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伊6とは、大日本帝國海軍が建造・運用した巡潜21番艦である。1935年5月15日工。撃で空母サラトガを撃破し、連合船舶4隻(1万1621トン)を撃沈する戦果を挙げた。1944年6月16日に出港したのを最後に消息不明となる。アメリカ艦艇に撃沈されたとも、味方の豊丸に体当たりされたとも言われる。

概要

巡潜2とは航洋高速潜水艦こと巡潜1タイプ建造時から航空装と水上機運用を有した最初の艦で、その基礎設計は潜特まで続く巡潜の始祖的存在。ちなみに5も航空装を持っていたが就役後に追加されたものである。法令上は1(巡潜1)の6番艦。

第一次世界大戦においてドイツ帝国世界最高の潜水艦技術を有しており、終戦後は戦勝がこぞって技術の取得を狙った。大日本帝國も例外ではなく、大戦後期に登場したU-142(巡潜)とU-117(機敷設)に興味を持った事でその設計図を入手、更に独ゲルマニア社に所属する主任設計者ハンス・テッヘル博士を招いて潜水艦技術を学んだ。こうして誕生したのが巡潜1であり、帝國海軍が待ち望んでいた高い攻撃と長大な航続距離を併せ持つ理想的な潜水艦に仕上がった。

次に帝國海軍は巡潜1良に着手。ドイツ式だった巡潜1の設計を日本式にめ、機を純産の艦本式1号甲7に換装して最大速を21.3ノットに向上させるなど、外色の強かった巡潜1日本色に染めていった。ちなみに艦本式ディーゼル大六にも搭載されているが伊6の方が先だったため初めてディーゼルエンジンを積んだ潜水艦となった。ただ性が安定していなかったらしく前級の巡潜1べて航続距離が4400里も減少している(それでも長大なのは変わりないが)。他にも間潜望と複式水中信号機を新たに装備し、MV式聴音機の受信機を九一式特三号受信機に換装。

巡潜1(5)が後付けで搭載した射出機を建造時から装備しており、魚雷格納庫の容積と甲を減らして艦後方に航空機格納筒2基を設置し、水上機の運用を付与した。航空機格納筒を半引き込み式にする事で水中抵抗を減らす工夫も凝らしている。とはいえ水上機を保有した最初の艦だけあって運用は試行錯誤の連続だった。艦後方に射出機を装備した弊で、水上機を発進させるには後進しなければならない手間が浮き彫りになるも、伊6が示した欠陥は後の建造に活かされ、後発の巡潜は射出機を艦前部に設置している。魚雷格納庫の容積を減らした弊魚雷搭載本数が20本から17本に減少。純な攻撃は巡潜1より劣ってしまった。また殻の対弾防御をした結果、巡潜1より排水量が軽くなっている。

計画では巡潜2を量産するはずであったが、マーシャル諸島方面で演習を行った際に日本本土からの作戦通信が途切れ途切れにしか受信できない事が判明。急遽通信機に優れた旗艦用潜水艦(巡潜3)がめられるようになり巡潜2は僅か1隻のみの生産で終わってしまった。

排水量1900トン、全長98.5m、全幅9.06m、最大速21ノット(水上)/7.5ノット(水中)、燃料搭載量580トン、乗員68名、安全潜航深度80m。武装は12.7cm1基、13mm単装機1丁、53cm艦首魚雷発射管4門、同艦尾魚雷発射管2門、魚雷本数17本、九一式水上偵察機1機、1号3射出機1基。

大東亜戦争開戦時は二線級の性だったが最前線で活躍。開戦劈頭に空母サラトガ撃してドック送りにした事でアメリカ軍は最も苦しい時期にサラトガを使えない事態に追いやられた。通商破壊で4隻の連合船舶を撃沈し、数多くの困難な輸送任務を成功させた。東はハワイ、西はアラビア、南はブリスベーン、北はキスカ島太平洋を縦横尽に駆け巡った武勲艦と言えよう。

艦歴

鋼鉄の敵巨大空母に傷を付けた巡潜型の始祖

1931年ロンドン海軍軍縮条約下で策定された第一次補充計画(通称マル一計画)において巡潜2一等潜水艦の仮称で建造が決定。1932年10月14日川崎重工神戸所で起工、1934年3月31日進水式を迎えて多くの来賓が招かれたが、機密保持のため艦首及び艦尾方向と正横からの撮が禁じられていた。同年8月25日試で21.3ノットを記録10月15日に運転用のボルネオ産重170トンの補給を受け、1935年5月15日工を果たした。横須賀鎮守府に所属するとともに準姉妹艦の3や4と第1艦隊第1潜戦隊第8潜隊を編制。

1935年8月1日午前8時戦隊の投射標艦となるべく伊勢湾内を出港し、午前10時14分に定位置について潜航を開始する。14時16分、駆逐艦に発見されたため深20mに潜航、は右舷側を通過して伊6の後方で爆雷を投射し始めた。10分後、は左舷方向から急接近してきたため、出していた潜望を下げようとした14時27分、第2潜望体と接触。の通過を待ってから浮上し、被害状況を確認すると潜望上端の折損が見られ、側にも士官糧食庫と艦底に浸が発生した。幸い両艦ともに航に支障はく、事故後に伊6は横須賀修理を受けた。

