明石(あかし)とは、大日本帝国海軍(以下、帝国海軍)の建造した工作艦である。
なお、帝国海軍において「明石」の艦名を持つ艦としては二代目にあたる(初代は明治時代に建造された須磨型防護巡洋艦の二番艦「明石」)。また、海上自衛隊においても海洋観測艦「あかし」が存在した。
概要
建造前史
工作艦とは、艦内に工場設備を持ち軍艦の修理・整備を行う軍艦である。帝国海軍においても日清戦争で徴用船舶に工作機械を載せ損傷艦の修理にあたらせたり、日露戦争での鹵獲艦を改装した工作艦「関東」がその任に就いていたが、第一次世界大戦後、八八艦隊計画の中で新造工作艦の建艦計画が持ち上がった。この背景には、第一次大戦後日本領となった南洋諸島の存在があった。新たに日本領となったこの地域には、主要な軍港、艦船補修施設がなかったからだ(勿論、当時第一仮想敵国であったアメリカとの戦争勃発も視野に入っていた)。
しかし、もともと国力の上から完成は微妙だった八八艦隊計画は最終的にワシントン軍縮条約により頓挫、新造工作艦も建造中止となってしまった。従って、「関東」が帝国海軍に在籍する唯一の工作艦となってしまったが、「関東」も大正13年(1924年)に日本海で事故により沈没してしまい、とうとう帝国海軍には工作艦が一隻も存在しなくなってしまった。当然ながら、代艦の建造を求める声が海軍部内から上がったが、折からの不況もあり予算の都合がつかず、結局帝国海軍には工作艦不在の時代がしばらく続くこととなった。
ところで、この「関東」の代艦が建造されなかった事を「帝国海軍の補助艦艇へ対する軽視の現れ」と見るかは微妙な所だ。「海軍休日(ネーバルホリデー)」と呼ばれた当時、 海軍工廠や造船所の船渠・船台は融通がききやすく、艦船の補修も比較的スムーズであったから、多額の予算をかけ工作艦を建造すべきであったかは微妙な所である。また、「関東」以前においても工作艦は常置されていた艦種でもなく、他国においても戦時に徴用した船舶に工作機械を積み、工作艦に仕立てる事が多いことからも、工作艦の建造を見送ったのは仕方がない事だったと言えるのではないだろうか。
こうして、一度は頓挫した工作艦の建造計画だが1930年代に入ると再び建造計画が持ち上がった。
建造
1930年代に入ると、ロンドン軍縮条約が締結され主力艦の建造禁止期間が延長されるとともに、補助艦艇の建造にも制限が加えられた。当然、帝国海軍においてもロンドン軍縮体制下の中で軍備が進められていったが、この時、再び工作艦の建造が持ち上がったのである。これは勿論、平時おいては海軍工廠の補助として艦船修理に携わり、戦時おいては前線拠点で破損艦艇の修理を行う、「動く海軍工廠」としての役割を求められてのことであったが、この時点でポスト軍縮条約、ひいては対米戦争をどれほど想定していたかはよく分からない。時期的に軍縮条約の延長後とはいえ、数年後には期限が切れるため(延長もあり得たが)、対米戦争時の備えとして、或いは日常の艦船補修を工作艦に任せ、浮いた海軍工廠や造船所の能力を新造艦の建造に向けさせる為、なども考えられるがよく分かっていない。いずれにせよ、昭和9年度(1934年度)からの第二次補充計画(通称②計画)において排水量10000t、予算10000円で建造された工作艦が「明石」である。
こうして建造されることとなった明石だが、その建造にはいささか苦労が伴った。なぜなら、前述の通り帝国海軍にとって工作艦を新造することは初めてであったからだ。 このため、建艦担当者は動く海軍工廠としての性能を第一に(当然、船舶としての性能は二の次で)工夫を凝らすこととなった。例えば、適切な艦内工場のレイアウトを行うため、佐世保海軍工廠内に実物大の艦内模型と工作機械の模型を作ったりしている事はその一例だろう。勿論、米国の工作艦の情報収集も怠らなかった。最終的に昭和12年(1937年)に起工された明石は昭和14年(1939年)に竣工した。
完成した明石の諸元は下表の通りであるが、その機能は動く海軍工廠としての機能を徹底的に追求したものであった。まず、船型は平甲板型とされたがこれは艦内容積を広くとるためで、実際ほぼ同大のアメリカの工作艦「メデューサ」よりも明石が1割程度艦内工場の面積が広かったとされる。また、工場の核である工作機械も国内の海軍工廠ですら珍しかったドイツ製の最新型工作機械が大量に導入され、100台以上の工作機械が艦内に設置されていた他、機関の排煙用の煙突とは別にもう一本、艦内工場の排煙用煙突を設けるなど工場として工夫が随所に凝らされていた。さらに特筆すべきは高い発電能力で明石では合計出力4800kWを誇ったが、これは同時期の戦艦金剛が1300kW、重巡高雄が1225KW、駆逐艦で400kWに満たない程度であることを考えると破格の能力であり、後の戦艦大和と同等であった。
燃料と資材の補給無しで3ヶ月の単独活動を可能とし、連合艦隊の年間修理数35万工数のうち40%を明石1隻で担っていた。最新技術の結晶たる明石の工作能力は一部、内地の工廠より高かったとされている。
これら、動く海軍工廠としての高い能力を持って生まれた明石はまさしく帝国海軍の為に活躍する事を義務付けられた艦艇であった。
