ガクエンツービート(Gakuen to Beat)とは、1985年生まれの日本の競走馬。鹿毛の牡馬。
スーパークリークの菊花賞における、数奇な巡り合わせを生んだ馬。
概要
父*ハードツービート、母ウエスパーリンドー、母父*ダイハードという血統。
父はフランスダービー直前に日本人馬主にトレードされ、そのままフランスダービーを勝って「日本人がダービーを金で買った」と馬主が物議を醸した馬。フランスで種牡馬入り後、馬主が日本で持っていた牧場で供用され、中央重賞馬6頭を出す中堅どころの種牡馬として活躍した。
母は不出走。4代母に1948年の桜花賞馬ハマカゼ(繁殖名:梅城)、5代母に名牝クレオパトラトマス(繁殖名:月城)を持つ、*星旗牝系に属する。ガクエンツービートは第4仔。
母父は大物こそ出なかったものの多数の重賞馬を出すアベレージ型種牡馬として活躍し、日本におけるNever Say Die系ブームの一角を担った馬。母父としての産駒には皐月賞馬ハードバージ、天皇賞馬フジノパーシア・スリージャイアンツ兄弟などがいる。
1985年4月30日、後にキタサンブラックやコパノリッキーで名を馳せる門別町のヤナガワ牧場で誕生。
オーナーは「ガクエン」冠を用いていた三谷章(おそらく茨城県の不動産会社「大豊商事」社長)。「ガクエン」冠の由来はつくば学園都市らしい。大豊商事の本社がつくば市なので、その繋がりであろう。三谷オーナーにとっては、自身の名義での最初の所有馬だったようだ。
※この記事では馬齢表記は当時のもの(数え年、現表記+1歳)を使用します。
強敵を打ち破れ
クラシック戦線のただの脇役
ダイナコスモスを管理した美浦・沢峰次厩舎に入厩したガクエンツービート。1987年8月16日、坂井千明を鞍上に迎えた新潟・芝1200mの新馬戦は勝ち馬から7馬身も離された2着に敗れたが、中2週で向かった同条件の折り返し新馬戦を、単勝1.7倍の支持に応えて2番手追走から抜け出して勝利を飾る。以降も坂井千明が主戦を務めることになった。
ところがこのあと何かアクシデントがあったようで、半年間休養。復帰は明け4歳の3月、東京・芝1400mの桜草特別(400万下)になった。ここで14頭立て11番人気の低評価から3着に突っ込むと、クラシックを目指して、東京・芝2200mの若葉賞(OP)(現在の若葉ステークスの前身。当時は皐月賞トライアルではない)へ。しかしクリノテイオーにクビ差届かず惜しくも2着、賞金を加算できずに終わる。
それでもダービーを目指し、指定オープンの青葉賞(OP)へ。初出走馬(!?)ジュネーブシンボリが注目を集める中、4番人気に支持されたガクエンツービートは、中団から鋭い差し脚を繰り出して、後の重賞馬インターアニマートをクビ差かわして勝利。見事ダービーへの切符を手にした。
というわけで迎えた東京優駿(GⅠ)。三谷オーナーはもちろん、坂井千明騎手もダービーは初騎乗である。24頭立ての11番人気、単勝19.4倍とそこそこの評価を集めたが、スタートで出遅れてしまい後方集団の中でのレースに。直線脚を伸ばしたものの、見せ場を作るには至らず9着。まあ、新人馬主と若手騎手の、決して良血とはいえない馬としては、この大舞台で一桁着順に入っただけでも立派なもの。そんな感じの立ち位置であった。
3頭の運命を変えた鞭連打
さて、夏休みを経て秋は菊花賞を目指すことになったガクエンツービート。とはいえ新馬戦と4歳オープン1勝のみの収得賞金1100万円では、夏の上がり馬たちが参戦してくる菊花賞の出走枠に入るにはいささか心もとない。
優先出走権を得るため、ガクエンツービートが向かったのはトライアルの京都新聞杯(GⅡ)だった。当時は5着まで菊花賞の優先出走権が付与されていたので、なんとしても掲示板を確保したいところである。