1936年6月イギリス海軍武官がの見学に訪れた。この時、第1渠には伊6が入渠中であり、海軍事務局は呉鎮守府長官に航空装の存在を漏らさぬよう念押ししている。7月には試験的に九六式水上偵察機を搭載。10月29日神戸で行われた特別大演習観艦式に参列し、西第五列にした。

1937年3月27日1、2、3、4、5とともに佐世保を出港。付近で訓練に従事した後、4月6日有明湾へ帰投して訓練航了させる。しかし風雲急を告げる極東情勢は伊6を災いの渦中へと引きずり込んだ。8月13日夕刻、ドイツ製の最新鋭武器に身を包んだ中国国民党軍の精鋭部隊3万が日本軍守備隊4000名と邦人に襲い掛かり戦闘が勃発(第二次上海事変)。数に劣る守備隊は苦戦を強いられる。窮地の守備隊を援護するため本土から続々と増援が送られる事になり、8月21日に多度から出発する戦艦陸奥榛名霧島軽巡五十鈴等を巡潜15隻とともに護衛した。9月に入ると第1潜戦隊中国沿上封鎖を担当する第3艦隊に編入され、潜水母艦長とともに香港を拠点に華南の監視任務に従事。1938年頃まで香港に留まっていたが、支那事変勃発に伴う際的緊を緩和するために一部兵を内地帰投させる事になり、第1潜戦隊12月香港から引き揚げた。12月15日横須賀へ帰投した伊6は第2予備艦となる。

1939年4月1日より横須賀学校練習艦となって学生に実習の場を提供11月1日に九六式25mm連装機を装備。1940年11月15日、第8潜隊は第6艦隊第2潜戦隊に編入されて第一線に復帰。格納庫水上機航空装を撤去され、と同じ潜水艦となった。

1941年1月31日稲葉通宗少佐が艦長に着任。戦争の足音が迫ってきた9月1日、第8潜大佐が着任し、伊6に将旗を掲げて潜水艦となる。11月5日の御前会議にて対開戦が決定するとともに大海1号が発され、第6艦隊は開戦劈頭より潜水艦ハワイ及びアメリカ西海派遣して偵察、監視、奇襲、交通破壊が命じられた。開戦の確定があまりに性急だったため第6艦隊では準備に追われ、出撃に間に合わせるべく11月8日に先遣部隊を概成、11月10日には旗艦香取艦上にて艦長を集めたハワイ作戦の説明があり、稲葉艦長が出席している。

11月16日13時4、5、7とハワイ作戦支援的で横須賀を出港、ハワイ方面に向かう。敵の圏を避けるためアリューシャン列島・ミッドウェー間の域を通過し、12月1日頃に配備点であるオアフ300里圏内北東に到着した。12月2日、日開戦不可避を意味する「ニイタカヤマノボレ」の暗号電文を受信。これは同時に8日以降軍事作戦が始まる事も意味していた。伊6がハワイに潜んでいる間にも、択捉島を出撃した南雲機動部隊が荒に紛れてハワイ北西から接近し続けており、港内から脱出してくるであろう敵船舶を攻撃するため、伊6はカイウイ北方を警する。未曾有の戦争はもうの前まで来ていた。

大東亜戦争

1941年

1941年12月8日ハワイ北方から飛び立った南雲機動部隊艦載機真珠湾を攻撃していよいよ大東亜戦争が勃発。ハワイを取り囲むように展開している潜水艦隊には敵艦隊の捜索と港内から逃げ出してくる敵艦への攻撃が命じられた。

12月10日午前8時40分、モロカイ北方カイウイを東航するレキシントン空母(エンタープライズの誤認)、重巡洋艦2隻、駆逐艦若干数からなる敵機動部隊を発見。20ノットの速で北東に向かっている様子だった。稲葉艦長は攻撃を試みようとしたが、敵の警厳しく潜航を強いられ、数時間後に何とか浮上して敵空母発見の報と位置情報をクェゼリン所在の第6艦隊に通報。第6艦隊は敵空母西海に向かっていると推測し、同日16時50分に潜水艦9隻に追撃命を出した。一方で伊6はハワイに留まってカウアイ峡を監視すべくオアフの南へ移動。

12月27日、数日前の魚雷定期点検中に負傷した科員が敗血病で死亡してしまったため、水葬された。

1942年

1942年1月10日、クェゼリンからハワイの監視配備へ向かっていた18は、ハワイ西方880kmでレキシントン空母を発見したと通報。第6艦隊はハワイ方面に配備中潜水艦から7隻を抽出し、一線に並んで進みながら捜索する掃航索敵を命する。本来伊6は参加の予定はかったが、1が機関故障を訴えて脱落したため、急遽埋めに入るべくオアフ南方区を出発。1月12日よりジョントン北東から西進を開始した。この日、見り員は中の敵艦上機を5回発見し、航長が敵機の飛行コースから敵空母が潜んでいると思われる域を割り出した。だがここで伊6を悩ます一つの問題が浮上してきた。燃料の不足である。他の巡潜べて航続距離が短い欠点が悪い形で表面化しつつあり、以降稲葉艦長は残り燃料に注意を払いながら揮を執らなければならなくなった。

