戦列歩兵 単語

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今週のおすすめ この記事は第89回今週のオススメ記事に選ばれました!
よりニコニコできるような記事に編集していきましょう。

戦列歩兵とは、近世から近代ヨーロッパマスケット銃銃剣で武装し隊列を組んで戦った歩兵部隊である。

概要

整然と隊列を組み、煌びやかな軍服を身にい、太鼓の音にあわせて行軍する姿は、ロマンティックに満ち溢れている。

が、残念ながら日本ではなじみが薄い。

基本的な戦い方

  1. マスケット銃に弾を装てんし、ユーキャンのテーマにあわせて行進する。
  2. 射撃位置までひたすら前進、死傷者がでてもすかさず前に出て隊列を整える 
  3. 射撃位置に付いたら射撃>装てん>射撃を繰り返す
  4. 敵がチキンレースに負けて隊列が乱れたら銃剣兵戦に移行する

これを砲兵騎兵等が支援したりする。

↓大体こんな感じ。

銃で撃たれてるのに密集して歩くとか馬鹿なの?死ぬの?

当時の銃の性能が今じゃ考えられないほどひどかった

当時の口から丸い弾を入れる前装式で、十分に訓練されていなければ一分に一発打てればいい方。しかも丸い弾が身内をゴロゴロ転がってしまう構造であるため、距離50Mで撃って当たるかあたらないか。不発もかなり多い。(信頼性にかけるため縦隊は3列が基本だった)とどのつまり射撃だけでは兵戦を封殺できなかったのだ。散開状態では兵戦に持ち込まれてあっという間に蹴散らされてしまう事情があった。でも、しっかりと銃剣を着け密集隊形をとっていれば騎兵の突撃にすら耐える事が出来た。因みに密集隊形による兵戦は洋の東西を問わず、古代重装歩兵の時代から中世封建騎士・・・近世初期の戦国時代足軽に、近代戦列歩兵(ナポレオンあたりの時代まで)ずっと歩兵運用の基本であった。

ただ、史料の発掘により、当時のも思われているほど命中率が低くない事が判明した。

プロシア軍が行った研究によると、400mの距離で発射した弾は10%の命中率を誇り、200mで25%、60mにもなると50%が命中したと書かれている。

攻撃側が400mの距離から歩いて来る場合を考えてみると、約6回の射撃チャンスがある事がわかる。この六回の射撃はそれぞれ10、12%、20、25、25、60の命中率を示すことがわかる。合計すると152%という数字が出る。これは、攻撃側が被害を受けないという前提で約1.5倍の敵を殺傷できるということである。つまり、敵側がよほどの数的優位を持っていない限り、射撃兵を封殺することもできたのである。

この事を解かりやすく説明すると

最初に100人敵がいるとして:
1回射撃(命中率10%)で、10人斃れる。残り100-10=90人
2回射撃(命中率12%)で、11人斃れる。残り90-11=79人
3回射撃(命中率20%)で、16人斃れる。残り79-16=63人
4回射撃(命中率25%)で、16人斃れる。残り63-16=47人
5回射撃(命中率25%)で、12人斃れる。残り47-12=35人
6回射撃(命中率60%)で、21人斃れる。残り35-21=14人

ではく、

味方が100人が射撃すると考えて:
1回射撃(命中率10%)で、10人に命中
2回射撃(命中率12%)で、12人に命中
3回射撃(命中率20%)で、20人に命中
4回射撃(命中率25%)で、25人に命中
5回射撃(命中率25%)で、25人に命中
6回射撃(命中率60%)で、60人に命中 
射撃側の被害を考えなければ、2発撃たれた人もいるだろうが、のべ152人に命中する

ということである(掲示板>>50を参考に作成)

ただ、これは歩兵の場合で、騎兵相手の場合、射撃チャンスは一度きり、しかも重列で突撃してくる騎兵の二列以降はどうあがいても阻止できず、方を組めない散開戦術ではされることが明であった。

