伊367とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した潜丁型/伊361型潜水艦7番艦である。1944年8月15日竣工。終戦まで生き残った後、1946年4月1日、ローズエンド作戦により五島列島沖で海没処分。
概要
潜水艦と言えば通商破壊や機雷敷設、敵艦攻撃、港湾偵察などを主任務とするものだが、潜丁型は輸送任務に主眼を置いた珍しい潜水艦である。
開戦前の1941年初頭、艦政本部は第一次世界大戦のドイツで絶大な戦果を挙げた潜水商船ドイッチュラントを参考にし、潜水艦で兵員及び物資の輸送を行う構想を提案、しかし作戦部が興味を示さなかったためこの時は自然消滅した。
本格的に計画が始動し始めたのはミッドウェー海戦後の1942年8月24日。きっかけは軍令部が離島への奇襲上陸を想定した潜水艦の開発を艦政本部に打診した事だった。既にドイッチュラントを研究していた艦政本部は「すぐに作れる」と快諾し、海軍大臣の承認を得て、10月21日に改マル五計画に加えられて同予算で建造される事が決定。
上陸用舟艇2隻と兵器82トンの輸送能力を保有し、兵員110名を搭載できる事をコンセプトに建造を開始したものの、ガダルカナル島争奪戦における潜水艦輸送の戦訓と、戦況の悪化により、物資のみを輸送する純粋な輸送潜水艦へと設計を変更。艦前部に物資用の倉庫を設けた事で物資145トン(艦内120トン/艦外25トン)を積載可能、また上甲板に繋がる電動ベルトコンベアを装備して搬出を容易なものにしている他、主機や電動機は既製品を用いて工数を削減。
連合軍のレーダー装置発達と警戒厳重な沿岸部への揚陸を考慮して、艦橋側面にV字の傾斜を付けた。これには敵のレーダー波を海面に跳ね返す意図があった。また水中航続力増加の要望を受けて電池を増設し、最長40時間という日本潜水艦最優の潜航時間を獲得、加えて竣工時からシュノーケル、22号水上電探、E-27電波探知機を有しており極めて先進的な艦と言えた。
輸送潜水艦ではあるものの自衛用に魚雷発射管2門と魚雷2本を搭載。前甲板には14cm単装砲を、後甲板に25mm単装機銃を装備、この単装機銃は後甲板へ特型運貨船を搭載する際、邪魔にならないよう移動式に改められている。建造当初、発射管の前扉が剥き出しの状態であり、駆逐艦の全力航走に近い波を立てていたため、伊362艦長・南部伸清少佐の提案で艦首波を少なくするカバーをかけたが、それでも艦橋と潜望鏡の振動が激しく、双眼鏡が震えて見張りが非常に難しかったという。
ちなみに伊367は両舷の鋼管の数が最も多い特徴があるので潜丁型の中では見分けが付きやすい。
要目は排水量1440トン、全長73.5m、全幅7.05m、速力13ノット(水上)/6.5ノット(水中)、安全潜航深度75m、乗員55名。兵装は艦首魚雷発射管2門、魚雷2本、14cm単装砲1門、九六式25mm単装機銃2丁。回天母艦改装後は潜航中でも搭乗員が乗れるよう回天と艦内を繋ぐ交通筒を設置。また1945年以降は13号対空電探やシュノーケルの装備を行い、逆探を新型のものに換装した。
艦歴
輸送用潜水艦として
1942年9月に策定された昭和十七年度戦時艦船補充計画(通称改マル五計画)において、丁型一等潜水艦第5467号艦の仮称で建造が決定。1943年10月22日に三菱重工神戸造船所で起工、1944年4月28日に進水し、5月1日に伊6から転任してきた篠原茂夫少佐が艤装員長に就任、そして8月15日に篠原艦長の指揮下で竣工した。竣工と同時に訓練部隊である第11潜水戦隊に部署する。
