主な勝ち鞍
1996年:日経賞(GII)
1999年:オールカマー(GII)
概要
父は近年世界的に希少になってきたマンノウォー系の種牡馬。母父は重・不良馬場を得意とし、大レースには届かないながら当時としては1級品と言える1億円以上を稼ぎ出した馬。こちらは当時はドイツで一時代を築いていたものの世界的にはマンノウォー系以上の零細血統で、ホッカイダイヤから8代遡ってようやく英三冠馬Isinglassにたどり着く。オーナーブリーダーであった北海牧場で種牡馬入りを果たし、ホッカイラブリーが生まれた。同馬は6戦1勝と今ひとつだったものの、牧場ゆかりの血統と言う背景もあり、繁殖入りを果たす。そうして生まれた3番目の仔が、ホッカイルソーである。(ちなみにラブリーはこれが最後の産駒となった)
デビュー~ダイヤモンドSまで
半姉と半兄はデビューも叶わなかったが、ルソーは順調に成長を続け美浦の 田中清隆厩舎に入厩。1994年9月の中山競馬場、マイル戦でデビューを果たす。鞍上には「名手」岡部幸雄を配し、堂々の1番人気に推された。
しかし、ここを10着に敗れてしまう。当時は同一開催であれば再度新馬戦に出走可能であり、陣営は続戦を選択。連闘(2着)の後、中1週で迎えた3戦目で蛯名正義に乗り替わって見事初勝利を挙げる。福島での1戦(3着)を挟み、オープン初挑戦の府中3歳S(東スポ杯2歳Sの前身)に出走。12頭立ての7番人気とあまり人気はなかったが、アラブ馬(!)のムーンリットガールが逃げる中を道中9番手から押し上げ、直線でキレのある末脚を見せ見事に1着でゴール。2着に10番人気のマイネルブリッジが入ったため馬連は21,190円の万馬券となった。
次に出走したホープフルS(当時はまだオープン戦)ではマイネルブリッジの3着に敗れ、3歳シーズンは終了。翌年は早速1月のジュニアCに出走、スローペースからキレのある末脚を見せまたお前かマイネルブリッジに2馬身差をつけ1着でゴール。クラシック戦線を目指し、陣営は次走に皐月賞トライアルの弥生賞を選択した。ここには3戦3勝、朝日杯3歳Sを制し「クラシック最有力!」と言われていたフジキセキも出走してきた。当然1番人気はフジキセキ、単勝は1.3倍とかなり圧倒的だった。ホッカイルソーは5.8倍の2番人気、以下は10倍以上と対抗馬の中では少し抜けた存在として期待をされていた。
重馬場で開催されたレース、フジキセキは2番手を追走し、ホッカイルソーは最後方。4コーナーで外に持ち出したルソーは持ち味のキレのある末脚を見せ、先に抜け出していたフジキセキに残り200mを切る辺りで並びかける。しかし、ここまで。余裕たっぷりのフジキセキにここから突き放され、最終的に2馬身半差の2着となった。「遊び半分」とも言われるレース運びに完敗し、力の差を見せつけられる結果となってしまった。
そして迎えた皐月賞、フジキセキはまさかの屈腱炎で引退、重賞連勝で続く存在と見られたナリタキングオーは前日に出走取消と混戦模様の中、毎日杯の勝ち馬であるダイタクテイオーに次ぐ2番人気に推された。中団から押し上げ伸びるも、残り100mで止まり、前を捕らえられずタヤスツヨシに差されの4着に敗れた。6番人気に落として迎えたダービー、直線で伸びるもタヤスツヨシの斜行の煽りを受けて惜しくも4着。悔しさばかりが残る春シーズンとなってしまった。
秋は再び岡部を鞍上にセントライト記念から始動するも位置取りが後ろすぎて4着。蛯名に戻って迎えた菊花賞本番では空いた内を伸びるも、先に抜け出したマヤノトップガンに届かずの3着。この年の牡馬三冠全てで掲示板に入ったのはホッカイルソーただ1頭なのだが、惜しいレースが続き歯がゆさは募るばかりであった。
この後ディセンバーSでまたお前かマイネルブリッジの2着に敗れ、4歳シーズンを終える。翌年は早速中山金杯から始動。マイルでも走るベストタイアップのキレ味に置いていかれ3着。ダイヤモンドSでは早めに先頭に立つも3着。陣営は次走に日経賞を選択した。
日経賞〜療養生活
このレース、1番人気はGIIを連勝し絶好調のカネツクロス、2番人気に金杯で敗れたベストタイアップ、ホッカイルソーは3番人気だった。予想通りカネツクロスが逃げる中を後方から見る形で進み、直線で中を割って伸び、クビ差だけ差し切った所がゴール。馬にとっても、管理する田中調教師にとっても嬉しい初めての重賞タイトルとなった。
