ジミー・ペイジ(Jimmy Page)とは、イギリスのミドルセックス州ヘストン生まれのロックギタリスト。
概要
エリック・クラプトン、ジェフ・ベックと共に3大ギタリストと讃えられる、ポピュラー音楽史を代表する著名なギタリストの一人。1970年代のパガニーニとも呼ばれた。
ロック・バンド、レッド・ツェッペリンのリード・ギタリストでありバンドのリーダーとして特に有名である。同バンドのアルバム全作のプロデュースも担当した。
「天国への階段」「貴女を愛し続けて」等での叙情的で美しいギターソロ、「移民の歌」「コミュニケーション・ブレイクダウン」「胸いっぱいの愛を」等でのパワーコードを用いた豪快なギターリフ、「アキレス最後の戦い」等での綿密なギターオーケストレーションなどの例があるように、優れた作曲能力を持ち、演奏においては変則チューニングや変則リズムの多用、アグレッシブな即興演奏、バイオリンの弓によるボウイング奏法、電子楽器のテルミンを用いる、超個性的で唯一無二ともいえるレジェンドなギタリストである。
若き頃、ギブソン・レスポール・スタンダードを腰下、膝の辺りまで低く下ろし激しいステージアクションで魅せ、弾きまくるその姿は、観る者にとって衝撃的な格好良さで、ロックのダイナミズムと美を感じさせ、ロックギタリストのアイコンであった。
70年代にロックのファッションリーダーと呼ばれ、ドラゴンスーツに代表されるその華やかなステージ衣装は同年代のアーティストたちに影響を与えた。ストラップを限界まで下げてギターを構えるポジションは、けっして弾き易いものではないが、ロックというショービジネスにおいて視覚的な格好良さを演出した、プロフェッショナルに徹した姿でもある。
老境に至ってから広く知られるようになった、その優しく慈愛に満ちた人柄は、エゴイストなくせ者揃いのロックスターの中でも異色の存在ともいえ、多くの者に親しまれリスペクトされている。
ちなみに幼馴染のジェフ・ベックは少年時代、学校の友人とは話があわず、唯一のより所は心優しいジミーだった。 辛辣な批評をしたイングヴェイ・マルムスティーンも会ってその人柄を知ってから何も言わなくなった。ロックの仏様なのかもしれない…。
若い頃は女性たちをたちまち魅了した耽美で中性的な美青年ぶりを誇ったが、年々老ける度にルックスが日本人に似てきてしまい、しまいにノッポさんそっくりと言われてしまう始末であるが、笑顔が似合う素敵な老紳士である。
かつてマネージャーのピーター・グラントは「ジミー・ペイジをこの世から抹殺するなら簡単だ。ジミーの目の前で、走ってくるロンドンバスに向かって2ペンス硬貨(4円くらい)を放り投げれば直ぐ様ジミーは拾いに飛び込んで轢かれることだろう」と評されたり、レッド・ツェッペリン結成前、ロバート・プラントが連れて来たボンゾとジミー・ペイジが初顔合わせで、ちょうどお昼だったので食事にでも行こうとジミーが誘ったのだが、ボンゾらはどんなご馳走を奢ってくれるのだろうと喜んでついて行くと、頼んだのは豆の乗ったトーストとコーヒーとか粗末なもので、しかもジミーは食後割り勘を主張し、二人はヤードバーズの大スターが奢ってもくれないのかと驚かされたという。不安に思ったボンゾは「おい、このバンドほんとに大丈夫なのかよ?」とプラントに尋ねてきて、結成する前からいきなり解散の危機であったり、パーティーの残り物をタッパに詰めこんで持ち帰るなど、とても巨額のマネーを稼いでいる人とは思えない、鉛の財布ともいわれた貧乏性といえる尋常ではないケチぶりも伝説化して語られている。
しかし慈善活動には積極的で、広島原爆被災者への多額の募金や、荒れ果てた漁村の港を自費で修繕工事をおこなったり、ストリートチルドレンや難病に苦しむ子供たちを支援する財団のメインスポンサーであったりと生半可ではない。レッド・ツェッペリンの再結成ライヴは全てチャリティー・イベントであった。
某日本の音楽記者の取材には「あなたはケチですか?」と聞かれてウルトラ激おこされたようで「俺はケチじゃないぜ、本当にケチならアンタにダイエットペプシなんて出してないぜ、べつに水でも良かったんだぞ。俺は締まり屋なんだ、この差は大きいぜ、俺は金の使い道を知っているんだ」というようなお答えであった。
同じように某日本のギター雑誌の記者などが「あなたはテクニカルでは無いですね?」というような愚かな誘導尋問のような質問をして、察しの良いジミーに煙に巻かれていることに気が付かず、奏法的にろくな答えを得られずに終わっている。