1944年8月15日に竣工した伊367は当日中に神戸を出港して伊予灘へ回航、第11潜水戦隊と合流して慣熟訓練に従事する。8月27日、伊12や伊46とともに出動単独訓練を行い、それが終わると長浜東錨地に回航。輸送任務に駆り出された旗艦迅鯨の代わって八雲(装甲巡洋艦)を相手に訓練を行う。9月7日から9日にかけて別府に寄港して乗組員の休養を実施したのち、再び伊予灘で訓練の日々を送る。実戦投入の時が刻々と迫る10月6日に物糧揚塔訓練を実施して全ての訓練を完了。10月8日に呉へと入港し、出撃に向けた準備を開始する。そして10月15日に姉妹艦が所属する第7潜水戦隊へと転属。10月23日に呉工廠で艦内通風装置の設置工事を行った。完了後、第7潜水戦隊の司令部がある横須賀に回航。
10月31日、本州から約1800km離れた日本本土の最東端こと南鳥島へ糧食や弾薬等61トンを輸送するため、横須賀を出港。この頃になると本土近海にも平然と米潜水艦が出没し、去る9月16日には房総半島東方250海里で姉妹艦の伊364がシーデビルの雷撃を受けて沈没させられていた。本土から出撃するだけでも危険な付きまとう中、幸い伊367は敵襲を受ける事無く、11月6日に南鳥島へと到着。同島を守備する第109師団独立混成大隊第12連隊に運んできた物資を届け、11月12日に横須賀に帰投して最初の輸送任務を成功させた。11月15日、篠原艦長が伊8へ転属となり、代わりに伊54の水雷長だった武富邦夫少佐が二代目艦長に就任。
12月4日、81トンの糧食と弾薬を積載して横須賀を出港。今度の目的地は南鳥島から東南東へ更に約1400km離れたウェーク島であった。同島には第65警備隊約2000名が駐留していたが、マーシャル諸島の失陥により補給路が途絶してしまい、自活不可能な島内環境も手伝って南鳥島とは比較にならないほど彼らは飢餓に苦しめられていた。よって前々から潜丁型による輸送が細々と続けられていた訳である。12月17日に伊367はウェーク島に到着。島内に潜水艦が入港出来る港が無いため、環礁近くに停泊して大発動艇で取りに来てもらう方式を取り、たちまち伊367は守備隊の大発に取り囲まれた。艦内倉庫の副食類をベルトコンベアで迅速に運び出して大発に積載。次に上甲板でドラム缶を縛っているロープを切断し、潜航する事でドラム缶を海面に浮かせて荷下ろしする。最後にゴム製の防水袋に入れた糧食や医薬品を守備隊に渡して揚陸作業完了。守備隊のお腹を満たすには到底足りない量だがそれでも死を先延ばしにするには十分だった。
回天母艦として
回天母艦に転用出来る大型潜水艦の不足から潜丁型も回天母艦へ改装される事になり、1945年3月20日に第7潜水戦隊は解隊。伊367は姉妹艦ともども作戦部隊である第15潜水隊へと転属した。4月1日13時2分、呉に向けて横須賀を出港。航行中に八木式空中線昇降用索の換装、自動起用排出管制を改造型へ換装するなどの作業を行い、4月3日午前10時に広島市南区本浦へ到着する。4月11日に呉を出港して瀬戸内海西部へと回航。4月下旬頃に呉工廠で回天母艦になるための改装工事に着手。14cm単装砲と大発用舟艇を撤去して前甲板に2基、後甲板に3基の回天を搭載出来るようにし、魚雷発射管を装備して通常雷撃も可能にする。それと同時に13号対空電探、新型逆探、シュノーケルを新たに搭載。輸送用潜水艦から攻撃型潜水艦に装いを変えた。
4月23日午前に回天との最終連合訓練を実施して16時頃に呉へ入港するが、訓練の際に回天未搭載時に急速潜航すると大角度の俯角が生じる欠陥が発覚。艤装時からこのような傾向があったらしく、艦と回天を繋ぐ交通筒や特殊充電装置を装備してからは特に顕著になったという。呉工廠で修理を行うとともに翌日教練用魚雷を陸揚げ、それから間もなく燃料積載作業が始まって着々と出撃準備が進められていった。
