林忠崇 単語

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ハヤシタダタカ

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林忠崇(はやし ただたか)とは、幕末の大名であり、大名中一脱経歴を持つ自重しない殿様である。
通称「最後の大名」

概要

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嘉永元年(1847年)7月28日、石高1万石の譜代大名・上総請西(じょうざい)の五男として江戸邸で誕生。通称之助(しょうのすけ)。

幼少時代は宝蔵院流槍術術・弓道・洋式砲術などを士と共に学ぶ。慶応3年(1866年)6月、先代忠交(忠)が急逝した為、20歳になった忠崇がの座を継ぐ事になった。

大政奉還・王政復古

就任から4ヵ後の10月江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が大政奉還の上表文を朝廷へ提出した。

これを受けて朝廷は全に対して上を呼びかけたが、江戸の幕閣や旗本をはじめとする佐幕は猛反発を示し、「々は官位を返上して徳に忠義を尽くす」「忘恩の王臣たらんより全義の陪臣たらん」と。この動きに自身も熱心な佐幕であった忠崇も同調した。

12月9日京都で起こった政変「王政復古の大号令」の情報が18日に江戸に伝わると、忠崇は幕閣に対して「及ばすながら一命を投げ打ち粉骨砕身仕り他御座」と、命は投げ捨てるもの宣言し、京都に向かって戦う決意を固めた。

翌慶応4年(1868年)1月9日長との決戦に参加するため京都に馳せ参じる準備を整えた忠崇は、九段坂の屋敷から一小隊を率いて小舟に乗り、品川に用意されていた大に向かったが、強の為なかなか出航できず、が治まった12日にようやく出航。13日に賀に至る。

長と雌雄を決する覚悟立った忠崇だったが、賀に入るとある不穏な噂が舟夫達から漏れ伝わってきた。く、

「前大樹(徳川慶喜)帰府せられし由りあえれば」

徳川慶喜は既に江戸に戻って来ているというのである。

事の偽を確認する為、随従していた士達を江戸に向かわせたが、14日、江戸留守を預かってた士が賀に到着。慶喜が既に江戸城に戻っている事を伝える家老からの手紙を忠崇に差し出した。

急遽江戸に引き返し、18日までに一旦九段坂の屋敷に戻った忠崇は、政変に関する自身の考えをまとめるため、「王政復古論」という論文を執筆している。

王政復古下御一新の上は、万石以上の直ちに王臣たる事と当然存じ奉り。これまで、御譜代の臣といえども、今、命に随(したが)いて徳と共にに事(つか)え奉る儀と存じ奉り

に両三、いわれなく禁中を守衛し、あまつさえ玉座近く陪臣をして守衛し奉り…(略)」

「しばしば慮に託して私意をす。これ全く奸の処置にして疑うべきの甚だしきものなり」

「徳は政権を朝廷に返上し、他の大名達と対等の立場で天皇の臣になったはずなのに、何故新政府は数の大名とその臣だけが構成員となって権私物化しているのか」と批判し、最後にこう締めくくる。

に背き、明正大とは申し難し。これによりて今、徳旧恩を思い、御危難を救い奉らんとする也」

幕府から受けた恩に報いる為、男忠崇の「たったひとり(の脱大名)の最終決戦」が始まろうとしていた。

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3月、請西に引き上げた忠崇は、今後のとしての方針をどうすべきか臣から意見を募った。折りしも京都偵察に派遣した臣が、手紙京都の情勢を伝えると共にすぐにでも自ら上し、新政府に対して恭順すべきであると進言していた。

この進言に対して反対論と賛成論が拮抗し、侃々諤々喧々囂々の議論が暫く続いたが、最終的にである忠崇のとある提言に収束していく。 「大名として領地を所有しているから上を命じられている。であれば、いっそのこと領地を献納して徳になってしまえばいい」と言い出したのである。

なんという極論。なんという若気の至りか若殿を止める者は居なかったのかと思うが、いかんせん本人である忠崇がノリノリなので手に負えない。

政府に対し、領地の献納と徳となる事をしたためた嘆願書を提出しようとしていた矢先、周辺地域の情勢が変化してきたため、更に論が覆る。それも穏健な方向にではなく、より過な方向に。