1月12日14時51分(現地時間18時41分)、ジョントン東北東60度270里にて伊6は駆逐艦を発見して急速潜航。間もなく右舷側に14ノットで航行する巨大なる鋼――空母サラトガ巡洋艦1隻、駆逐艦1隻が夕陽を背に姿を現した。伊6側は宵闇に包まれているため発見される恐れがい、言わば良好な撃位置と言えた。しかし敵空母は高速で移動していて潜航中の伊6にはとても距離が詰められない。発射管に装填されている八九式魚雷の射程距離は7000mであったが、命中を期するには最低でも1500mまで薄しなければならず、このままでは何も出来ないまま逃げられてしまう。サラトガの針路変更で偶然距離が縮まった事はあれどやはり状況は好転しない。ここで稲葉艦長は一か八かの賭けに出る。

15時41分、距離4300mからサラトガに対して八九式魚雷3本を発射。本来は4本発射するはずだったが発射管の故障で1本発射に失敗した上、遠距離からの撃だったため乗組員は命中を絶望視していたのだが、やぶれかぶれの攻撃が見事実を結んだ。発射された魚雷1本がサラトガの左舷中央部に命中したのである。鋭利なる一撃に鋼が揺さぶられながら苦痛の呻きを上げる。生じた破孔から1100トンが流入し、内部の防ませ、12個ある機関室のうち3つを満させ、機関科員6名を戦死に追いやって洋上停止させる。伊6の聴音手は2回の大きな爆発音と、続いて一連の小さな爆発音を聴いた。

撃から7分後、護衛の駆逐艦が迫ってきて爆雷を投下してきたが、正確な位置を掴めなかったようで伊6は100mまで潜って難なく回避に成功。22時以降に浮上してレキシントン空母撃沈を報告した。面には残骸の類は確認されなかったが、それでも大佐や先任将校などが「あの爆発音は火庫の誘爆かもしれない。敵空母は確実に沈没しているぞ」と楽しそうに談義し、大本営海軍部もレキシントン級の撃沈を表して新聞にも掲載された。伊6の快報は、ハワイ作戦イマイチ戦果が振るわなかった潜水艦部隊元気付け、帰投時に稲葉艦長と伊6乗組員は采を以って出迎えられたという。しかしレキシントン級は元々戦艦だけあって非常に堅であり、大破で踏みとどまった後、伊6が潜航している間に自真珠湾まで帰投。だが伊6の攻撃は決して駄ではなかった。サラトガ修理に4ヶを要してミッドウェー海戦終結後の7月まで復帰出来ず、限定的とはいえ太平洋から敵空母1隻を減らせたのは特筆すべき戦果と言えた。のちにサラトガ真珠湾に入港したとの報告を受けて大本営は戦果を撃破にめている。

サラトガを撃破した日、伊6は撤を命じられて帰路に就き、1月22日マーシャル諸島潜水艦基地クェゼリンに帰投。燃料が僅か800リットルしか行っていなかったという。燃料補給を受けたのち1月24日に出港し、2月2日横須賀へ入港して入渠整備を受ける。だが次なる作戦が伊6を戦場へといざなう。2月8日、第2潜戦隊部隊に編入され、今なお東南アジアで続く作戦支援するべく南東方面をエリアに割り当てられる。

2月13日、第8潜隊旗艦の座を4に継承して横須賀を出撃。2月22日にセレベス南東ケンダリースターリング湾に到着し、翌23日午前8時姉妹4や5とともに出港するが、2月25日午後12時30分、東ティモール西方5と航行中に九八式偵察機と遭遇。味方機なので伊6側は特に警していなかった一方、偵察機は両艦をオランダ軍の潜水艦と誤認して通報アンボンから飛び立った9機の零戦が機掃射を浴びせてきたため潜航退避を強いられた。幸い伊6は傷で済んだが5は信号弾が暴発して損傷を負い、応急修理的でクーパンに向かった。スマト西作戦に従事したのち3月8日にペナンへ寄港。

3月14日南雲機動部隊によるインド洋機動作戦に先立ち、1を除く第2潜戦隊の艦はインド洋の偵察を命じられ、これに伴って伊6は3月26日にペナンを出撃。ボンベイの西方からモルディブ北方区に定めた。翌27日、同盟ドイツからインド洋での通商破壊を要請され、偵察に加えて敵船舶攻撃も担う。稲葉艦長は同期の木少佐から教えられた商マストを利用した襲撃法を実行。3月31日16時35分、モルディブ北方で伊6は敵を発見して追跡。距離を詰めて魚雷を発射しようとした直前で英病院ヴィータだと判明したので攻撃を中止した。