さてこの京都新聞杯、単枠指定の断然人気に支持されていたのは皐月賞馬ヤエノムテキ。ダービーでワンツーのサクラチヨノオーとメジロアルダンが怪我で離脱したので、必然菊花賞はヤエノムテキが中心とみられていた。
そしてその影で4番人気に支持されていたのが、ピカピカの19歳・武豊の騎乗するスーパークリークである。大器の気配を漂わせながら青葉賞前に骨折で離脱、復帰戦の前走神戸新聞杯3着で賞金を積めず、こちらも菊花賞への優先出走権を獲りに参戦してきていた。
レースの内容はというと、スーパークリークの菊花賞までの経緯はご存じの方も多いだろう。このときスーパークリークは不利を受けまくって6着に敗れ、優先出走権を逃してしまった。
そしてこのときスーパークリークにめちゃくちゃな不利を与え、武豊を激怒させた張本人こそ、ガクエンツービートの坂井千明騎手だったのである。
スーパークリークとほぼ同じ位置でレースを進めたガクエンツービート。坂井騎手は直線、すぐ左後ろにスーパークリークが来ていることに気付かなかったのか、クリークの眼前で左鞭を乱打し、それが何発もクリークの顔に当たったのだ。これではクリークはまともなレースになるはずもない。
坂井騎手も優先出走権を獲るために必死だったのだろうが、うっかり1、2発当ててしまったならともかく、何発も当たったのでは武豊がブチギレするのも致し方ない。しかも結局ガクエンツービートは直線伸びず、クリークより下の9着に終わったので、失格や降着の審議にすらならなかった。
スーパークリークもこの時点で収得賞金は新馬とすみれ賞の2勝で1100万円。ガクエンツービートと同額である。そして菊花賞の登録時点で、この2頭はフルゲート18頭に対して出走順位は19番目タイ。2頭仲良く除外対象となってしまった。
しかし、このクリークの京都新聞杯を不憫に思ったマイネル軍団の岡田繁幸総帥が、自身が配合を考えた馬であるクリークに菊花賞出走のチャンスを与えるため、賞金上位にいたマイネルフリッセを回避させたのは有名な話。さらに嵐山Sを勝ったセンシュオーカンが直前に怪我で回避したことで、スーパークリークとガクエンツービートはともに17番目タイに繰り上がり、無抽選で出走が叶うことになった。
もし、クリークが京都新聞杯で優先出走権を確保していたらどうなっていたか? この場合ガクエンツービートの菊花賞出走順位は20番目となっていた。そしてクリークが普通に出られるなら、当然岡田総帥がマイネルフリッセを回避させる理由がなくなるため、センシュオーカンが回避してもガクエンツービートは19番目。すなわち、クリークが優先出走権を逃したことでガクエンツービートも棚ぼたで菊花賞出走権が回ってきたことになる。
偶然の結果とはいえ、結局坂井騎手のやらかしがガクエンツービートにチャンスを与える格好になったわけである。何が起こるかわからないというか、マイネルフリッセの件も含め、なんともはやと言うほかない。
そして、渾身の菊舞台
というわけで迎えた菊花賞(GⅠ)。1番人気はもちろん単枠指定のヤエノムテキ。スーパークリークは実績の乏しい滑り込み出走の立場ながら3番人気に支持されていた。一緒に滑り込んできたガクエンツービートは、19.5倍の7番人気。*ハードツービート×*ダイハードという血統がステイヤー寄りとみられたか、そこそこ評価はされていたが、まあ脇役の1頭という感じではあった。
なお、さすがに前走のやらかしが響いたのか、鞍上には主戦の坂井千明の姿はなかった。坂井騎手は9番人気のキクカロイヤルに騎乗。代わりにガクエンツービートの鞍上を任されたのは竹原啓二騎手であった。
レースが始まる。ヤエノムテキが中団、スーパークリークはその後ろに構え、ガクエンツービートは3枠5番の内目を活かして中団後方のインに構えた。そして直線、ヤエノムテキがあえぐ中、内ラチ沿いからスーパークリークが抜け出して独走する。勝負は決まった。スーパークリークの圧勝だった。
