第17号輸送艦とは、大東亜戦争末期に大日本帝國海軍が建造・運用した第1号型輸送艦/一等輸送艦17番艦である。1945年2月8日竣工。同年4月2日、奄美大島強行輸送の最中に航空攻撃を受けて沈没。
開戦当初、帝國海軍では「輸送艦」という枠組みが存在せず、駆逐艦や輸送船を使って物資を運んでいた。しかしガダルカナル島争奪戦やソロモン諸島の戦いで敵に制空権を握られ、航空攻撃下での輸送を強行した結果、低速の輸送船は軒並み撃沈され、駆逐艦は本来の戦闘能力を発揮出来ない問題が浮き彫りとなる。ここに至り、帝國海軍は敵制空権下での高速輸送を目的とした輸送艦を建造しようと考えた。1943年7月下旬から8月上旬にかけて打ち合わせを行って基本計画をまとめ上げ、9月29日に艦型を決定。
生産性を高めるためブロック工法と広範囲に渡る電気溶接を採用、機関は松型駆逐艦の一軸分とし、兵装も必要最低限分のみとされた。艦尾部分にはスロープが設けられ、揚陸作業の際はここから大発や内火艇などの車両を水上ないし地上へ発進させる。船倉中にはチェーンコンベア式の揚貨装置を、荷役用に5トンデリック4本と13トンデリック1本、5トン蒸気式揚貨機4台を装備して急速揚陸にも対応可能。積載能力は補給物資220トン、大発用燃料5トン、大発積載貨物40トン、14m特型運貨船4隻の計310トン。第5号輸送艦を使った実験で甲標的の搭載能力があると立証されてからは甲標的・蛟龍・回天の輸送任務も担う。
要目は排水量1500トン、全長96m、全幅10.2m、喫水3.6m、最大速力22ノット、重油搭載量415トン、乗員148名。兵装は40口径12.7cm連装高角砲1基、25mm三連装機銃3基、同連装機銃1基、同単装機銃4丁、爆雷18個。22号水上電探、13号対空電探、九三式水中探信儀、九三式水中聴音機を持つ。
進水式の時に配られたと思われる第17号輸送艦の文鎮が大和ミュージアムに収蔵されている。
1944年10月27日に呉海軍工廠で起工。12月8日に第17号輸送艦と命名され、類別等級制定により種別を輸送艦、艦型を第1号型に制定。12月30日に進水式を迎える。1945年1月12日に艤装員長として丹羽正行大尉が着任。彼は珊瑚海海戦では翔鶴の乗組員、その後は駆逐艦浜風の砲術長を務めたベテランだが、今回の第17号輸送艦が初の艦長勤務であった。
呉工廠では第18号輸送艦も並行して工事が進められており、若手の補充兵たちはジャンケンや奇数偶数、各自の希望でどちらに乗艦するかを決めていたらしい。そして2月8日に竣工。艤装員事務所を撤去するとともに丹羽大尉が艦長に任命され、竣工引き渡し直後に乗組員が一堂に会して記念撮影を行った。第17号が竣工した時点で第1号から第16号までの姉妹艦は第9号と第13号を除いて全艦戦没していた――。
本来であれば何処かしらの輸送隊に所属するのが常だが、本艦は第2特攻戦隊の輸送任務に従事させるため、単独で連合艦隊直属となる。慣熟訓練中の2月23日、円滑に輸送を行う下準備で佐世保鎮守府部隊へと編入。3月3日、第2特攻戦隊より「特殊潜航艇“蛟龍”(甲標的丁型)第209号、第210号を沖縄へ輸送せよ」との命令が下り、倉橋島大浦湾で蛟龍2隻を積載して同日中に呉を出港。佐世保の恵美須湾に進出する。翌4日18時39分、佐世保鎮守府は第17号、第18号、第145号、第146号輸送艦を直卒部隊に編入。
1945年3月7日に恵美須湾を出港し、佐賀県唐津市で1日停泊した後、いよいよ沖縄を目指して危険な東シナ海へ漕ぎ出す。第17号には援護の航空機も護衛の艦艇も無い。その状態で制空権・制海権ともにアメリカ軍に奪われた海域を強行突破するという特攻輸送にも等しい十死零生の決死行だった。
