伊44とは、大日本帝國海軍が建造・運用した伊40型/巡潜乙型改一の5番艦である。1944年1月31日竣工。巡潜乙型改一の中では最も長生きし、回天作戦にも従事したが、1945年4月18日に沖縄東方海域で対潜攻撃を受けて沈没。
概要
ロンドン海軍軍縮条約脱退後、帝國海軍は、旗艦用の巡潜甲型と量産用の巡潜乙型の二本柱を主軸に、潜水艦の量産体制を築いていた。しかし、巡潜乙型であっても起工から竣工までに2年半以上も要し、急造には向いていない欠点が露わになった他、不足している潜水艦の数を急いで揃える必要性から、海軍は巡潜乙型を簡略化した巡潜乙型改一の設計に着手する。
まず、複雑で生産性に欠ける艦本式2号10型ディーゼルを、巡潜三型でも採用された量産しやすい艦本式1号甲10型ディーゼルに換装。これにより出力が1万2400馬力→1万1000馬力に低下し、最大速力が23.5ノットに微減、更に排水量の増大も招いた。内殻板も生産性に難があるDS鋼から軟鋼(MS材)に変更、安全潜航深度の減少を防ぐべく1mm厚くしている。他にもムアリングパイプ、潜舵ガード、左舷の錨、艦尾信号灯を廃止、応急遮断弁の装備、1.5m測距儀を15cm双眼望遠鏡に変更するなど、艤装の簡略化を推し進めて量産性を高めた。姉妹艦の中でも竣工が後だったからか、伊41とは舷外電路の位置が異なる。
その結果、出力こそ下がったものの、速力や航続距離に大きな劣化は見られず、問題だった建造期間も1年半に短縮されたため、巡潜乙型改一は概ね成功したと言える。だが帝國海軍はこれに満足せず、性能低下を甘受して簡略化をより進めた巡潜乙型改二の設計を行っている。
本級は伊40、伊41、伊42、伊43、伊44、伊45の計6隻が就役。ところが損耗率は非常に高く、1944年前半までに半数の3隻を喪失、レイテ沖海戦で伊41と伊45を失い、1945年を生きて迎えられたのは伊44だけだった。最後の生き残りである伊44は回天作戦に投じられたが、沖縄方面へ出撃した際に撃沈された事で巡潜乙型改一は終戦を待たずして全滅してしまった。
ちなみに巡潜乙型改一で写真が残っているのは伊44と伊45だけである。
要目は排水量2230トン、全長108.7m、全幅9.3m、最大速力23.5ノット(水上)/8ノット(水中)、出力1万1000馬力、安全潜航深度100m。兵装は40口径14cm単装砲1門、25mm連装機銃1基、53cm艦首魚雷発射管6門、搭載魚雷17本。呉式1号4型射出機1基と水上機1機の運用能力を持つ。
戦歴
海の獅子、出陣す
1941年8月15日より始まったマル急計画において巡潜乙型改一6隻の建造が決定。このうち乙型改一潜水艦第374号艦の仮称が付けられたのが後の伊44となる。同時に2049万7200円の建造費が確保された。
1942年6月11日に横須賀海軍工廠で起工、1943年2月5日に伊44と命名されて3月5日に進水式を迎え、11月12日に工廠内で艤装員事務所を開設、そして1944年1月31日に竣工を果たした。初代艦長には伊26の元艦長であるベテランの横田稔中佐が着任。横須賀鎮守府に編入されるとともに訓練部隊の第6艦隊第11潜水戦隊へ部署する。
1944年1月31日に竣工した伊44はまず諸物資の積載作業を開始。2月1日午前8時5分、第11潜水戦隊より「東京湾で二日間単独訓練に従事したのち、瀬戸内海西部へ回航して戦隊と合流せよ」と命じられ、東京湾内で単独訓練を行った後、翌2日午後に東京湾を出港して周防灘へ回航、第11潜水戦隊と無事合流する。2月20日から27日まで呉で整備を受け、伊予灘にて慣熟訓練を再開、3月1日から7日、3月15日から27日まで再び呉で整備を受けた後、出撃に備えて3月28日と翌29日の両日は徳山燃料廠にて給油。戦備を整えた。
3月31日19時、パラオ大空襲を仕掛けた米機動部隊を追撃するため、伊183、呂47、呂116、呂117とともにパラオ東方への配備を命じられ、豊後水道南口を出撃。実質これが初出撃なのだが、4月7日午前4時に「敵潜掃討を行いつつ内海方面に帰投」との反転命令を受領し、会敵の機会を得られないまま、4月13日正午に瀬戸内海へ帰投した。応急出撃準備を終えた4月28日に伊44は実戦部隊である第15潜水隊へ転属。13号対空電探を搭載した最初の潜水艦となる。
