呂41とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した呂35型/海中七型潜水艦7番艦である。1943年11月26日竣工。雷撃により米護衛駆逐艦シェルトンを撃沈した。1945年3月23日、沖縄南東沖で敵護衛駆逐艦群と交戦して戦没。互いに体当たり攻撃を喰らわせるという壮絶な肉弾戦を演じた。直接的な戦果ではないが、呂41と誤認してシーウルフが撃沈されている。
概要
前級の海中六型をベースにした戦時量産型。だが建造するにあたって設計の変更を強いられたため実質別物と化している。全長を7m延伸し、主機を換装して速力を上げ、対空機銃を13mmから25mmに変更して強化、それでいて量産性の底上げにも成功した優秀艦。局地防衛や哨戒任務にも使える利便性に加え、悪くない運動性を持っており、現場からは歓呼の声で迎えられた。更なる増産を望む声も聞こえてきたが、43隻中18隻しか生産されずに打ち切られている。排水量は930トンと、海中型と海大型の境目である1000トンに限りなく近くなっている。
量産された18隻の呂35型は全て最前線に投入され、呂50を残して全滅。非常に高い損耗率であった。
要目は排水量930トン、全長80.5m、全幅7.05m、最大速力19.6ノット(水上)/8ノット(水中)、乗員61名、安全潜航深度80m。武装は40口径8cm高角砲1門、25mm連装機銃1基、53cm艦首魚雷発射管4門、魚雷10本。呂41はレーダー波を明後日の方向に跳ね返す目的で司令塔が独特な形状になっていた他、E27電波探知機3型を搭載しており、敵のレーダー対策にも力を入れていた。
小さな体に宿る気高き闘志
1941年に策定されたマル臨計画において第207号艦の仮称で建造が決定。予算から建造費740万円が捻出された。開戦後の1942年10月6日に三菱重工神戸造船所で起工し、1943年5月5日に進水、そして11月26日に坂本金美少佐の指揮下に竣工する。舞鶴鎮守府に編入され、潜水母艦長鯨率いる訓練部隊の第11潜水戦隊へ部署して瀬戸内海西部で慣熟訓練を行う。
12月9日に呉を出港するが、急な予定変更により実験用機銃の装備が間に合わず、苦言混じりの電報を打っている。12月21日早朝に錨地を出発して広島湾へ向かい、水中騒音調査に協力。
1944年
3月5日、第6艦隊第34潜水隊に転属するとともに呉を出港。周防灘を経由して初めて外洋へと進出する。3月14日に前進拠点のトラック諸島へ入港。前進拠点と言えど広大な泊地に連合艦隊の威容は既に無く、先月のトラック大空襲の影響で地上施設や航空機が破壊されて丸裸に等しい、言わば物悲しい雰囲気が漂っていた。半壊したトラック基地にも敵は執拗に攻撃を仕掛け、3月16日には大型機による空襲が行われて呂41は潜航退避している。
3月17日、哨戒中の伊32が配備点で小型機を発見。海軍上層部はトラックまたはボナペ方面に敵機動部隊来襲の可能性が高いとして、トラック待機中の伊16、伊169、呂41、呂106、呂108に出撃命令を下し、即日出港。トラック南東方面を哨戒する。翌18日、敵艦上機向けの電話感度大である事からトラック近海に敵機動部隊が潜んでいると考え、呂41と呂106に120度方向30海里の移動を命じる。しかし、どの潜水艦も敵情を得なかったため、3月22日にヤルート島東方への移動命令を受けて哨区を移動。その翌23日18時、伊32からヤルート北方60海里に空母を含む敵の大部隊を発見したとの報が入り、伊16と呂41に再び移動命令が下る。4月12日にトラックへの帰投命令が出されてヤルート方面から退却。道中の4月18日、トラック南方430海里で索敵機が敵機動部隊を発見し、呂106や呂115とともに迎撃へ向かう。トラックからも伊176と呂108が出撃し、呂108が撃沈されるも、敵が見つからなかったため翌日トラックに入港する。
4月21日、連合艦隊司令部は「Z1作戦発令」を下令。ホーランジアとアイタペ方面に襲来した敵部隊を迎撃すべく、多数の潜水艦を同方面へ向かわせる事になった。帰投したばかりの呂41も呂104、呂109、呂112とともにホーランジア北部への進出が命じられ、慌ただしく出撃準備を整える。
4月23日、ホーランジア北部の配置に就くためトラックを出港し、ニューギニア方面へ移動。その道中の4月26日に敵機動部隊迎撃のためメレヨン方面へ移動。5月1日、メレヨン方面配備の潜水艦を乙潜水部隊にまとめ、呂41艦長の坂本少佐が総指揮を執る。しかし今回も敵情を得られず、翌2日にサイパンへの帰投命令を受領してメレヨン沖から離脱。5月7日から10日にかけてサイパンへ寄港した後、5月13日にトラックへ帰投した。