幸運にも第17号は敵襲を何ら受ける事無く、3月9日に本部地区の運天基地へ到着。運んできた蛟龍や基地物件を揚陸した。あまりにも危険な輸送任務を成功させた第17号に、海軍沖縄根拠地隊司令の大田実少将は感銘を受け、物資不足だったにも関わらず沖縄の名産品サトウキビを乗組員たちに渡したという。また第17号は同日中に那覇港にも寄港し、弾薬、食糧、地雷を揚陸している。
3月11日に運天基地を出発。前日には沖縄北方でカナ803船団が米潜水艦ケーテの雷撃を受け、輸送船3隻を撃沈される被害を出しており、非常に危険な海域と化していたものの、翌12日に無事佐世保へ帰投。第17号の輸送が実質沖縄への最後の補給となった。一等輸送艦の損耗率は非常に高く、1回の出撃で沈没あるいは竣工から1ヶ月程度で沈没する事さえも珍しくなく、「地獄船」と揶揄されていた。このような背景から第17号が沖縄輸送を成功させたと分かった時には建造した呉工廠の工員が喜び、感激したという。
余談だが第18号輸送艦は3月18日に沖縄輸送の途上で米潜水艦スプリンガーの雷撃を受けて沈没。全乗組員が戦死した。第17号と第18号、どちらに乗艦したのかでハッキリと明暗が分かれてしまう事に。ちなみに第17号が輸送した蛟龍第209号と第210号は、3月25日夜に出撃して伊瀬島南方の敵艦船攻撃に向かったものの、2隻とも未帰還となっている。
3月23日、第2特攻戦隊より「蛟龍第91号、第92号、第2蛟龍隊22名、第3蛟龍隊41名を沖縄へ輸送せよ」と命じられ、大浦湾へ回航。運天基地に届けるための燃料や弾薬を積載して翌日呉を出港。3月25日に第17号輸送艦は第31輸送隊へ異動すると同時に佐世保へ入港した。ところが翌26日午前11時2分、天一号作戦発動に伴って沖縄への輸送が中止。目的地の沖縄も激しい艦砲射撃を受けており、第17号、第145号、第146号輸送艦の3隻は緊急輸送に備えて佐世保で待機するよう下令された。
そして3月27日20時43分、佐世保鎮守府から奄美大島への輸送任務が通達され、第17号、第145号、第146号、第49号駆潜艇で大島輸送隊を編成、第17号は栄えある旗艦となった。この時点で既にアメリカ軍は慶良間諸島への上陸を始めていて最早沖縄への直接輸送は困難と判断され、ひとまず奄美大島に物資及び兵器を集積し、隙を見て沖縄、石垣島、宮古島へピストン輸送しようとした訳である。
3月28日に護衛兵力として第186号海防艦が大島輸送隊に加入。同艦は2月15日に竣工したばかりで戦闘経験に乏しいため、丹羽艦長は作戦参加の各艦長に命令書を渡し、詳細の打ち合わせを行った。この日のうちに大島防備隊向けの資材を芙蓉丸から移載、第17号は蛟龍丙型2隻と搭乗員の中平善司中尉と橋本亮一少尉、基地員及び整備員約30名を積載して出撃準備を整えた。
3月30日には支那方面から抽出された第17号駆潜艇が大島輸送隊に加入して計6隻となる(佐世保到着は31日)。しかし、この6隻は合同訓練すら行っていない寄せ集めのため編隊航行は不可、各艦とも乗組員の3分の1が艦上勤務が初めての体力の無い第2補充兵で、信号も手旗以外は練度が壊滅的という最悪一歩手前の状態であった。それでも寺島水道で出撃待機中に編隊航行、旗流、手旗信号の訓練を行うなど可能な限り練度を高めようと試みた。また丹羽艦長は大島防備隊司令部宛てに「第17号輸送艦は岸壁に横付け、2隻の二等輸送艦は陸にのし上げて揚陸を行うので、岸壁の情況と揚陸地点の適地を教えて欲しい」と求め、出撃準備に忙殺される中で現地部隊との調整を実施。
