鹿ケ谷の陰謀とは、安元3年(1177年)に起こった平氏一門の打倒を目的とする陰謀事件である。
だが実際にそんな陰謀は存在せず、平清盛がでっちあげた可能性が指摘されている。
概要
『平家物語』においては、朝廷内で急激に権力を伸張させる平氏に対して反発を覚えた西光を始めとする後白河法皇の側近・院近臣達が、同じく院近臣の俊寛の別荘で平氏を打倒する謀議を行ったとされる。
この謀議においては、倒れる瓶子(へいじ)を平氏に見立てて「平氏が倒れた!」と喜び、瓶子の首を折って「(平氏は)打ち首だ!!」と院近臣達がはしゃぎたてる描写が特に有名である。
だが参加者であった多田行綱が、計画の杜撰さや平氏の威光に屈したため清盛に密告、参加者たちは捉えられ拷問・厳罰を与えられたという流れである。一般的に知られている顛末はこちらになる。
しかし近年においては、そもそも謀議などは無い・謀議があっても平氏打倒を目的とはしていなかったとされており、清盛が政治上の理由からでっちあげたに過ぎない架空の陰謀だと見られている。
前史
嘉応の強訴
嘉応元年(1169年)、尾張守であった藤原家教の目代(代理として現地に派遣された役人)、藤原政友が延暦寺領の荘園でトラブルを起こしてしまう。後白河法皇は増長する寺社政権の勢力を削ぐために荘園整理令(保元新制)を出しており、派遣されてきた目代と寺社政権との間でトラブルが頻発していた。
これ自体はよくある話ではあったのだが、尾張守・藤原家教が院近臣・藤原成親の実の弟であったことで自体が一気にややこしい事になる。延暦寺が成親の配流、政友の投獄を求めて強訴を引き起こしたのだ。
後白河法皇は自身の仙洞御所の警護を強化して迎え撃とうとするも、大衆・僧兵達は当時8歳の幼帝である高倉天皇が住まう内裏へと向かうと、兵力の薄さもあって乱入に成功し神輿を据えて騒ぎ立てた。弱った後白河法皇は「幼帝である高倉天皇への脅しは不当であり、仙洞御所に来れば要求は聞く」と主張するも、大衆が聞き入れる事はなかった。
対応に迫られた後白河法皇だったが、検非違使別当であった平時忠からの『要求を聞くなら速やかに、聞かないなら武力で追い出す』という進言を元に協議に入るも、武士を率いる立場であった平重盛には出動命令を拒否されてしまう。武力鎮圧が不可能である事を悟った後白河法皇は、政友の解任・投獄のみで収拾を図ろうとしたものの、大衆は「成親の配流」を譲る気はなく決裂。御神体である神輿を放置してしまった。
祟りが信じられていた時代ということもあり、この『御神体放置』をやられると神威や祟りを恐れた貴族達は出仕が出来ず政治活動が全て止まってしまう。困り果てた後白河法皇は大衆の要求を全面的に飲む形で、成親の配流と政友の投獄を決める。要求が通った大衆は神輿を回収して歓喜して比叡山にもどった。坊さんとは名ばかりのただのヤクザ行為である。
一度決めたら必ずやり遂げる男
数日後、なんと後白河法皇は裁定をひっくり返して、成親を召還。事件処理を手掛けた検非違使別当・平時忠、蔵人頭・平信忠の二人を『奏事不実(報告に嘘があった)』として、解任・配流。そして空位になった検非違使別当に成親を就任させる暴挙に出た。
当然ながら大衆がこの措置に納得するはずもなく、院と延暦寺の抗争が再発するかと思われた。
そこに現れたのが福原から状況を憂いていた清盛である。重盛から報告を聞いていたものの自体の泥沼化を察して上洛する。すると成親は検非違使別当の辞任を申し出た。そして数日後には平氏の本拠地である六波羅に大量の兵が集まり、延暦寺との一触即発を予感させる事態となった。
