第二次上海事変とは、1937年8月13日から11月26日にかけて上海市内で生起した帝國陸海軍vs中国国民党軍の戦闘である。この戦闘がきっかけで支那事変が開始された。
1937年7月7日に生起した盧溝橋事件により大日本帝國と中華民国の関係は最悪の状態にまで陥り、現地で停戦条約が結ばれたにも関わらず華北での戦闘は拡大の一途を辿った。これに伴って中国人の抗日運動が活発化し、在留邦人の生命と財産が危険に曝されたため、日本政府は7月28日に揚子江沿岸から邦人の引き揚げを命令。軍による保護を求めて邦人たちは上海市へと集まった。
しかし8月9日夕刻、状況視察中の海軍陸戦隊・大山勇夫中尉が中国保安隊に殺害される事件が発生(大山事件)。治安が悪化し続ける現状を憂慮した日本政府は保安隊の撤退を要求するとともに軍艦を増派、陸戦隊の増援を送って陸軍にも派兵を求めた。6ヶ国からなる停戦協定共同委員会も中華民国に謝罪を要求したが、それを無視するかのように中国国民党軍は精鋭6個師団を上海周辺に上陸させ、日中は一触即発の危険な領域へと突入する。
8月12日に国民党軍の総司令官に蒋介石総統が着任し、攻撃命令を出す。対する帝國陸海軍も上海特別陸戦隊に配備命令を出して戦闘に備えた。
8月13日午後、国民党軍の偵察機が装甲巡洋艦出雲と第8戦隊の上空を旋回。その後、上海市内の競馬場に墜落し、日本軍がパイロットを捕縛してみるとアメリカ人である事が判明した。
16時50分、ドイツ製の最新鋭武器に身を固めた国民党軍3万が上海市内の日本軍陣地に向けて発砲。三方向から一斉に押し寄せ、いよいよ本格的な戦闘が生起する。日本側の戦力は上海近郊の旗艦出雲、川内率いる第1水雷戦隊、由良率いる第8戦隊、上海特別陸戦隊の兵力約4000名程度と僅少であり、数の上では圧倒的に不利だった。最初の攻勢は23時頃に撃退された。
第一次上海事変の結果、国民党軍は上海への接近を禁じられていたが、その禁則を破って上海に攻めて来た。通州事件における邦人虐殺事件と、国際法を無視した国民党軍の横暴な振る舞いにより、日本国内の世論は「支那討つべし」一色となった。
8月14日午前3時に国民党軍が北部警備部隊正面より攻撃を開始。質と量に優れた国民党軍を前に苦戦を強いられるも午前6時15分に第6大隊の増援が到着して敵の攻勢を頓挫させた。上海沖に展開していた帝國海軍第3艦隊は航空隊による空襲を企図したが、荒天により出撃を見合わせている。その隙を突くかのように国民党軍は空からも攻撃を仕掛け、午前10時50分に上海特別陸戦隊本部が爆撃を受けた他、第8戦隊も爆撃を受けている。午前11時22分、国民党軍3機が旗艦出雲を狙って爆撃を行うも、不正確な投弾により観戦中の外国人や避難所に命中して3000名以上の民間人が死傷。また陸戦隊本部を狙った爆弾がアジア石油タンクに命中して大量の黒煙を吐きだし、市民数万人が逃げ惑う事態も発生している。16時30分の爆撃では爆弾2発がカセイホテル玄関前とパレスホテル地下室に命中して避難民200名が死亡。国民党は「日本軍爆撃機によるもの」と発表して事実を隠蔽しつつ反日感情を煽った。対する日本軍は台北から爆撃機を出撃させ、杭州の広徳飛行場を渡洋爆撃して反撃。同日18時15分に大海令第14号が発令され、内地の軍艦は支那方面を担当する第3艦隊に一時編入、陸戦隊の輸送任務を帯びる。
8月15日、台風の接近に伴う天候不良により延期していた首都南京市への爆撃を開始。また日本側は「暴支膺懲」(暴走する支那をお仕置きして反省を促す意)の声明を発表、これが事実上の宣戦布告であった。日華ともに前線へ増援を送り、苦戦する陸戦隊を支援すべく松井石根大将率いる上海派遣軍を編成された他、八九式中戦車乙型30輌を擁した第5大隊が陸軍戦車第1連隊の指揮下へ編入。対する蒋介石総統も増援を送って国民党軍の兵力は倍以上の7万に膨れ上がった。更に8月21日には中ソ不可侵条約が締結され、ソ連軍が国民党の援助を開始。60機以上の航空機と250名のロシア人が義勇兵として送られた。翌22日には資金と弾薬を援助して共産党軍を再編する決定を下している。
