呂46とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した海中型/呂35型潜水艦12番艦である。1944年2月19日竣工。雷撃で米攻撃輸送艦キャヴァリアを撃破し、バトリナオ輸送を唯一成功させる戦果を挙げた。1945年4月29日に沖大東島沖で米護衛空母ツラギ艦載機から対潜攻撃を受けて沈没。
概要
ロンドン海軍軍縮条約により、保有できる潜水艦は1万9200トンに制限されてしまった大日本帝國海軍は、トン数の多くを大型潜水艦の戦力拡充にあてた一方、余りを使って戦時急造型中型潜水艦のプロトタイプを造る事とし、海大型の縮小版とも言うべき海中六型を設計。呂33と呂34の2隻が就役した。
1番艦の就役から6年後の1941年、マル臨計画で海中六型の量産が決定するも、6年の間に蓄積されたノウハウを上乗せした結果、全長が7m延伸して呂号潜水艦初の80m超えとなり、排水量も海大型との境界線に迫る930トンに増大、艦本式22号10型ディーゼルによって最大速力が19.6ノットに増え、機銃を13mm単装から25mm連装に換装して対空能力も向上、それでいて建造期間も比較的短くて済む優等生が誕生。これが海中型/呂35型である。設計は大幅に変わっているが、海中六型の持ち味だった操縦性と凌波性の良さはしっかり継承。性能・使い勝手の良さともに優れていたので前線の将兵に好まれたという。
マル臨計画で9隻、マル急計画で8隻、マル追計画で1隻が建造され、計18隻が就役した。しかし敵の対潜技術が鰻登りな過酷な戦場へ投じられた結果、終戦まで生き残っていたのは呂50のみだった。呂46は最後に失われた呂35型であると同時に戦争中最後に沈没した呂号潜水艦である。
要目は排水量960トン、全長80.5m、全幅7.05m、喫水4.07m、最大速力19.8ノット(水上)/8.0ノット(水中)、安全潜航深度80m、乗組員61名。兵装は40口径8cm高角砲1門、25mm連装機銃1基、53cm艦首魚雷発射管4門、魚雷10本。
戦歴
1941年8月15日より実行に移されたマル急計画において、二等潜水艦第387号艦の仮称で建造が決定。建造費792万円を確保する。
1942年6月13日に三井玉野造船所で起工。三井玉野では、終戦までに呂35型6隻が建造されているが、今回が最初で最後の潜水艦建造だった。1943年2月5日に呂46と命名、4月23日に進水式を迎え、1944年1月20日に鈴木正吉大尉が艤装委員長に就任、そして2月19日に竣工を果たした。初代艦長には艤装員長の鈴木大尉が着任。舞鶴鎮守府に編入されるとともに訓練部隊の第6艦隊第11潜水戦隊へと部署。
竣工日の2月19日に造船所を出発。諸訓練や深々度潜航試験を行いながら小群湾へ回航して仮泊し、しばらくは単独訓練に従事する。2月26日17時、第11潜水戦隊より3月1日安下庄での合流を命じられ、予定通り安下庄で旗艦筑紫丸と合流、諸報告を行ったのち室積沖にて再び単独訓練を行う。3月8日午前9時30分、第11潜水戦隊は呂46に「第165作業後、呉に回航し、官房機密第329号による電波探信儀実験に協力せよ」と下令。この電波探信儀とは、同盟国ドイツが運用しているS装置を参考に開発した三式探信儀の事で、1943年末にようやく国産化に成功したものだった。このため3月9日から27日まで呉に停泊して実験に協力。それが終わると伊予灘で血の滲むような猛特訓に励んだ。
4月2日21時45分、愛媛県水無瀬南西沖で潜航訓練中、同じく潜航していた伊46と衝突事故を起こし、呂46は右舷推進器翼が損傷、伊46は潜望鏡2本折損及び船橋の一部が破損してしまったため、両艦とも翌日より呉で修理を受ける。ちなみに翌3日午前4時30分、アメリカ軍の暗号解析班が事故の被害状況を伝える電文を傍受し、これを解読している。5月9日になってようやく修理が完了。遅れを取り戻すかのように伊予灘での訓練を再開した。6月7日、8日、9日の3日間は旗艦長鯨や呂48とともに別府へ寄港して休養。
1回目の出撃
6月13日、米機動部隊のマリアナ諸島襲来に伴い、連合艦隊司令・豊田副武大将は「あ」号作戦を発動。これを受けて第6艦隊はマリアナ東方に潜水艦戦力を集中させるべく出撃可能な潜水艦に準備を命じた。呂46もまた出撃に備えるべく呉へと回航、急速に戦備を整えていく。それから間もない6月15日にアメリカ軍がサイパンへの上陸を開始。小沢機動部隊が迎撃に移ったものの、米機動部隊との決戦に敗れて沖縄に退却した(マリアナ沖海戦)。
