嶺南とは、山などの南を意味する言葉だが本記事では福井県の嶺南地方について解説する。
嶺南地方とは、福井県の地域区分である。
| 嶺南地方 | 福井県 | |
|---|---|---|
| 人口 | 134,802人 | 767,742人 |
| 面積 | 1099.95㎢ | 4,190.52㎢ |
福井県は木ノ芽峠を境に大きく嶺南地方と嶺北地方に区分される。形で言えば福井県の細くなってる部分、自治体で言えば敦賀市より西の地域である。福井県外では知名度が低い呼称のためテレビの全国放送などでは福井県南部、西部と表現されることもあるが福井県の形状的に南西部と言った方がより分かりやすいだろう。旧国名から若狭地方と言われることもあるが敦賀市は越前なので正確には同じではない。
嶺南地方は一般的な福井県のイメージとは異なる。そもそも福井県のイメージが思い浮かばないとか言わない。文化的に北陸圏な嶺北地方に比べて嶺南地方は関西圏である。嶺南住民も関西への帰属意識が強く嶺北地方との仲は良くない。方言も関西弁に近く嶺北の福井弁は通じない。福井あるあるもピンとこない。
この原因は嶺南地方と嶺北地方の境界にある木ノ芽峠が険しく古来より交流が制限されたためで嶺北・嶺南の「嶺」も木ノ芽峠(木嶺)のことである。現在では木ノ芽峠の山塊を貫く北陸トンネルや高速道路の整備で往来の便は格段に良くなっているが相変わらず嶺北にはあまり関心がない。だって関西に行けばいいし。
また福井県は民放が2局しかないので県全域でケーブルテレビが広く普及していて、嶺南ではびわ湖放送を中心とした関西圏のテレビ局の電波が、嶺北では北陸放送・北陸朝日放送など石川のテレビ局の電波が再送信されており、ここでもまた帰属意識の差異が生じている。
気候面でも冬に積雪はあるものの嶺北ほどの豪雪地帯ではなく北陸というより北近畿的である。
地理的には典型的なリアス式海岸である若狭湾に面しているので海岸線が入り組み海と山が迫り平地が少ない。河川は大河は無く短い河川の各河口周辺の限られた平野に市街地が形成されている。半島部はほとんど平地はなく山と海に囲まれたわずかな平地に集落が形成されている。半島部の集落へは今では道路が整備されているがかつては船が主な移動手段だった。半島部の道路は基本的に一本なので土砂崩れで寸断されるとたちまち陸の孤島と化す。このため嶺南地方内では関西への帰属意識以外はまとまりが弱い。
若狭湾が天然の良港であることと琵琶湖の水運も利用すれば近代以前には効率的に都まで高速大量輸送が可能だったことから古代から都にとって重要な土地だった。江戸時代に北前船が発達するまでは日本海側の都市から都への物資は敦賀や小浜など若狭湾の湊まで運ばれた後陸路もしくは琵琶湖水運を利用して都まで運ばれた。
古代には若狭国は朝廷に海産物などを貢納する御食国であったと考えられ平城京跡からは若狭から海産物が運ばれたことを示す木簡が数多く発見されている。
江戸時代には小浜から京都までサバを運んだ「鯖街道」が知られているが実際はこれ以外にも若狭湾岸各地から関西各地をつなぐ街道が網目のように存在した。また運ばれたものはサバに限らず海産物や様々な文物が関西各地に運ばれた。
逆に都からは最先端の文物が持ち帰られ嶺南地方には歴史的な文化財が残されている。例えば嶺南地方には重要文化財級の仏像が多数あるが作風は京風で洗練されている。また越前一向一揆の勢力が及ばなかったことで逆説的に浄土真宗が弾圧を受けず蓮如ゆかりの文化財が残されている。
嶺南地方は全国的にも珍しい原子力発電所の密集地帯である。最盛期には高速増殖炉もんじゅも含めて15基の原発が稼働していた。敦賀原発1号機は大阪万博に合わせて運転を開始しその電力が関西に送られた。また美浜原発以東の県内の原発は関西電力の所有であり嶺南地方が関西の電力を支えていた。
きっかけは日本原電が関西方面に原子炉建設を検討していた際に坂井郡川西町(現福井市北西部)が原発誘致に乗り出したことに始まる。川西町は地盤調査の結果原発建設に不適と判断されたが、代替地として敦賀半島が調査され建設に適した岩盤が発見されたため原発建設が始まった。そして1970年代には関西電力の美浜・高浜・大飯への原発建設が相次いだ。
もともと漁業と夏場の観光業が主要な産業で半島部の交通状況が劣悪だった嶺南地方において雇用創出と道路整備が期待できる原発誘致は魅力的だった。また原発関連産業や作業員の宿泊など嶺南地方全体でも間接的な経済的恩恵を受けた。一方で原発事故のリスクや原発依存の地域経済、原発立地自治体と非立地自治体間の財政格差などの問題も生み出した。
そして2011年以降脱原発の流れから運転開始40年を超える原発の廃炉の方針が示され嶺南地方は大きく揺れた。原発立地自治体間でも比較的新しい原発がある西部と古い原発しかない東部で明暗が分かれている。
律令国では敦賀は越前だったが若狭との結びつきが強く、江戸時代には若狭一国と敦賀郡の大部分が小浜藩領だった。
明治6年に廃藩置県で若狭国と越前国を合わせた領域に敦賀に県庁を置く敦賀県が誕生すると木ノ芽峠(木嶺)の往来が困難であることから福井への県庁移転が福井側の住民から要望される。この時県庁移転の嘆願書に「木嶺以南」「木嶺以北」「嶺南」「嶺北」の語が使われ以後地域区分として定着する。ちなみに南北なのは街道が南北に通るからである。
県庁問題は結局明治9年に敦賀県が木ノ芽峠を境に嶺北地方を石川県、嶺南地方を滋賀県に編入される形で一旦終結する。滋賀県下の嶺南地方は学校や道路整備も進められるなど順調だった。しかし現在の富山県まで含んでいた石川県は地域対立が激しく石川県令の建言もあり旧敦賀県を分離することになった。そして滋賀県の旧敦賀県部分も分離統合して明治14年に以前の敦賀県の領域に福井に県庁を置く福井県が設置された。
これには今度は嶺南住民から不満が噴出する。嶺南住民の意向が考慮されていないことや滋賀県よりも福井県の税金が高く道路や学校の整備も遅れたこともあり嶺南地方の滋賀県復帰を求める運動がおよそ10年にわたって展開された。
結局滋賀県復帰が実現することはなく現在まで至っているが嶺南住民の不満はくすぶり続け時々分県の声が上がる。平成になっても市町村合併で「滋賀県へ越県合併」や道州制でも「分県してでも関西」の声が上がった。
| 高浜町 | おおい町 | 小浜市 | 若狭町 | 美浜町 | 敦賀市 |
嶺南地方には6つの自治体があり全ての自治体が海に面している。
平成の市町村合併では嶺南一市構想も持ち上がったが具体的な話は進まなかった。
全体的に過疎が進む地域であるが原発立地自治体は交付金などで財政状態がいい。
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最終更新:2025/12/12(金) 15:00
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