横井小楠 単語

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ヨコイショウナン

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横井小楠とは江戸時代後期の武士、儒学者、思想である。

概要

文化6年(1809)8月13日熊本士の次男として誕生。諱は時存(ときあり)、通称四郎、号は小鎌倉幕府の執権北条氏を先祖に持つ。

10歳の頃、校時習館に入学し頭を現す。時習館では朱子学を学び、水戸会沢正志斎の著書『新論』に感化され、尊王攘夷思想のとなる水戸学に傾倒する。また、熊沢蕃山の提唱した実学について学ぶ。

保4年(1833年)25歳で時習館特待生、保8年(1837年)29歳で時習館塾長に就任。

江戸遊学

塾長となった横井速学内の新制度を建議し、塾生達に自由討論や飲による交流を推奨するが、紀が乱れて退塾者が続出する。この失敗のほとぼりを冷ますため、保10年(1839年)4月熊本家老長岡監物の支援により江戸へ遊学することになった。

江戸では大学頭に入門した他、藤田東湖川路聖謨など多くの有識者や著名人と交流する。また、この遊学中に横井ケンペルの『鎖国論』を読み、外に関する知識を得ている。

12月藤田催の宴会に出席中酔った勢いで「下に名君は少ない」と発言し、不祥事として熊本への帰を命じらる。

保11年(1840年)4月熊本に戻ると70日の謹慎処分を言い渡された。

実学党

謹慎が解かれた後、支援者長岡監物や子の元田永らと共に儒学の研究会を発足させる。この研究会で横井古代中国伝説上の君である堯の世を理想とし、実学を尊ぶべしと提唱した。また、『時務策』という提言書を執筆して高利貸しや紀の乱れを改めるべしと熊本政を批判した。これが保守から批判を浴びて横井は危険人物視される事となる。

保14年(1843年)に私塾を開く。塾生たちには「学問とはただ書物を読んで丸暗記する為のものではなく、理を極めてこれを日常生活に生かすことである」と説いた。また、兵法やを洋式に改める事や種痘の普及を提唱するなど、い時期から西洋文明に理解を見せた。

嘉永4年(1851年)、全を遊歴し、長州村田吉田松陰久留米和泉福井橋本左内などと交流する。この旅の途中に寄った越前福井では特に非常な歓待を受け、後に福井招聘のきっかけとなる。

黒船

嘉永6年(1853年)6月米国艦隊4隻がに現れた。当初横井は「二年太因循の弊政を挽回し、江戸必死戦場と定めて夷賊を粉微にすべし」としていたが、『図志』[1]読みに関する知識を得ると攘夷論は謀であると考えに開論に転じた。その結果これまで支援者だった家老長岡監物をはじめ、同じ熊本出身者の宮部鼎蔵や河上斉、久留米和泉ら攘夷を唱える人々とも絶縁されることになった。

福井藩招聘

安政4年(1857年)5月福井松平慶永(嶽)は熊本に居た横井に対し、福井への招聘の意を伝えた。熊本では既に八分にされていた横井福井で自分の思想を実践に移すべく受諾したが、熊本庁がこれを認めなかったため慶永は再度熊本に申し入れ、翌安政5年(1858年)4月、ようやく横井招聘が実現した。福井に着いた横井は歓迎を受け、校での出講、会読にも大勢の士たちが押し掛けて好評を得た。

同年7月、慶永が安政の大で隠居謹慎に追い込まれると福井内に動揺が広がった。横井士たちから引き続き福井に留まるよう要請を受けると当面福井から離れるつもりがない事を約束して動揺の鎮静に務めたが、9月に実の急死の知らせが届いたため一旦帰。翌安政6年(1859年)5月、再び福井を訪れた。この帰の際、福井士の三八郎(由利正)を伴って下関や長崎の殖産貿易に関する調を行わせている。

福井に戻った横井と三は協力して奉行や屋を説得して回り、万延元年(1860年)10月に物産総会所を設立。長崎を経由した生糸の輸出で利益を上げ、開策が必ずしも日本にとって不利なものではないことを明した。