(ただ、この数値の英訳では1ペースPace(60cm)という注釈がついているが、数字的に1ペスPes(30cm)のほうが妥当である。その場合、数値は半分で合計命中率も85でしかない)

当時の兵士の質がひどかった

当時は理やり集められた民や犯罪者の寄せ集めで厳しく見る必要があった。

どれほど厳罰化しても戦わなかったり逃げ出したりする兵が後を絶たなかった。

組織的に散開戦術を取れるのは猟兵などの一部のエリート部隊だけだったのである。

盾もってくとか鎧を着ればよかったんじゃね?

当時のは命中率は低かったとはいえ、威力は十分以上にあった。

均的なマスケットは30グラムの弾丸を300メートルで打ち出すことができた。

これから弾の運動エネルギーを測定すると約1350ジュールと言う回答が出る。

参考として現代の弾丸の運動エネルギーを上げてみると

5.56mm新NATO弾で約1700ジュールデザートイーグルで有名な50AEマグナム弾で1900ジュール、旧Nato弾が3200ジュールとなっている。

また、Wikipediaによると新NATO弾は、600メートル距離にて3ミリメートルの鋼の装甲を貫けるほどの威力をもっている。

こうしてみるとわかるが、当時の弾丸は決してで防げたようなものではなく、この弾を防ぐ人間が運べるサイズではなかった。(※ただし当時のマスケットは丸弾であるため、現代の弾よりもはるか空気抵抗を受け、射程も短く貫力も低いことに留意する必要はある)

ただ、当時の騎兵は胸甲を着込むことがあったが、これは兵戦での意味合いが大きかった。また、ある程度はなれた距離では胸甲は防弾効果があったらしいが、その距離で命中すること自体、きわめてまれであった。

最初から白兵戦しかけりゃ脆そう

当時の軍隊にもそう考えた人々はいたが、実際に成功した例は極めて少ない。

まず、兵仕掛ける側が撃を受ける中、気にせず突き進むことができるほど高い士気が必要。もし十分な士気がなかった場合、相手に届く前に敗走する事になった。また、前述のプロシア軍の研究にあるように、兵側は接近までに大量の被害を出す恐れがあった。しかも、敵に到達したとしても約2メートルリーチを持つ銃剣との格闘戦が待っていた。上記の通り、戦列歩兵は銃剣を装備していれば短兵として集団戦法が使えたのである。

ただ、戦列側も方を組めるほどの練度と敵が抜突撃してもひるまず応戦する士気が必要で、農村上がりにて徴兵より日数がたっていない兵士国士無双剣士の集まりと対峙した場合、戦列側が敗走する例がよく記録されている。

例としてはジャコバイトの乱初期のスコットランド軍とイングランド軍が上げられ、士気旺盛にて当時欧州最強剣士軍団であるハイランダーを有するスコットランド軍がそこらへんの農民を強制徴発して編成したイングランド戦列部隊を木っ端微に打ち破った事がある。

ただ、ジャコバイトの乱も中盤あたりにはイングランドの熟練した農村上がりの戦列部隊に敵わなくなり、連敗することとなった。

また、日本でも類似の例がある、西南戦争初期、士族側の抜突撃は官軍に対し猛威を振るった。しかし、後期になるにつれ農民上がりの兵士が円を組む事を編み出し、撃退した。

弓とかのほうが射撃戦強そう

当時の時点では射撃戦では兵のほうが強いのは知れた事実であったが、兵は兵戦に持ってこられると弱かった。さらに、兵の育成には時間がかかり、維持費も馬鹿にならなかった為、イングランド以外は期に兵へと兵科を移していた。しかも、戦列は短期の訓練で実践配備でき、兵などとは使い勝手がべ物にならなかったのである。

