嵐にびしょぬれになりながら、厩舎の関係者たちは、メジロクインの死を悲しんだ。
初仔は、いわば祝福されずにこの世へあらわれたのである。
仔馬は、仏の血を継いだということから「ボサツ」と命名された。メジロボサツは、初出走時から勝負に異常なまでの闘志をもやした。
そのレースぶりは、まるで殺意のようなものを感じさせた。ファンたちは「メジロボサツがなぜ強いか」という噂をした。
「あれは、自分の不幸な生い立ちへ復讐しているのだ。
勝つほかに、メジロボサツが愛される道はないのだ」と。
メジロボサツ(Mejiro Bosatsu)は、日本の競走馬・繁殖牝馬(1963 - 1991)。栗毛の牝馬。
1965年朝日盃3歳ステークス勝ち馬・同年の啓衆社賞最優秀3歳牝馬。引退後は母としてメジロ牧場の主力牝系のひとつを形成し、その子孫からは後年メジロドーベルやモーリスらが輩出された。
18戦9勝[9-1-2-6]
主な勝ち鞍
1965年:朝日盃3歳ステークス
1966年:サンケイスポーツ賞4歳牝馬特別、函館記念
父*モンタヴァルはフランス産。Eclipse系の支系・Blandford系の種牡馬で、戦中戦後期の日本を代表する種牡馬の一頭である*プリメロと同じ系統である。現役時は1957年のキングジョージVI世&クイーンエリザベスステークスに勝利。引退後の1961年に日本に輸入されたが、KGVI & QESの優勝馬が日本で種牡馬入りするのは初のことであった。
ところが、1964年デビューの初年度産駒の成績は今一つ、その上1965年の種付けシーズン後にモンタヴァル自身もわずか12歳で急死してしまう。あ~あなんてこった、大失敗だ……と思いきや、父の死と時を同じくしてデビューを始めた2世代目産駒から、阪神3歳S・皐月賞優勝のニホンピローエース、菊花賞馬ナスノコトブキ、そして本馬メジロボサツが出る。その後も遺された産駒から、みのもんたの芸名の由来としても知られる朝日杯馬モンタサンなどを出し、早逝が惜しまれるもののキングジョージ優勝馬の意地を示した。半弟の*ムーティエも日本で種牡馬入りし、二冠馬タニノムーティエを筆頭に多くの活躍馬を出している。
母メジロクインの母系祖は、社台グループ創業者吉田善哉の父である吉田善助が昭和初期にアメリカから輸入した基礎繁殖牝馬の一頭*デヴォーニアであり、この母系からは1961年の年度代表馬ホマレボシや1965年のオークス馬ベロナ、後年には1987年の安田記念馬フレッシュボイスが出ている。メジロクインは中央で4勝を挙げた後、浦河町の富岡峰治牧場で繁殖に入り、1963年5月12日に初産を迎えたが……難産がたたり、娘を産み落とした直後に亡くなってしまう。生まれてすぐ生母の乳を受けられなくなった娘は、現役中も400kgにも満たない小柄な馬に育つことになった[1]。
母父シマタカは現役時重賞には届かなかったが、1950年の二冠馬クモノハナの全兄として種牡馬入りし、菊花賞馬コマヒカリなどを出した。
誕生とともに母を喪い、デビューの時期には(殆どの競走馬は生涯を通じ父馬と顔を合わせることはないとはいえ)父も急死。これらのエピソードに「菩薩」という馬名も相まって、当初は「走るお墓」などという嬉しくない渾名も付けられた。
だが、菩薩とは仏教で「悟りの境地を目指して修行に励む姿」のこと。メジロボサツは小さな身体で自らの境遇や周囲からの風評を振り払うかのように走り、栄光も悔しさも味わい、そして母として後代への礎を残していく。
メジロ牧場の馬を数多く手掛けた、東京競馬場・大久保末吉厩舎から1965年7月10日デビュー。
初陣は4着に敗れたが、2戦目以降は連勝を続ける。7戦6勝の戦績をもって関東の3歳王者決定戦・朝日盃3歳ステークス(中山芝1600m)へ駒を進め、当日は1番人気に推された。矢野一博騎乗のメジロボサツはスタートからハナを奪い、そのまま逃げまくって2着セイブオー以下牡馬たちを完封。関東の3歳王者に輝いた。
年間8戦7勝の戦績をもって、1965年度啓衆社賞最優秀3歳牝馬に選出。翌年の牝馬戦線の主役と目される存在となった。
明けて旧4歳初戦、2月のオープン競走はキヨシゲル[2]の4着。3月下旬、桜花賞に備えて予め阪神競馬場へ向かい同地で叩いたオープンもキヨズキ[3]の3着と連敗。それでも4月10日の桜花賞本番は3歳女王として24頭立ての1番人気に推された。
