中華民国とは現在の台湾のことであるが、この項では1912~1949年の中国統治時代について記述する。
1912年に辛亥革命で清王朝が滅びると中国は各地に軍閥が跋扈する戦国時代に戻っていく。その後、国民党と共産党が手を結び一応の統一は果たすものの、蒋介石がクーデターを起こし今度は国共の間で内乱が発生。その間に日本に東北への侵略を許してしまった。
やがて中国と日本は日中戦争に突入し、更には太平洋戦争も含め東ユーラシア大陸全体が戦乱の炎に包まれた。日中戦争自体は日本の降伏をもって終わったが、即座に国共内乱が再開される。最終的に毛沢東率いる共産党が勝利し、中華人民共和国が設立。破れた蒋介石の国民党は台湾に逃れた。
日本が強く関わっていることもあって我が国でも興味を持たれることが多い時代である。
かつて眠れる獅子と呼ばれた大国、清も西欧列強の侵攻、太平天国の乱、日清戦争での敗北、西太后の専横で既に末期状態にあった。西太后と時の皇帝、光緒帝が崩御した3年の後の1911年に、政府が民間鉄道の国有化を宣言したことをきっかけに四川で暴動が発生(四川暴動)。また武昌では黎元洪を都督とした革命派が独立宣言を果たす(武昌蜂起)。
反乱は全国に広がり、孫文も南京で中華民国を樹立し臨時大統領となった。清は北洋の英傑、袁世凱を起用して反撃を試みるもあっけなく裏切られ、最後の皇帝、宣統帝(溥儀 )が退位。270年続いた清は滅んだ(第一革命)。これは同時に始皇帝以来2000年続いた中国の皇帝政治の終わりをも意味していた。
裏切りの見返りとして臨時大統領となった袁世凱であったが彼には皇帝になるという野望があった。袁の独裁を危惧した革命派は、彼が強硬手段にでる前に「国家元首である大統領は議会が選ぶ」という議院内閣制を彼に約束させていた(臨時約法)。
孫文がかつて日本で結成した中国同盟会は国民党と名前を変え、選挙では宋教仁が率いる国民党が議席を伸ばしたのだが、これを不安に思った袁世凱は宋教仁を暗殺し、孫文らを追い出して皇帝政治の復活を宣言したの(第二革命)。が、すぐに各地で反乱が起きて3ヶ月後には帝政復活を取り消している(第三革命)。夢破れた袁世凱は三ヶ月後にこの世を去ったが、その後に中国は群雄割拠の軍閥時代に突入する。
その頃、欧州はちょうど第一次世界大戦の真っ最中である。日本も日英同盟を根拠にして中国のドイツ勢力圏を攻撃し、膠州湾の青島(チンタオ)を占領する。袁世凱には不平等条約や領土割譲を含んだ二十一か条の要求を飲ませ、大陸侵攻へ気炎を吐いていた。中国は日本から突きつけられた不平等条約受諾の日を国恥記念日と呼び、日本への反発から強いナショナリズムを国民が共有することになった。この折に、後に中国共産党の祖となる陳独秀や李大釗らは口語による文学革命を行い、人々の意識改革を呼びかけた。
中国国民は一次大戦のパリ講和条約で二十一か条の撤廃を期待したが、それどころではなかった欧米人からはスルーされ、日本に対する憎悪はついに爆発。五・四運動と呼ばれる反日暴動が発生。時の政権の段祺瑞も親日高官を罷免しなければならないところまで追いつめられた。
陳独秀や李大釗はロシア革命の成功を受けてマルクス主義を中国に紹介し、1921年には彼らが中心となって中国共産党が結成される。彼らは労働運動や中国の利権回復に尽力するが、欧米と軍閥の抵抗に阻まれ上手くいかなかった。そうした中で、孫文は共産党との連携に動いていた。第一次全国大会で「連ソ、容共、扶助工農」を掲げる共産党と国民党が手を結び、ここに第一次国共合作が成立した。
1925年に孫文は死ぬが、大衆運動の熱をうけて国民政府と国民革命軍が組織された。総司令の蒋介石は中国の軍閥支配を打破するために、北伐への動員令をだした。破竹の勢いで軍を進める国民政府は、占領した武漢に本拠地を移す。このまま一気に中国統一するのかと思いきや、蒋介石は上海で共産党員を虐殺し、南京国民政府として半独立の状態になってしまった(上海クーデター)。武漢の中央もやがて共産党員を排除し、蒋介石に合流。第一次国共合作はここで終わりとなる。
