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黒田博樹(くろだ ひろき、1975年2月10日-)とは、日本の大阪府出身の元プロ野球選手(投手)である。現役時代は広島東洋カープなどに所属していた。
父は南海ホークスや高橋ユニオンズで活躍した元プロ野球選手の黒田一博。
概要
広島東洋カープ 永久欠番 #15 | |
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黒田博樹 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 大阪府 |
生年月日 | 1975年2月10日 |
身長 体重 |
185.4cm 95.3kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1996年ドラフト2位 |
経歴 | |
国際大会 | |
代表チーム | 日本 |
五輪 | 2004年 |
プロ野球選手テンプレート |
広島時代
ルーキーイヤーから完投3試合、完封1試合を経験。しかし6勝9敗防御率4.40と成績は振るわず、翌年の登板は18回に留まる。
1999年、シドニーで行われたインターコンチネンタル杯での活躍がきっかけで先発ローテーションの座をつかみ、2001年にはオールスター初出場、2003年には開幕投手を務め完投勝利を挙げるなどカープのエースに成長した(と同時に現在までに至るムエンゴ病のエースとして定着する)。
2005年には最多勝のタイトルを獲得、カープでは非常に稀な2億円プレーヤーとなった。カープでこれ以前に年俸2億を超えた事のある選手は前田智徳と金本知憲のみで、投手では初めてである。
2006年は7・8月と二ヶ月連続での月間MVP受賞、13勝6敗1S・防御率1.85で最優秀防御率のタイトルを獲得など期待に応える活躍を見せた(なおこの年ムエンゴ王となるが、勝利<敗北が殆どの中で唯一倍以上の勝ち数を稼いだ)。
そしてこの年のオフにFA権を獲得するが、FA宣言せずに4年総額12億円(いつでもメジャーに挑戦できるオプション付)の契約で残留。会見ではどんな風に考えて残留を決断したのか?という記者の質問に対し
「カープで優勝することが、自分のこれからの野球人生の中で高いモチベーションになるんじゃないかな?というのが一番だったと思います。」
と答えた。
また、このときFAでは国内の他球団には移籍しないという、国内限定の「生涯広島宣言」を行った。
※なお同じ年、新井貴浩もマスコミによれば黒田と同様の発言を行ったと言われており、これが彼の阪神FA移籍時に波乱を呼ぶ一因となる(詳細は新井貴浩の記事を参照)。
2007年オフにFA権を行使し、12月15日、ロサンゼルス・ドジャースに(当初4年を提示されたものの、本人の意向により)3年契約3,530万ドル(当時約39億円)で入団した。
メジャーでの活躍
ロサンゼルス・ドジャース時代
2008年は、31試合に登板し9勝10敗防御率3.73と、相変わらず打線の援護がなかったこともあり、あまりぱっとしないものではあった。
しかし、あと一歩で完全試合(8回の1安打以外は無四球無安打完封)という日があったり,ポストシーズンで2勝を挙げたりと要所で活躍。
2009年は前年の活躍を受け日本人メジャーリーガーで3人目の開幕投手を務め、シーズン初勝利を挙げた。
2010年は打線の援護に恵まれず試合に負けることが多かったものの、自身メジャー初のシーズン二桁勝利を記録。
その年が契約最終年だった為、シーズンオフには複数のメジャー球団が獲得を目指し、古巣である広島カープも獲得に乗り出すなど去就が注目された。
結局、1年契約でのドジャース残留が決定し、その後、自身のブログにて「日本に復帰するならカープしか考えていなかった」と、改めて国内限定の『生涯広島宣言』を明言している。
2011年においては、所属球団のオーナーが球団資金の私的流用による影響により球団の破産申告。そのため球団が資金不足に陥り、一時はトレード候補にもなったものの最終的にトレード拒否権を行使し、ドジャースにとどまった。その行為はファンからは好意的にとられ、彼を「サムライ」と賞賛された。
(やはり)打線の援護に恵まれなかったこともあり、黒星が先行していたが、日本人では松坂大輔以来のメジャーで2年連続二桁勝利達成し、昨シーズンを上回る勝ち星を上げている。
2012年、ニューヨーク・ヤンキースと1年契約を結んだ。
ニューヨーク・ヤンキース時代
ヤンキース移籍1年目は、ホーム開幕戦で初先発・初勝利を始め、毎試合好投・結果を出し続けた。夏場には負けが先行して失速したものの先発投手が故障者続出した中で1年ローテーションを守り抜き、最終的に200イニングス、自己最多の16勝を上げた。
また、その年のポストシーズンでも第三戦に先発、勝利を収めた。イチローと言い本当に30代後半かこの人たち・・・
その活躍が認められ複数年契約のオファーが出たものの将来の日本球界(広島)復帰も視野にいれていた事もあり、これを固辞。
その後、一時は古巣のドジャースを始めとした複数団の競合にまで発展、一時ボストン・レッドソックスが1800万ドル(約14億7900万円)を提示したが、最終的には年棒1500万ドル(約12億3000万円)の1年契約で残留した(なお余談であるが、広島の総年俸は約18億円。そのうち黒田の割ける金額は3億円と言われており、その差からタルボキンドバーなどのネタが生まれた)。
2013年はロサンゼルス・ドジャースに勝利し、ナ・リーグ全球団から勝利を達成。一時防御率トップに躍り出たが、後半戦から調子を崩し、11勝13敗と負け越した。オフにFAとなり、ヤンキースと再契約を結んだ。