4月2日午後、アラビアボンベイ南西300里で3655トンの貨物と1027トン爆発物をコチンに運んでいる英貨物クランロス(5897トン)を発見し、高速で接近したのち有利な位置で急速潜航。17時14分、約1500mから2本の魚雷を発射、1本が左舷中央部に命中して尾から沈んでいった。生存者に尋問を行うべく浮上した伊6は救命ボートの一つを捕まえて情報を聞き出す。この時、稲葉艦長はイギリス人乗組員の態度に感銘を受けたようで尋問を終えると通訳の軍医長がビスケットを与え、ボンベイの方角を教えるとともに手すきの乗組員が後甲に並び、生存者に敬礼しながらフランス語で「良いを」を意味するボン・ヴォヤージュと叫んだ。

4月7日19時ボンベイの北西170里で区の移動準備をしていた伊6はボンベイからイラクバスラに向かっている英貨物バハタール(5424トン)を捕捉。直ちに潜航して魚雷4本を扇状に放つが、バハタールは跡をいちく発見して右へ急回頭し回避。全速で逃走するバハタールに対し、次に伊6は艦尾魚雷発射管から2本を発射したが、これも外れてしまう。このままでは逃げられると考えた稲葉艦長は浮上して水上追跡に切り替え、距離6010mから甲を発射しようとするも1発を発射したところで莢の排出に失敗して故障、相次ぐ不運に伊6は狩りを諦めて潜航退避を開始した。するとバハタールは潜水艦が去ったと油断したのか速を下げ、ボートを降ろし始めた(伊6が沈没したと勘違いして生存者を救おうとした説がある)。その隙を突いて2本の魚雷を発射し、左舷側に命中して22時20分に尾より沈没4月10日午前8時15分、ボンベイの南西300里で浮上し、甲150トン帆船2隻を撃沈。4月17日シンガポールのセレター軍港へ帰投した。第2潜戦隊全体の戦果は貨物5隻と機帆船4隻撃沈、貨物1隻大破であった。

4月21日、内地帰投のためシンガポールを出港し、5月1日横須賀に到着して6月6日まで入渠整備を受ける。その間に中村省三少佐が艦長に着任して稲葉前艦長と交代した。機動部隊アリューシャン方面に進出する算大と判断され、6月9日、迎撃のため第2潜戦隊北方部隊に編入。本来伊6の出撃は見送られるはずだったが北方部隊からの命で参加が決定。

6月20日5とともに横須賀を出港して北東方面に向かう。翌日東方50里で特設巡洋艦田丸から誤射を受けるハプニングがあったものの、アリューシャン列島ダック方面の配備点に到着。ここは流氷が支配する極寒域であった。伊6が到着した頃には既にアリューシャン作戦了しており、ダッチハバー襲した第二機動部隊は撤収済み、アッツ島キスカ島の占領も問題なく実施された。しかしアリューシャン方面には少数ながらも旧式の潜水艦が活動していたため決して安全な場所とは言えず、また占領した両への補給の妨も想定される事から伊6は任務を開始、しかし濃霧不良に阻まれて有効なとは成り得なかった。6月30日に第1潜戦隊が撤収したアリューシャン方面に展開中の潜水艦は第2潜戦隊所属艦のみとなる。

7月7日、伊6はキスカ防備への協を命じられて同へ移動しつつ7月20日に第2潜戦隊アリューシャン方面からの撤収を下されたが伊6のみ残留を命じられて任務を続行。7月29日、偵察の九七式飛行艇がアトカナザン湾に敵水上機母艦の停泊を認めて報告、伊6がその調に向かったが何も発見出来なかったためそのままキスカ島に向かった。8月7日、敵重巡インディアポリスを基幹とした第8.6任務部隊キスカ島撃。湾内で停泊中だった伊6、呂61、呂64、呂68の4隻は潜航退避を行って難を逃れた後、上陸中の乗組員を呼び戻して第8.6任務部隊を追撃するべく出撃、翌8日まで追いかけたが敵情を得られずキスカに帰投している。8月15日にようやく帰投命が下り、8月17日キスカ島を出発、中の8月20日に第2潜戦隊が解隊となったため5ともども第7潜戦隊へ転属、そして8月23日横須賀へ入港した。

8月24日より九六式魚雷の発射実験に協したのち9月10日横須賀海軍に入渠。防加工された2隻の大発動艇を搭載するための装と、魚雷発射管を機敷設用に改造する工事を受けた。その間に乗組員は上陸してゆっくりと羽を伸ばす。人事異動で若干入れ替わりこそあったものの中堅下士官の異動はく練度の低下は避けられた。

1943年

1943年2月16日午前10時10分、伊6は大発を積載して横須賀を出港。2月23日午前10時15分にトラックへ到着し、同日遅くに第7潜の視察を受けた。元々はガダルカナル島の将兵に対する補給任務で大発を使用するはずだったが、伊6がトラックに進出した時点でガからの撤退作戦が終わっていたため、使用する機会を逸してしまった。代わりに2月25日、伊6と伊26オーストラリアでの通商破壊及び機戦を命じられる。2月26日に不必要になった大発を降ろし、特設潜水母艦日栄丸から弾薬と燃料を補給、2月28日午前8時から15時までウマで試験航を行った。