3月31日18時、大島輸送隊は佐世保を出港。寺島水道で短時間の停泊を行って時間調整を行った後、輸送艦3隻は第186号海防艦、第17号駆潜艇、第49号駆潜艇の護衛を受けながら真夜中の東シナ海へ進出する。道中で敵潜が探知されて第17号駆潜艇が迎撃のため一旦離脱する一幕があったが後に合流している。第17号輸送艦の最大速力は18ノットだったが、12ノットしか出せない駆潜艇に速力を合わせなければならず、行き足は意外と鈍行だった。
4月1日午前5時55分、大島輸送隊はアメリカ軍の偵察機に発見され、敵は「軽巡洋艦1隻、駆逐艦2隻、揚陸艦3隻、揚陸艇2隻」と認識。速力と針路から沖縄本島を目指しているものと判断する。
その後、5日前に沖縄南西で空襲を受けて撃沈された電線敷設艇大立の生存者33名と便乗の工員6名が内火艇で漂流しているのを発見、第17号輸送艦が救助にあたった(このうち2名が後日死亡している)。大島へ向かうには最も危険な南西諸島沿いを日中航行しなければならず、種子島西方を通りがかった時にアメリカ海軍のPBY水上偵察機と遭遇し、14時24分から15時24分までB-24爆撃機2機の触接を受けたため、輸送隊は一旦北上して偽装航路を取った。また、大島防備隊から近海で敵駆逐艦が行動しているとの報告が入っているが、幸いアメリカ軍は沖縄への上陸作戦に注力していたため攻撃は無かった。この日、大島輸送隊の徳之島西方海域突入を援護するため第951航空隊所属の零式水上偵察機3機が対潜掃討に出撃しており、無援護だった前回と比較すると大変豪華と言えた。
日没後に大島輸送隊は大島海峡西方の曽津高岬を回って加計呂間島に到着。しかし一時は沖縄上陸に忙殺されていたアメリカ軍も余力が生まれ、第58.4任務部隊のヨークタウンⅡから夜間戦闘用F6Fグラマン4機が発進、少し遅れてラングレーから第23雷撃飛行隊所属のTBFアベンジャー雷撃機5機が出撃する。
海峡の入り口に到着した輸送隊は速力6ノットに落とすが、その直後の20時35分、海峡の入り口で敵の艦爆2機が上空を通過していくのを発見。これはヨークタウンⅡの艦載機であった。夜間の対空射撃は効果が薄いとして丹羽艦長は射撃禁止を命じていたが、第186号海防艦がそれを無視して発砲してしまい位置が露呈、すぐさま敵機が戻ってきて機銃掃射とロケット弾による攻撃を受ける。そこへラングレーから出撃した後続の夜間雷撃隊5機が突入。分散しながら個々に魚雷を投下するも、闇夜による視界不良と激しい対空砲火により損害の確認は困難だった。アメリカ軍は少なくとも2隻撃沈破したと考えていたが、第17号輸送艦は水兵1名が負傷した他、蛟龍に機銃弾4発が命中。第186号は戦死者1名と負傷者7名を出した程度で幸い各艦とも健在。
4月2日午前1時に大島輸送隊は目的地の瀬相泊地へ到着。第17号輸送艦は岸壁に横付けし、揚陸用の13トンデリックを使って物資を揚陸、第145号と第146号は艦首から浅瀬に乗り上げて物資を直接揚陸する。大島防備隊は急遽山頂で煙幕を焚いてその揚陸作業を援護してくれた。更に大島防備隊、大島蛟龍隊の関係者、地元の瀬相集落の住民がリレー方式で揚陸を手伝い、雨が降りしきる中、兵士たちは高角砲弾1発ずつを担いで山頂の高角砲陣地まで運ぶ。防備隊は輸送隊が持ってきた物資の収容スペースを作るため機雷庫の弾薬や物資を2昼夜かけて分散疎開させた。その甲斐あって午前6時30分までに9割の分散揚陸を完了。特攻基地関連物資200トンと防備隊向け弾薬400トンの揚陸に成功したのだった。