5月24日13時、白米12トンを積載してトラックを出発。輸送任務の目的でクサイ島へと向かうが、呂41の行動は暗号解読によりアメリカ軍に察知され、米護衛駆逐艦イートン、グレイナー、サンダースが刺客として放たれた。そうとは知らずに呂41は5月30日朝にクサイ南方沖に到着。ゆっくりとウトワ港に近付く。日没後、海面に浮上した呂41は発光信号で現地の守備隊と連絡を取るが、見張り員が接近してくる3隻の敵駆逐艦を発見。上空には敵哨戒機も出現しており、完全に待ち伏せを受けた格好となる。気付かれる前に呂41は一時撤退。敵駆逐艦群は17時頃まで哨戒したのち去っていった。その隙を突いてウトワ港に駆け込むも、約15分後に一度は去ったはずの敵駆逐艦群が再び出現。港外には駆逐艦1隻と駆潜艇2隻が徘徊するという非常に危険な状況に陥っていた。万が一見つかれば命は無い。
5月31日18時30分、強い緊張下で物資の揚陸を再開。時々爆弾を投下しているのか爆音が響いてくる。死があちこちに転がり、頻繁に飛来する敵機に神経をすり減らしながら、遂に全ての揚陸に成功。6月1日に駆潜艇の隙を突いて港外へ脱出した。坂本艦長はトラック基地に「従来の暗号書は解読せられしこと確実なれば、伊5の行動は変更の要あり」と報告。これを受けて矢野英雄少将はクサイ島守備隊との通信を大幅に減らし、新たな暗号表の発行を待つべくクサイへ向かっていた伊5にボナペ島へと迂回するよう命じている。その後、呂41はヤルート西方19kmの哨区へと移動。6月6日に護衛駆逐艦スティールがクサイ沖に到着したが呂41は虎口を脱した後だった。6月12日、聴音手が敵輸送船団の推進音を探知して報告。
6月13日17時27分、敵機動部隊のマリアナ諸島襲来に伴って「あ」号作戦決戦用意が発令。これに伴って第6艦隊の高木武雄中将は翌14日22時50分に先遣部隊電令作第150号を発令。呂41、伊10、伊38、伊184、呂42、呂44の6隻をグアム東方に配備する。6月15日のアメリカ軍サイパン上陸を受けて第6艦隊司令部が戦闘指揮を執れなくなり、代わりにトラック在中の第7潜水戦隊が指揮を引き継ぐ。翌16日17時19分、呂41、呂42、呂44、呂47で乙潜水部隊を編制。敵艦隊を求めて遊弋するが、会敵出来たのは呂43、呂115、伊36のみで、6月19日と20日に行われたマリアナ沖海戦で小沢機動部隊は敗北。6月22日、瀬戸内海西部への帰投命令を受領して帰路に就く。瀬戸内海西部で特設潜水母艦筑紫丸と合流して簡単な整備を受け、7月4日に瀬戸内海を出発。7月5日、佐世保へ帰投するとともに二代目艦長の椎塚三雄大尉が着任する。
厳しい輸送任務を終えた呂41は戦いの疲れを癒やすべく工廠で入渠整備。「あ」号作戦に参加した潜水艦36隻中20隻が失われるという大損害を鑑み、太平洋方面の作戦を一時全面停止。全ての潜水艦に電探と逆探装置の搭載、防探塗料の塗布、防振ゴムの設置、敵のレーダー波を乱反射させる斜行板の装備、艦の必要部に夜光塗料を塗るなどの被害対策が施された。この頃、呂41は新たに13号対空電探と22号水上電探を装備。
9月10日朝、ダバオ南方のサランガニ見張り所とサマール島見張り所が敵の上陸を報じる。15時32分、連合艦隊は中型潜水艦の全力及び伊177による迎撃を命じた。米機動部隊のフィリピン、パラオ方面の空襲が連日続いた事から、9月14日に「第34潜水隊の緊急工事は極力繰り上げ整備すべし」と下令。そして翌15日にモロタイとペリリューにアメリカ軍の上陸が確認され、9月16日に連合艦隊司令部は第34潜水隊に準備出来次第出撃するよう命じる。
9月17日、呉を出撃してパラオ方面に向かう。9月21日に米機動部隊がルソンを空襲し、その夕刻に「米機動部隊はマニラの北東160海里、針路西」との報告が入った。この米機動部隊が南東方向に退避すれば、ちょうど翌22日正午に第34潜水隊の通過地点と重なる事から、先遣部隊は南下進撃中の各潜水艦に「同地点付近にあって隠密接敵せよ」と指示が下る。9月24日、モロタイへの移動命令を受領して月末に配備に就いた。
10月3日午前8時10分、モロタイ島ゴランゴ岬東方65kmにて第77.1.2任務部隊の米護衛空母ミッドウェーとファンショー・ベイに向けて魚雷4本を発射。1本がファンショー・ベイの至近を通過した事で第77.1.2任務部隊は雷撃を受けたと悟り、警報が発せられた。護衛駆逐艦シェルトン(1350トン)には2本の魚雷が
