黄河決壊事件とは、支那事変中の1938年6月7日に生起した中国国民党軍による軍事作戦である。日本軍の進撃を食い止めるため意図的に黄河の堤防を破壊し氾濫させたが、事前告知などが無かったせいで中国の農民100万人以上が溺死する大惨事を招いた。ちなみに日本軍の損害は軽微だった。中国では爆破箇所の地名から花園口決堤事件と呼ばれている。
1937年8月13日に発生した第二次上海事変をきっかけに日中は本格的な武力衝突を開始して支那事変が勃発。ドイツ製の最新鋭武器で固めた精鋭3万の国民党軍を辛くも撃破し、上海市を制圧した日本陸海軍は中国国民党の首都である南京を目指して進撃を開始。12月に南京を占領せしめた。しかし国民党軍は交通の要衝である漢口(現在の武漢)へ遷都して徹底抗戦の構えを見せる。漢口を攻め落とすため日本軍は中国奥地への進撃を続け、1938年5月に江蘇省徐州と河南省蘭封を占領。開封(かいほう)・鄭州(ていしゅう)方面に向かった。鄭州は中国中部に位置する都市で、発達した鉄道網を擁する重要拠点であった。ここが陥落すれば物資の輸送が滞るばかりか、臨時首都の漢口までの道も切り開かれ、そうなれば7~12日以内に漢口は陥落するだろうと国民党軍は推測。焦りを招いた。
国民党軍の劉峠第一戦区副司令官は「黄河の堤防を爆破して意図的に洪水を起こし、日本軍の進撃を阻止する」というトンデモ案を提示。蒋介石総統の認可を得て実行に移される事になる。河南省東部にいる自軍の部隊を西に撤退させつつ、日本軍の進路を阻むのが本作戦の目的と定められた。漢口では黄河の氾濫による被害が見積もられたが、農民への被害は大した事じゃないと判断されたという。日本側に決壊を悟られないよう作戦は地元住民に伏せられたが、これが悲劇の始まりだった。作戦の準備は5月下旬から行われ、国民党軍一個師団と強制徴用された地元の農民が従事した。
蒋介石総統は日本軍の背後を的確に突くため、まだ味方の撤退が済んでいないにも関わらず作戦の発動を急かした。だが担当の商震将軍は撤退が完了するまで我慢強く作戦を延期し続けた。幸運にも堤防近くに住んでいた人々には事前告知があり、国民党軍が見舞金を払って立ち退かせている。しかし下流に住む大多数の人間には告知も補填も無かった。6月7日、中牟付近で堤防爆破を行ったがこれは失敗。
1938年6月9日午前9時、花園口に移して8kmに渡って堤防を爆破。凄まじい水の量が大きな音を立てて堤防外に解き放たれ、地上にあるものを全て押し流した。6月11日にも堤防三ヶ所を爆破、水のうねりは勢いを増した。濁水はすぐに引くと考えられ、住民たちが避難に消極的だった事も犠牲を広げた。氾濫により河南省、江蘇省、安徽省にまたがる5万4000平方kmが水没。11都市と4000の村が水底に沈み、水死者100万人(諸説あり)と被災者600万人以上を出した。農作物や農地は破壊され、多大な損害も出ている。その頃、日本軍は行軍中だったため犠牲者は僅か3名に留まった。環境破壊の規模は軍事作戦の中では最大級。
6月11日午前より国民党側は中央社電を通して決壊事件を日本軍の仕業だとラジオで喧伝し、航空機の爆撃によって破壊したと主張。中国系メディアもこれに同調して日本軍を非難した。説得力を持たせるべく蒋介石総統は入念に証拠の隠滅と偽造を命じ、新第8師団が小龍王寺、家屋、大きな木を爆弾で吹き飛ばしてあたかも爆撃が行われたかのように見せかけた。また記者のインタビューには偽造した資料を提示している。当初列強各国の関心は薄く、6月16日にアメリカのブルックリン・デイリー・イーグル紙が「現地で日本軍が必死に救助活動している」と伝えた程度だった。