阪神競馬場は晴れてはいたが、前日の雨の影響が残り芝は稍重。スタートから多頭数の激しい先行争いを制して並ぶように逃げたのは、前哨戦でメジロボサツを破った武邦彦の3番人気キヨズキと、古山良司の7番人気ヒロヨシの2頭。だが、直線に差し掛かるところで2頭の内を突いて抜け出したのが、杉村一馬の駆る4番人気ワカクモである。勝負あったかと思われたが、先頭を奪われたヒロヨシは二の脚を繰り出して追いすがり、大外からはメジロボサツも猛然と追い込む。しかしワカクモが凌ぎきって1着、クビ差2着にヒロヨシ、ハナ差3着にメジロボサツであった。
ワカクモといえば、「クモワカ伝貧事件」…1951年の桜花賞2着馬クモワカが馬伝染性貧血の感染診断により殺処分命令を下されるも、誤診を疑う関係者によって匿われて生かされ、裁判と再診断を経て繁殖牝馬として身分回復を果たした事件、その当事者・クモワカの娘である。死んだはずの牝馬の娘、あるはずのなかった命を授かった幸運な「幽霊の子」が、生誕とともに母を亡くした「仏の子」を破るというストーリーであった。競馬ファンとして知られる劇作家・詩人の寺山修司はこの1966年桜花賞について「不運は幸運には勝てなかったのだ。現代はやっぱり、幸運でなければ生きられない時代なのだろうか」と評している。
東京に帰り、残る1冠の優駿牝馬は是が非でも獲りたいメジロボサツは、トライアルとしてこの1966年に新設されたサンケイスポーツ賞4歳牝馬特別(東京芝1800m、現:フローラステークス)に出走。同門のメジロマジョルカ[4]を8馬身突き放し完勝する。
迎えた5月22日の優駿牝馬も1番人気に推されるが、この日は桜花賞よりさらに脚元の悪い雨の不良馬場。桜花賞2着から戴冠を狙う「雨の古山」古山良司の駆るヒロヨシがスタートから押していき、第1コーナーでハナを奪取。逃げて向正面で後続に7・8馬身差をつけた。3角からその差が一気に詰まったが、不良馬場と距離の壁で多くの馬がバテてしまい、ただ1頭メジロボサツのみが4角でヒロヨシに追いつき競り掛けた。しかしこれは、先に逃げて後続に追わせる間に息を入れたヒロヨシの術中であった。直線で再加速し、メジロボサツを9馬身突き放して勝利。メジロボサツは、追ってきたメジロマジョルカはアタマ差しのぎ2着連対は確保したものの、樫の栄冠にも届かなかった。
牝馬クラシック戦線を終えた後の夏場は函館記念(函館芝2400m)を選び、悠々と勝利。(現代でも夏競馬の3歳牝馬に起こりがちな状況だが、何しろ桜花賞3着&オークス2着の馬が52kgの最軽斤だったので…。)
だが、この函館記念がメジロボサツ最後の勝利となった。その後は5ヶ月の休養を挟み、ぶっつけの状態で有馬記念に出走するも、コレヒデの13着と大敗。旧5歳となった1967年も走りは戻らず、最後は後ろで回って来るだけというレースが続き、同年5月限りで現役に見切りをつけ繁殖に入ることとなった。通算18戦9勝。
引退後即座にパーソロンを付け、翌1968年に初仔の牡馬・メジロゲッコウを産んだ。
メジロゲッコウは弥生賞・スプリングSを連勝して三冠戦線に乗り、皐月賞5着の成績を残すも、その後長期故障に見舞われる。2年以上を経て復帰しオープンまでは立て直したものの大きいところは勝てず、36戦10勝の戦績で引退した。引退後は主にメジロ牧場の自家用として種牡馬入りしたが、わずかに20頭ほどの産駒からメジロアンタレス(中山大障害2勝)やメジロハイネ(セントライト記念)を出す健闘をみせた。
しかし、2番仔以降の産駒たちは目立つ成績を残せず、テンポイント・キングスポイント兄弟を世に送り出した桜花賞のライバルワカクモには水をあけられてしまった。
8頭の仔を産んだ後に繁殖から退いたメジロボサツは、1991年1月5日に養老牧場イーハトーヴ・オーシァンファームにて28歳(新馬齢)の生涯を閉じた。
が。時代は昭和から平成へ、「メジロボサツ?ああ、亡くなった寺山修司が好きでよく語ってた[5]馬だったね」程度の認識になりつつあった1980年代後半以降、風向きが大きく変わっていく。メジロボサツの5頭の娘たちの子孫から活躍馬が出始めるのである。
まずメジロボサツが存命中の1986年、4女(分かりやすさ優先で人間式に表記する)メジロポルシェの息子メジロボアールが阪神大賞典に勝利。次いで5女メジロクインシーの娘メジロモントレーはアルゼンチン共和国杯・AJCCなど重賞4勝。本気で走れば一線級の牡馬をもなぎ倒す切れ味を持ちながら、いつそれを発揮するかわからない気まぐれ娘として知られた。
そしてメジロボサツ没後の1990年代後半、一頭の子孫がビッグウェーブを起こす。次女メジロナガサキの孫娘で、メジロボサツの曾孫にあたるメジロドーベルの登場である。