3月2日16時ドイツ製TMC磁気機9発(1942年7月横浜停泊中の独封鎖突破ドッガバンクから譲渡されたもの)を積載してトラックを出撃し、セントジョージ峡を南下してオーストラリアに向かう。ところが3月8日メルボルンに拠点を置く連合軍の通信解析部隊FRUMEL(フルメル)は伊6の出港を察知してオーストラリア船舶に警告を発した。そうとは知らず3月11日正午に伊6はブリスベーン北東110kmに到着して通商破壊を開始。同日17時15分にリバティ船らしき1万トン級の商を発見、18時44分に2本の魚雷を発射したがいずれも命中しなかった。商の方も撃には気付かなかったようで攻撃に関する報告を行っていない。

3月12日、機の敷設場所を決めるべくモートン湾、ブリスベーン、カラウンドラヘッドを潜航偵察。出入りする船舶に警備艦の類は見られなかった。3月13日13時35分、カラウンドラヘッド北東で機戦の準備に取り掛かり、まず九九式測深儀で深を測定、18時50分から19時14分にかけてブライビー北方にて海岸から6里圏内の24~34mの深に艦首魚雷発射管から磁気機を射出して敷設。任務を終えると伊6はノーストラドブローとフレーザーとの間でを開始するが、FRUMELの暗号解析により連合軍は沿砲兵隊に警を呼び掛け、からはオーストラリア空軍アブロ・アンソンとブリストルビューフォートが。敵機の時間の増大で日中は潜航を強いられた。それでも3月14日から16日まで敵に見つかる事通商破壊任務を続けた。

3月17日14時30分、サンディの南東で掃コルベットジンピーに護衛されたリバティ船2隻からなるBT-44団を発見。15時7分、リバティ船チャールズ・C・ジョーンズを狙って八九式魚雷2本を発射するが、4分後にジョーンズの後方18mを通過して外れた。すかさず2隻のリバティ船は別々の方向へと逃げ始め、ジンピーに警告を促すべく伊6に発。更に上を旋回していた空軍第71飛行隊所属のアブロ・アンソンも跡を確認して推定位置発煙筒を投下し、ジンピーとアンソンから同時に捜索を受けるという窮地に追いやられる。そして15時32分にアンソンから1発の爆雷が投下されるも回避に成功。そのまま追っ手からも逃れられた。20時22分、虎口を脱した伊6は浮上してトラックに状況報告を行う。しかしこの通信をFRUMELに傍受され、すぐさまアメリカ海軍艇2隻が現場域にすっ飛んできて翌18日の日まで底的に捜索されたが、幸い見つからずに済んだ。

3月21日バイロン中の伊6のもとにラバウルへの帰投命が下り、オーストラリア東海から撤収。同日19時33分に状況報告を送信するがこれを再びFRUMELに傍受される。帰投ルート把握した連合軍は伊6を確実に葬り去るべく、中にスティングレイハリバットトリガーの3隻を待ちせさせたが、巧みにすり抜け3月27日午前7時30分にラバウルへ入港。ちなみに伊6が敷設した磁気機暗号解析を以ってしても連合軍に位置を把握させなかったが、前情報の不足から敷設した場所は船舶ど通らない域であり、残念ながら交通に何ら悪を与えるものではなかった。発覚したのは敷設から11日後、掃海艇ジンピーがイギリス空軍ロッキード・ハドソンを相手に対演習している時だった。放たれた弾や破片がへ落下した際に偶然機爆発して高さ122m幅40mの柱を築いたのである。機が敷設されている事に気付いたジンピーによって9月までに掃了した。

3月29日、伊6が属する第7潜戦隊は南東方面艦隊へ転属。ビスマルク戦で大敗した帝國海軍水上艦によるラエ補給を断念し、代わりに潜水艦による作戦輸送を立案。伊6の南東方面艦隊異動もこれに呼応するものだった。4月2日午前7時30分から午前11時40分まで、伊6は武器弾薬衣服22トン、15.4トンの食糧、便乗者33名、77個の補給用ドラム缶の積載作業を実施。

4月3日午前8時50分、ラバウルを出港。補給を断たれて物資不足に苦しめられている第51師団8000名を援護するためニューギニアラエに向かう。ポートモレスビーから飛来するB-17や敵哨戒機が上をくまなく飛び回り、上にはPTボートが遊しているなど中は危険で満ち溢れていた。どうにか敵の監視網を掻い潜って4月5日午前4時33分にラエへ到着、日中の揚陸作業は敵に見つかる恐れがある事から潜航してやり過ごし、宵闇に包まれた18時13分に浮上、19時より大発動艇に貨物や便乗者を乗せて揚陸作業を開始。それが終わると歩兵第41連隊の軍旗や陸兵4名及び便乗者25名を乗艦させ、20時3分にラエを発った。出発から20分後、180度方向に中のPTボートを発見して潜航退避を行い、1時間潜ってやり過ごす。4月7日午後12時42分に危なげもラバウルに帰投。そしてすぐに次の輸送任務のため4.4トン弾薬武器類、19トン衣服ドラム缶77個、便乗者26名の積載作業が始まる。