19世紀の戦列歩兵

滑腔銃からライフル銃へ

1849年にフランス軍のミニエー大尉ミニエー弾を発明したことによって、今まで猟兵などライフルの扱いに成熟したものだけしか使いこなせなかったライフルは戦列歩兵にも急速に普及するようになった。

イギリス軍を例にとると、ブラウンべス・マスケット銃の有効射程は精々100ヤードをえなかったのに対し、新エンフィールドのそれは一気に300ヤードまで延び、その気になれば1000ヤード先の標に射撃することも可になったのである。

またミニエーに先んじること1835年、プロイセン世界初のボルトアクションライフルであるドライ開発され1840年代から全ての歩兵に向けて配備が開始された。初期ミニエーべて射程が短いなど欠点が多かったものの、徐々に改良され1860年代にはほぼ同等の射程が発揮できるまでになった。

初期のライフル銃の限界

しかしカタロスペック上の射程が3倍以上に伸びたからといって、この新しい武器を渡された戦列歩兵隊が実戦で300ヤード以上先の標にバシバシ当てられるようになったかというと実はそうではないのだ。

直径8㎜以下の空気抵抗の小さい弾丸を初速700m/s以上で打ち出す現代のライフルとは違い、この時代のライフルの弾丸の直径は1415㎜と空気抵抗の大きいものであり、初速も一部の例外を除いて300m/sをえない。つまり、同じ距離射撃でも当時のライフル弾の弾道は現代のものとべものにならないほど高い放物線を描くのである。[外部サイト:南北戦争で使用されたスプリングフィールド銃のおおよその弾道を算出している]exit

このことは防衛側にとって非常に頭の痛い問題である。標との距離にわかっている訓練と異なり、実際の戦場では標との距離は不明瞭で常に変化し続けるのだ。もし300ヤードをえる遠距離射撃をする際に標との距離測定に数十ヤードの誤差があれば、発射された弾丸は標の頭上を通りすぎるか手前に落ち、敵はほとんど傷で突き進んでくることになる。

実際、南北戦争での歩兵同士の均的な交戦距離150ヤードをえなかったとする研究もあり[1]南北戦争時の戦列歩兵の射撃の大半が射撃で高い命中が期待できる距離で行われ、遠距離標へ向けた曲射は一般的でなかったといえるだろう。

逆に、ライフルの普及は攻撃側に大きな戦法の変化をもたらした。ナポレオン戦争の時のように敵の近くまでのんびり行進していたら、防衛側に遠距離から効果的な射撃を行える絶好の機会を与えてしまう。これを防ぐためには敵に狙いをつける暇を与えないように急速に接近するしかない。つまり走ればいいのだ。

走る戦列歩兵

1830年にアルジェリア植民地にしたフランスはそこでアブド・アルカディル率いるアルジェリアゲリラに悩まされることになった。フランス軍のシャルルヴィルマスケット銃より射程が長い長身のマスケット銃を持ったアルジェリア狙撃兵フランス軍に甚大な被害を与えたのだ。

このような戦闘に対応するためにナポレオン戦争の頃から欧陸軍には軽歩兵や猟兵と呼ばれる歩兵がいる。戦列歩兵と違い彼らは必要とあれば散開して散兵戦や狙撃戦を行うのだが、フランス軍の猟兵(仏:Chasseur)や軽歩兵は戦列歩兵と全く同じマスケット銃を装備していたためにアルジェリアゲリラに対抗することができなかったのである。このようなナポレオン式の軽歩兵連隊は1854年に軽歩兵の名称が取り上げられて一般的な戦列歩兵連隊になってしまう。

この戦訓を受けて1838年フランス軍で実験的に一個猟兵[2]大隊が編成された。従来のマスケット銃並みの速度で装填が行える新式のデルヴィーニュ式ライフル[3]を装備していた彼らは、内の歩兵の中から最も体格が良くスタミナがあるものが選抜されていた。