このようにかつての日本のメジャーな音楽マスコミは、ジミーから有益な証言を得られていない例が目立つ。ネットでは彼らの低い質の取材を切り取って作られたTweetなどをが拡散されて目立つが、ジミーなりツェッペリンを知るなら翻訳された書籍や伝記本が多くあるので、Wikipediaや本記事などのネットだけの風聞は真に受けず検証することを勧める。
ブートレッグなどの海賊盤音源についてもファン同士による無償のシェアは推奨しており、ペイジ・プラントではファンが録音し易いようにサウンドボードへの機材の接続や場所が提供されたこともあったという。業者から海賊盤CDを押収するのは、かつて自宅から盗まれた音源の回収をはかったり、ライヴ記録の確認のためだと思われる。また提供を行った店舗には快くサインや記念撮影に応じてその労に報いている。
女性の好みでは若い女の子がとにかく好きで(有名なガールフレンドに当時14歳だったロリ・マドリックスがいた)、アレイスター・クロウリーや神秘主義に傾倒し70年代の保守的な世情で物議を醸し出していた。かつては魔術専門書店を経営し、神秘主義の書籍の収集と復刻を行っていた。
Wikipediaにはその創生期に誰が書いたのか「ファッション的に魔術および魔術的イメージを利用していただけである」とソースもなくあるが、ファンとしてはその方が色々都合が良いので放って置いている。関連書籍では実にアレな逸話も少なくない…。
あとWikipediaの同項目にはレッド・ツェッペリンの楽曲使用料が高くと記述されているが、これはツェッペリンの楽曲がテレビドラマや映画で安っぽく使われるのを拒否して、天文学的な値段を提示しては断っていた伝説を悪くとらえて記述したものだと思われる。
バンドの解散後はメディアでの楽曲の使用には寛容となり、様々な番組や映画でツェッペリンの楽曲が使用されている。映画「スクール・オブ・ロック」では上記の伝説を知るジャック・ブラックの頼みにより、ツェッペリンは移民の歌を無料で楽曲使用させた。
70年代、コカイン、ヘロインなどの麻薬のウルトラヘヴィな常習ぶりと、アルコールの過剰摂取も公然と知られていて、ライヴ前に控室でジャックダニエルをラッパ飲みする姿は、危険ではあったが非常に格好良く絵になった。しかし現在ではタバコも吸わずそれらの依存症を克服している。
このように普通の人物では全くない。
経歴
1953年、一家はサリー州のエプソムに引っ越す。引越し先に放置してあったスパニッシュ・ギターを与えられる。
1957年13歳、地元のスキッフルバンドに加入。英国のTV番組 Wheldon Showに出演。
1959年15歳、エルヴィス・プレスリーの「Baby Let's Play House」を聴いてロックンロールに目覚める。
ジェフ・ベックとはこの頃友人となる。
ベック談『初対面の時奴はキラキラ輝いて見えた。絶対友達になっておかなきゃとその時思ったんだ。あの頃の奴は凄く細くて、パイプクリーナみたく細かった。物凄い速さでギターを弾いていたけど、問題はまだ誰も聴いていなかったってことさ。』
1962年、中古のギブソン・レスポール・カスタム、ブラック・ビュティーを父親を保証人に、分割払いで185ポンドで手に入れる(70年に盗難)。”ニール・クリスチャン&ザ・クルセイダーズ”に加入、本格的に音楽活動を開始。
1963年、過労で体を壊し入院。バンドを脱退しアートスクールに進学する。この頃キース・リチャーズ、エリック・クラプトンらと知り合い、彼らはジェフ・ベックと共にエプソムのペイジ家の居間をギターの練習場にする。
同年1月、ジェット・ハリスとトミー・ミーハンのセッションレコーディングに参加。初めてレコードにクレジットされる。シングル「Diamonds」は全英1位のヒットとなる。19歳であった。
1964年、アートスクールを辞め音楽活動に専念。トップセッションギタリストとなり、数多くのヒット曲を陰から支える。この頃、ミッキー・モストが担当した全ての曲でギターを弾き、モストとは会社の共同経営者であったピーター・グラントと知り合う。
セッションギタリストは参加した曲には守秘義務がかせられる場合が多かったため全貌は謎であるが、一説によると英米でヒットしたレコードの6割で弾いていたとも噂された売れっ子ぶりであった。
映画「007 ゴールドフィンガー」のテーマ曲で弾いていたり、ニコ、ジョー・コッカー、ビリー・フューリー、ルル、ディヴィド・ボウイ、フー、ローリング・ストーンズなどのアーティストの曲で弾いている。
