森 喜朗(もり よしろう、1937年7月14日-)とは、日本の政治家である。第85代、第86代の内閣総理大臣。石川県出身。森 元総理から森元さん、干からびたチーズ事件の見事な八百長っぷりからヤオ森さんなどとも呼ばれる。
石川県立金沢二水高校卒業、早稲田大学第二商学部出身。元々はラグビーのスポーツ推薦で生まれながらの体格の良さからラグビー選手としての素質はあったが胃炎で退部となった。
方針を180度転換して政治家となり69年の衆議院選挙で初当選。83年には文部大臣に入閣、通商産業大臣、建設大臣、自民党、政務調査会長、総務会長、幹事長などを勤めたのち内閣総理大臣に就任。
総理大臣退任後は、2007年から2010年まで清和会の最高顧問に就任していた。2012年12月の第46回衆議院議員総選挙には出馬せず、代議士を引退した。しかし、その後も様々な形で外交などにかかわっている。
2014年には東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の会長に就任。しかし2021年に女性蔑視発言の責を取り辞任。後任には五輪相の橋本聖子氏が就任した。
「世界へ貢献する日本」が信条で、アフリカ外交や日中韓の連携を重視し、日韓議員連盟会長を務めている。
また、ラグビー好きは現在でも変わっていないようで日本ラグビーフットボール協会会長も務めている。
かつては全国経理教育協会(簿記検定を主催している団体の一つ)の会長を務めていたこともあり、2024年4月時点でも名誉会長を務めている。(ちなみに会長は麻生太郎)
出身校である金沢二水高校では、たびたび創立記念日に生徒を集めて講演会を行う。他の公立高校は休みなのに自分達だけ森の話を聞かなくてはならないため、二水高校の生徒にはあまり良く思われていない。
また、城の中にあることで有名だった金沢大学のキャンパスを山の中に移転させたのでも有名。
2008年12月7日に森喜朗チャンネルが開設。
当初、誰が勧めたし、まさかの森さんなどと言われ驚かれるが、内容を見た後は、森さんってこんな人だったのかwと二重の意味で驚かれている様子。
森喜朗は2000年に総理大臣に就任したが、それまでは自民党幹事長など裏方の仕事が多かった。
1969年に初当選した当時は自民党は角福戦争とまで言われた田中角栄と福田赳夫の壮絶な派閥争いにあり、新人の森喜朗はどちらからも可愛がられて、最初は力のある田中角栄に付き、田中が失脚すると福田赳夫についてと派閥を渡り歩きながら閣僚ポストや執行部ポストを得ていたが、田中派も福田派も衰退して中曽根内閣になったあたりから派閥の主流派を外れて急速に影が薄くなっていき、裏方に回った。
テレビなどで表舞台に出るようになったのは幹事長時代の1993年で、このころには福田派は安倍派を経て三塚派になっていた。安倍派時代の安倍晋太郎が死んだことで三塚派のなかで最有力の議員になっていたことで、ココにきて自民党幹事長のポストを手に入れた。しかし1993年は自民党の最大派閥であった竹下派が小沢一郎が仕掛けたウソつき解散で分裂して大量離党してしまい、選挙は自民党が結党以来初の過半数割れで大敗。野党に転落してしまったことで、幹事長就任も素っ気ないものになってしまった。
その後も森喜朗は村山内閣では建設大臣で久しぶりの入閣を果たしたが、橋本内閣では派閥の非主流派でポストが回って来ず、小渕内閣ではYKKトリオこと山崎拓、加藤紘一、小泉純一郎が次期首相候補とまで言われるほどに急速に台頭してきたため、影が薄くなっていった。しかしYKKは小渕恵三に対抗して自民党総裁選に出て3人とも大惨敗に終わったあたりから風向きが変わり党内の存在感が増し始めた。その頃から小渕内閣の官房長官であった野中広務に気に入られ、取り立てられるようになる。
2000年に小渕恵三総理大臣が在任中に脳梗塞で急死してしまう。その際に急に森喜朗が総理に抜擢されて総理大臣に就任した。当時の総裁はもちろん小渕恵三であったが急死で総裁ポストが無くなってしまったため、官房長官であった野中広務が親しかった青木幹雄と江藤亀井派の村上正邦、亀井静香、あとは自分の子分だった森喜朗の5人が密室で集められて次の総理を談合し、『森さんで良いんじゃないか?』と言う結論になり、森喜朗内閣が誕生した。森喜朗でまとまったのは小渕は最有力で力があった野中広務は政治家キャリア不足(初当選は57歳で政治家としては若輩)、村上も亀井も派閥が小さい、青木は参議院なので論外と総理になり得る人材が森喜朗しかいなかったという実情があった。
