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金日成(きん にっせい、キム・イルソン)とは、朝鮮民主主義人民共和国(俗称金氏朝鮮、北朝鮮)の建国者である。
概要
北朝鮮を建国した政治家である。金正日は長男、現在の指導者である金正恩は孫にあたる。
政治家としての傑出した才能を持ち交渉術や権謀術数に長けていたほか、社会主義国家の元締めであるソ連が苦しくなるまでは北朝鮮を着実に成長させた。少なくとも1970年代までは北朝鮮は韓国に対し優位を保っており、これは彼の資質に寄る部分が大きい。
極悪非道の独裁者であった側面がありながらも、こうした確かな実績と若いころのハンサム顔から、今でも北朝鮮の国民に慕われている。この点が後の指導者である金正日や金正恩と大きく異なる。
概要
1912年4月15日に朝鮮の平壌に生まれ、その後満州に移住し終戦まで抗日パルチザン活動を行っていた、とされている。
だが戦前の彼の人生については北朝鮮のプロパガンダによる部分が多く、実は不確かである。この「金日成」と後の金日成が同一人物である保証はなく、少なくとも中朝国境付近で度々ゲリラ活動を行っていた「キム・イルソン」は、名前が同じだけの別人である可能性が高い。
朝鮮の日本統治が終了し、朝鮮半島北部がソ連の軍事統治下になると1945年10月14日に「金日成」として初めて民衆の前に姿を現す。しかし抗日運動を行っていたにしてはあまりにも若いハンサム顔であり、しかも朝鮮語は上手とは言い難かった。ソ連による替え玉であるという説はここに端を発している。
建国
金日成が1940年以降ソ連軍に所属していたことは確かであり、戦後は再建された朝鮮共産党の責任書記に就任した。もともと朝鮮半島における抗日運動の主体は左翼勢力だったため、後に韓国となる南側も含めて支持するものは多かった。だが中国共産党やソ連共産党の思惑が入り乱れ派閥対立が起きる中、金日成は持ち前の政治力を発揮し存在感を増していった。
金日成を始めとする帰国者たちは朝鮮半島北部のソ連軍事統治地域のみでの独立を推し進め、ソ連やアメリカの動きもこれを後押しする。1948年に南部で大韓民国が成立すると、北部も朝鮮民主主義人民共和国として独立し、金日成は最高指導者として就任した。
朝鮮戦争
建国当時から金日成は朝鮮半島統一の野望を持っており、1950年6月25日に韓国へ侵攻し朝鮮戦争が勃発。緒戦はアメリカを始めとする西側諸国を相手に一時は釜山周辺にまで追い詰めるも、国力の差から戦争の長期化には耐えられず10月には一転して自国領への侵入を許してしまう。金日成は満州へ亡命を余儀なくされたが、中国への影響を重く見た毛沢東の意向により中国軍が参戦し一気に戦線を押し返す。これにより北朝鮮はすんでのところで滅亡を免れた。
金日成は毛沢東ほどの軍事的才能を持っておらず、またこれが替え玉説に説得力を持たせる理由の一つでもある(ゲリラとしての戦闘経験が生かされなかったため)。しかし難航したものの最終的にスターリンの支援を取り付けるなど政治家としては少なからず活躍している。
停戦後に少し領土を削られはしたものの、一時はアメリカを始めとする国連軍を圧倒したことは、北朝鮮の脅威を国際社会に知らしめ、(かつて日本が日露戦争でロシアを打ち破ったように)反米国家に畏敬の念を抱かせることとなった。これが現在まで北朝鮮が存続できている大きな理由である。
朝鮮戦争後
朝鮮戦争で国土が荒廃した北朝鮮だったが、幸いにも韓国に比べて復興に有利であった。
- もとより朝鮮半島は北部に鉱物資源が集中しており、資源はある程度自力で賄えた。
- 大日本帝国時代に建設された水力発電所などの重工業に必要なインフラは主に朝鮮半島北部に存在した。その多くは朝鮮戦争で破壊されてしまったが、元からなかった韓国よりはましだった。
- 韓国の李承晩が無能であり、これは相対的に金日成には有利だった。
しかし在韓米軍を擁する韓国に対し北朝鮮は自力で軍事バランスを保つ必要に駆られた。このような要因から金日成は軍需産業を含めた重工業を最優先して復興を行うことに決め、共産主義国家にはありがちだが生活必需品などの軽工業は後回しにされた。
こうした経済政策は人民に痛みを強いたがとりあえずは成功し、朴正煕が漢江の奇跡を起こすまでは北朝鮮の国力は韓国を上回っていた。しかし1970年代に入ると北朝鮮もオイルショックの直撃を受け、金日成は難しいかじ取りを迫られることになる。
ここで台頭してきたのが長男の金正日である。中ソの影響にあった党員を粛清したことで国際関係が悪化する中、スターリンをモデルにし自身の個人崇拝による権力基盤の確立を図った金日成にとって息子は大事な右腕となった。
晩年
1980年代に入ると、社会主義が資本主義よりも非効率で経済的に立ち遅れることは誰の目にも明らかになった。北朝鮮も御多分に漏れず、組織の硬直化で生産効率は低下していった。一方で韓国では1988年にソウルオリンピックが開催されることになり、金日成は国威発揚の手段としてハコモノを大量に建造させたが、これも北朝鮮経済を圧迫していった。