6月23日、呂46は呂号潜水艦のみで編成される第34潜水隊へ転属すると同時に呉を出撃、翌24日19時に豊後水道西水道南口を出て、サイパン東方海域へと進出。米機動部隊邀撃の任に就く。サイパンには守備隊だけでなく、第6艦隊や第3水雷戦隊の司令部が脱出出来ないまま地上戦に巻き込まれており、潜水艦部隊の指揮は在トラックの第7潜水戦隊が代わりにに指揮を執っている状況だった。
7月2日、連合艦隊司令部は、「あ」号作戦に参加した潜水艦が既に13隻も未帰還となった事を鑑み、マリアナ方面で敵機動部隊邀撃中の潜水艦に逐次帰投を命じた。翌3日、哨戒中の呂46に故障が生じて撤哨。やむなく7月9日呉へ帰投し修理を行う。
7月27日の伊45帰投を以って中部太平洋での作戦は一旦中止。急遽被害防止対策を講じる事となる。
2回目の出撃
9月10日朝、ダバオ南方サランガニ見張所及びサマール島見張所が敵の上陸を報じ、連合艦隊が捷一号作戦警戒を発令するとともに「中型潜水艦全力及び伊177を甲二散開配備に応ずる如く出撃せしむべし」と命令。その後、敵上陸が誤報である事が判明し、捷一号作戦警戒を解いたものの、パラオとフィリピン方面は連日のように空襲を受けている事から敵情は依然逼迫しているとして、第34潜水隊には出撃命令が下された。9月15日、連合軍はパラオ諸島ペリリュー島、モロタイ島への上陸を開始。翌16日に改めて第34潜水隊にパラオ・ハルマヘラ間の海域へ出撃するよう命が下った。
9月19日、伊177とともに呉を出撃。パラオ南西海域へと向かう。同海域には呂46、伊177、呂41、呂43、呂47の計5隻が進出。9月21日、米機動部隊がルソン島を空襲。同日夕刻に「米機動部隊はマニラ北東160海里針路西」との報告が入り、この敵機動部隊が南東方向に退避するとすれば、第34潜水隊の翌日正午通過点付近が敵の通過点となるので、南下進撃中の第34潜水隊の各艦には「同地点付近にあって隠密待機せよ」との指示が与えられた。ところが9月22日になっても米機動部隊はルソンを空襲して前日とほぼ同一海域を行動中であると判明。会敵の望みが薄らいだので予定哨区への進撃を命じた。
9月28日に米空母を発見するも距離が遠すぎて雷撃が出来なかった。10月1日にも別の敵空母を発見したがこちらも攻撃に失敗している。10月3日、作戦中の各潜水艦に対し「4日18時に撤哨して呉に帰投せよ」と発令されるが、10月4日、連合艦隊は「第34潜水隊から1隻を抽出してウルシーの偵察を実施せよ」と指示を出す。これはウルシーに対して回天攻撃を行うための下調べであった。呂46は10月7日よりウルシー環礁の西側から潜望鏡偵察を行い、空母1、飛行艇4、輸送船12、駆逐艦10、巡洋艦2の在泊を報告した。東側からは伊177が偵察を試みたが、パラオ北西100海里で米駆逐艦サミュエル・S・マイルスの対潜攻撃を受けて沈没、報告は無かった。10月14日に呉へ帰投。一連の作戦行動で伊177と呂47が失われた。
3回目の出撃
呂46に休む暇は与えられなかった。10月初旬にマリアナ諸島及びコッソル水道から出撃した米機動部隊は、10月9日に南鳥島に米戦艦群が艦砲射撃を加え、翌10日に南西諸島に大規模な空襲を仕掛け(十・十空襲)、更には10月12日から14日にかけて台湾への空襲を実施。現地の基地航空隊が迎撃した事で台湾沖航空戦が生起した。アメリカ軍の勢いは留まるところを知らず、10月17日朝、今度はレイテ湾口スルアン島への上陸を開始。翌18日16時28分、呂46、呂41、呂43、伊38、伊41、伊44、伊46を以って乙潜水部隊が編成された。
10月21日、呂46は呉を出撃してフィリピン東方の敵艦隊攻撃に赴く。呂46の出撃で乙潜水部隊は全艦出撃を完了、爆発事故で反転した伊44を除く、11隻の潜水艦がレイテ東方の配備点に向かっていた。10月24日、豊田大将の全軍突撃電に基づき、呂号潜水艦は強行進撃を行ったが、レイテ沖海戦の戦場から遠く離れていた事もあり、会敵の機会はついに訪れなかった。10月27日14時5分、連合艦隊より「フィリピン東方海面所在の大部をレイテ湾東方海面に、一部をラモン湾北東海面に配備し、敵機動部隊の奇襲及び輸送路の遮断に任せしむ」との指示を受けた第6艦隊は配置転換命令を出し、マニラ北東のD配備に移動。