回天特別攻撃隊・振武隊
伊36と伊47で編制された回天特別攻撃隊・天武隊は久々の「戦果」を報告。この戦果を高く評価した第6艦隊は、5月初旬に伊366と伊367の2隻で振武隊を編制して戦果の拡大を企図した。5月1日に大津島へ回航した伊367は、クレーン船の協力を得て2日と3日に回天の積載を行って発射訓練を行い、実用頭部を装着した回天5基を搭載。5月4日には沖合いで試験潜航を実施する。そして回天搭乗員の藤田克己中尉、小野正明二飛曹、千葉三郎二飛曹、岡田純二飛曹、吉留文夫二飛曹の5名が乗艦。
5月5日午前8時30分、乗組員と搭乗員が整列する中、第6艦隊司令の醍醐忠重中将から訓示と短刀の授与を受け、午前10時、短波マストに緋色の鯉のぼりを、潜望鏡に「非理法権天」の幟を掲げて大津島から出撃。艦の両舷には基地の舟艇に乗った全搭乗員が湾口まで同行、帽触れで伊367を盛大に見送ってくれた。豊後水道を抜けて太平洋に出た後はすかさず潜航。敵哨戒機に発見される事を防ぐため日中は潜航して進み、夜間のみ水上航行を行った。新鮮な外気を取り込めるシュノーケルのおかげで潜航中であってもバッテリーを充電する事が出来、汚濁した艦内の換気にも使えるため潜航時間が飛躍的に向上して隠密性を高めている。攻撃目標は沖縄とサイパンを結ぶアメリカ軍の補給路である。ちなみに、ともに出撃するはずだった伊366はB-29が敷設した磁気機雷で大破してしまったため、振武隊は伊367ただ1隻のみの出撃となってしまった。
厳重な警戒監視の賜物か敵に発見されないまま航海が続き、1日2回の発射訓練以外は実に平穏だった。ところが5月20日頃に猛烈な勢力を保つ台風と遭遇し、叩きつけるような波と風雨により甲板上の回天各部に浸水や損傷が発生、洋上で応急修理を行って一応の解決を見た。通路一杯に積み込んだジャガイモや玉ねぎを食べ尽くした頃にサイパン北西約450海里の配備点に到着して待ち伏せする。
乗組員たちは、死ぬ事が確定している搭乗員に対して最大限の配慮と心遣いを行った。夜間水上航行中にエンジンの冷却で得られるブリキ缶半分程度の蒸留水は全て搭乗員に提供され、彼らは何かと不潔な潜水艦内において毎日身を清める事が出来た。5月15日、18日、19日の3回に渡って水中聴音、あるいは浮上中に逆探が敵船団を捉えて「回天戦用意」の号令が下ったが、いずれも距離が遠くて潜望鏡では確認出来ず、一度も発射には至らなかった。号令を出すたびに搭乗員は別れを告げて回天に乗り込むため、発射を中止するたびに武富艦長は罪悪感で神経をすり減らしていった。訓練を積んだ艦長と言えど人の子、搭乗員の命を号令一つで消してしまえるその立場は、確実に艦長の心を蝕んでいった。また浮上したタイミングで運悪く敵哨戒機が飛来し、慌てて急速潜航するという肝を冷やす一幕もあった。
洋上での活動日数が20日を超えると回天に故障が多発する戦訓から、5月26日に第6艦隊から帰投命令を受ける。武富艦長は搭乗員を発令所に集めて帰投する旨を伝えるが、明日の5月27日は日露戦争でバルチック艦隊を破った海軍記念日という事もあり、搭乗員たちはもう1日索敵を続けて貰えるよう願い出た。死にゆく彼らの願いを無下にする事は出来ないと武富艦長は了承。北方へ50海里移動して作戦を続行した。その後、搭乗員は更に身を清めたいを要望を出し、洗面器2杯分の貴重な真水を受け取って狭い通路で体を拭った。