国是三論

万延元年11月福井に戻った横井は「富・強兵・士」(経済論・防論・道徳論)の三論からなる『是三論』という論文を執筆した。

    • 公共をもって下の政治を行い、外を相手として信義を守り貿易で利益を上げ収入を確実にすれば仁政を施すことが出来る。そのためには内の生産物を庶民にも庁にも損にならない値段を決めてが買い上げ、庁から資金などを利息で貸せば良い。
    • を確保するための生産物を海外に輸出すべし。例として、1万両の札を刷って領民に貸して養蚕させる。作った生糸を西洋人に売れば1万1千両程度の利益が出る。1千両の純益が出るのでこれを使って社会などに充てる。この方式を全ての事業で適用して回転させていけば民間の生産拡大、庁の純益増加につながる。
    • 幕府は大名諸侯の力を弱らせておくため参勤交代や土木事業への参加を強制してきたが民衆にとって負担になるばかりで幕府は自身の利益しか考えていない。外では制度から技術まで世界中の良いものを尽く取り入れている。大統領世襲ではなく民意で選んでおり、政策は必ず民の意見を聞いて行っている。学校病院なども整備されており、古代中国の理想政治にも合致しているのである。このような々に対して尚鎖国に固執し続け徳や大名諸侯のためだけの政治を行うのは愚である。よって万の実情を知って内を一新し、富強兵に努めて外の侮りを受けないようにしなくてはならない。
  • 強兵論
    • 今学者と武術は互いに軽蔑しあって相手を認めようとしない。これは日本の通弊であり、本来文武というものは聖人の徳性によるもので、これを二つに分けたのは故事に反することである。
    • 柳生宗矩宮本武蔵政治に参与したのは後世の武術と異なり当世の人材だったからである。武蔵はひたすら心のあり方を研究していたが、それだけでは理になるから時にはを取って学んだものが身についたかどうかを試した。このように文武のを2つに分けずにその教えを政治に実行していけば、の文武を達成することが出来、人材もここから生まれるであろう。

横井はこの三論をまず福井で実践し、最終的に日本是とすることをしていた。なお同じ時期高杉晋作横井の元を訪れ、「なかなかの英物」と評して長州への招聘を望んだが実現しなかった。

国是七条

文久元年(1861年)4月松平春嶽は政界復帰と合体の実現のため、福井に居た横井江戸に招いた。この時期に幕臣の勝海舟大久保一翁と知り合う。

その後一旦熊本に帰していたが、文久2年(1862年)6月、三八郎から急遽要請を受けた横井熊本から江戸福井邸に赴いた。幕府から政事総裁職への就任をめられた松平春嶽は就任をためらっていたが、横井が就任を勧め、幕府の政治を改めるべしと進言したため嶽は就任することに決めた。

嶽の政治顧問となった横井は『七条』と題した政策を建言した。

  • 将軍は上してこれまでの礼を詫びること
  • 諸侯は参勤交代を止め、将軍に領内政務の報告をすること
  • 諸侯の妻を元に返すこと
  • 外様譜代の区別なく有能な人材を登用すること
  • 大いに言路を開き下とともに公共政治を行うこと
  • 海軍して兵威を強くすること
  • 相対貿易を止めて官貿易にすること(貿易をの管理下に置くこと)

これらの献策の結果、参勤交代を3年に1回とし期間も短縮され、幕府への献上物も軽減されることになった。このように文久の幕政改革は横井の提言によって実施されていった。

士道忘却事件

12月19日江戸松平春嶽政治顧問として活動していた横井が知人の熊本士宅を訪れた、3人の刺客の襲撃を受けた。横井を置いて1人でその場から逃げ友人1人が軽傷、もう1人が重傷を負って後日死亡したこの事件は士忘却事件と呼ばれ、横井の生涯最大の汚点とされる。

熊本では横井行動武士にあるまじき振る舞いだとして熊本に送還の上死罪にするとしたため、嶽が必死に弁護してようやく身柄預かりに留められた。横井は命は助かったが政界からは失脚し、22日福井に戻っていった。

挙藩上洛計画

文久3年(1863年)3月京都政治活動を行っていた松平春嶽は自身の政権返上論が受け入れられなかったため辞表を出して福井に戻り、幕府から逼塞を命じられていた。

嶽退後、攘夷実行期限の決定や生麦事件の対応で政局が混乱し、英の4カ大阪湾に乗り込んで朝廷と直接交渉すると言い出した。横井は状況を収拾するため、福井が兵を率いて上京し、外使と将軍卿・大名・陪臣まで集めて会議を開き、和戦どちらか決めるという挙計画を企図した。幕府に代わる新政権を京都立するようなこの計画は5月26日会議で一旦実行が決定されたが、反対の重臣や幕府からの圧力を受けて7月23日会議で中止になってしまった。

その後、計画に賛成していた三八郎らが処罰を受けると、横井は自分の居場所はなくなったと見切りをつけて8月11日熊本へ帰した。

蟄居

8月25日熊本に帰還した横井は4ヵ後の12月16日に士忘却事件の処分として知行召し上げと士籍剥奪の刑を受けた。松平春嶽横井の窮状を見兼ねて資金援助をしたり士籍復帰を熊本に願い出ていたが士籍復帰は熊本から拒否された。