1928年からは国民政府軍は北京に向けて進軍。北京の先にある東北の利権を脅かされることを恐れた日本の田中義一内閣は山東出兵を行ってこれに干渉した。日中両軍は済南で衝突するが、北伐軍は全面対立を避けながら北に進軍を続けた。
北伐軍は北京の張作霖を追い出し、ここを支配下におさめる。張作霖は東北に亡命する途中に日本軍に殺された(張作霖爆殺事件、満州某重大事件)が、張作霖の子の張学良は東北において国民政府の下についたため、ここで中国は一応の統一を完成させた。
一方で国民政府内では汪兆銘をはじめ、蒋介石の独裁への反発が強まり、ついには閻錫山や馮玉祥なども含んだ内乱が始まる(中原大戦)が、張学良の加勢によって蒋介石はこれを鎮圧する。
当時の日本帝国は経済的には世界恐慌でヘロヘロではあったが、日露戦争での勝利で中国東北地方の利権を得て軍事的にはイケイケの状態であった。日本にとって国民政府と仲がよく、また日本が経営する満州鉄道の競合路線を所有する張学良はジャマな存在であった。そこで関東軍は奉天付近の柳条湖付近で満州鉄道の路線を自ら爆破、これを中国軍のせいにして勝手に戦闘を始めてしまった。いわゆる満州事変である。日本の中央政府は関東軍に「戦線を拡大するな」と指示したが、関東軍はこれを無視して南満州まで占領してしまった。賽は投げられてしまったことを受け止めた日本政府と昭和天皇はこれを事後承諾する。
中国軍の反撃に遭いつつも1932年にはハルビンまで制圧し、最終的に関東軍は清朝最後の皇帝、溥儀を執政(後に皇帝)に置いて東北地方に満州国を建国する。これは日本の傀儡国家であったため中国は日本を国際連盟に提訴し、連盟もリットン調査団を派遣して満州国を認めない決定をだした。そこで日本はこれに抗議して国際連盟を脱退した。日本は満州国の領土を拡げつつ、中原への野心を隠す事もしていなかった。
自国が侵掠を受けている一方で蒋介石は、共産党弾圧に熱をあげていた。20年代の末から共産党の本拠地に包囲討伐戦(囲剿戦)を開始し、満州事件が起きて内乱停止と抗日合作戦線が求められても「まず共産党を潰してから日本に対処しよう」とする安内攘外作をとって共産党への囲剿戦を続けていた。
当時の中国共産党は毛沢東が瑞金で中華ソビエト共和国を建てていたが、蒋介石軍の攻勢に破れ、25000キロの敗走を経て延安に到着(長征)。兵力は10分の1になっていたが、この地に辿り着いたことにより毛沢東の指導権が完全に確立する。
中国の内乱の間にも日本は侵攻の手を緩める事はなかった。1935年から翌年にかけて日本は華北五省の分離工作を進め、長城の南の非武装地帯に冀東防共自治政府という傀儡政権を樹立させた。日本はこの地からアヘンや低関税商品を中国に流入させ、幣制改革でようやく統一されつつあった中国経済を混乱させた。当然民衆の日本への反発は強まっていく。北平(北京)では華北自治を目指した学生デモ(十二・九運動)が始まり、抗日運動は再度全国的に拡がる。
共産党がいくらいっても内乱を止めない蒋介石に業を煮やした張学良は周恩来と共に、西安で蒋介石を拘束してしまう(西安事件)。世界中を驚かせたこの事件は蒋介石の解放で解決し、以後は統一抗日戦線の結成へと進んでいく。
1937年、北京近郊の盧溝橋にて偶発的な日中両軍の衝突が発生(盧溝橋事件)。戦闘はすぐに収まったのだが、本土の強硬派がこれを機会に一気に中国を應懲せよと主張したため、ついに日中戦争が勃発する。蒋介石もついに折れて第二次国共合作が成立。抗日民族統一戦線が結成された。
日本はすぐに戦争は終わるだろうと予想していたが、その見通しは甘すぎるものであった。ようやく上海を陥落させるも戦争は終わらず、南京では軍民への虐殺(南京事件)も行っている。1938年には近衛文麿内閣が「爾後、国民政府を対手とせず」と宣言したことにより和平交渉への道が絶たれ、戦争は泥沼化していく。いくら日本軍が主要都市や鉄道を占拠しても所詮それは広大な中国大陸にとっては線と点の支配にすぎなかった。日本はゲリラに悩まされ、伸びる補給路は中国軍の格好の餌食となった。