4月9日午前8時15分にラバウルを出発して再びラエに向かう。同日13時56分、オーフォード21里の地点で敵機から爆撃を受けて潜航退避、幸い被害皆無だった。4月11日午前0時20分、タミ130度で右舷に敵機が出現したため潜航、午前0時46分に浮上するも爆音を探知して再度潜航を強いられ、浮上後の午前1時24分にも右舷側に反航する敵味方不明機が確認された。四苦八苦の末、19時28分にラエへ便乗者と物資を揚陸、帰り道は便乗者42名を乗せて20時16分に出発する。4月13日午後12時46分、ラバウルへ帰投した。

4月15日午前7時55分、4トン武器類や弾薬、17トン衣服、77個のドラム缶、28名の便乗者を載せてラバウルを出港。3回の補給任務に臨む。翌16日午前0時22分に打ち上がった照明弾を確認して急速潜航する一幕があったが、4月17日18時50分よりラエへの揚陸作業を開始。帰路は39名の便乗者を乗せた。23時20分、タミ諸付近でPTボート数隻を確認したため潜航退避でやり過ごし、4月19日午前11時5分にラバウルに入港。給油艦鳴戸より燃料補給を受ける。翌日は丸一日使って整備を行った。4月21日アリューシャン方面を担当する第5艦隊に転属し、アッツとキスカへの補給任務を担当する事になったが、引き続きラエ輸送に邁進するべく当面の間は延期となる。

4月22日午前7時53分、弾薬1トン衣服16トン、食糧16トンを内包したドラム缶を積載して出港。日中は潜航して進み間のみ水上航行を行った。針に糸を通すように警網を突破し、4月24日18時27分、ラエへの揚陸作業を開始。42名の便乗者を収容して19時40分にラエを出発、4月26日午前10時30分にラバウルへの帰投を果たし、潜水母艦長から15トンの潤滑を供給してもらった。

4月28日午前8時25分、5回の輸送任務のためラバウルを出港。4月30日午前0時15分にPTボートの航跡らしき波を確認して一時転、同日18時30分よりラエへ3トン武器弾薬類、19トン衣服、1トンの食糧を持つ30名の陸兵を揚陸し、41名の便乗者を収容。19時12分に出発する。連続で補給任務を成功させる伊6だったが連合軍も徐々に対策を練り始め、ラエ5らせているPTボート数隻を発見、1時間潜航して逃れた。また23時30分にタミで往路の5とすれ違っている。5月2日午前11時18分、ラバウルに帰還した。5月3日午前7時45分から午前10時20分まで兵器2.8トン弾4トン衣類13トンドラム缶77個の積載作業を実施。

5月4日15時20分、便乗者10名を乗せてラバウルを出発、16時17分に港外で20分間の潜航試験を行ったのちラエに向かった。中の5月5日午前4時41分に潜航してみたところ後甲で固縛していたドラム缶の一部が流失してしまう。16時27分に浮上した伊6は17時に上層部へ輸送中止を具申したが、返答がかったため続行、5月7日午前4時39分にラエへ到着して明けとともに潜航。になるのを待つ。そして17時48分に浮上し、18時8分から37分間の揚陸作業と便乗者10名を上陸させ、潜航してドラム缶を放った後、水上航行で離脱を図った。5月9日午前11時34分、ラバウルに到着。

7回の補給でついに伊6も攻撃を受ける事になった。5月11日午前8時50分、ラエに向けてラバウルを出発。出港から約6時間後の14時32分、フォー26里でB-17爆撃機を視認して潜航退避し、15時11分に浮上。また5月12日23時30分から20分間、フィンシュハーフェン方向に照明弾を確認、ただ伊6を狙ったものなのかは不明だった。そして5月13日18時50分よりラエに11.5トン武器、5トン弾薬、9トンの食糧、便乗者10名を揚陸し、4名の便乗者を乗艦させた後、いつものように帰路についた。19時42分、ラエから10里離れた地点で伊6は敵航空機を発見。20時45分には第7潜戦隊は前日伊121がスルミ南方で敵機に発見されたとして伊6と5に揚陸時の対を厳重にするよう警告を受け、続いてクレチン見り所やサラモア通信基地等から敵味方不明機の出現や魚雷艇爆音を確認したという不穏な情報が続々と寄せられる。そしてそれらの情報は間もなく正しかったと明される。

5月13日22時37分、サラモアの90度24を12ノットで水上航行中にPT-150とPT-152の2隻に捕捉される。伊6を仕留めようとPTボート距離5500mから2本の魚雷を発射。相手は魚雷艇と言えど油断ならない敵である。何せ準同艦の3はPTボートにやられたのだから。自身に伸びて来る跡に素く気付いた伊6は艦を急停止させ、命中するはずだった2本の魚雷い尾を引きながら前方を通り過ぎていった。PT-150は3700mまで薄したのち更に1本の魚雷を放ってきたが今度は急発進して回避。2隻のPTボートは伊6と並走しながら追い越し、反転して再度迫ってきたが、その隙を突いて急速潜航に成功。標を見失って洋上停止するPTボートに向けて反撃の魚雷1本を放つもPT-150の浅すぎる艇首下を通過して外れた。もし相手が駆逐艦以上の大艦であれば命中していたという。