そして天皇賞(春)に進み、杉本清アナウンサーの「また桜だ!」の実況の中サクラローレルがナリタブライアンを突き放すその後ろでひっそりと3着に入る。中長距離戦線の安定勢力として期待できる!GIでだってチャンスがある!と期待を集めた……のだが。
いつになってもホッカイルソーは復帰しなかった。秋が過ぎ、年が変わっても、最後の出走から1年、2年……彼はその姿をターフに現さなかった。屈腱炎だった。これだけ長引けば引退の選択も大いに有り得る。しかし、調教師が、牧場が、そして何よりもルソー自身が我慢した。耐えて、耐え忍ぶ日々が続いた。
そして、もうすぐ天皇賞から3年が過ぎようとする1999年3月末、中山競馬場。中山記念のパドックにホッカイルソーはいた。ついに我慢が実ったのだ。ここを8着、続く日経賞を10着と敗れるが、走るごとに彼はかつてを思い出すかのように調子を上げていく。七夕賞を4着、新潟記念を2着。膨らむ期待感の中、続いてオールカマーに出走する事になった。
オールカマー、その後
1999年9月19日、中山競馬場、GIIオールカマー。昨年このレースでワンツーフィニッシュを決めたテキサス、オーシュウの両ダイワ勢が人気を集め、この日は江田照男が騎乗していたホッカイルソーは8.0倍の3番人気だった。1000m58.5秒とハイペースでレースは進む中、後方3番手から押し上げて4番手で1番外、彼にとって絶好の位置で直線に入った。逃げるサイレントハンターをダイワオーシュウが交わして先頭に立つ。その後ろからダイワテキサスを置き去りにしたホッカイルソーが並びかけてきた!どちらも譲らない激しい叩き合いが200mほど続き、ハナ差だけルソーがしのいで1着で入線。
3年半、1281日ぶりの勝利は当時の中山芝2200mのコースレコードとなる2分12秒0(ちなみに2004年のセントライト記念でコスモバルクが出した2分10秒1が現在のレコードタイム)。ハイペースあっての事だが、老雄の再起・復活をアピールするには十分すぎるインパクトであった。弥生賞で苦杯を舐めたフジキセキなどは産駒が既にデビューしている中の復活勝利なのである。
続く天皇賞(秋)は13着に敗れた。2000年、9歳を迎えても現役を続行。4年ぶりに出走した天皇賞(春)で5着に入るなど、まだまだ一線級の力は見せていたのだが、ここで屈腱炎が再発。引退し種牡馬入りする事となった。種牡馬としては種付けしたのが通算で23頭と少数だった事もあって、特記すべき事はない。中央で勝利した産駒はいなかった。その後は当て馬をしていたようだが、詳しい情報はなかなか判明していなかった。
2020年11月のゴドルフィンの公式Twitterのtweetによると、故郷である北海牧場を買収したダーレー・ジャパンに繋養され、穏やかな余生を送っていた事が判明した。その後も牧場の長老のような存在であったようだが、2023年10月20日、不屈の闘士は31年間の長い旅を終えて、とうとう旅立ってしまった。
血統表
*マークオブディスティンクション Markofdistinction 青毛 1986 |
Known Fact 黒鹿毛 1977 |
In Reality | Intentionally |
My Dear Girl | |||
Tamerett | Tim Tam | ||
Mixed Marriage | |||
Ghislaine 芦毛 1981 |
Icecapade | Nearctic | |
Shenanigans | |||
Cambretta | Roberto | ||
Cambrienne | |||
ホッカイラブリー 鹿毛 1985 FNo.1-c |
ホッカイダイヤ 鹿毛 1970 |
Waidwerk | Neckar |
Windstille | |||
*パラモア | Molvedo | ||
Prime Honey | |||
*オプアート 芦毛 1965 |
Ambiopoise | Ambiorix | |
Bull Poise | |||
Art Dancer | Native Dancer | ||
Parlo | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Native Dancer 5×4(9.38%)
関連動画
関連項目
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