ユニオンプロレスとはDDTプロレスリングの別ブランドから分社化し、2015年まで株式会社TECが運営していたプロレス団体である。代表は何回か変わったが、最後に代表だったのはナオミ・スーザン。
かつて、流山市を本拠とした同名のインディー系プロレス団体(通称:旧ユニオン、流山ユニオン)があり、
2015年まで存在したユニオンはそれを再興したものとして扱われている。
概要
団体のカラーは、怪しく胡散臭く激しく、それでいてアットホームなところ。
怪奇派、デスマッチ、ハードコア、エクストリーム、お笑い、女子プロレス、ミックスドマッチ、ロックンロール、ガイジンA、ストロングスタイルと様々なスタイルの試合が、一つの興行に詰められているのが特徴的(前半はカオスな展開で、セミファイナルとメインイベントはがっちりとした試合を見せることが多い)。
DDT本体に比べて規模は小さいが、それ故フットワークも軽く、他団体との交流(もしくは抗争)は盛んだった。その独特な、よりインディーらしい雰囲気に惹かれるファンも少なくなかった。
木髙イサミや石川修司が定期参戦している大日本プロレスとは、特に結びつきが強く、2012年には対抗戦(だったりして)という名の合同興行も行った。
解散するまで、月一ペースで新木場1stRINGや横浜ラジアントホール、新宿FACE、北千住シアター1010、北沢タウンホールなど、比較的小規模な会場で興行を打っていた。
また、マッスル枠を受け継いで、後楽園ホールでのビッグマッチを開催(当初は年2回だったが、その後は年1回ペースとなった)。
2014年までは夏恒例のDDTビアガーデンプロレス(闘うビアガーデン)でも、ユニオンデーを開催していた。
団体史~旧ユニオンプロレス
1993年に、鶴見五郎や高杉正彦らによってインディー系プロレス団体の統括組織として「レスリングユニオン」の設立が発表されたが、いつの時代もプロレス団体の合従・連衡がうまくいった試しはなく、いつの間にかうやむやになる。その後、当時レスリングユニオンに加わるはずだったIWA流山が『ユニオンプロレス』として、1994年に旗揚げ、活動を開始する。当時の主力レスラーはポイズン澤田や松崎駿馬。
のちにDDTプロレスリング設立に参加したNOSAWA論外も、高校生時代に練習生として加わっていた(ただし、デビュー前に退団)。
しかし、インディー系プロレス団体は当時も乱立しており、かつ情報発信もほとんどプロレスマスコミ頼りしかない状況下、地元興行以外は苦戦を強いられ、1995年4月に活動を停止した。
だが、この旧ユニオンでポイズン澤田が行った「ノーロープ有刺鉄線ランバージャック猛毒マムシデスマッチ」は 当時のプロレスファンの間でそれなりに話題となり、後に澤田がDDTで「蛇界転生」のポイズン澤田JULIEとして ブレイクするきっかけ、さらにはユニオン再興のきっかけとなったことは確かであろう。
ユニオンプロレス再興
2005年、血清によって蛇界分が抜けたポイズン澤田がDDT後楽園大会でユニオン復興を宣言。
DDTからはポイズン澤田の他に石川修司、チェリー、726(なつる)、KAIENTAI-DOJOを退団してフリーとして活動していたisami(現・木髙イサミ)らが正式所属となり、11月3日に再旗揚げ。
ちなみに、当時の代表である武井匡(たけいただし)は旧ユニオンの代表でもあった。
この頃のユニオンは流山ユニオンの流れを受け継ぐ澤田がエースであったが、それ以上に話題を呼んだのは、なんといっても「メカマミー」である。
インディーマット界ではおなじみの怪奇派にメカという新要素を加えたメカマミーはユニオンだけではなく、みちのくプロレスや鈴木みのる興行など様々な興行に出場。
そのいかがわくしくも大人げない動きで、プロレス界を席捲し、2006年には東京スポーツ主催のプロレス大賞で話題賞も受賞した。(ついでに言うと、大家健のユニオンプロレス移籍も2006年である)