欧州で第二次世界大戦が始まると日本はインドシナに軍を進めて南からの中国軍の補給路を絶とうと試みた。ただでさえ中国マーケットが荒らされて頭にきていた英米はインドシナの利権を日本に犯されそうになったことをきっかけに日本への石油の全面禁輸に踏み切る。物資の多くをアメリカからの輸入に頼っていた日本はこれで四肢をもがれたようなものであった。そんなこんなしてる間に太平洋戦争が勃発するのだが、物資の足りない日本軍は物資を現地調達するしかなくなってきていた。戦線は拡大を続け、東、東南アジアの日本の占領地は凄まじい被害を受けた。
ようやく戦争が終わり中国は惨勝をおさめる。国共のトップである蒋介石と毛沢東はトップ会談(双十協定)を結び、1946年には政治協商会議がひらかれて両者が妥協する憲法草案の合意にこぎつける。しかし蒋介石は後にこれを反故にし、内乱は再開された。
当初は勢いのあった国民軍であったが、インフレ政策による経済の混乱、四大家族と呼ばれる資本家による富の寡占などがあり、政治的に腐敗した国民党は民衆の支持を失っていた。一方の共産党は新民主主義論を唱えて民主主義派の支持を得た上に、大地主の土地を再分配する土地革命を行って貧農からも人気を得た。こうして48年には戦況は逆転。翌年までの三大戦役と呼ばれる戦いを経て共産党は勝利する。南京を陥落させた毛沢東は北京に遷都を行い、そこで中華人民共和国の建国を宣言した。
やぶれた国民党は台湾に移転し、そこで独裁を続けていた。死後には息子の蒋経国が継承し、台湾は国連を脱退する。台湾は「通商、通信、通航」の三通を求める共産党に対して、「接触せず、交渉せず、妥協せず」の三不政策を堅持した。
ニコニコでも関連動画は多いが純粋な歴史よりも政治色が強いものが大半である。
掲示板
6 ななしのよっしん
2023/11/10(金) 08:49:15 ID: AUZYa50Vgr
中華民国史とはあるけど、台湾のその後の発展と先進国入りについては何も書いていないのな
日本としては、国府と中共の抗争よりも台湾がどのようにして今の姿になったかの方に関心がある
7
2025/08/06(水) 23:07:52 ID: O9EWZYX6CY
まぁ異民族の土地取り戻す為に列強の日本と戦うより、国内の共産主義者どもを倒して統一するのが先だろって言われたらそうですねって話ではある。日本も勢力圏の満州維持するなら内乱中の中華民国より、ソ連を警戒すべきだろってのが中央政府と軍の主流意見だし。
実際日中が戦った結果は日本と中華民国は大陸を失って追い詰められてた筈の共産勢力が大した苦労もせず支配するオチ。
8 ななしのよっしん
2025/09/13(土) 00:32:03 ID: tJct7E8gjX
後に中国を統一する共産党だって当初は弱小勢力だったし国民党も軍閥勢力を完全に掌握していた訳じゃないから、状況によっては、国共内戦が史実より泥沼化して停戦した結果、中国が二大勢力に分立する可能性だってあったよな・・・史実のインドとパキスタンで争ったカシミール見たいに、チベット限定で国民党と共産党の間で再度戦争が起こったりとか
北京と南京の中間ポイント(山東省と江蘇省の境界辺りから河南省を流れる黄河、秦峯山脈あたり)に停戦ラインが引かれた結果、嘗ての中心都市である河南省の洛陽と開封が黄河挟んだ直ぐ北が国境とか
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最終更新:2025/12/06(土) 04:00
最終更新:2025/12/06(土) 03:00
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