88年、マイルチャンピオンシップ。
走ることに、安心なんて求めるな。
“危険と呼ぶか。冒険と呼ぶか。”
見る者全ての心をかき乱す、その末脚を人は愛した。
その馬の名は、サッカーボーイ。
無難を笑え。
サッカーボーイとは、1985年生まれの競走馬。オルフェーヴルの元ネタである。異論は認める。
主な勝ち鞍
1987年:阪神3歳ステークス(GI)
1988年:マイルチャンピオンシップ(GI)、中日スポーツ賞4歳ステークス(GIII)、函館記念(GIII)
1987年:JRA賞最優秀3歳牡馬
1988年:JRA賞最優秀スプリンター
概要
さあ蹴り込め
彼が本気になったなら
もう誰にも止められない。
父*ディクタス、母ダイナサッシュ、母父*ノーザンテーストという見たとおりの社台血統である。名門牧場の良血お坊ちゃまであったサッカーボーイだが、困ったことにこの馬、仔馬のころから物凄く気性が激しかった。どうも父譲りであったらしい。
綺麗な栃栗毛で尻尾は金。貴公子然とした……と言いたいところだが白目がちな三白眼をぎょろぎょろさせているせいで台無しであった。
こんな感じで。
もっとも、気性の激しさは勝負根性に繋がる場合も多いので、競走馬の場合は欠点と言い切れないから困る。実際、新馬勝ちを収めて以降、勝つ時は圧倒的なパフォーマンスを見せ付けた。新馬戦は9馬身。二勝目は10馬身。阪神三歳ステークス(当時)は8馬身差のレコード勝ち。
これは、クラシックも大いに期待出来ると関西のファンは沸き立った。……のだったが。
サッカーボーイには裂蹄の持病があったのである。爪が弱かったことと、やはり恐るべき脚力が蹄に過大な負担を掛けたからだろう。弥生賞で3着に敗れた後、よりにもよって石を踏ん付けてしまい状態が悪化。皐月賞は出られなくなってしまう。
抗生物質を投入して無理矢理傷は癒したものの、体調は戻りきらず、NHK杯(当時のダービートライアル)でも4着に敗れ、ダービーでは1番人気(オッズを見て『お客さん無茶しおる』と河内騎手は思ったらしい)を裏切る15着。クラシックの夢は散ってしまう。
ダービー後、状態が上向いたサッカーボーイは中日スポーツ賞4歳ステークス(中京芝1800m)で顔がそっくりな皐月賞馬ヤエノムテキを並ぶ間もなく差しきって優勝。
続く函館記念はダービー馬が二頭もいる豪華な面子だったのだが、レースは正にサッカーボーイの独壇場。4コーナで一気に捲ると唸るような末脚を爆発させて伸びる伸びる。メリーナイスを5馬身置き去りにして優勝。タイムは1分57秒8の日本レコード。57秒台というのは当時では信じ難いタイムであり、誰もがその強さに戦慄した。このタイムは現在でも函館2000mの不滅のレコードとして君臨している。
これは、菊花賞が楽しみになった所だったが、サッカーボーイは捻挫したこともありここを回避。マイルチャンピオンシップに向かったのだった。
弾丸シュートだ。
このレースは兎に角凄かった。4コーナーでは4~5番手だったサッカーボーイ。そこから他の馬がスローモーションに見えるほどの脚色でどーんと引き離し、4馬身差で圧勝。その破格のレース振りに驚愕した杉本清アナウンサーは「これは恐ろしい馬だ!」と叫んだのだった。この「恐ろしい」というフレーズ、他に使われたのは3歳にして2000m日本レコードを叩き出した時のトウショウボーイに対してのみという、杉本実況における最大限の賛辞であった。
見事G1ホルダーとなったサッカーボーイ。次走は有馬記念に向かった。そもそも彼は、血統的にはどう考えてもステイヤーの筈であった。馬体も、首が緩やかな感じで距離は持ちそうな感じ。そんな彼がマイルCSに行ったのは、偏に気性が悪過ぎるからだった。しかし、ここまででずいぶん成長した筈でもあるし……ということで、暮れの有馬記念への挑戦が決まったのだが……。
なんとスタートゲートで暴れて、顔をぶつけて前歯を折り、流血騒ぎをやらかしたのである。おいおい。そりゃねーよ。結果は4着入線(繰り上がり3着)。このレースはオグリキャップとタマモクロスの名勝負として知られているが、サッカーボーイがやらかさなかったら彼がその間に割り込んでいたに違いないと信じているファンは、今も多い。
サッカーボーイはその後、故障のため、古馬になってからは一回もレースに出られないまま引退した。
何しろ勝つ時は他の馬とは次元が違うレースを展開して後ろを何馬身もちぎり捨てた。華があるレース振りはファンから圧倒的に支持された。同時期の名馬、タマモクロスやオグリキャップにも人気は劣らなかったと思う。完調時に、この二頭と2000mあたりで戦う姿が見たかった。もちろんやらかさないで。