森内閣のメンツはほとんど全員が元の小渕内閣のメンバーで、森喜朗はそのまま自民党総裁に就任、そのときには幹事長だったのでポストが空き、そこに野中広務が収まった。要は小渕恵三が死んで抜けたポストに下から順に森喜朗と野中広務が繰り上がって収まったようなものであり、森喜朗は非主流派の冷や飯時代から総理就任まで何から何まで世話になった野中広務に頭が上がらないことから、総理としての権力基盤は極めて弱く、実権を野中広務が握る形での内閣発足となった。
内閣発足直後から野党各党から総理就任への経緯を厳しく追及された。当時民主党の党首の鳩山由紀夫からは国会で『貴方が総理大臣に就任する正当性は全くない!』と厳しく追及され、森喜朗もまた有力派閥の談合で付いた総理の地位であることを否定できず、何ら反論できないまま神妙にしているしかなかった。
総理大臣当時、「神の国」と発言したことがマスコミにより問題発言として報道された。
神の国と言ったのは神道政治連盟の懇談会に出席した森喜朗が挨拶のスピーチでのものである。そこで
日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞと言うことを国民の皆さんにしっかりと承知していただく。その思いでですね、私たちが活動して30年になったのであります。
この発言は神道政治連盟での懇談会での発言であり、神道政治連盟はもちろん神社本庁の関連団体で、その神社本庁は宗教法人である。そこで政治家、ましてや内閣総理大臣が時代錯誤の天皇を中心としている神の国などと言い出して、国民に周知徹底するといった戦前の天皇制ファシズムへの回帰ともとれる趣旨の発言をしたことが報じられて大炎上となった。
森喜朗としてはリップサービスのつもりだったのかもしれないが、この炎上に対して謝罪も撤回もせずに何がおかしいのかと開き直るような態度をとったことから教育委員会や文部省からも非難されるようになり、最終的に野中幹事長が出向いて仲裁して、ようやくこの一件は収まった。
しかしその後も『教育勅語にも良いところはあった』『国体をどう守るのか(国民体育大会ではなく天皇中心体制のこと)』などと発言して叩かれたりと、戦前志向の国粋主義なところを隠そうとしないことで、たびたび不要な騒ぎを起こすことが絶えなかった。(教育勅語は戦後教育としては否定されており、政府の学習指導でも採用されていない。)
もともと正式な自民党総裁選も経ず総理に就任したために中曾根派、加藤派、山崎派といった非主流派はもちろん総理就任の流れに疑問を持つ議員が多かったので政治基盤が弱かった。そのうえに野中広務に頭が上がらない森喜朗は、いつしかウドの大木と揶揄されるようになっていき、本人の総理としての資質が足りない行動も多く、スキャンダルが絶えなかった。
1997年の自民、社民、さきがけの与党3党の代表議員が訪問団を結成して北朝鮮に行った際に森喜朗が参加しており、その訪問の際に当時の朝鮮労働党の幹部との会談の際、拉致問題で次のように言及した。
(拉致被害者のことは)行方不明者としてもいいから、例えば北京でも、パリでも、バンコクでも、そこに住んでいたということにすれば良いんじゃないか。
本人としては拉致被害者を早期に北朝鮮から出すつもりでの発言だったが、これではまるで北朝鮮の拉致の事実を棚上げにするのを政府が公認しかねないことから、大きな問題になった。
この発言が問題視されたのは総理就任後で既に3年前の発言であったが、相次ぐ失言から過去の発言がマスコミに掘り返されるうちに見つかってしまい、このことは北朝鮮には言質を取られていたことから、後の小泉内閣での日朝首脳会談における拉致被害者帰還の交渉を難航させる原因になった。
もともと気さくな性格で支持者をはじめファンに対してはサインも握手もツーショットも拒まない人であったが、あろうことか指定暴力団の稲川会に属する暴力団組員とツーショットを撮ってしまい、その写真は格好の週刊誌ネタとなって世間に広まってしまった。当時の官房長官であった福田康夫は記者会見で森喜朗と暴力団の関係を質問されて答えようがなく困り果ててしまい、森内閣の信頼を失墜させた。
2000年5月の総理就任直後に月刊誌の噂の真相で森喜朗が過去に買春で逮捕歴があることを暴露されて、総理就任当初から総理になる経緯が密室であったことへの疑いの目を強める結果になった。その直後の9月に官房長官であった中川秀直が愛人問題を週刊誌フォーカスに暴露されて猛烈な晒し上げの末に官房長官を辞任する騒動になった。その際に過去の買春逮捕歴の話が蒸し返されて森喜朗まで糾弾されるハメになり、総理の資質が改めて疑われる結果になった。