1989年にはヨーロッパの社会主義国家が次々に崩壊。91年にはとうとうソ連が崩壊し、頼みの綱であった東側諸国からの経済援助が途絶してしまう。
このような状況で金日成は打てるだけの手を打とうとし、北方の国境地帯付近を経済特区にして中国とソ連からの外貨流入を期待する、アメリカとの将来的な国交を結ぶべく奔走する、反共団体である統一教会と電撃的な会談を行い経済援助を手にする、韓国との関係改善を図るべく金泳三大統領との首脳会談を行おうとするなど、それまでの北朝鮮の政策をがらりと変えた。
だが時すでに遅く、1994年7月8日に金日成は心臓発作で亡くなった。享年80。盛大に国葬が行われ、その遺体は平壌に永久保存されている。
死後
金正日にとって金日成は偉大な父でありすぎ、自身の位を金日成より一つ下に置く政治体制となった。これが慣例化し、金正恩も踏襲している。
北朝鮮にとって不幸なことに、金日成の死後大飢饉が北朝鮮を襲い、多数の餓死者を出した。また金正日は金日成ほど有能ではなく、父が最後に示した開放路線を金正日は忠実には実行せず、核兵器や大陸間弾道弾を始めとする先軍主義に走ることとなった。
その金正日も死んで今は更に無能かりあげクンの時代だが、金日成はこれを見てどう思うのだろう・・・
粛清
金日成には政敵が多かった。戦前より朝鮮半島で活動していた国内派(韓国から脱出し合流した勢力を含む)、中国共産党の影響下にある延安派、ソ連共産党の影響下にあるソ連派などが朝鮮労働党内で幅を利かせていた。一方金日成は満州出身の抗日パルチザンらで構成された満州派の長であったが、満州派は数の上では圧倒的少数派だった。このため自身の権力基盤を確立するために数々の粛清を行う必要があった。
まず手始めに朝鮮戦争の責任を韓国から脱出してきた勢力に押し付け粛清。続いてスターリン批判を行った延安派を粛清し、この動きに同調したソ連派も粛清。こうして北朝鮮にある隣の2大国の影響を極力排除した後、北朝鮮国内でパルチザン活動を行ってきた残りの国内派らも粛清された。そして他の派閥が消滅したあとは満州派らも次々と粛清されていった。
こうした粛清を20年以上も続け金日成は自身の権力を安泰なものとしたが、これ以降も特に後継者と目していた金正日の政敵になりそうな者は親族含めて時折粛清された。
人物
最高指導者として、国家に於いては「国家主席」「内閣首相」。軍に於いては「最高司令官」。党に於いては「中央委員会委員長」「総書記」の役職に就いた。1977年には国家の公式理念を「主体思想」(チュチェしそう)とした。
弱小であった朝鮮労働党を持ち前の交渉術で基幹政党にまで押し上げ、共産国家でありながら「優秀な後継者を探していたらたまたま息子だった(意訳)」と称し一族への禅譲を完成させた。
トップに君臨してから一度の失脚もなく事実上の王朝国家を創業していることからも、権力闘争には非凡な才能を持つ。一方で存命中に個人崇拝を強めたことからもわかるように、自己顕示欲が強く俗物であることは脱北者からも批判されている。
敵とみなした人間には容赦がなく、次々に派閥を排撃した一方、金日成を名乗り衆目に姿を表した際には周囲のヤジに耐え切れず言葉が上ずる、朝鮮戦争の米韓軍反撃の際には兵を見捨てて脱兎のごとく中朝国境付近まで逃亡、そのうえスターリンに助力を求めるも一蹴される、など指導者としてはやや小心者で情けない一面もある。
私人としては2人の妻を持ったが、前妻は早くに死亡しており、後妻には金日成の母とともに連れ子にも実の親のように接すよう諭したり、後妻が政治に関わりすぎて失脚しても、私生活は変わらず接するなど自身と家族との仲は概ね良好であった(後妻と正日はのちに仲違いするが)。若い頃は日本人のメイドを屋敷に住まわせていたが、かなり大事に扱っていた。面と向かって「共産主義より天皇陛下のほうがいい」と言われても笑って答えた逸話も残っている。
さすがに現在の神のような扱いはやりすぎだが、ロシアが傀儡に選んだだけあって若い頃はイケメンであり男女ともに好かれるプレイボーイであった。(晩年の金日成はふくよかな体型であったものの若い頃の写真は志を目指す好青年的な雰囲気だったり、男らしく指導者らしいガッチリ体型を見せてくるなど写真によって印象が変わってくる)。なお、金正恩も痩せたらかつての若い頃の金日成に似ているかもしれないという噂もある(指導者はふくよかというイメージ戦略がありそうなのでこの真相はほぼ永遠の謎である)
金正日や金正恩は脱北者から独裁者として全否定されることが多いのに対し、金日成は元党幹部の黄長燁から経歴を美化するなど俗物的ところもあったが偉人と評し、一般人でさえ「笑みを絶やさないハンサムな若者でした」という証言が存在するなど、ある種のカリスマ性は備えていた。
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関連項目
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