引退後、当初は外国産種牡馬を重視する社台の方針通り放出対象となっていた。御存知の方も多いと思われるが、当時の社台の総帥・吉田善哉氏といえば、筋金入りの外国産種牡馬至上主義者。その徹底振りは、あのアンバーシャダイや、社台に念願のダービータイトルをもたらしたダイナガリバーすら例外を認められなかったことからも窺える。しかし、サッカーボーイの種牡馬としての可能性を信じていた次男・勝己氏がこれに強く反発。「天下の社台ファームが内国産種牡馬を育てられないようでは情けない」とまで言って、サッカーボーイを残すよう迫った。最後には善哉氏が折れ、サッカーボーイは無事社台SSで繋養されることになった。
勝己氏の相馬眼は見事的中し、種牡馬としては大成功した。ナリタトップロード、ヒシミラクルといったクラシックホースから短距離、ダート路線馬なんでもござれな幅広い産駒を出したのである。同期のオグリキャップ、スーパークリークあたりが大失敗している事を考えれば素晴らしい事だろう。産駒には自身の切れ味と血統から来る当然のスタミナを伝える一方、その激しい気性も伝えてしまい、産駒の気性は総じてひどい。ブルーイレヴンが京成杯でど引っ掛かりして暴走、惨敗した時に、あの武豊騎手が「僕には無理です(抑えられません)」と言ったのが端的な例。
余談だが、ステイゴールドは母がサッカーボーイの全妹で、甥にあたる。ところがそのステゴが種牡馬入りして意気揚々とブリーダーズスタリオンステーションにやってきたら、サッカーボーイが物凄い勢いで威嚇したらしい。孝行息子(ナリタトップロード)に酷い目にあわしたのだからシカタナイネ!ちなみにステイゴールドも物凄く激しい気性で知られた馬。……元凶はディクタスのようである……。
2011年、26歳で死亡。この年の三冠馬、オルフェーヴルは甥のステイゴールドの仔だが、サッカーボーイとよく似た尾花栗毛。おまけにとんでもなく激しい気性と荒っぽいレース振りも良く似ているのである。父ステイゴールド、母父メジロマックイーンというだけでオールドファンには涙もののオルフェーヴルだが、一部のファンの間では「サッカーボーイの再来」とも言われた。そのオルフェが三冠を勝った年に天に召されるとは……。
なお、没後一年して2012年マイルチャンピオンシップのCMに採用されたのだが、下半期からついたレースのキャッチフレーズは「無難を笑え」である。甥っ子やその息子の走りを引くまでもなく、勝つときは常に桁外れだった彼にピッタリなフレーズと言えよう。
「弾丸シュート」と呼ばれたそのレースぶりは、今も色あせることはない。
血統表
*ディクタス 1967 栗毛 |
Sanctus 1960 鹿毛 |
Fine Top | Fine Art |
Toupie | |||
Sanelta | Tourment | ||
Saranella | |||
Doronic 1960 鹿毛 |
Worden | Wild Risk | |
Sans Tares | |||
Dulzetta | Bozzetto | ||
Dulcimer | |||
ダイナサッシュ 1979 鹿毛 FNo.1-t |
*ノーザンテースト 1971 栗毛 |
Northern Dancer | Nearctic |
Natalma | |||
Lady Victoria | Victoria Park | ||
Lady Angela | |||
*ロイヤルサッシュ 1966 鹿毛 |
Princely Gift | Nasrullah | |
Blue Gem | |||
Sash of Honour | Prince Chevalier | ||
Sylko | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Lady Angela 4×5(9.38%)、Nearco 5×5×5(9.38%)
主な産駒
1991年産
1992年産
1996年産
1997年産
1998年産
1999年産
2000年産
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関連項目
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- 1988年クラシック世代
- オグリキャップ
- タマモクロス
- ステイゴールド
- オルフェーヴル
- ブルーイレヴン
- ナリタトップロード
- ヒシミラクル
- メリーナイス
- ディクタストライカ(ウマ娘)…本馬をモチーフにした(と思われる)キャラクター
- ハットトリック(競走馬)…強烈な末脚を武器に2001年のJRA最優秀短距離馬に輝いたサッカーボーイ産駒ではない
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