元治元年(1864年)2月居中の横井の元に勝海舟の命で坂本龍馬が訪れ、時事問題について話し合っている。また、この時期横井は『海軍問答書』という著書を門下生に渡して長崎に居た勝海舟宛に贈っている。その内容は

  • 神戸海軍幕協調の海軍とし、西洋人の教官を招いて3年間伝習させ戦える軍隊を作る
  • 既存の秩序を持ち込まず、身分が低くても力があれば一軍の将とする
  • 資金は幕府と諸に基金を出させて運用する
  • は外での相場が高いため山を開発すれば大いに利潤を得られる
  • 外国人中古軍艦を不当な値段で売りつけて来るため、内に造所を設けて造すべし

といった内容で、坂本とも話し合ったであろう先進的な案が示されている。

坂本4月にも横井宅を訪れ、横井の甥と門下生が神戸海軍操練所に入るため連れていっている。翌慶応元年(1865年)5月にも来ており、この時長間の周旋を初めていた坂本は争乱を嫌う横井と意見が合わず、横井から絶好されている。

また、この居中に『沼山対話』『沼山閑話』という談話集をまとめており、その中で日本が西洋の工業技術を使い、かつ堯三代の政治を行って西洋をえる豊かなとなり、公共理をもって際紛争を解決し諸外と友好を図る国家となることを提唱している。

操練所の閉鎖に伴い甥の2人は長崎に渡って洋学所で勉強していたが、慶応2年(1866年)4月26日、ツテを頼って米国に留学している。横井は2人に以下の送別の語を与えて励した。

孔子明らかにし
西洋器械の術を尽くさば
なんぞ富に止まらん
なんぞ強兵に止まらん
大義を四に布かんのみ

国是十二条

二次長州征伐の失敗、長と幕府の対立を経て内戦の可性が高まりつつある慶応3年(1867年)1月11日横井は『是十二条』を起して福井に提出した。

  • 下の治乱に関わらず、一(一)の独立を本となせ
  • を尊び、幕府を敬え
  • 風俗を正せ
  • 賢才を挙げ、不肖を退けよ
  • 言路を開き、上下の情を通ぜよ
  • 学校をおこせ
  • 士民を慈しめ
  • 信賞必罰
  • 強兵
  • しめ
  • と交われ

この十二条は文久2年に提案した『七条』を基にしており、坂本龍馬の『船中八策』もこれらを参考に作成されたものだとされている。横井坂本慶応元年5月の会談で決裂していたが、翌年に横井宅を訪れた福井士が坂本の大政奉還論を横井に話したところ手を打って賛成したという話が残っている。また坂本戸田雅楽に作成させた『新管制議定書』に横井の名を載せており、決裂はしたもののす理想は同一のものだったことがえる。

新政府出仕

12月9日王政復古の大号令があり新政府が発足し、18日に新政府から熊本邸宛に横井を登用したいと連絡があった。横井を嫌う熊本は何度か断りの報告書を出したが、翌慶応4年(1868年)3月岩倉具視から登用の召命があり、断わりきれなくなった熊本横井の士籍を復旧して京都に向かわせた。

4月大坂で三八郎と再会してから上京上京後は参与に任命され明治天皇に謁見。新政府への意見書の提出や岩倉からの相談に応じるなど多忙を極めた。

5月末頃からは病気が重くなり、一時重態となった。快復の後務に復帰。12月には家族を呼ぶ手紙を書いており、一緒に住むための大きな屋敷を借り上げていた。

暗殺

明治2年(1869年)1月5日、籠に乗って御所から退出した横井を刺客達が追って襲撃をかけた。横井短刀で応戦したが敵わずり倒され斬首された。享年61。

後日逮捕された容疑者は30名以上に及び、奸状や供述によると、横井を唱え、キリスト教を広めようとしたので暗殺したとの事だった。取調べ中行政の長だった卿・大原重徳が容疑者の減刑をめたため、大原が容疑者達を使った黒幕ではないかとも言われている。

横井論者キリスト教信奉者だったという拠がないため、熊本に調員を派遣したところ『覚明論』なる書が見つかった。天皇誹謗する内容が書かれており、減刑をめる弾正台(監察機関)はこれを拠としたが、刑部省(裁判・刑罰の執行機関)は、「神社の拝殿に投げ込まれていたものを宮から渡された」という怪しすぎる入手経路や、『覚明論』について知っていると言う者が出頭に応じず、拠と断定できるものはなにもないという手紙を提出してきたことをもって、4名死罪、3名終身流罪、3名禁錮に処し、他約20名もそれぞれ処罰した。

覚明論』については、用語や文体が横井のものと違うことや入手の経緯から、現在では減刑を正当化するための偽書であるという説が有力である。

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