だが、旗揚げ当初はDDTファンやどインディーマニアが食いついたものの、次第に内容が飽きられたのか、興行も赤字が続くようになる。それゆえ、DDTの社長に就任した高木三四郎は不採算部門のユニオンを潰すことを考えるようになった(表向きは、武井代表と澤田の抗争の終焉からユニオンの最終回という形)。
そんな高木に対し、選手たちは「自分たちでやっていきたいんで待ってくれ」と請願。そして、2007年1月12日の新木場大会で行われた石川修司&isami対佐々木恭介&田村和宏のタッグマッチを見た高木が感動し、「お前らならやれるよ!」とユニオンを続けていくことを許可したと言われている。
武井代表がユニオンを勇退したあとは、かつてDDTで美人マネージャーとして活躍していたナオミ・スーザンを後任として招き、2007年2月28日の新木場大会から、石川修司をエースとした新体制として再スタートを切ることとなった。
ユニオンプロレス再出発
ナオミ・スーザン代表のもとで再出発したユニオンは当初、北千住シアター1010など新木場1stRINGより小さい会場を活動の中心としていたが、スーザン体制でのアットホームな雰囲気が、徐々に新たなファンを獲得していった。
選手たちも、2006年の大日本プロレス参戦をきっかけにデスマッチファイターとして成長した木髙イサミ、巨体を生かしたファイトで2009年には飯伏幸太を降し、素顔でKO-D無差別級王者となった石川修司、2007年1月にDDT後楽園大会で引退が決まるも、ユニオンのリングで復帰。そこからユニオン初の後楽園大会で獣神サンダーライガーとシングルマッチを行う前後までに、不思議な人間力を発揮するようになってきた大家健(カリスマ号泣師)など、しだいに知名度や実力をつけるようになり、いつしか「ユニオンはDDTのリストラ部屋」と呼ぶ人も少なくなってきた。
この流れを受けて、2010年秋には高木三四郎がさらなるテコ入れとしてDDTから移籍。
2011年にはマッスルのあとを受けて1月3日に後楽園ホールで二度目の大会を実施。
2009年8月31日に行われた初めての後楽園ホール大会は、営業と宣伝の弱さからか空席が目立ったが、二度目の大会は高木大社長のアイデアである全席2000円という破格値もあり、大入り満員を記録した。
さらにサムライTVでもドラマティックファンタジア枠で月一テレビ中継「ユニオンファンタジア」が放送された。こちらは毎回、アイドルから女子プロレスラーまで、プロレスに関係の深い女性ゲストを招いていたのが特徴的だった(AKB48の中田ちさともゲスト解説で出演していた)。
※DDTの週一レギュラー放送は一度終了したが、2012年10月から月1で復活。ユニオンの試合が流れることもあった。
2012年も1月と5月の後楽園大会は満員を記録。8月のDDT武道館大会には石川がセミファイナルのハードコアタッグマッチ、イサミが第一試合のガントレットタッグマッチ、諸橋がダークマッチのマッスル(プロレス)、福田が第二試合のアイアンマンランブルに出場した。チェリーはアイアンマン枠ながらも、残念ながら風疹で欠場してしまった。
三四郎がDDTに復帰してからは団体としての規模を縮小したが、スーザン代表としてはムリして大きな会場で興行を打つよりも、一つ一つの興行を確実に満員にする方を優先したらしい(事実、それ以降の興行は満員を記録していた)。
2013年10月からは運営が、DDTプロレスリングの子会社であるTEC(元DDTテック)に移り、経営的に完全に分社化した(事務所もDDT本体とは別フロアーとなっている)。2014年からは後楽園大会もDDTとは別に単独開催されることとなった。
2014年はガンバレ☆プロレスやWorld MEN'S CLUB(WMC)、佐藤光留などの外敵がいくつも襲来し、それらとの戦いが中心となる中、異色の女装アイドルレスラーであるレディ・ビアードの加入やヤス・ウラノの参戦などさらにカオスの極みをみせる。特に木髙イサミを降してユニオンMAX王者となった佐藤光留の存在は、団体に勝負の厳しさを持ち込んだ。