11月7日に第6艦隊司令部はフィリピン方面に展開中の全潜水艦に帰投命令を出す。帰路の11月13日、マニラ上空での航空戦で撃墜された一式戦闘機の搭乗員1名を救助。そして11月19日に舞鶴へと帰投した。13隻中6隻(伊26、伊38、伊41、伊45、伊46、伊54)が未帰還となり、ただでさえ少ない潜水艦兵力が更に減少してしまう。その後呂46は呉に回航。
4回目の出撃
大型潜水艦は軒並み回天母艦に改装されて回天作戦に従事する一方、中小潜水艦はフィリピン方面を作戦海域に定め、無尽蔵に増援と物資を送り続ける敵の太い補給路を相手に、活路が見えない苦闘を続けていた。12月7日のアメリカ軍オルモック上陸、12月15日のミンドロ島上陸によって陸軍はレイテ島地上決戦方針を放棄し、戦局はルソン島攻防へと移行。
1945年1月4日に呉を出撃。5日後の1月9日、アメリカ軍がリンガエン湾へ上陸し、ルソンでも戦闘が生起したため、敵艦隊攻撃を企図してルソン島西方に移動する。1月30日午前1時、ルソン島イバ西方にて、呂46は米攻撃輸送艦キャヴァリアを雷撃し、左舷後部に魚雷を命中させて激しい水中爆発を引き起こす。乗組員50名が負傷、爆発の衝撃で甲板が曲がるとともに操舵室が失われ、航行不能に追いやるほどの損害を与えたが、レイテ島に曳航されて沈没は免れた。ただしキャヴァリアは戦争が終わるまで復帰出来なかった。
2月2日、第6艦隊より呂46、呂112、呂113、呂115の4隻は、退路を断たれてマニラとクラークフィールドに取り残されている第1及び第2航空艦隊、陸軍第4航空軍の搭乗員、整備員を収容するよう命じられ、その準備のため2月4日に高雄へと入港。ルソンにいる陸軍第14軍向けの弾薬と燃料を積載した一方、少しでも収容人数を増やすべく予備魚雷と弾薬を揚陸。呂46は呂号潜水艦の中でも比較的大型なので40名の収容が可能とされた。既にアメリカ軍はリンガエン湾に航空基地を設営して制空権を完全掌握しており、快速な駆逐艦か、潜水艦での撤収しか出来なかったのである。
2月7日、呂46は搭乗員が集結しているフィリピン北部アパリ近郊バトリナオ村へ向けて出撃。2月10日午前0時頃、バトリナオ沖で大発動艇に乗った陸軍搭乗員46名を収容し、代わりに積み荷を大発動艇に託して撤収、2月12日に無事高雄へ帰投した事で救助に成功した。ちなみにバトリナオ輸送に成功したのは呂46のみで、他潜水艦3隻は未帰還、駆逐艦3隻による救助も試みられていたが全て失敗し、脱出の可能性を閉ざされた航空要員たちは現地の陸戦隊に編入され、絶望的な戦いに身を投じていった。2月13日、高雄を出港した呂46は南西諸島周辺海域を哨戒しながら内地への帰路に就き、2月19日呉へ帰投した。
5回目の出撃と最期
3月23日、米機動部隊は南西諸島への空襲を開始し、米戦艦等もまた沖縄南部に艦砲射撃を加えた。更にアメリカ軍は本土からの抵抗を排するべく3月28日と29日の両日に南九州を空襲。そして3月31日に慶良間諸島へと上陸して橋頭保を確保、満を持して4月1日より沖縄本島西岸に上陸したのだった。沖縄近海の警戒は非常に厳しく、いたずらに潜水艦を投入すれば被害が拡大するだけだった。そこで第6艦隊は配備点を沖縄の200海里圏と少し離れた場所にし、生き残っていた呂46、呂50、呂109に出撃命令を下す。
4月6日、絶望的状況に陥った沖縄を救援するため呉を出撃、4月17日の艦位報告で北大東島北方60海里から東方60海里付近にいると連絡したのを最後に、呂46の消息は途絶えた。
1945年4月29日、沖大東島の南東、沖縄から南東220海里の地点にて、沖縄・グアムを結ぶ海上輸送路を対潜哨戒中の護衛空母ツラギ所属のアヴェンジャー雷撃機が、浮上航行中の呂46を発見。急接近する敵機に気付いた呂46は潜航退避を始めるも、潜航し切る前に敵機から投下された航空魚雷が命中して損傷を負う。続いて敵機は聴音追尾魚雷を発射。間もなく命中爆発する音が聴き取れた。これが呂46の最期であり乗組員86名全員死亡。帝國海軍は5月2日に沖縄方面で喪失と判断、6月10日に除籍した。戦果は1隻撃破(8100トン)。呂46の沈没により海中型で残存しているのは呂50のみとなる。
一部資料では米潜水艦シーオウルの雷撃で撃沈されたとしている。しかしシーオウルが活動していたのはウェーク島とかなり離れた場所な上、ちょうどその時ウェーク島には伊372が輸送任務に就いていたため、それと混同された可能性が高い(ちなみに伊372は雷撃を回避して生き延びている)。
関連項目
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