アメリカ軍によるマーシャル諸島占領、トラック空襲、メジュロ環礁への米艦隊の進出などを受け、軍令部第二部長の黒島亀人少将は、潜水艦9隻に特四式内火艇を2輌ずつ搭載して諸島内の環礁に停泊中の米空母を奇襲攻撃する案を提示。この案は「竜巻作戦」と命名され、5月3日に「あ」号作戦の一部として竜巻作戦要領を発令、作戦準備と訓練のため第6艦隊は旗艦筑紫丸、伊44、伊36、伊38、伊41、伊53を瀬戸内海西部に回航。5月6日より特四式内火艇2隻を搭載して連合訓練を開始、特に夜間での訓練に重点が置かれた。
ところが運用試験を重ねていくと特四式内火艇の様々な欠陥が露わになっていく。潜航、発進、魚雷落射は成功を収めたが、ディーゼルエンジンの轟音、低速、キャタピラが小石で損傷するといった致命的な欠陥が露呈。伊41艦長の板倉光馬少佐が特四式内火艇の問題を容赦なく指摘した結果、上層部の怒りを買って一時は銃殺刑に処されそうになるも、艦長の腕を買われて不問に付されている。また第6艦隊も作戦成功の見込みが薄いと感じていたらしく意図的に予備実験が失敗するよう仕向けていたという。このような経緯から5月20日を攻撃予定日と定めていたが、第6艦隊の提言で5月12日に作戦が延期(その後無期延期となる)。集められた潜水艦も解散となった。
5月14日、「あ」号作戦計画に従って伊44と伊53はニューアイルランド島カビエン北方でマ散開線の形成を命じられる。
1回目の出撃
5月15日、伊53とともに呉を出撃。カビエン北方の散開線を目指して移動を開始する。資料によっては、5月26日に米潜水艦パーミットが雷撃で伊44に損傷を与えたとしているが、伊44や日本側に裏付けとなる記録が残っていない事から誤りである可能性が高い。
道中の5月27日、伊44は新型の13号対空電探を作動させながら水上航行していた。しかしトラック南方にて敵機の急襲を許してしまい数発の至近弾を受けて急速潜航。しかし今度は米駆逐艦から投下された爆雷が伊44を襲う。7発の至近弾により潜望鏡、主配電盤、多くの機器が損傷した上、追い討ちをかけるかのように艦首部分が浸水が発生、潜航不能に陥って、浮上を強いられる。海上には伊44を求めて哨戒中のPB4Y-2プライヴァティアがいた。今はもう潜航退避が出来ない。だが絶体絶命の伊44に天運が味方した。偶然にも近くでスコールが発生しており、横田艦長の命令で雨の防壁へと飛び込んで、辛くも敵哨戒機の目から逃れた。
幸運にも生き延びる事に成功した伊44だったが、損傷の影響で戦闘哨戒の続行が困難になってしまったため、マ散開線は伊53に任せて内地への帰路に就く。
実はこの時、伊44が攻撃を受けた地点から南西にあるナ散開線では、アメリカ軍のハンターキラーグループが積極的に活動しており、5月31日までに呂104、呂105、呂106、呂108、呂116の5隻がまとめて撃沈される大打撃を受けていた。ハンターキラーグループに捕まらなかったのはまさに不幸中の幸いだった訳である。虎口を脱した伊44は6月5日に呉へ帰投。6月15日より呉工廠に入渠して修理を受ける。
戦間期
「あ」号作戦に参加した潜水艦36隻のうち半数以上の20隻が撃沈された事を受け、帝國海軍は7月2日に一旦太平洋方面の潜水艦作戦を中止。全ての潜水艦に電探と逆探装置の搭載、防探塗料の塗布、防振ゴムの設置、レーダー波を乱反射させる斜行板の設置、呂500の解析結果から艦の必要部に夜光塗料の塗布などの対策が施された。8月23日、油谷湾にて他の大型潜水艦と集合訓練を実施するも、先述の被害対策は大して効果が無いと判明してしまう。そして行き詰まった潜水艦作戦の前に現れたのは人間魚雷ごと回天であった。横田艦長は回天の実験に立ち会った。
9月16日、伊45水雷長から転属してきた川口源兵衛大尉が二代目艦長に着任。
9月27日、マーシャル方面、アドミラルティー、パラオ、マリアナ方面に回天攻撃を仕掛ける案が提示され、10月に玄作戦と命名、11月3日を作戦決行日に定めて、大型潜水艦への回天搭載工事及び訓練を行う事とし、伊44を含む5隻の潜水艦は玄作戦に備えて搭載工事に着手する。完了予定日は10月28日とされた。