まず阪神3歳牝馬ステークス制覇で曾祖母と同じく3歳女王。優駿牝馬制覇でボサツの届かなかった牝馬クラシックを獲り、さらに秋華賞で牝馬二冠。古馬ではエリザベス女王杯を連覇し、史上初の4年連続年度表彰・当時の牝馬最多のGI5勝を挙げた。調教師はボサツを管理した大久保末吉の子・大久保洋吉であり、ドーベルもまた母メジロビューティーの特殊な血液型のために乳を飲ませることができず生まれてすぐ母と引き離されるというエピソードもあり、メジロボサツはその母系祖として再注目されることとなった。
また、同じメジロナガサキ支系からは1999年にメジロファラオが中山グランドジャンプを制覇。その妹にはメジロベイシンガー(新潟ジャンプS)も出た。
メジロドーベルは繁殖に入り、ボサツの牝系を大いに発展させるものと期待されたが、直仔からは活躍馬を出せず。だがメジロ牧場解散後の2014年、孫世代からショウナンラグーンが青葉賞を制し、メジロ牧場の設備と馬を引き継いだレイクヴィラファームにとっても初重賞となった。
さらに2015年、あの気まぐれ娘メジロモントレーの孫に大物が出る。3歳までは2勝馬でクラシック三冠には出走もできなかったものが、4歳の2015年に年間6戦6勝と大覚醒、一挙に安田記念・マイルCS・香港マイルと制して年度代表馬に選出されたモーリスである。翌2016年も香港チャンピオンズマイル・天皇賞(秋)・香港カップと勝利しGI計6勝。種牡馬入り後も(牡馬なのでその産駒はもはやメジロボサツ牝系ではないが)ピクシーナイト・ジェラルディーナ・ジャックドールや、またシャトル種牡馬として渡ったオーストラリアでもヒトツ等を出している。
2020年代になっても、長女メジロカンノンの玄孫サウンドリアーナ(ファンタジーS)、メジロドーベルの孫ホウオウイクセル(フラワーC)、そしてモーリスの母メジロフランシスらの牝系が残りメジロボサツ系は存続している。彼女の名が5代血統表から押し出されるほどの年月が経過したが、名門牧場を支えた「仏の子」の末裔からさらなる活躍馬を期待したい。
| *モンタヴアル Montaval 1953 鹿毛 |
Norseman 1940 鹿毛 |
Umidwar | Blandford |
| Uganda | |||
| Tara | Teddy | ||
| Jean Gow | |||
| Ballynash 1946 黒鹿毛 |
Nasrullah | Nearco | |
| Mumtaz Begum | |||
| Ballywellbroke | Ballyferis | ||
| The Beggar | |||
| メジロクイン 1957 鹿毛 FNo.10-d |
シマタカ 1944 鹿毛 |
*プリメロ | Blandford |
| Athasi | |||
| 第参マンナ | *シアンモア | ||
| マンナ | |||
| コウゲン 1947 鹿毛 |
ハクリユウ | ラシデヤー | |
| フロリスト | |||
| 第七デヴオーニア | *ステーツマン | ||
| *デヴオーニア |
メジロボサツ 1963
|メジロゲッコウc 1968 (弥生賞・スプリングS)
|メジロカンノン 1970
||トシオカンノン 1977
|||ボールドワン 1983
||||オテンバコマチ 1999
|||||サウンドリアーナ 2010 (ファンタジーS)
|メジロナガサキ 1971
||メジロビューティー 1982
|||メジロティファニー 1988
||||メジロマントルc 1997 (鳴尾記念)
|||メジロドーベル 1994 (阪神3歳牝馬S・優駿牝馬・秋華賞・エリザベス女王杯連覇など)
||||メジロシャレード 2006
|||||ショウナンラグーンc 2011 (青葉賞)
||||メジロオードリー 2007
|||||ホウオウイクセル 2018 (フラワーC)
||メジロストーク 1984
|||メジロファラオc 1993 (中山グランドジャンプ)
|||メジロベイシンガー 2001 (新潟ジャンプS)
|メジロポルシェ 1976
||メジロボアールc 1983 (阪神大賞典)
|メジロクインシー 1981
||メジロモントレー 1986 (アルゼンチン共和国杯・AJCC・クイーンS・中山金杯)
|||メジロフランシス 2001
||||モーリスc 2011 (安田記念・マイルCS・香港M・チャンピオンズマイル・天皇賞(秋)・香港Cなど)
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最終更新:2025/12/22(月) 18:00
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