PTボートとの戦闘から一夜明けた5月14日午前11時9分、伊6と5はオロ湾への襲で撃墜された第751航空隊の一式陸攻搭乗員の救助を命じられ、14時43分より移動を開始。味方航空機の誘導を受け、15時30分にブイで漂流中の不時着機を発見、救命艇に横付けして搭乗員5名を救出した。見当たらない2名は戦死して既に水中していたという。彼らは大小の傷を負っていて兵員室で治療を受けたが、話によると他にもう1機不時着しているらしく、搭乗員救助のため東方へと向かう。だが間もなく捜索が困難になるを迎えたため一時ラバウル方面に退避し、翌15日午前5時よりスルミ南方50で捜索再開。午前10時35分に味方の陸攻7機と戦闘機10機からなる捜索隊を視認。しかし午前11時39分、7機編隊の敵機と遭遇、このうち1機が伊6に撃を浴びせてきて12cm双眼鏡と舷外電路が浸員1名が軽傷を負う被害を受けつつも潜航退避に成功。17時50分に浮上して4時間に渡る捜索を行ったにも関わらず搭乗員を発見出来ず、22時に中止命を受領して帰路に就き、5月17日午前6時12分にラバウルへ入港。救助した搭乗員5名のうち4名は南東方面艦隊に預けられ、骨折の重傷を負っていた1名は病院へ搬送された。続いて海軍第8工作部で浸した双眼鏡と舷外電路の修理を行う。

5月19日午前8時45分、兵器5.1トン弾薬5.4トン、食糧4.6トン、便乗者31名を積載してラバウルを出港。同日午後12時50分、オーフォード34里で敵味方不明機を発見し、およそ50分ほど潜航してやり過ごす。それ以外は何事もく、5月21日午前4時27分にラエへ到着して潜航。の帳が下りるのを待ってから17時37分に浮上、20分後より揚陸作業を行って便乗者40名を収容、18時35分に全ての工程を終えて水上航行で帰路に就く。5月23日正午ラバウルへ到着し、給油鶴見より燃料補給を受ける。翌24日午前1時4分から午前2時50分まで敵の襲を避ける的で潜航退避。

5月25日15時20分、大発1隻と武器及び医薬品4.3トン衣服2トン、23名の便乗者を載せてラバウル出発。中の5月27日海軍記念日を迎え、潜航中の午前4時58分に伊勢神宮拝式を挙行した。5月28日17時41分にラエで浮上、18時10分より揚陸作業を始め、便乗者を乗せずに19時11分に出発。この9回の輸送任務を以ってラエ輸送は終了となりラバウルではなくトラックへと向かう。5月29日午前4時52分から17時16分まで潜航して敵制圏内の危険なダンピール峡を突破、そして6月1日午前6時22分、トラックの南を通って錨地に到着。乗組員には束の間の半舷上陸が許された。本土で本格的な整備を受けるべく6月2日トラックを出港、6月8日横須賀へ帰投して入渠整備を受ける。

伊6がラエ輸送に身を投じていた5月11日から30日の間、北洋のアリューシャン方面ではアッツ島の戦いが行われ、連合軍の上陸と攻撃により同の守備隊が玉砕してしまう。退路を断たれる形となったキスカ島の将兵を撤収させるべく、新鋭の巡潜甲から旧式のに至るまで内地所在潜水艦がかき集められ、濃霧に紛れながらの撤退作戦が始まった。6月28日の機密北方部隊部隊作第2号で伊6並びに5は第1邀撃隊に編入され敵艦隊攻撃を担う。整備が終わった7月1日、第7潜隊は第5艦隊へ編入。

7月2日キスカ島撤退作戦支援するべく5とともに横須賀を出港、北東方面の拠点となっている片岡湾を経由して1年ぶりにと氷の世界へ舞い戻った。しかし伊6が進出した時には潜水艦による撤収は断念され、代わりに高速な水上艦による救助が試みられている状況だったため、7月10日よりキスカ島北北東のベーリング任務に就き、敵艦を発見した時には通報する役割を担う。7月17日から19日にかけて3隻の駆逐艦を発見するが攻撃はわなかった。7月28日木村昌福少将率いる救出艦隊がキスカ湾に突入して守備隊を収容、筵まで連れ帰った事で撤退作戦は成功に終わり、8月4日に伊6も筵へ帰投した。8月16日キスカ島で敵の通信が傍受されたため攻撃の的で筵を出撃、実際アメリカ軍人となったキスカ島に上陸しているところだったが不運にも敵艦を捕捉出来ず、9月3日筵へ帰投。キスカ島からの撤退を以ってアリューシャン方面の戦線が消滅、これに伴って9月5日筵を出発して内地へ向かい、9月10日横須賀へと帰投。と氷の世界に別れを告げた。