10月9日、米戦艦等が南鳥島に艦砲射撃を加え、翌10日には南西諸島を狙った十・十空襲が発生。米機動部隊主力の来襲と判断した連合艦隊は「玄作戦以外の潜水艦は出撃準備を急げ」と下令。当初伊44は玄作戦に参加予定だったため出撃からは外されていた。
ところが10月17日朝、アメリカ軍の大部隊がレイテ湾スルアン島への上陸を開始。連合艦隊は捷一号作戦警戒を発令し、午前8時48分にフィリピン中部ならびに南部への全力急速出撃準備をなすよう命令、これに伴って玄作戦は伊36、伊37、伊47の3隻で行われる事となり、伊44は工事を中止して通常潜水艦に戻された。
2回目の出撃と回天母艦への改装
10月18日午前9時、伊38、呂41、呂43とともに呉を出撃。16時26分には先遣部隊電令作第177号が発令され、伊44、伊38、伊41、伊46、呂41、呂43、呂46の7隻で乙潜水部隊を編成、アメリカ軍の上陸地点を攻撃するべくレイテ湾へと急行した。翌19日、レイテ湾に攻略船団が、レイテ南東海域に大規模な敵艦隊が、レイテ東方に二群の敵機動部隊が出現したため、14時36分に甲三散開配備への進出が命じられる。
しかし10月20日夜、バシー海峡で自動懸吊装置用のタンクが爆発事故を起こし、乗組員3名が死亡、更に片舷エンジンとジャイロコンパスが故障してしまったため、川口艦長は帰投を決断。10月22日に呉へ帰投した。したがってレイテ沖海戦には参加していない。帝國海軍はこの海戦で14隻中6隻(伊26、伊38、伊41、伊45、伊46、伊54)を喪失する痛手を負った。こうして巡潜乙型改一で生き残っているのは伊44だけとなる。
呉工廠で修理を行うとともに航空機格納庫と単装砲を撤去して回天の搭載設備を装備。大型な巡潜乙型改一は回天6基を搭載可能だった。同時に司令塔前方に22号水上電探1基を新たに搭載している。回天母艦の装いを済ませた伊44だったが、玄作戦の参加には間に合わず、11月上旬に作戦から外されている。
3回目の出撃、回天特別攻撃隊「千早隊」
1945年2月16日の米機動部隊による関東地区空襲を受け、連合艦隊は敵の目的を図りかねていたが、南西諸島来攻の算もあると考え、呂号潜水艦5隻を南西諸島東方や硫黄島方面に向かわせた。翌17日になって敵の南西諸島来攻が明確となり、連合艦隊司令部は第6艦隊に出来るだけ多数の回天で攻撃するよう命じる。
しかし第1潜水部隊は目下訓練中、第15潜水隊6隻は伊44を除いて回天作戦準備中、第34潜水隊8隻は瀬戸内海西部にいる呂43を除いて整備中もしくは作戦中、伊8は修理を終えてようやく訓練を開始した状態と、即座に出撃出来るのは伊44、伊368、伊370、呂43の僅か4隻に限られた。第6艦隊は回天の訓練に従事させるべく伊44、伊368、伊370に大津島へ向かうよう命じる。
2月19日、アメリカ軍は硫黄島への上陸を開始。これを迎撃するため3隻の回天母艦で特別攻撃隊「千早隊」を結成し、「硫黄島周辺に遊弋中の敵有力艦船の捕捉撃滅」を命令。伊44のみ「奇襲決行後、同方面海域にて敵艦船攻撃を続行せよ」と命じられた。ちなみに「千早隊」の名は奈良の南西にあった楠正成の居城千早城から取られている。回天搭乗員は土井秀夫中尉、亥角春彦少尉、館脇幸治少尉、菅原彦五二等飛行兵曹の4名。
2月22日午前9時、5基の回天を搭載した伊44は先陣を切る形で大津島を出撃し、硫黄島方面に向かう。硫黄島に接近後は夜明け前に2時間くらい潜航したのち浮上し、搭乗員を回天に乗せて射出するつもりだった。しかし2月25日夜、硫黄島南西48海里にてバッテリーを充電中、2~3隻の米駆逐艦や駆潜艇に発見され、急速潜航を強いられる。回天の耐圧深度が80mなのでこれ以上深く潜る事は不可能だった。頭上を行き交うスクリュー音は翌26日になっても消えないどころか増加。潜望鏡深度(18m)まで浮上する事さえ叶わず、いつ爆雷攻撃が始まるか分からない恐怖が艦内を支配する。