2014年は開幕から閉幕まで先発ローテーション入り。9月14日のボルチモア・オリオールズで日米通算3000投球回を達成。5年連続2ケタ勝利となる11勝を記録したが、デトロイト・タイガースに勝てなかったため日本人史上初のMLB全30球団勝利はならなかった。
広島復帰
同年オフにヤンキースからFAとなり、古巣ドジャースやパドレスなどが争奪戦を展開。年俸は40代ではメジャー市場最高の21億円超になることが予想されていた。ところが2014年12月27日、広島東洋カープから同球団への復帰が発表された。推定年俸は4億円+出来高、背番号はかつてと同じ15。
元々黒田は「国内へ戻るなら広島しかない」「戦力になるうちに広島へ戻りたい」という発言をしており、実際広島もオフのたびに復帰の要請をかけていたが、メジャーでも屈指の選手となった黒田が国内復帰を選ぶとは到底思えず「黒田が戻ってくる」「ねーよww」は秋の風物詩ネタと化していた。広島ファンも「いつかは……」と思えども、メジャーで戦力になっているうちは有り得ないと諦めている人が大半だっただろう。
だが黒田は17億円差の年俸を蹴り、宣言通りバリバリの戦力として広島に戻ってきた。この決断は広島ローカルの枠を超え、全国メディアで大きく取り上げられた。
2015年の復帰初年度、初登板の3月29日のヤクルト戦で早速7回無失点の好ピッチングを披露して勝利投手となる。
5月には右腓骨筋腱周囲炎で一時離脱。夏以降は敗戦投手となることも増えたが、最終的に169.2回を投げて40歳ながら11勝8敗、防御率2.55という成績を残した。これはリーグ7位となるものである。
オフに去就が注目されたが、12月8日に現役続行と報じられた。この契約更改時の年俸6億円+出来高は、金子千尋(オリックス)のそれを上回って球界最高年俸であり、また歴史上でも日本人選手では佐々木主浩、松井秀喜に次ぎ、阿部慎之助と並ぶ歴代3位となるものであった。
2016年も開幕から先発ローテーションを守り、7月23日の阪神タイガース戦にてついに日米通算200勝を達成。そして9月10日、優勝マジック1で対読売ジャイアンツ戦で先発し、念願のリーグ優勝を成し遂げる。
10月18日、現役引退を表明。日米合わせて20年の選手生活にピリオドを打つ事になった。引退表明に関しては年齢的な事情もあり、多くの人が予測していたが広島県内では
- 広島県内の全地上波のテレビ局が緊急特番を開く
- 中国新聞が号外を出す(この号外は中国新聞のウェブサイト上でPDFとして閲覧可能だった)
- 広島県内のテレビ局、TSSがゴールデンタイムである午後7時に2時間の緊急特番を開く(余談だが、この特番は黒田博樹の緊急引退会見がメインとなるはずだったが、その肝心の会見が10分足らずで終わってしまい、ゲストの達川光男氏が残りの時間を延々と喋る事になった。)
最後の登板は札幌ドームでの北海道日本ハムファイターズとの日本シリーズ第3戦。
先発登板しわずか1失点の好投を見せたが、6回裏に大谷翔平を凡退させた後に右ふくらはぎを負傷し降板した。その後、試合はカープが優勢で進めたが、10回裏に大谷にサヨナラタイムリーを打たれて負けてしまった。
その後の第7戦での登板が予想されていたが、シリーズは第6戦で日本ハムに日本一を決められてしまい、先発予定の大谷との投げ合いは幻に終わった。
その後、11月5日のカープ優勝パレードと優勝報告会に最後のユニフォーム姿で出席。
報告会と合わせて行われた引退セレモニーで挨拶し、20年間の現役生活をつづける原動力になったというチームメイトやファンに感謝を伝えた。
最後はチームメイトと「世界一のカープファン(黒田、セレモニーのスピーチで)」の見守る中ナインに15回胴上げされたあと、マウンドの前で涙ながらにひざまずき、愛する広島のグラウンドに別れを告げた。
また日本シリーズ終了後、その功績を讃え、彼の背番号である「15」はカープの永久欠番となった。
これでカープの永久欠番は衣笠祥雄の「3」、山本浩二の「8」に続く3つ目となる。
成績
通算投手成績
通算:20年 Year |
登板 G |
先発 GS |
完投 CG |
完封 SHO |
勝利 W |
敗戦 L |
セーブ SV |
ホールド HLD |
勝率 W-L% |
投球回 IP |
与四球 BB |
奪三振 SO |
失点 R |
自責点 ER |
防御率 ERA |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB:13年 | 321 | 294 | 76 | 15 | 124 | 105 | 1 | 0 | .541 | 2021.2 | 504 | 1461 | 858 | 797 | 3.55 |
MLB:7年 | 212 | 211 | 6 | 5 | 79 | 79 | 0 | 0 | .500 | 1319.0 | 292 | 986 | 564 | 505 | 3.45 |
タイトル・表彰・その他
タイトル | |||
---|---|---|---|
NPB | 最多勝利 | 1回 | 2005年 |
最優秀防御率 | 1回 | 2006年 | |
表彰 | |||
NPB | 月間MVP | 3回 | 2005年5月、2006年7月・8月 |
ベストナイン | 1回 | 2005年 | |
ゴールデングラブ賞 | 1回 | 2005年 | |
その他 | |||
NPB | オールスターゲーム出場 | 5回 | 2001年、2005年-2007年、2015年 |
MLB | ナショナルリーグ全球団勝利 | - | 2013年6月19日 |
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