陸上での戦いは一進一退の攻防が続いていたが、海上では帝國海軍が圧倒的に優勢だった。世界3位の帝國海軍と、河川海軍と揶揄されるほど貧弱な国民党海軍とでは勝負にすらならず、瞬時に制海権を奪取。潜水艦まで投入した厳重な海上封鎖により上海へ向かう中国船は軒並み拿捕され、国民党軍の継戦能力は弱体化したという。
佐世保と横須賀から陸戦隊を急派したが、それでも合計6300名に過ぎなかった。蒋介石総統は用意周到にトーチカや機関銃陣地を市街地に紛れ込ませており、救援に来た上海派遣軍に向けて一斉攻撃。かなりの被害を出してしまった。第8戦隊の乗員から520名を派出し、臨時の陸戦隊とするなど日本側は戦力不足に悩まされ続けた。アメリカ、イギリス、イタリア、フランス租界を守備する兵もバリケードを設置して国民党軍に備えたが、列強と戦争する気は無かったためスルーした。
国民党軍はドイツ軍の軍事顧問から助言を受けて構築したゼークトラインを持っており、これが日本軍の攻撃をことごとく跳ね返した。国民党軍は膨大な戦力と物資を以って日本租界を攻撃し、陸戦隊に大損害を与えたが、ぎりぎりのところで踏みとどまって租界を死守。蒋介石総統は「緒戦の一週間で上海から敵軍を掃討できなかった」と悔やんだという。8月23日、艦砲射撃の支援を受けた上海派遣軍2個師団が上陸。8月31日、帝國陸軍は内地から4個師団を派遣する事を決定。既に派遣されていた4個師団と合わせて北支那方面軍を編成し、司令官に寺内寿一大将が就任。9月4日に天津に到着し、河北省の国民党軍を撃破する任務が与えられた。帝國海軍も艦隊を派遣し、揚子江を遡行。沿岸に展開していた国民党軍に艦砲射撃を加えている。互いに激しく戦いながらも決定打は得られず、戦線は膠着。それでも陸戦隊は上海派遣軍と協力して迎撃し、9月上旬頃に上海市前面から国民党軍を排除した。だがゼークトラインは相変わらず健在で、進軍を阻み続けた。
10月10日より上海派遣軍はゼークトラインへの攻撃開始。26日にやっとの思いでゼークトラインを突破し、要衝大場鎮を占領。「日軍大場鎮占領」と書かれたアドバルーンを上げ、上海市の支配権は日本の手に収まった。現在の中国は10月26日を第二次上海事変の終結日としている。国民党軍は蘇州河の南岸に陣地を構築し、抵抗を再開。続く11月5日、台湾守備隊、第9師団、第13師団、第101師団が南方の杭州に上陸。日本側は「杭州に100万の日本兵上陸」のアドバルーンを上げ、それを見た国民党軍の士気は大きく減じた。退路を断たれる危険性が出たため、国民党軍は一斉に撤退を開始した。この際に堅壁清野という焦土作戦を実施し、略奪と破壊を行った。抵抗する住民は漢奸と呼んで処刑したが、住民の数が多かった場合は逆に国民党兵が殺害されたとか。また一部の敗残兵がフランス租界に放火して警官隊から銃撃された。上海一帯から国民党軍は撤退し、日本の勝利に終わった。
この3ヶ月間の戦闘で日本側は戦死者1万76名、負傷者3万1866名を出す大損害を受けた。10倍近い敵を壊走させた上海派遣軍は追撃を行い、泥沼の支那事変へと繋がっていく。
上海は日本の勢力下に収まり、国民党軍は首都南京に向けて退却した。米ニューヨークのヘラルドトリビューン紙は「中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは、疑う余地もない」と報道。他の海外メディアも「日本軍は敵の挑発のもとで最大限に抑制した態度を示した」と報道しており、メディア関連からは日本の肩を持つ言葉が出た。しかしその一方で国民党は徹底的な隠蔽工作とロビー活動をして列強の支援を仰ぎ、国際連盟は日本軍の都市爆撃を非難する決議を行ったり、加盟国による中国支援が採択されたりするなど国際的孤立を更に深める結果を招いた。
掲示板
急上昇ワード改
最終更新:2024/11/30(土) 19:00
最終更新:2024/11/30(土) 19:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。