2月27日朝の時点で潜航時間は既に30時間を超えていた。艦内の酸素は欠乏し、炭酸ガス濃度は大気の200倍にまで膨れ上がり、二酸化炭素濃度は6%、一部艦内では温度が50℃に達して、乗組員は呼吸に苦しむ。これでは回天攻撃どころではない。川口艦長は、敵艦の警戒が最も薄いと思われる東側へ一旦迂回すべく南西方向に舳先を向け、水中低速で脱出を図る。同日夕刻まで退避を続けたところ、ようやくスクリュー音が消失したため22時に浮上。乗組員は47時間ぶりに新鮮な空気を味わった。窮地を脱した伊44は水上航行でバッテリーを充電しながら、硫黄島の西から北へ大きく回り、昼間は潜航して敵の監視網から逃れる。
2月28日午後、伊44は硫黄島の北東約50海里へ進出。だが進撃もここまでだった。硫黄島へ近づこうにも、レーダーを持ったアヴェンジャー雷撃機や護衛駆逐艦が跳梁跋扈し、そこから3海里も動けなかったのである。アメリカ軍は護衛空母の哨戒機と、多数の護衛駆逐艦で完成された対潜システムを構築しており、空と海からの立体的な対潜監視によって、伊44の動きを拘束。潜航して接近しようにも水中速力では遅い上、蓄電量的に航続距離も足りない。加えて、潜水艦の中心線上に搭載された回天には艦内との往来用に交通筒が通されているが、左右の回天には無いため、それらの回天を発進させるには一度浮上しなければならなかった。ここに至り川口艦長は作戦を断念。突入すべきと訴える士官の意見を退け、同日夜に危険を冒して短波マストを海面に上げて第6艦隊に作戦の断念と現状の報告を行った。
ところが伊44が打った電文を第6艦隊司令部は受信に失敗(ハワイでは傍受された)。
3月1日、敵の通信状況から米機動部隊が沖大東島付近で活動中だと知り、かねてより受けていた「敵艦船攻撃を続行せよ」の命令を遂行しようと、「沖大東島に向かう」旨の通信を第6艦隊に送信。この通信は受信する事が出来たものの、肝心な最初の電文を受け取っていない第6艦隊は「伊44が回天攻撃をせずに硫黄島海域から離れようとしている」と解釈、翌2日朝に「回天は発進したのか?」と照会するとともに「指示通り作戦を実行するように」と念を押した。話が食い違っている事に気付いた伊44は3月3日、「回天は発進していない。28日の本艦電報を了解されたか」と返電。ここでようやく第6艦隊は受信の失敗に気付いて再度送るよう指示し、伊44から再送信された28日の電文を見て、改めて「好機あらば硫黄島方面敵艦船に対し回天を以って奇襲を決行するように」と重ねて命じた。
3月6日に第6艦隊より上の連合艦隊が硫黄島方面での作戦中止を決定。これに伴って伊44に帰投命令が出された。予想以上に戦況が悪化していたのである。3月9日、大津島へ戻って未使用の回天と搭乗員を揚陸し、3月11日に呉へと帰投した。一緒に出撃した伊368と伊370の姿は無く、同じく硫黄島方面に出撃していた呂43も未帰還となっており、「千早隊」で生還したのは伊44だけだった。
帰投後に行われた研究会には第6艦隊司令の三輪長官や参謀、参謀長ら十数名が出席。しかし研究会とは名ばかりで実態は回天を発射せず帰投した川口艦長を追及する査問会だった。座上の川口艦長は毅然と「警戒厳重な敵洋上泊地に進入して回天攻撃を決行する計画自体に問題がある。潜水艦と回天に犬死にを強いる無謀な作戦である」と自らの意見を述べたところ、第6艦隊参謀の癪に触れて「卑怯、未練!」「潜水艦は沈んで来りゃあいいんだ!戦果は俺たちで作る!」と暴言に近い言葉を叩きつけられた。そして川口艦長には老朽潜水艦への左遷処分が下され、通信を担当していた砲術長も、即日退艦を命じられた。
4回目の出撃、回天特別攻撃隊「多々良隊」
3月18日、沖縄上陸作戦を眼前に控えたアメリカ軍は機動部隊を本土近海へ送り込み、九州方面、呉軍港、阪神方面に熾烈な空襲を加えて本土からの抵抗を排したのち、南方へと退避した。3月23日朝に沖縄と南大東島を空襲し、翌24日は延べ1200機による盲爆、更に容赦のない艦砲射撃が中城湾と沖縄南部に降り注いだ。3月25日、沖縄本島への橋頭保とすべく、艦砲射撃の支援を受けたアメリカ軍が慶良間諸島に上陸。