夜が明けると敵の空襲が予期される事から丹羽艦長は防備隊首脳部と協議。作業が終わると第17号輸送艦は岸壁を離れ、艦尾のスロープから蛟龍2隻を瀬相湾に降ろして揚陸に入り江に隠蔽。第17号輸送艦及び第186号海防艦は岸壁から遠く離れて避泊、2隻の二等輸送艦は別々の入り江に入って浅瀬に乗り上げ、地上から切り出した樹木で艦体を陸地の一部に偽装、2隻の駆潜艇は瀬相の海岸ギリギリのところで投錨した。
1945年4月2日午前6時55分、夜明けとともに第58.4任務部隊から飛び立った敵艦上機71機が瀬相に襲来。直ちに輸送隊の全艦が地上の防空砲台と一斉に対空砲火を上げて迎撃する。午前10時30分、第17号輸送艦の前で対空戦闘を行っていた第186号が爆撃を受けて轟沈。
それから1時間後の午前11時30分、九時方向より接近してきた敵艦爆により機関室と後部機銃群にそれぞれ直撃弾1発を受ける。轟沈こそ免れたが、火災が発生すると同時に機関室が浸水して艦尾が着底、後部マストは爆風で薙ぎ倒された。機関室浸水に伴って電力の供給が途絶えてしまったため通信を打つ事が出来ず、高角砲も手動で動かさなければならなくなる。艦内では爆発の余波で乗組員の手足が無残に千切れ飛び、艦の右舷側は死体で埋め尽くされて通行不能、足元は鮮血や肉片で滑るというこの世のものとは思えない地獄が顕現した。砲術長の大竹中尉は艦橋上部の防空指揮所で指揮棒を片手に指示を出していたところを被弾。重傷を負いながらも「撃て、撃て」と指揮を執り続け、最期は「艦長、申し訳ございません」と残して息を引き取った。絶望的な状況下に置かれながらも乗組員は対空火器を総動員して3時間以上も激しく応戦。被害を左舷艦首付近への盲弾1発に食い止めた。
14時40分頃になってようやく煙幕が瀬相湾を覆い始めた事で爆撃の命中率が著しく低下。未だ衰えぬ激しい対空砲火も手伝って敵機は有効弾を送り込めなくなった。16時40分に瀬相上空へ飛来したヘルダイバー12機とアベンジャー12機は満身創痍の第17号輸送艦を集中的に狙ったが、全て外れるか至近弾で終わった。
延べ87機による第四波に渡った空襲は17時18分に終了。乗組員は各所の応急修理に奔走するが、浸水被害激しく沈没は避けられなかった。日没後、沈没寸前の艦から25mm単装機銃、艦搭載の弾薬及び食糧、船倉内に残された未揚陸の物資などを防備隊の大発動艇を総動員して揚陸。火災の熱で蒸し風呂と化した艦内から全身汗だくになりながら懸命に物資を運び出した。19時30分に誘爆が生じて艦体がV字に折れた事で手の施しようが無くなり、20時30分に消火作業が中止、そして21時に負傷した足を引きずりながら丹羽艦長は総員退艦命令を出す。乗組員は短艇を使って島へ避難する。そして23時26分に揚陸出来なかった地雷に誘爆して第17号輸送艦は沈没した。
一連の空襲で第17号輸送艦と第186号海防艦が沈没。戦死者102名と負傷者80名を出した。対する戦果は対空砲火で敵機3機撃墜と6機撃破だった。
乗艦は沈没してしまったものの丹羽艦長は健在だったため第146号輸送艦に乗せてもらって指揮を継続。生存者174名は第145号に収容されたが、4月4日21時30分に加計呂麻島芝立神で座礁してしまい、急遽第146号に移乗している。4月7日午前11時、水上特攻作戦に臨む戦艦大和とすれ違い、丹羽艦長は「御武運の長久と御成功を祈る」と送信、大和艦長の伊藤整一中将から「ありがとう、我期待に応えんとす」との返信を受け取っている。そして翌8日に大島輸送隊の残余が佐世保へ帰投した。1945年5月10日除籍。
慰霊碑が建立されるまで第17号の沈没地点周辺に毎晩火の玉が目撃されていたという。
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