活躍と喪失
明石は昭和14年(1939年)竣工したが、周囲の情勢は明石の建造が計画されていた時から大きく変化していた。まず、海軍軍縮条約が失効し建艦競争が再開していたこと。支那事変が勃発し艦船修理量も増大していたこと。そして対米関係が急激に冷え込んでいたことなどである。実際に戦闘が行われていた支那方面の艦船補修にはかつて日露戦争にも参加し、日本海海戦で活躍した戦艦「朝日」が工作艦へと種別を変え現地で補修にあたっていたが、艦船補修量は増大するばかりで明石の就役は帝国海軍にとって僥倖に等しかった。
就役した明石は早速艦船補修の任に就き、インドシナ進駐などにも従ったが、何と言ってもその真価が発揮されたのは太平洋戦争勃発後であった。開戦後、明石はすぐさま南方へ進出し艦船修理にあたった。パラオやフィリピンなどいくつかの泊地を転々とした後、昭和17年(1942年)8月明石はトラック島へ進出、以後、同地において艦艇の修理にあたった。トラック島での活躍は帝国海軍の期待以上のもので、日夜修理に奔走し空母「大鷹」や軽巡「阿賀野」などの修理も行っている。特に阿賀野などは空襲と潜水艦により艦尾を吹き飛ばされ4本の推進軸のうち2本を喪失、雷撃により煙突と艦橋の間に大破孔を生じ、ボイラー室も浸水、その他損傷多数で艦の放棄もやむなしの状況であったが、明石の応急修理により14ktで自走できるほどまで回復させた事は、まさしく動く海軍工廠の面目躍如といったところである(さすがに完全復旧は入渠修理を要するので阿賀野は内地へ回航された。もっとも、その回航中米潜により結局撃沈されたのだが・・・)。
最新の工作機械を駆使し、損傷した艦艇の修理を行う明石は当然米軍から警戒され、最重要攻撃目標として開戦劈頭から首を狙っていたという。
このように、八面六臂の活躍を見せた明石であったが、戦局は悪化の一途をたどった。ミッドウェー、ガダルカナルと敗北を重ねた帝国軍は、次第に劣勢に立たされ、昭和19年(1944年)にはその圧倒的な戦力差は覆しがたいものとなっていた。連合国軍は島伝いに日本への反撃を行っていたが、ついに昭和19年2月、トラック島へ大空襲をかけた。この空襲でもともと戦闘艦ではない明石はなすすべもなく大破し、パラオへと退避した。しかし、パラオへも翌3月空襲があり、ついに大破・着底し、ここにその短い艦歴を閉じるとともに、帝国海軍は南方における艦船修理能力を喪失してしまった。
なお、同型艦はないが太平洋戦争中2隻建造が計画されたが(予定艦名は「三原」「桃取」)いずれも建造は中止されている。
艦歴
1937年1月18日、佐世保工廠で起工。
1938年6月29日、進水し呉鎮守府所属となる。佐世保で執り行われた進水式では古歌に曲をつけて演奏された。
1939年7月31日、竣工。初代艦長として森良造大佐が着任。
同年11月15日、連合艦隊に編入。
1940年10月11日、横浜沖で挙行された紀元2600年特別観艦式に参列後、明石市に表敬訪問する。
1941年2月7日、特設砲艦硯山丸に横付けし、揚錨機を修理する。
同年7月12日、重巡足柄等とともにインドシナ進駐に参加。
同年12月1日、開戦に備えて呉を出港。パラオに向かう途中で大東亜戦争開戦を迎える。
1942年1月2日~4月23日、パラオやダバオ、スターリング湾、アンボンに寄港し損傷艦の修理に従事する。
同年5月20日、呉に帰投し24日まで整備を受ける。
同年6月5日、攻略部隊の一員としてミッドウェー海戦に参加。海戦後、損傷した重巡最上をトラックで修理。
同年8月23日、トラック諸島に進出し、損傷した艦艇の修理に従事。三桁に及ぶ数の艦船を修理した。
1943年1月21日、特設水上機母艦山陽丸から短8センチ高角砲2門と九六式25ミリ機銃2基を取り外し、軽巡洋艦川内に搭載する工事を行う。
同年9月2日、特設電線敷設船王星丸の修理を行う。
1944年2月17日、米機動部隊によるトラック島空襲に巻き込まれ、不発弾1発を受けて損傷。
同年2月20日、駆逐艦藤波に護衛されてトラックを脱出。24日にパラオへ入港した。
同年3月11日、特設運送船北上丸から生糧品の補給を受ける。14日には第102号哨戒艇の被弾箇所を調査。
1944年3月30日、米機動部隊によるパラオ空襲が発生。空襲の2日前に予告のビラが撒かれていたため、狙われないよう明石の修理を待っていた艦船は島影に隠れた。明石もまた魚雷攻撃を防ぐため浅瀬に退避したが、西水道付近で航空魚雷を喰らい沈没。5月10日、除籍。
諸元
基準排水量 | 10500t |
全長 | 154.66m |
全幅 | 20.5m |
喫水 | 6.29m |
機関 | |
燃料搭載量 | 重油1493t |
速力 | 19.2kt |
航続距離 | 8000nm/14kt |
乗員 | 779名(うち工作部443名) |
兵装 | 八九式12.7cm連装高角砲 2基 九六式25mm連装機銃 2基 |
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関連項目
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