Ce n'est pas une paix, c’est un armistice de vingt ans.(これは平和などではない。たかだか20年の停戦だ)
これは平和などではない。たかだか20年の停戦だとは、予言である。
概要
フランスの元帥、フェルディナン・フォッシュが第一次世界大戦における対独の講和条約、ヴェルサイユ条約について語ったとされる言葉。
第一次世界大戦でフランスは大変な惨禍に見舞われ、普仏戦争の屈辱を最終的に雪ぐことには成功したものの、フランス北部を中心にその被害は惨憺たるもので、また170万人にも及ぶ国民をも失ったことから引き金であり、主要参戦国であるドイツへの報復感情は凄まじいものであった。
その為、その講和条約であるヴェルサイユ条約は天文学的な賠償をドイツに課すこととなった。だが、これには苦言も出ており、フォッシュのこの言葉も出てくることになったのである。
フォッシュ当人は1929年に没したが、彼の懸念は的中し、1933年にヒトラー率いるナチスが実権を掌握して以降、膨張政策が進み、1939年にドイツはポーランドへ侵攻。世界をさらなる地獄へと誘う大戦が再び幕を開けてしまうことになった。
なお、この言葉は二次大戦の英国を主導したウィンストン・チャーチルが戦後に発刊した『第二次世界大戦回顧録』で引用されており、その経緯もあって広く知られるようになった。
Paradox社のストラテジーゲーム『Hearts of Iron Ⅳ』でも名言の一つとしてロード画面に出てくることで知られる。
背景
1918年11月11日。人類が初めて経験し、また未曾有の大惨劇を現出した第一次世界大戦は、中央同盟国の盟主・ドイツ帝国での革命発生とそれによる休戦でようやく幕を閉じた。
翌年からパリ郊外のヴェルサイユ宮殿においてドイツをはじめとして中央同盟に所属したオーストリア・ハンガリー、ブルガリア、オスマン帝国と連合国の個別の講和条約が話し合われることになった。だが、連合国の内部でもロシア情勢に憂慮して、早期の講和妥結を図る狙いから比較的融和的な講和を望んだ英国と、敵愾心と復讐心から再起不能の賠償を求めるフランスとの間で激しい対立が発生。仲裁に回っていたアメリカのウィルソン大統領をはじめ、講和会議に参加していた諸国もそれに振り回された。
結局、全体的には英国が折れ気味の形でフランスの賠償が優先される形でパリ講和会議は終了し、対独のヴェルサイユ条約をはじめ中央同盟の各国には大変厳しい条約が突きつけられることになった。植民地の全喪失は当然のこと、領土の一部割譲や、天文学的な賠償金の支払い、物納や鉱山の利用権、徹底的な軍縮などがその内容で最早立ち直ることは難しいと思われた。
そんな場面の中でフォッシュは「これは平和などではない。たかだか20年の停戦」と皮肉ったのである。フォッシュ当人は普仏戦争にも志願兵として従軍し、マルヌの戦いでフランス軍の一柱を担い、ドイツを叩き出すという功績をおさめた名将で、ドイツに対する恨みも一入であるにもかかわらずである。なお、この条約の対独への対処を懐疑的にみたのはフォッシュのだけでなくかの高名な経済学者ケインズもそうで、『講和の経済的帰結』という著書のなかでそれを「カルタゴ式の平和」と、古代ローマに滅ぼされたかの国になぞらえたのである。
だが、その後の歴史の推移はそう思うようにはいかなかった。トルコでは早速講和条件に納得がいかないムスタファ・ケマルをはじめとする抵抗勢力がアナトリア権利擁護委員会、そして大国民議会が大規模な抵抗運動を組織。英国にそそのかされる形でトルコ領へ侵攻したギリシャと戦い、これを追い払うことに成功してローザンヌ条約を締結し直し、植民地は失ったものの現在のトルコ領をほぼ確保する形まで押し戻すことに成功した。
ドイツでは『背後からの一突き』論が台頭し、先の大戦の責任はドイツ軍ではなく、背後から扇動した社会民主党を筆頭するアカやユダヤ人などの妨害のせいだとするやつあたり責任転嫁に等しい言説が公然と唱えられた。それでも1920年代ワイマール共和国の主導のもと、シュトレーゼマンなどの有能な政治家の賢明な努力によって再建がようやく実るところまで進み、1925年頃にはロカルノ条約が結ばれてヨーロッパの秩序がようやく安定。アメリカの後押しもありながら戦争は回避されるだろう。と思った矢先に世界恐慌が発生した。
この世界恐慌による経済や政治の混乱で『背後からの一突き』論が再び台頭し、その間隙を突く形でヒトラー率いるナチスが躍進し、1933年に政権を掌握。ベルサイユ条約を破棄した上に、再軍備を推し進め、ヨーロッパを再び緊張の時代に押し戻した。1932年でのローザンヌ会議では元々ヤング案で減らされていた賠償金の総額を更に30億金マルクに減らし、しかも建前上賠償金ではなくヨーロッパ復興資金にするという戦間期当初では考えられないほどの譲歩があったが、それは押し止めるには至らなかった。
再びの大戦を恐れる英仏は、当初は宥和政策という形でミュンヘン会談や英独海軍協定などの場面で譲歩をしたが、1939年9月のポーランド侵攻ですべてが水泡に帰し、第二次世界大戦が勃発。フォッシュの懸念通り、講和締結後ぴったり20年でヨーロッパは戦場へと逆戻りすることになった。
関連項目
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