白線の尾を引いて迫り、緊急回避により1本目は回避するも、2本目が右舷艦尾に命中。被雷の爆発で13名が死亡、22名が負傷した。別の護衛駆逐艦リチャード・M・ローウェルが呂41に爆雷投下を仕掛けてきたが無事逃走に成功。2回の爆発音を聴音。椎塚艦長は1隻撃沈、1隻撃破と考えた。
午前11時30分、ミッドウェーからは対潜哨戒機のTBFアベンジャー2機が発進し、下手人の呂41を沈めようと上空から目を光らせる。やがて1機が18km先に潜水艦の艦影を発見。2発の対潜爆弾と目印代わりの塗料マーカーを投下した後、駆け付けたリチャード・M・ローウェルがヘッジホッグ攻撃を開始。すると潜水艦から反応が見られ、ローウェル側も音響通信を試みたが、既知の認識信号と異なっていた事から「敵潜が味方のふりをして送っているいい加減な信号」と判断。2回目のヘッジホッグ攻撃で潜水艦を粉砕した。…のだが、この沈められた潜水艦とは呂41ではなく米潜水艦シーウルフ(SS-197)だった。まさかの同士討ちである。また、大破したシェルトンは曳航に失敗して撃沈処分となっていて第77.1.2任務部隊は呂41のためだけに大きく振り回された。大本営は呂41の戦果を「空母1隻撃沈、1隻撃破」と発表。
10月4日18時、事前に出ていた帰投命令に従ってモロタイ沖を離れる。10月10日、鹿屋から飛び立った2機の彗星が沖縄南東に3隻の敵空母と2隻の駆逐艦が北東へ向かっているのを確認。呂41、呂43、呂46に迎撃命令が下った。しかし発見出来ないまま10月14日に呉へ帰投する。
10月17日、アメリカ軍のレイテ湾スルアン島上陸を受けて翌日乙潜水部隊へ編入され、10月20日に呉を出撃。呂43、伊38、伊44とともにサマール東方の哨区へと向かった。10月24日22時57分――先遣部隊電令作第3号――、「全軍突撃に転ず。各艦は配備に強行進撃敵を撃滅せよ」との命令が下り、哨区を移動する。10月27日、数隻の駆逐艦に護衛された敵空母を発見。10月31日に南西方面艦隊は多号作戦の妨害に現れるであろう敵艦隊を迎撃すべく、サンベルナルジノ海峡に1~2隻の潜水艦の配備して欲しいと要望を出し、呂41と呂43が海峡東方に向かう。11月7日午前8時30分にレガスピ東方を西航する米機動部隊を聴音により探知。11月12日午前2時40分には同じくレガスピ東方で敵の輸送船団を探知している。11月18日、舞鶴へ帰投。徳山に回航されて燃料補給を受ける。
12月24日、徳山を出撃してフィリピン北東のD散開線へ向かう。
1945年
1945年1月4日、ルソン島西方に到着して遊弋するが、会敵出来ずに1月31日に呉へ帰投。2月1日、最後の艦長である本田義国中尉が着任。彼は元伊8の魚雷士官であった。
3月7日に舞鶴を出港して呉へ回航。そして3月10日にトラック向けの輸送物資を積載して呉を出発するが、3月13日にアメリカ軍の沖縄侵攻の予兆を察知したため中止命令が下って反転、3月15日に呉へと帰投する。翌日呉を出発して佐伯湾へ回航され、3月18日に佐伯を出撃。伊8、呂49、呂56とともに九州沖航空戦で大破した敵空母フランクリンにトドメを刺すべく南下する。3月20日、九州南部を東に進んで天候観測をしていた米潜水艦ケートが行方不明になった。喪失原因は未だ不明ながら、ちょうど呂41が近くを通っていた事から呂41に撃沈されたとする意見もある模様。
3月22日に発した「沖縄東方320海里地点で駆逐艦を発見した」との報告を最後に消息を絶つ。
壮絶なる最期
1945年3月22日午後、米駆逐艦ハガードはピケット艦として第58任務部隊の前方22kmで哨戒していた。23時42分、2万2900m先で水上航行中の呂41をレーダー探知し、ハガードとウールマンが調査に向かう。その途上でレーダーから姿を消した事から相手は潜水艦と判断。ソナー探知に切り替えて爆雷攻撃を加える。損傷により潜航出来なくなった呂41は浮上、ハガードの左舷目掛けて体当たりを喰らわせて左舷のビームを突き破った。すぐにハガードは取り舵一杯して距離を取り、ボフォース40mm機銃で司令塔を銃撃。そしてそのまま呂41の右舷側司令塔後方に体当たりを喰らわせ、日付が変わった直後の3月23日に呂41は艦尾より沈没。乗組員82名全員が死亡。帝國海軍は4月15日に沖縄方面で亡失と認定し、5月25日に除籍された。
体当たりで艦首を大破したハガードはウールマンに曳航されてウルシー環礁まで後退。ちなみに初期の資料ではハガードが撃沈したのは伊371としていたが、伊371は1ヶ月前に撃沈されている。
関連項目
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