3月27日、第6艦隊は出撃可能な大型潜水艦(伊44、伊47、伊56、伊58)で回天特別攻撃隊「多々良隊」を結成。本来であれば伊53も参加予定だったが、光基地への回航中、B-29が敷設した磁気機雷に触れて損傷を負ってしまったので、急遽出撃から外されている。攻撃力を高めるため各艦の回天搭載数を1基増やして6基とするが、搭乗員の練度不足から航行艦への攻撃は禁じられ停泊中の敵艦船のみを標的とした。出撃出来る搭乗員が少ないからか伊44に割り当てられた回天も5基だけだった。この決定が下されるまで第6艦隊では白熱した議論が繰り広げられたという。同日夜、壮行会が行われて大量の酒が振る舞われる。そして4月1日にいよいよアメリカ軍18万が沖縄本島西岸の嘉手納付近に上陸を始めた。
4月3日、回天4基を搭載して大津島より出撃。搭乗員は前回の「千早隊」と同じ4名だが、潜航中でも回天への搭乗を可能とする交通筒は土井艇と亥角艇にしか装備されていなかった。豊後水道東口で仮泊したのち翌4日午前6時に太平洋へと進出。これ以降伊44は消息を絶ち、4月14日発令の沖縄・マリアナ間航路攻撃指示や、4月21日に出された帰投命令にも返電が無かった。帝國海軍は5月2日に沖縄方面で喪失と判断、6月10日に除籍した。
最期
潜水艦の特性上、正確な沈没地点と命日が判明するのは少数である。戦後、防衛庁戦史室と日本海軍潜水艦史が日米双方の資料を紐解いた結果、次のような最期だと分析した。
1945年4月17日23時20分、南大東島北北東で米駆逐艦ヒーアマンがレーダーで浮上中の伊44を捕捉。複数の駆逐艦が迎撃に向かう途上でレーダーから光点が消失した。敵艦の接近に気付いた伊44が急速潜航したのだ。23時35分、ソナー探知により息を潜める伊44の位置を掴んだヒーアマンが爆雷を投下、続いて司令駆逐艦マッコードも爆雷攻撃を開始した。
翌18日午前1時30分から午前7時43分までの約6時間、2隻の爆雷が底を尽きるほどの苛烈な対潜攻撃を受けるも、驚異的な粘りを見せて生き残る。やむなく司令駆逐艦は付近の駆逐艦に応援と交代を要請し、増援が到着するまで伊44を見張り続けた。その間に伊44は敵の包囲網から脱しようと北東方向へ潜航しながら移動。第58.3任務群と第58.5任務群との間で、連絡任務に就いていた駆逐艦コレットとメルツがマッコードからの応援要請を受け、午前10時30分に現場海域へと到着、2隻から探知状況に関する詳細な情報を引き継いで交代した。10分後、ソナーで探知した伊44に向けてメルツが突進。しかし伊44が予想以上に激しい回避運動をしていたせいか爆雷を投下出来なかった。
午前11時3分よりコレットが爆雷7発を、続いて午前11時37分にメルツが爆雷11発を投下、午後12時5分と26分に再びコレットが爆雷を投下するが、伊44は水深76mから137mの間を上下に移動して爆雷を巧みにかわし続ける。爆雷というのは起爆する深度が設定されており、上下に激しく動かれるとタイミングがズレて致命傷には程遠くなってしまうのだ。コレットとメルツは双方の情報を照合し、かなり深く潜っていると判断、四度目の投射では、伊44の退避方向を計算しつつ深度137mに設定した爆雷7発を投下。
8発目の爆雷を投下した数十秒後、水中爆発の轟音が聞こえてきた。ついに伊44が損傷を負ったのである。
13時12分、被弾が原因なのか、動かなくなった伊44の頭上からコレットが五度目の爆雷投射を実施、するとソナーから反応が消えたため米駆逐艦は撃沈と判断。これが伊44の最期だった。乗組員130名全員死亡、場所は沖縄本島北端の東方約125海里、使用爆雷数は35発。午後になるとコレットが爆雷投射した地点に重油が浮かび、メルツが撃沈の証拠となる残骸を拾い集めて帰投した。
沖縄海域に進出した潜水艦11隻のうち伊44を含む8隻を喪失。回天母艦だと伊44と伊56の2隻が未帰還となった。伊44の戦没を以って巡潜乙型改一は全艦戦没となってしまった。塞翁が馬か、左遷された川口艦長は終戦まで生き残る形となった。
関連項目
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