1965年、イミディエイト・レコードとプロデュース契約。レコーディング・プロデューサーとしてジョン・メイオール&ブルース・ブレイカーズ・ウィズ・エリック・クラプトンなどを担当。後に著名なレコーディング・エンジニアとなるエディー・クレイマーと知り合う。
同年、エリック・クラプトンが抜けた穴埋めとして”ヤードバーズ”に誘われるが、これを断り、ジェフ・ベックを推薦する。しかし、1966年ヤードバーズからバンドの創立者でリーダーであったポール・サミュエル・スミスが抜けてしまい、既にプロデュース業を手がけていたペイジに、再び誘いがかかり、ヤードバーズに加入することになる。最初はベーシストとして参加していたが、後にクリス・ドレヤと交代しジェフ・ベックとのツイン・リード・ギターを実現する。
しかし1968年7月バンドは空中分解。これを期にロバート・プラント、ジョン・ポール・ジョーンズ、ジョン・ボーナムと共にニュー・ヤードバーズを結成。やがて”レッド・ツェッペリン”と名を改め70年代の音楽業界を席捲する。
1980年9月25日USツアーのリハーサル中にメンバーのジョン・ボーナムが突然すぎる死去。
同年12月4日レッド・ツェッペリンの解散表明が正式に発表される。
ペイジは悲嘆に暮れ、ジョン・ボーナムの死去した自宅に篭り、健康状態の悪化を噂されながら鬱々とした隠遁生活に入る。トレードマークだったギブソン・レスポールも一時行方不明になり、「ギターを見れば亡くした友人を想いだしてしまう」と、音楽活動の断念を思うまで落ち込んだ。だが1981年3月10日ロンドンのハマースミス・オディオンでの旧友ジェフ・ベックのライヴに招かれ、アンコールの『ゴーイング・ダウン』を共演。音楽活動に復帰した。
それから数ヶ月の間、自前のソルスタジオに篭り、エルトン・ジョン、ジョージ・ハリスン、ミック・フリードウッド、ビル・ワイマン、アラン・ホワイトらといったアーティストを迎えて過ごす。また、スーパー・グループ”XYZ”の構想が練られデモテープが録音されたが、正式に発表されることはなく企画段階で終わる。レッド・ツェッペリン10枚目のアルバム、『最終楽章(コーダ)』の為の音源の選定作業が行われたのもこの時期。
1981年8月チャールズ・ブロンソンの映画『ロサンゼルス』のサウンドトラックを依頼される。1982年2月発売。
1983年5月23日ギルフォード・タウン・ホールで行われたエリック・クラプトンのライヴに招かれ、アンコールで『コカイン』『ファーザー・オン・アップ・ザ・ロード』の2曲を披露する。
3ヵ月後、クラプトンから依頼されたペイジは、多発性硬化症患者の支援団体「アームズ」と、同病に苦しむロニー・レインの為に9月20、21日の2夜に渡って行われたチャリティーライヴ『アームズ・コンサート』に参加する。スティーヴ・ウィンウッドをヴォーカルに数曲を披露。アームズUSツアーも計9回行われ、ペイジはアメリカに同行。ツアーに参加出来なかったウィンウッドの代わりをポール・ロジャースが勤める。
1984年ロイ・ハーパーとTV番組『オールド・グレイト・ホイッスル・テスト』の為に、スコーフェル山で共演。他にも”ビーチボーイズ”、”イエス”らとライヴで共演するなど、音楽活動が活発化。
同年ポール・ロジャースらと”ファーム”を結成、本格的にバンド活動を再開する。
1984年ジェフ・ベック、ロバート・プラント、ナイル・ロジャース、ピーター・シェイファー、ディヴ・マシューズらと、”ハニードリッパーズ”の名義で、ミニアルバム『ヴォリューム・ワン』を発表。
1987年、麻薬不法所持で2度目の現行犯逮捕をされ執行猶予処分となる。だが、このことで麻薬依存症とアルコール中毒の治療を始め、一般生活に支障を来すほど悪化していた健康状態が改善。
1988年ファーム解散。同年6月初のソロ・アルバム『Outrider(アウトライダー)』をリリース。
1993年ディヴィッド・カヴァデールと”Coverdale Page”(カヴァデール・ペイジ)を結成。
同年3月『Coverdale Page』をリリース。長く封印されてきた、ZEP時代のノウハウが惜しみなくつぎ込まれた、このアルバムは衝撃をもって受け入れられ、全米チャート最高5位に食い込む健闘をみせたが、思ったほど長い間はチャートに留まらず、100万枚以上の売上げに留まるという、彼らからすると不本意な結果に終わる(累計でプラチナアルバムとは成った)。