とある藩主の脱藩計画

4月、旧幕府軍残党の撒兵隊が徹底抗戦論んで請西木更津に現れる。撒兵隊を揮していた幕臣・福田八郎衛門が忠崇に協めるとこれに応じた。

「もとより同意の旨、相答う。これより二の佐幕に一決し、専ら戦争の用意をなす」

になるという話はどこ逝ったんすか若殿と言いたくなるが、撒兵隊の素行が悪質だった為、共闘に踏み切れずにいた。そこに現れたのが人見勝太郎八郎が率いる遊撃隊である。

人見と庭は榎本武揚に送られて請西に上陸し、すぐに忠崇へ助めた。両名とも軍人として優れた人物だったため、忠崇は即同盟共闘する事を決めた。

隊長八郎、人見勝太郎の両人、今日請西の営に来たり、これまた徳快復の儀を乞う。
即ち、誓いて同心すべきの旨を答う」

人見・庭と意気投合した忠崇は、請西から離れ、房総・東海道を糾合して戦うことを決意した。

4月3日、準備の整った忠崇は、士59名と共に遊撃隊と合流し、ついに出

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人類史上一の脱大名、林忠崇の初陣となった。

殿様出陣

地元の村人たちに見送られて出した忠崇一行は、中旧幕府軍残党と合流して富屋を取り囲み、駐屯していた前橋家老に協めるが拒否された為、人見と庭が強請したところ進退窮まった家老切腹してしまった。

この事態に屋側が折れ、大砲小銃穀それに兵卒を20名ほど差し出される。山賊紛いである。

続いて周辺諸を回って支援め、忠崇の部隊は約170名にまで増員された。

こんな手な事を続けて新政府にばれないのかと思うが、実は出の前4月18日に新政府から「兇徒に備えて臨機出兵して勤王に励むよう」という通達が出ており、忠崇は、

「鎮撫方精々つかまつりえども、もとより小の儀にて、差し向き当惑つかまつり旨、在所表より申し越し

「先だってお届け申し上げ之助在所、上総請西もよりへ屯集つかまつり脱走人、またまた立ち入り、ついに来どもの内、いずれへか誘引いたされやに御座候

「委細の儀はかの地へ来どもの内まかり越し取調べ、なおまたお届け申し上げ、以上」

「そう言われてもウチ小っすから当惑するばかりっす」「ウチの来が何人か賊に拉致られちゃった。詳細は調中。分かったら教えるね」と適当な返事で煙に巻いている。

政府が請西の様子のおかしい事に気づいたのは4月8日。近隣で遊撃隊と称する連中が協めて活動しているという情報に加え、請西で大規模な火災が起こったという報告がもたらされた為である。

使者が調に出かけると、焼け落ちていたのは2万4千といわれる忠崇の邸宅、つまり請西の屋敷であり、屋敷は既にもぬけの殻になっていた。決起を悟られない為の撹乱工作であると共に、二度と同地に帰らない決意を示したのである。

11日、忠崇は時間稼ぎの為に更に工作を行う為、東海道先鋒総督府に対し以下のような文書を送った。

「当の儀はかねがね官軍尊び奉り、御合勢相待つべきはずのところ、あに計らんや、去る七日、ヶ崎辺に戦争これあり、右敗兵どもにわかに襲来奉りところ、前件の通り、来ども誘引致され、あとわずかの人数、ことに孤立同様の地にて、御軍勢合体の機相待ち相絶え、余儀なく屋ひとまず立ち払い申し、ついに消失つかまつり趣に御座候

「ウチら官軍を尊び奉ってるっす。んで官軍と合流しようと思ってたら7日頃に幕軍の残党にいきなり襲撃してこられてもう大変。来も何人か拉致られたし。前にも話したよね?あれの事。手勢が少ないわ孤立するわでとても太刀打ち出来ないから屋敷は立ち退いちゃった、仕方ないね。ちなみにその時のドタバタで出火しちゃった。サーセンwww

といった程度の意味である。多分。

この知らせを提出した日よりも2日前の9日、忠崇一向は既に館山港から出航し、房総半島を後にしていた。

参戦・戊辰戦争

12日、港に到着した忠崇一行は、小田原や、江川太郎左衛門で有名な山代官所を訪れて協めたが、暴挙に巻き込まれたくない先方から武器穀を渡されて体よく追い払われてしまった。

16日、次の的地である甲府に向かおうとしていたに、幕末巨人山岡舟が忠崇の元を訪れて兵を引くように要請してきた。山岡と忠・人見・庭との間で意見がぶつかったが、「脱挙兵の趣意書」を山岡に渡して、東征大総督府に提出させ様子を見るという事でとりあえず両者納得した。

とりあえず10日間は待つと約束したものの、山岡の代理でやってきた人物と反して進軍を再開。当初の的地だった甲府から沼津へ移動する。

そうこうしているうちに、忠崇の各地での呼びかけに応じて遊撃隊は270余り(人足を含めて400人以上)に人員が増加し、5000両を越える資や400挺以上のライフル、2門の大砲まで集まった。

一方大総督府は「逆賊」林忠崇の追跡を始めており、これを察知した人見の部隊が逆に追跡者達を襲撃。更に上野での義隊と官軍の戦いに関する情報が入った為、人見らは急いで江戸に向かい義隊と合流しなくてはならないとして箱根関所の占領・突破を試みた。