ニコニコプロレスチャンネルが開設されてからは、各大会が毎回ニコニコ生放送で配信されることになった。地方大会がなかなかできないユニオンプロレスだったが、これによって地方のファンも試合を見ることができるようになった。
ユニオン解散
2015年、前年に佐藤光留を倒してユニオンMAX王者となったFUMAがヒールターンし、MEN'Sテイオー、宮本和志、SAGATらとともにユニット「キングレギオン」を結成。興行はユニオン正規軍とキングレギオンとの抗争が中心となった。
そんな中、7月16日にスーザン代表が10月4日に後楽園ホールで行われる団体の10周年記念興行で代表を引退することを表明。さらに8月17日には選手たちの話し合いによって団体そのものの解散も決まった。こうした流れの中、8月大会でイサミがユニオンMAX王座を奪還、9月大会でFUMAがキングレギオンの解散を宣言。9月21日には紫雷美央が現役を引退と解散に向けて慌ただしく事が進む。
そして10月4日、メインイベントでユニオンプロレスを背負ってきた木髙イサミと石川修司によるユニオンMAX王座のタイトルマッチが行われ、これを以てついにユニオンプロレスは約10年に渡る歴史に幕を閉じた。
解散を惜しむ声はあったが、選手間または選手とフロントの間で醜い争いが起き、そのまま空中分解するケースが多いプロレス団体の歴史に対し、きちんと解散興行ができたユニオンプロレスは幸せだったのではないかと、ファンの多くは思っているだろう。
その後のユニオンプロレス
木髙イサミが設立するプロレスリングBASARAに参加
- 石川修司
- 三富政行
DDTプロレスリングに復帰(入団)
その他
主な王座ベルト
旗揚げからずっとベルトなどとは無関係な状況が続いていたが、イサミが2011年に韓国のキム・ナンプンからDDT EXTREAM級を奪取したことで、これがユニオンのシングル王座として機能するようになった。しかし、事実上ユニオンのベルトとなってからはエル・ジェネリコ、宮本裕向(暗黒プロレス組織666)、石井慧介(DDTプロレスリング)、ケニー・オメガら所属外の選手に流出した(DDT側からしたらベルトが戻ったのだが)。
その後、DDTからの分社化をきっかけにユニオン独自のシングル王座「ユニオンMAX王座」が制定される。「いつでも全力、大きくなりたい」という意味を込めたこのタイトルは、石川修司とロシアのイワン・マルコフによる初代王座決定戦の末、イワンが初代王者となる。イワンは初防衛戦でFUMAを降したが、2014年3月23日のラゾーナ川崎大会では木髙イサミに敗北。その後、木髙イサミ→佐藤光留→FUMAを経て、イサミが第五代王者として解散興行で石川修司を相手に防衛。ユニオンの解散によって王座は封印されたが、将来的には復活する可能性をイサミが口にしている。
女子は2013年3月に「ユニオン認定Fly to Everywhereワールドチャンピオンシップ」というシングル王座が制定され、初代王座決定戦を制した米山香織が初代王座に輝いた。コミッショナーには風間ルミが就任。2013年5月3日の後楽園ホール大会にて、3WAYマッチを制したチェリーが第二代王者なる。その後、レディビアード→紫雷美央→チェリー→ハイビスカスみぃ→紫雷美央→希月あおい→チェリーと王座は変遷。第九代王者のチェリーが解散興行で高梨マサ子を相手に防衛。現在のところ、王座の行方は明らかにされていない。
え? ユニオン非認定U.S.ヘビー級王座? いやあ、あれは…。
関連動画
所属選手
解散時の所属選手 | 解散直前までの主なレギュラー参戦選手 |
過去の所属選手 |
関連項目
- ユニオンプロレス公式サイト
- プロレス
- 女子プロレス
- プロレスラー
- DDTプロレスリング
- ユニオン非認定U.S.ヘビー級王座
- ARB(興行のオープニングに「ユニオン・ロッカー」を使用。興行開始前や休憩時間中もARBの曲が流されている)
最後に
- 1
- 0pt