5月27日午前3時30分、北方約4万m先に敵船団を発見して午前4時より潜航。武富艦長は長時間に渡って回天発射に適した距離まで近づこうとするが、あまり近づく事が出来ないまま午前7時に回天攻撃を決断、「総員配置に就け」の号令と艦内ベルが鳴り響いた。厳しい訓練のおかげで準備に1分も掛からない。武富艦長は潜望鏡深度(水深18m)への潜航を命じ、海面に潜望鏡を出して水上の様子を確かめる。午前7時25分、満を持して「敵輸送船団発見、回天戦、魚雷戦用意」と発令所に集まった搭乗員5名に命令を下し、乗組員の激励を受けながら自身の棺桶となる回天に搭乗。先に入って発進準備を整えていた整備員と狭い操縦席の中で交代し、外に出た整備員が下部ハッチを閉めると同時に搭乗員もハンドルを回して回天内部を密閉する。それが終わると交通筒への注水が始まって水の流れる音が聞こえてきた。敵船団は十数隻の輸送船と護衛の駆逐艦によって構成され、沖縄方面に向かっている様子だった。午前9時、武富艦長は前甲板の2基に搭乗している藤田中尉と吉留二飛曹に「速力20ノットで14分間全没進出せよ」と進出針路を伝達、発進が直前に迫ったその時…整備員が作動させたはずの藤田艇の電動縦舵機が止まっていた。吉留艇も同様の故障に見舞われたため発進中止。
一方、午前9時13分から後甲板に搭載されていた千葉艇と小野艇が発進。続いて岡田艇も発進しようとするが故障により発進中止となる。これらの不具合は台風がもたらした浸水や損傷が尾を引いたものと思われる。最終的に伊367から発進した回天は2基、両艇の推進音は順調に聞こえていたが母艦から離れていくごとに小さくなっていき、午前9時51分に最初の爆発音が、その数分後に2回目の爆発音が轟いた。距離にしておよそ約2万m。アメリカ側の資料によると艦隊曳航艦スー(ATF-75)が回天1基を発見して40mmボフォース対空砲で撃沈したとある。他にも、この回天攻撃で米護衛駆逐艦ギリガンを撃破したとする資料が散見されるが、当時ギリガンは沖縄北西にいた上、回天ではなく双発陸攻の雷撃による損傷なのでこれは誤りである。爆発音を聴音した後、敵護衛艦艇からの反撃に備えるため直ちに深く潜航し、そのままの状態で北方への退避を開始。艦首の魚雷発射管室では通常魚雷2本を発射管に装填して発射準備を整えていたが結局使用せず、21時まで海中で息を潜め続けたのち浮上。5月28日より帰国の途についた。
散っていった彼らの努力を無駄にはしたくない――武富艦長は命中を確認していなかったが、命中と判断して第6艦隊に「艦種不詳2隻轟沈」と報告した。極度の緊張と回天搭乗員を死に追いやった罪悪感から心労が募ったのか、武富艦長が十二指腸潰瘍を患って倒れてしまう。艦を指揮する者が倒れた事、また帰路について昂った戦意をぶつけられる相手がいなくなった事で回天搭乗員が一時パニック寸前になってしまうが、これを軍医長の梶原貞信大尉が宥めて士気崩壊をギリギリのところで食い止めた。
6月4日午後に大津島へ帰投。連絡のため武富艦長が分遣隊の本部に赴き、回天の整備員もここで退艦。続いて光基地に回航して残った3基の回天を陸揚げする。搭乗員だけは第6艦隊司令部で開かれる報告研究会に出席するため伊367に残り、翌5日に呉へ帰港した際に退艦した。6月14日、病気で艦長業務に耐えられなくなった武富艦長に代わって元呂63艦長の今西三郎大尉が三代目艦長に就任。
回天特別攻撃隊・多聞隊