この部隊が最も画期的だったのは、訓練に長時間の「歩調をとった駆足(仏:Pas gymnastique)」を取り入れたことである。要するに現代の軍隊や自衛隊で当たり前にやられているランニングや武装しての長距離走(ハイポート)はここから始まったのだ。
戦場でのほぼすべての運動はもちろんのこと、長い行軍の一部さえ歩調を合わせて駆足で行えるように厳しい訓練を受けたこの実験部隊アルジェリアでその戦闘力の高さを明した。この部隊の成功を受けてフランス軍は同様の猟兵隊を19世紀半ばまでに20個大隊にまで拡し、世界中の軽歩兵のお手本となった。

ライフルが戦列歩兵にも普及し始めたクリミア戦争以降、この長時間の歩調をとった駆け足はフランス軍の全ての戦列歩兵にも取り入れられた。訓練は体力バラつきがある戦列歩兵用にうんとマイルドになったものだったがその効果はてきめんだった。訓練を受けた戦列歩兵隊の行軍や行進のスピードは上昇し、隊形変換を駆足で素く行えるようになった。そしてライフルの有効射程をえる600800ヤードくらいなら走って突撃できるようになったのである

1859年の第二次イタリア独立戦争ではこの駆足の訓練をうけた戦列歩兵が大いに活躍することになった。当時オーストリア軍の制式小銃ローレンツ弾と呼ばれる特殊な弾薬を使用するローレンであり、フランス軍のミニエーの初速が300m/sをえなかったのに対し、ローレンの初速は370m/sを弾道も非常に坦なもので当時としては非常に驚異的な性だった。
しかし、フランス軍戦列歩兵の攻撃縦隊は砲兵や猟兵の支援射撃の下でオーストリア軍戦列歩兵の火の中を駆足で走り抜け、縦隊の先頭の兵が敵から20ヤードという至近距離で一斉射撃を行い銃剣突撃するか、しばしば一発弾を撃つことなく銃剣突撃を敢行したという。戦争を通してフランス兵の犠牲は決して小さいものではなかったが、この戦法によりフランス歩兵は各地でオーストリア歩兵を撃破し、世界陸軍に大きなを与えた。

戦列歩兵の終焉

こうしてライフルの普及に合わせて進化し、1860年代前半まで歩兵役であり続けた戦列歩兵だったが、普墺戦争ドライの破壊力が実されると流石に陳腐化の兆しが見え始めた。

ドライコピーや改良が普及し始めるとともに、軽歩兵と戦列歩兵を統合する新たな歩兵を作る試みがあちこちで行われた。それ以前から歩兵の中で散兵が占める割合は常に増加傾向にあったし、森林や起の富んだ地形では戦列歩兵も散開するのは普通になっていた。しかし1860年代をとおして開けた地形で縦隊や横隊のような集密隊形を組んで戦う戦列歩兵は歩兵の中心的存在だったのである。

初めて両軍の歩兵ボルトアクションライフルを装備して行われた1870年の普戦争でもプロイセン軍、フランス軍の双方で戦列歩兵が用いられた。普戦争最大の戦となったグラヴロットの戦いでは、戦列を組んで突撃するプロイセン近衛師団18000名に対してフランス軍のシャスポーの猛火が浴びせられた。同師団は8000名もの死傷者を出し、密集隊形に対するボルトアクションライフルの破壊力を実する形となった。

戦争以降、各歩兵部隊名から戦列歩兵という名前は消え、敵の火の下では歩兵はそれぞれ1歩か2歩程度散開する散兵として戦うのが普通になり戦列歩兵は終焉を迎えることになる。

実は肩と肩が触れ合うほどの密集隊形はその後何度が復活してたりするのだが

参考文献

関連動画

関連項目

脚注

  1. *Battle Tactics of the Civil WarPaddy Griffith著
  2. *部隊が創設された当初は狙撃兵仏:Tirailleur)大隊と呼ばれていた
  3. *Wikipediaアンリ=ギュスタヴ・デルヴィーニュの記事: 英語版exit / 日本語版exit
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