――その5馬身後ろの2着争いに、後方から猛然と突っ込んできた馬がいた。3頭横並び、ハナ・ハナの接戦を制して2着に突っ込んだその馬こそ、ガクエンツービートだった。
スーパークリークには5馬身突き放されたとはいえ、除外対象だった2頭でのワンツー。坂井騎手のやらかしが巡り巡って棚ぼた的に転がり込んできた菊舞台で、ガクエンツービートは主戦のやらかしの被害者の圧勝を見送りながら、自身も渾身の走りを見せたのである。
なんというか、運命の巡り合わせの数奇さというものを感じずにはいられない話であった。ちなみに3着は最低人気のアルファレックスだったので、もしこの2頭が除外になっていたらいったいどんな菊花賞になっていたのやら……。
その後
この後、スーパークリークは天皇賞秋春制覇を果たし、オグリキャップ・イナリワンと「平成三強」を形成する、誰もが認める名馬として大成し、「天才を天才にした馬」としてスーパースター・武豊の伝説とともに永遠に語り継がれる存在となった。
そしてその影で、ガクエンツービートはひっそりとターフから姿を消した。菊花賞の激走でその脚は限界を超えてしまったのか、このレースのあと、彼が競馬場に戻ってくることはなかった。陣営は復帰の道を模索し続けたようだが、結局ガクエンツービートが抹消されたのは実に4年後、8歳となっていた1992年9月5日のことであった。通算8戦2勝 [2-3-1-2]。
ただし、これで終わりではない。なんとガクエンツービートは種牡馬として登録されたのである。おそらくオーナーの意向であったのだろう。ただ、牧場を持っているわけでもなければ、毎年多くの馬を買い漁るわけでもないオーナーにできることはそこまでだったようだ。
結局、ガクエンツービートに種付けを求める牝馬は1頭も現れなかった。2年間の供用で種付け0件のまま、1994年10月にガクエンツービートは用途変更となり、その後の彼の消息は詳らかでない。
今となってはガクエンツービートの存在は「スーパークリークの菊花賞で2着だった馬も、もともとクリークと一緒に除外対象だった」という余談的なエピソードとして辛うじて触れられるのみで、京都新聞杯でクリークに不利を与えたのも彼(正確には鞍上の坂井千明)であったことはあまり知られていない。
だが、その奇妙な巡り合わせの物語は、天才の伝説の始まりの陰に、確かに存在している。
ガクエンツービートがいなければ、日本の競馬史は少しだけ違うものになっていたのかもしれない。
血統表
| *ハードツービート 1969 鹿毛 |
*ハーディカヌート 1962 青鹿毛 |
*ハードリドン | Hard Sauce |
| Toute Belle | |||
| Harvest Maid | Umidwar | ||
| Hay Fell | |||
| Virtuous 1962 鹿毛 |
Above Suspicion | Court Martial | |
| Above Board | |||
| Rose of India | Tulyar | ||
| Eastern Grandeur | |||
| ウエスパーリンドー 1975 鹿毛 FNo.16-h |
*ダイハード 1957 栃栗毛 |
Never Say Die | Nasrullah |
| Singing Grass | |||
| Mixed Blessing | Brumeux | ||
| Pot-pourri | |||
| スガスミ 1969 黒鹿毛 |
*チャイナロック | Rockefella | |
| May Wong | |||
| フドウヒリュウ | *ゲイタイム | ||
| 風玲 |
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