | 81 | 武勇 | 81 | 知略 | 80 | 内政 | 83 | 外政 | 78 |
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戦国大戦でも親父や嫁共々Ver2.2で参戦。特技魅力は無いものの、疾駆という移動速度が上がる特技を持っており龍騎馬隊なのもあってかなりの速さ。
「全てを、我が糧とさせてもらおう…!」
計略は「吸血鬼の夜会」。神謀計略の一つ。伊達家の味方の武力を上げ、ラインに触れた敵の武力を下げる。更に敵に乱戦していると敵の兵力が徐々に下がり、味方の兵力は徐々に回復していく。
嫁の計略名が「吸精姫の采配」なので、それに対応したネーミングでもある。嫁が武力を奪うのに対してこちらは兵力を奪う。
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