愛媛県宇和島水産高校のマグロはえ縄漁実習船であった『えひめ丸』がハワイオアフ島沖でアメリカ軍の原子力潜水艦と衝突して沈没する大事故が起きた。35人中9人が死亡する大惨事になったが、事故の際、森喜朗はゴルフ場でゴルフを楽しんでおり、事故の報告後もプレーを続けたことで大バッシングが起きた。本人の証言によれば6~7番ホールでプレー中に秘書からの連絡がきたという。しかし森喜朗はその後も1時間半あまり、ゴルフをプレーし続けたことが番記者を通じてマスコミに伝わったのである。
森喜朗はSPに『「すぐに帰った方が良いか?」と聞いたら「ちょっと様子を見るのでそのままにしていてください」』と言われたと釈明したが、総理なら言われてやるものではなく自ら動くことであり、総理大臣としての危機管理能力が疑問視されることになった。その直前にもロシアで原子力潜水艦クルスクが訓練中魚雷発射ミスで沈没する事故が起きて乗組員全員が死亡する惨事になったが、プーチン大統領は休暇を切り上げずに遊んでいたためにロシア政府に対して大規模なデモが起きて問題になっており、そのこともトバッチリになって森喜朗への批判が強まった。
森内閣の政権末期は既に小泉純一郎の国民的人気がピークになっており、一方で森内閣で裏の総理と言われた野中広務は国民から嫌われて森喜朗は現職総理にもかかわらず過去の人扱いになっていた。当時は森喜朗は記者会見のたびに退陣はいつかと聞かれるほどで、退陣のXデーが総理一番の話題であった。
森内閣の退陣が決まると森喜朗は真っ先に小泉純一郎を後継に抜擢し、森内閣誕生の際に野中広務と共に森喜朗を推した青木幹雄も野中を裏切って森と共に小泉を推薦、この寝返りで野中は森と青木に三行半を突き付けられた。野中は残った江藤亀井派の亀井静香しかいない状況になり(村上正邦はKSD事件でタイ━━━━||Φ|(|´|Д|`|)|Φ||━━━━ホ!!)自民党総裁選は小泉純一郎が橋本龍太郎、麻生太郎に大差をつけて圧勝して小泉内閣が誕生、YKKトリオの一人の山崎拓は野中広務の後の幹事長の座に就いた。(もう一人の加藤紘一は外務大臣を打診されたが自重した)森喜朗は森派の派閥会長として小泉内閣をバックアップし、その後は安倍内閣、福田内閣、麻生内閣とそれぞれの内閣発足にあたって最大派閥森派の首領として党内で権力を振るい、キングメーカーとしての裏方に徹しながらも大きな権力を持つようになる。
ちなみに森喜朗の親分であった野中広務は小泉純一郎が総理になると青木幹雄から自分の推薦者を小泉内閣の閣僚ポストからことごとく外され、味方を失った途端に急速に権力を失って行った。唯一の味方であった亀井静香は小泉内閣を批判していたが次第に見切りをつけて離党して国民新党を結成。小泉内閣の中期の頃には党内の主要ポストも失って2009年の衆議院選挙では民主党の候補に敗れて落選し政界を引退した。森内閣時代には影の総理、野中内閣待望論とまで言われていたにもかかわらず、である。
ビル・クリントン大統領(当時)と会談した際、"Who are you?"(あんた誰?)とぶしつけな発言をしたとする報道がなされたが、のちに森叩きに明け暮れていたマスメディアが、古くから存在した東洋人の英語下手ジョークを勝手に当てはめただけだと判明した。
詳しくはWikipedia「Who are you ?捏造報道」の記事へ
裏話
森元さんだけはヤオ
第84代 | 第85代,第86代 | 第87代,第88代,第89代 |
小渕恵三(自由民主党) 1998~2000 |
森喜朗(自由民主党) 2000~2001 |
小泉純一郎(自由民主党) 2001~2006 |
掲示板
2323 ななしのよっしん
2024/09/29(日) 11:22:20 ID: mrqiXAHx2Q
君は森をなんだと思っているのかね
こんなもんで大人しく消えてくれるならもうとっくにおらん
2324 ななしのよっしん
2024/09/30(月) 08:27:51 ID: 51Jch4wYrm
2325 ななしのよっしん
2024/10/03(木) 00:17:56 ID: 9xDtpnA4ii
バケモン相手に「やったか!?」とか言ってる状況みたいで若干草
>>2308
岸田不出馬まで含めて割と当たってたね。おめでとう
まあ結果は乱戦の後、岸田と菅が手を組み、麻生茂木が高市に乗るも敗北とかいうもっと面白い状況だったけど
元はと言えば清和会がアレでこうなったのだから全然構わないんだけど、後者が保守と言うより保身の集まりみたいになっちゃってこの先どうするんだろうとは思う
急上昇ワード改
最終更新:2024/10/08(火) 11:00
最終更新:2024/10/08(火) 11:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。