時期が悪いことに、このころ既に80年代半ばから始まったチャートの上位をHR/HM勢が独占するというブームは、とっくに終焉を迎えており、キッズたちの目はロックではなくラップ、ヒッピホップに向き、アンダーグラウンドでもヘヴィメタルは駆逐され、新たにオルタナティブ・ロック勢が勃興していたのだった。カヴァデールはバンドの存続を希望するが、チケットの売れ足の鈍いUSツアーをキャンセルして日本公演のみを行い、バンド活動に終止符を打つことにする。実はツアーの開催決定以前から既に、ロバート・プラントからMTVの企画で一緒に音楽活動を行おうとの依頼を受けていた。この解散はアルバム収録後間もなく予定されていたことであった。
1994年MTVの依頼で、人気番組アンプラグド内でジミー・ペイジとロバート・プラントのセッションが実現。これを期に、二人でアルバムをリリースするまでに至る。”ペイジ・プラント”はアメリカで96年までに100公演を超えるツアーを行い、アメリカでの音楽史における興行収入記録を塗りかえる快挙を達成。
1996年レッド・ツェッペリンでロックの殿堂入り。”エアロスミス”らと共演。
1998年にヒップホップアーティストのパフ・ダディー(ショーン・コムズ)と組み、初のハリウッド版ゴジラ映画であった『Godzilla』にレッド・ツェッペリンのナンバー『カシミール』をヒップホップにアレンジした『カム・ウィズ・ミー』を楽曲提供。ニューヨークのパフ・ダディーと、ロンドンのジミーによるインターネットでの収録でも話題となった。
1999年ザ・ブラック・クロウズを引き連れてチャリティーコンサート。2000年夏まで全米各地でツアーを行うが、ジミー・ペイジの健康状態の悪化が噂され、オーストラリア、日本ツアーはキャンセルされる。
2007年12月ロンドンで一夜限りのレッド・ツェッペリン再結成ライヴを開催。故ジョン・ボーナムの息子ジェイソン・ボーナムが父の代役をつとめ02スタジアムに集まった観衆を熱狂させる見事なステージであった。
2008年64歳、英国サリー大学で名誉博士号を授与される。北京オリンピック閉会式で女性歌手レオナ・ルイスと「胸いっぱいの愛を」を共演。
現在は様々なアーティストにゲストとして呼ばれる他は、レッド・ツェッペリンやヤードバーズの遺産を未来に残すためのリマスタリング作業を主に行いつつ、本格的な音楽活動の復活が待たれている。
関連商品 ヤードバーズ
「Yardbirds68」はヤードバーズ時代の幻のライヴ音源とスタジオ音源をリマスター化して2017年に再発。驚異的な高音質と流れるような速弾きをキメる【マジックフィンガー】と讃えられた時代のジミー・ペイジのプレイはファンなら必聴もの。「リトル・ゲームズ」はヤードバーズでの唯一のスタジオアルバム。ブルースを現代的な解釈で再構築した曲やインド・ケルト音楽的旋律、ハードロック的楽曲などを含むアルバム。
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サウンドトラックを除けば初のソロアルバム。アルバムレコードのA面がロックサイド、B面がブルースサイドと呼ばれた。ロバート・プラント参加の曲などある。2008年にリマスターされて再発されている。
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ハードロック、ヘヴィメタルなどヘヴィ・ロック的轟音サウンドが炸裂されたアルバム。実は、まだ未発表曲などがあり、ボックスセットの発売が期待されている。
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ブラック・クロウズとのチャリティーライヴでの模様を収録したもの。発売当時まだ珍しかったアルバムのダウンロード販売がされた。レッド・ツェッペリンとヤードバーズ時代の十八番を聴かせてくれる。
関連動画
関連項目
関連サイト
- 本人オフィシャルサイト JimmyPage.com
- レッド・ツェッペリン オフィシャルサイト
- @Jimmy Page - Twitter
- レッド・ツェッペリンの”Stairway To Heaven”「最も偉大なギター・ソロ」に選出される (NME Japan; 2016.10.7)
- U's Lemon Song - Led Zeppelin - 日本のファンサイト
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- 0pt
- ページ番号: 419333
- リビジョン番号: 3128496
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