7月上旬、僅かに生き残った大型潜水艦である伊367、伊47、伊53、伊58、伊363、伊366の6隻で回天特別攻撃隊・多聞隊を編制。多聞隊は一線級の潜水艦を全て投入した大規模なものであり、これらの潜水艦を除くと、練習艦隊から引っ張り出してきた旧式の海大型くらいしか残っていなかった。乗艦する回天搭乗員は振武隊の時と同じだが、発進して散華された千葉・小野両名の補充要員として安西信夫少尉と井上恒樹一飛曹が新たに加わった。大津島にて回天5基を積み込んで出撃準備を整える。まず最初に7月14日に伊53が先陣を切って出撃してバシー海峡東方640kmの地点へ、続いて7月18日に伊58が出撃してパラオ北方840kmの地点へ向かう。
7月19日、グアム・沖縄間の敵補給路を攻撃するため伊47とともに大津島を出撃。荒天によって荒れ狂う波を蹴散らして沖縄南東約400海里の海域に向かった。7月27日に聴音手が推進音複数を探知。今西艦長が潜望鏡を上げるが、海上に荒波が巻き起こっている影響で水面2mにまで上げても視認出来ず、攻撃の機会を得られないまま見逃すしかなかった。敵船団は沖縄の方角へと去っていった。前回同様、昼間は潜航して過ごし夜間のみ浮上する方式が取られた。浮上中は夜間であっても敵哨戒機がすっ飛んで来るため13号対空電探による警戒が行われていた一方、砲術長が持つパラボラアンテナ式指向性逆探知器による警戒も行われ、敵機が放つ短波レーダー波をいち早く探知して哨戒網を巧みにすり抜けた。8月7日夜、砲術長が遠距離からの敵の電波を探知し、見つかる前に潜航退避。間もなく推進音が次第に接近してきた。潜航から45分後、敵の駆逐艦らしき2隻が頭上を通過、早めの潜航退避が功を奏して気付かれなかったようだ。ただ今晩は回天攻撃や雷撃に向かない闇夜であったためやり過ごした。
8月9日、第6艦隊司令部より帰投命令を受信。今西艦長は先任搭乗員の藤田中尉を呼んで帰投の是非を問うたところ帰投を拒んだため、艦長は搭乗員たちの心情を汲み、もう1日だけ哨戒を続ける決断を下した。翌10日も引き続き哨戒を行うも、重ねて帰投命令を受信。やむなく今西艦長は回天を全て残したままの状態で帰路についた。
8月15日正午、豊後水道の水ノ子灯台沖を通過中の伊367のもとに終戦を伝える玉音放送が届くが、雑音が酷くて内容を殆ど聞き取る事が出来なかった。その1時間後、玉音放送の内容を示した機密電報が入って今西艦長は終戦を知る。しかし今は帰投中であるため無用な混乱を避けるべく敢えてこの事を伏せた。夕刻に大津島へ帰投。搭乗員を上陸させ、クレーン船が甲板上の回天を吊り上げて艦から降ろし、諸作業が終わった後で今西艦長は乗組員一同を甲板上に集めて玉音放送の内容を、動揺が起きないように打ち明けた。8月16日午前8時、大津島を出港して呉に回航。伊367の戦いは終わった。
潜丁型11隻中、無事戦禍を免れて生き残ったのは僅か4隻だけだった。
海没処分
終戦時、連合艦隊が保有していた潜水艦は58隻(戦闘可能54隻、大破1隻、中破1隻、小破2隻)だった。軽巡酒匂、駆逐艦30隻、潜水艦54隻のみが連合艦隊の戦力となりえた訳である。
1945年9月、呉に進駐してきた連合軍に投降、10月頃に残余の潜水艦は佐世保へと集められた。海軍省の解体に伴って11月30日に除籍となる。残余の潜水艦はアメリカ軍の管理下に置かれるが、ソ連が潜水艦を調べようと調査団を送り込もうとしていたため、ソ連に解析される前に速やかな処分が必要となり、1946年3月26日にワシントンDCで行われた会議で海没処分を決定(ローズエンド作戦)。
4月1日、使用可能な装備と資材を取り外された伊367は米潜水母艦ネレウスに曳航されて佐世保を出発、五島列島沖まで移動する。13時10分に日本人乗組員が退避し、13時18分にC2爆弾を起爆して伊367を爆破処分。30秒以内に沈没していった。
関連項目
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