6月22日、現地入りした中国と外国の記者が取材を開始。「堤防の厚さは20mなのに対し、爆弾で穿たれた穴は1mしかないのに破壊できるのか?」「6機の爆撃機が一点のみを爆撃できるのか?」という鋭い質問を受け、中央宣伝局の担当者は逃げ出してしまったという。当然ながら中国の言い分を日本側は否定。食い違う両国の意見を見て、海外メディアは独自に取材を開始。すぐに国民党軍が犯人である事を突き止めたが、中国の肩を持つ米英仏は軽く触れる程度で露骨な非難はしなかった。一方、スペインのディアリオ・バスコ紙は6月19日付の新聞で、国民党の鬼畜戦法とそれを黙認する米英仏の対応を厳しく非難。それでも各国は中国が疑わしいと考えており、フランスの急進社会党は機関誌の共和報で「国民党の自作自演」と指摘して明るみに出た。のちの1944年に刊行された、アメリカ人記者フランク・キャプラによるドキュメンタリーシリーズ「なぜ私たちは戦うのか」第6巻では中国の関与が疑われている。
開封に駐屯していた日本軍は直ちに救助活動を開始。6月12日17時には堤防の修理を始め、住民の避難誘導用の堤防や河道を作り、とめどなく流れ続ける濁流を中牟付近から別の地域へ向けさせる。同時に百数隻のイカダ船と自動車を使って孤立した被災者を救出していった。途中からは地元の自治体と協力して堤防修理を行い、治安維持や防疫を受け持つなど献身的に復興を支援。開封で1万人、朱仙鎮及び通許方面で5万人、尉氏方面で2万人、その他方面で数万人が救助されている。帝國陸軍の航空機がパラシュートで物資を投下、日本軍人と中国人が協力して土嚢を積み上げてゆくが、そこへ対岸の国民党軍が機関銃で被災者ごと撃ち抜いたり、航空機で機銃掃射を加えたり、現場に近づく日本軍部隊を攻撃するなどをして作業の妨害を図った。真摯に対応してくれる日本兵を見て中国の農民は感心し、次第に歓迎されるようになっていったという。
9月23日、国民党軍は撤退の時間を稼ぐため武穴鎮の下流で揚子江の堤防を決壊させる。ここでも現地人が巻き添えを喰らい、日本軍が救助活動を行っている。抗戦江河堀口秘話によるとこのような堤防破壊は失敗を含めて12回行われた。黄河の決壊により日本軍は漢口への進撃を一旦止めなければならなかったが、迂回により10月26日に漢口の占領に成功。蒋介石総統は黄河を決壊させた時期に漢口から政治機能や大学を奥地の重慶や昆明へ移動させるよう命じ、占領される前に遷都を済ませた。
堤防の決壊は黄河の流れをも変えてしまった(戦後の治水で何とか元に戻ったが)。濁流が去った後、辺り一帯は乾燥地帯となり農耕に適さなくなってしまう。農作物にも壊滅的打撃を受けたため、1942年に大規模な飢饉が発生。道端には凍死者と餓死者があふれ人肉食まで横行した。河南省では1942年から翌年にかけて水害、干ばつ、イナゴの発生、湯恩伯将軍の重税などが重なり、農民300万人が死亡。命ある者も死の淵に立たされていた。見かねた日本軍は軍糧を放出し飢える農民に分け与えて多くの人命を救った。
日本軍に助けられた河南省の農民たちは自ら後方支援を買って出て、日本軍の軍事作戦を援護。日中の人間が協力し合う奇妙な絆が築かれた。1944年4月17日、華南の占領を目指す日本軍は大陸打通作戦を開始。河南省に投入された兵力は6万人、対する国民党軍は30万もの兵力を擁していた。正面からぶつかれば日本側の敗退は避けられなかったが、ここに現地の農民たちが助っ人として参戦。国民党軍の厳しい徴発にブチ切れた農民たちが反逆し、猟銃や農具で武装して逆に一個中隊を武装解除。日本軍に敗れた中国敗残兵を見つけるとリンチを加え衣服や武器を剥ぎ取っていった。その甲斐あって6万の寡兵で日本側が勝利を収め、大陸打通作戦の成功に貢献した。
終戦後、日本に進駐したGHQにより黄河決壊事件の資料は没収・抹消された。戦勝国にとってよほど都合の悪い出来事だった事が窺える。1946年5月18日、国民党と共産党は南京合意を行い、協力して堤防修理をする事に。1947年3月15日に修復を完了し、5月4日に花園口で治水の成功を祝う祝典が実施された。戦後しばらくの間は日本軍の仕業だと吹聴していた中国であったが、1976年に関係者が国民党のせいだと暴露した。爆破地点となった花園口村には事件があった事を示す石碑が建てられている。
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最終更新:2025/12/08(月) 11:00
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