人見の部隊の独断専行に引きずられる形で忠崇や庭の部隊もこれに加勢。5月19日箱根関所にて、忠崇らの部隊と関所を守る小田原部隊との間で銃撃戦が起こった。

翌20日、小田原からの和議の申し入れによって停戦すると同時に、論が佐幕に転換した小田原から、軍事揮を依頼され、信頼関係が醸成されたかと思われたが長くは続かなかった。関所占領を知った大総督府が小田原に向けて問罪軍を派遣したのである。

これを知った小田原は再び論を勤王に転換しては自ら謹慎、手切れの穀を渡してきた。

忠崇らも義隊が1日で壊滅した情報を得ていたものの、既に後に引けない状況となり、25日、ついに問罪軍が小田原に到着。翌26日、箱根山崎の戦いが始まった。

はじめ問罪軍の先鋒となった小田原兵と交戦。全く戦意の小田原兵を相手に優勢だったが、小田原やる気さに業を煮やした長州以下問罪軍4兵約2500人が参戦。約270人の遊撃隊を圧倒する。

この戦いの最中で庭が左手切断の重傷を負い戦線離脱し、忠崇以下遊撃隊は関所に退却。玉砕か撤退かを決める為の軍議を行った。

この時死を覚悟した忠崇だったが、遊撃隊員の

「わが的は京都の君側の奸を誅して徳氏を快復することにあり、いたずら憤死する事に非ず。
房総に戻って再挙を図るべし。房総で敗れれば州へ。州で敗れれば夷へ」

という説得を受け入れ、27日、関所を脱走して熱海へ向かった。

降伏の儀

28日、熱海から館山港に逃げ延びた忠崇一行は、再起を図る為館山港に入港していた旧幕府海軍軍監に乗り込んで州に転戦する事を決めるが、乗員数の問題でここまで生き残った約230人のうち、140人程度まで人員を絞り、残るものは元へ帰らせる事にした。

6月に入り、忠崇一行を乗せた軍艦北方に向けて出港。小名に到着すると仙台をはじめとする奥羽越列藩同盟と合流して共闘する事を決めたが、戦闘中すぐに敵前逃亡する列同盟軍に失望して会津へ向かおうとしたところ、仙台に踏みとどまるよう要請されて中断。負け戦が続く中、榎本武揚から忠崇へ密書が届いた。内容は徳の存続決定と駿府70万石への転封であった。

の存続が決定された事によって忠崇の最大の懸念が消え去ったと同時に、忠崇自身の戦意にも微妙を落とす。

7月23日会津からの要請を受けた忠崇は松平容保と面会し、再度会津と共闘する事を決めたが、ここでまた仙台から泣き落としのような支援要請を受けてやむなく仙台に戻った。

その後の戦況は悪化の一途を辿り、忠崇が会津と列同盟との間で右往左往している内に会津は降、列同盟の諸も同盟から離脱・降する流れが止まらなくなっていった。

9月15日仙台の降と同時に忠崇も降を決定。この時出以来共闘してきた遊撃隊と意見が別れ、夷へ転戦する事を決めていた人見は了解したものの、他の隊士から「命が惜しいから降するのだろう」と批判されて決別。

24日、最後まで自分に随従してくれた請西士達に対して降の儀を宣言して仙台寺院で謹慎に入った。

切腹を命じられることを覚悟した忠崇はこの時辞世の句を残している。

心の あるかなきかは 屠り出す の血潮の 色にこそ知れ

大名、林忠崇の戦いはここに終わった。

落剥

忠崇が箱根周辺で問罪軍と交戦していた5月、新政府は請西の領地収を決定。京都で周旋を行っていた請西士達は何とか寛大な処置をしてくれるよう願うが聞き入れられず、京都退出を命じられた為万事休した。

こうして請西戊辰戦争における一のとして地上から消滅し、忠崇は大名の地位を失い逆賊の汚名を着せられる事になった。

10月、降した忠崇は死一等を免じられ、東京へ護送されて縁戚関係のある小笠原が治める肥前で謹慎の身となった。

2年4ヵ後の明治4年3月、特赦によってようやく謹慎を解かれた忠崇だったが、大名時代の全ての資産を奪われていたため、一士族となった相続した・忠に身を寄せるも、忠の方も生活に余裕がかった為、く自活をして旧請西に戻り百姓生活に入る。

実家だった屋敷の跡で鋤を振るってを耕す元大名という異様なが展開されたが、明治6年(1873年)、百姓にまで落ちぶれた忠崇を不憫に思った旧幕臣・大久保一翁の計らいによって東京府公務員として採用された。