10月25日に伊6は南東方面艦隊へ転属。再びニューギニアビスマルクへの輸送任務に臨むべく、10月30日横須賀を出港してラバウルに向かった。今度の的地はニューギニア北東部シオ。連合軍の跳梁により現地の守備隊は慢性的な食糧不足に陥り、自生しているバナナや木の根を食べなければならない惨状が引き起こされ、また連合軍侵攻の兆も見え隠れていたため補給が急務となりえた。ラバウルで物資を積み込み、11月16日12月4日にシオへ送り届けた。しかし三度の補給のためシオを訪れた12月18日、同地は連合軍の上陸を受けて戦場と化しており、上から飛来した敵機の襲撃で揚陸作業半ばで退避しなければならなかった。戦場となってもなお輸送は強行され、12月27日火を掻い潜ってシオへの揚陸を了。にシオを出発したが、中でPTボートに発見されて爆雷攻撃を受けたり、同日午後に敵機から攻撃されるなど連合軍の猛攻に曝される。

何とか傷で切り抜けたのも束の間、今度はグロスターで発見された敵団への攻撃を命じられ、魚雷2本だけを武器ダンピア峡を遊。しかし敵団は見つからなかった。

1944年

1944年1月1日ダンピア峡からラバウルに帰投。戦闘生起によりシオ輸送が困難になったため、今度はニューブリテンイボキへの輸送任務に従事する事となり、ラバウル所在の伊6、伊16伊36177、181、呂104、呂105、呂106、呂109の9隻が参加した。ギルバート作戦で生じた6隻喪失という甚大な被害と、南東方面の輸送作戦に可動潜水艦を集中させた弊で、組織的な作戦が一時ストップしてしまっている。

1月4日、物資を満載した伊6はラバウルを出港。ブインほどではないがイボキの路も複雑であり、PTボートや敵機のも厳しくなっているなど四苦八苦を強いられ、1月6日にどうにかイボキへ到着して物資を揚陸し、1月10日ラバウルへ帰投する。1月17日から21日にかけて2回の輸送を、1月17日から19日にかけて3回の輸送を行い、いずれも成功させた。1月28日、兵員だけを乗せてラバウルを出港、1月30日にイボキへ到着するも北側の停泊地で図に載っていない暗礁に触れてスクリューを損傷してしまっている。2月1日ラバウルへ入港したのち2月3日にスルミへの輸送任務を成功させた。一連の輸送任務で177と181が未帰還となり、度重なる喪失で訓練中の潜水艦を合わせても第6艦隊の総戦は37隻にまで減少してしまった。2月5日横須賀への帰投命を受領、伊6と17142、43と交代する形で内地へ戻る事になったが、帰投命を受領した時点で171は消息不明となっている。

2月13日アドミラルティヌス州ロレンガウへの輸送任務を帯びてラバウルを出港。アドミラルティには連合軍上陸の兆が見られ、これに伴って駆逐艦での輸送も中止されていたため、伊6が物資を届ける最終便となった。2月17日、ロレンガウに寄港して12丁の重機関銃弾薬を揚陸し、同日中に出発。2月29日横須賀へ入港して修理を受ける。

6月13日アメリカ艦隊のマリアナ諸襲来を受け、連合艦隊は「あ」号作戦決戦準備を発。これに伴って翌日22時50分に先遣部隊作第150号が発されて動ける全ての潜水艦マリア東方に投入される事になり、伊6も急速出撃準備を始める。そして6月15日横須賀を出撃してサイパン方面へ向かった。

最期

1944年6月16日22時33分、八丈島北東にて、小笠原諸島から出発してきた第3606団の武装貨物丸は、団の近くに浮上する潜水艦を発見して警報を発。すぐに急旋回を行った豊丸は潜水艦の右舷後方に体当たりを喰らわせ、潜水艦はたちまち大傾斜して数分後に沈没するが、追い討ちと言わんばかりに爆雷を投下し、最後は沈没地点に機掃射を浴びせた。沈められた潜水艦の正体は伊6で、乗組員104名が全員死亡。前日、第3606団は潜水艦ソードフィッシュの襲撃で甘井子丸(かんせいしまる)を失っており、濃霧で視界不良だった事も手伝って伊6を敵艦と断定してしまい、誤って撃沈してしまったようだ。

7月1日サイパンで地上戦に巻き込まれた第6艦隊部を救出するよう命じられたが応答はく、7月3日に再度命を発しても応答がかった事から7月13日帝國海軍は喪失と判断、9月10日に除籍した。

潜水艦特性として最期が判然しておらず、異説として6月30日サイパン東方で敵空母を攻撃した通信を発して消息不明になった、あるいは7月19日護衛駆逐艦ウィリアム・C・ミラーと高速輸送艦ギルマーの攻撃を受けてテニア西方130kmで撃沈されたとするものがある。

総戦果は4隻撃沈(1万1621トン)、1隻撃破(4万9522トン)。

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