かしここも長くは続かず、明治8年(1875年)に同僚と意見を異にした事を理由に退職。函館に向かい、地元商人を頼って今度は番頭として生計を立て始める。

が、商人の店舗が閉店してしまった為ここでも挫折。本州に戻り、大阪で再度公務員として就職。

生活苦の余り、かつて同じ志を持って共に戦った人見寧(勝太郎)や榎本武揚らに仕事旋をめたこともあったが何の返事も貰えなかった。自分と異なり出世栄達を遂げた二人を恨んだ事もあったという。

報われることなく落の生涯を終えるかに思われた忠崇だったが、戊辰戦争から4半世紀近くすぎた明治22年(1890年)、大日本帝国憲法の制定に伴う大赦によって、かつて逆賊とされた人々の名誉回復がなされると、忠崇の周辺にも名誉回復す動きが現れた。

お家再興

明治22年、憲法制定の大赦を契機として、旧請西士・広部周助の三男の精(せい)がの為旧士達と共に活動を開始した。

広部は族に加えるため、旧請西士達に爵位請願書への署名をめ、勝海舟田中顕らにも相談の上、請願書を宮内省に提出。する宮内大臣の土方久元から次のような条件が出された。

「士族民から宮内大臣への請願は、府県庁へ提出してそこから宮内省へ話を通す手続きが必要だが、と縁戚関係のある小笠原から請願が出されれば便宜を図ることが出来る。また、族に列せられる為には一定の財産を所有している必要があるため、それを明してほしい」

広部は小笠原に掛け合って、請願と銭の協めたが消極的な回答しか得られず、他の族からも協を断られてしまった。

その後小笠原の方で請願に関しての協だけは取り付けることが出来た為、次に必要な財産として旧士達から寄付をめたが、集まったを管理していた戚筋が一部を「紛失」した為、多くの旧士達が運動から離脱してしまった。

更に財産に関しては、寄付の場合全ての出所について明が必要ということが分かり、小笠原の方でも請願に難色を示し始めた。

広部は小笠原のいいかげんな態度や銭の問題で四苦八苦しつつ、終いには忠崇ほか一族を自分の所有する住居に住まわせたり、の借を肩代わりしてまで名誉回復運動にのめり込んで行った。

現代人の感覚からすれば「何でそこまで・・・」と思うドMっぷり、もとい忠義心だが、彼の子孫

「かつてのお殿様が自身のことを顧みず徳のために決起したのだから、今度は広部が自を顧慮せずお殿様をお助けしなければならぬ」

という心だったという。

このように、「この山中鹿介」と言わんばかりの献身がついに実を結び、明治26年(1894年)11月相続していた忠崇の・忠族に列せられ、それに伴い忠崇も族として遇される事となった。

最後の大名

戊辰戦争後4半世紀を得て、ようやく落ち着いた生活を取り戻した忠崇のその後の人生は概ね穏やかなものだった。

忠崇の次女・ミツは銀行経営者と結婚して老に入ったの世話を良くし、忠崇も昔話を咲かせたり、趣味剣道や書画・和歌を嗜む々自適の暮らしを楽しんだという。

そして時は流れ、昭和

80歳を過ぎなおも生き続けた忠崇に対し、若かりし頃の事についてインタビューが行われている。

この時、インタビュアーから「士が脱するといふなら普通ですが、自ら脱された先生お気持ちは-」と問われて以下のように答えた。

「脱しないと、慶喜と申し合わせてやったやうになる。脱すれば浮浪人だから、に命されようもい」

「慶喜は、財産を捨て、政権を捨てて、総理を辞した。それをなお朝敵として討伐するのはあたらん。
それがわからないから、自分はやった。 しかし、自分が世間知らずのお坊ちゃんだった所以は、 一万石の二才ですら奮発してやるのだから、 大はより以上のを入れると思ったところにある」

昭和12年(1937年)、卒寿(90歳)となった忠崇は、戊辰戦争における請西の戦者を追悼する為、招祭を催した。

を決意したあの頃から70年が経過していた。共に戦った士達は一人残らず鬼籍に入っており、自分を窮状から救ってくれた広部精も明治末期に既に病死していた。自分に会いに来た旧士達の子や孫に対し、ながらに慰霊の言葉を伝え、参加者の戊辰戦争にまつわる話を、遠くなったに手を当てて熱心に聴いていたという。

昭和16年(1941年)1月22日、次女・ミツが経営していたアパートの一部を自宅にしていた忠崇は、風邪をこじらせて容態が悪化し、午前11時に死去。享年94歳(満93歳)。

臨終に居合わせた類縁の人々に辞世の句められると、「明治元年にやった。今はい」と言い残したという。

俗に「最後の大名」と呼ばれる人物は彼を含めて何人かいるが、大名経験者で最後まで生き永らえたこの林忠崇こそが本当の最後の大名と言えるのかもしれない。

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