ここから後白河法皇・院近臣・公卿達が2週間ほど協議(という名目だが、実質的には後白河法皇の説得である)の結果、改めて成親は検非違使別当を解任、時忠・信忠が還任される当初の裁定通りに戻った。
だがしかし後白河法皇は諦めていなかった。成親の配流は実行されずウヤムヤにした挙げ句、3ヶ月も経たないうちに成親を元の役職に戻した挙げ句、再度検非違使別当に任じてしまった。
この後白河法皇の難儀な性質は、当時の公卿である九条兼家の日記である「玉葉」にも「もし叡心果たし遂げんと欲する事あらば、あえて人の制法にかかわらず、必ずこれを遂ぐ(一度やろうと決めたら他の人が止めてもやりきってしまう)」とまで書かれている有様である。
また、結果的に強訴で何も得られなかった延暦寺としては屈辱と恨みを感じたようである。
事件の経過
白山事件
安元3年(1177年)、加賀守・藤原師高の弟で目代であった藤原師経が延暦寺の末寺・白山を焼くトラブルを起こしてしまった。これに対して延暦寺が師高の配流を求めて強訴を行う。(白山事件)
上記の通り、当時国司層と寺社勢力との領地争いは当時頻発していたのでこれ自体は珍しい事ではなかったが、師高・師経兄弟の父は院近臣であった西光であったために院近臣と延暦寺の政争という形で中央に波及してしまった。察しの通り嘉応の強訴とは構図が一致している。
これに対して後白河法皇は師経の配流のみで済ませようとするも失敗、大衆達は神輿を持って内裏を目指した。強硬策を取った後白河法皇は警護兵を派遣させるも、派遣された平重盛の兵と大衆との衝突があったことで神輿に矢が刺さり、大衆側に死者が出てしまった。これに激昂した大衆は神輿を放置、京の政治活動をストップさせてしまった。
協議の末、後白河法皇は師高の配流と神輿に矢を射掛けた重盛の家人の禁固を決めた。延暦寺側の要求を最大限飲んだ形になるのだが…。ここで後白河法皇の性格を思い出していただきたい。
一度決めたら必ずやり遂げる男(Pt.2)
やはりというか、このままで終わらないのが後白河法皇である。数日後、突然天台座主(延暦寺の貫主・住職)・妙雲の逮捕を命じ、天台座主を解任・所領を没収すると伊豆国に配流にしてしまった。息子・師高の配流を嘆いた西光から「強訴の首謀者は妙雲である」と讒言を受けてのことであった。また、嘉応の強訴の主犯もやはり妙雲であるという密告も受けていたようである。
ここで大衆は強訴には踏み切らなかったものの、妙雲が源頼政の護衛によって伊豆国に配流される際に護送部隊を包囲して妙雲を奪還、そのまま比叡山に逃げ込んでしまった。事前に後白河法皇は「大衆が妙雲の身柄を奪還しに来たら斬首せよ」と命じていたものの、後白河法皇の命を受けて大衆と衝突した結果罰せられている重盛の家人の前例もあるだけに、頼政としては奪還を防ぐつもりはほとんど無かったようだ。
これにブチギレた後白河法皇はとうとう「比叡山延暦寺を攻撃しろ」という命令を平重盛・平宗盛に出す。
(強訴まみれといえど)延暦寺は京を守護する寺である。それを京の支配者たる治天の君が攻撃しろという異常事態に困惑を極めた二人は福原に居た父・清盛の指示を仰いだ。異常事態を悟った清盛はすぐに京に向かい後白河法皇と面会をして説得を試みるも、法皇の熱意に押し切られる形で延暦寺の総攻撃が決まった。
陰謀の露見と後処理
総攻撃の前日の夜中に清盛の館に「西光ら院近臣による平氏打倒の謀議があった」という密告が入る。
これを受けた清盛は総攻撃を即刻中止にすると、軍勢を派遣して西光を捕縛した。この際に清盛は「平家に逆らうものはこうなるのじゃ!」と西光の顔を踏みつけるも、西光に「成り上がりの分際で!」と言い返された結果清盛が激昂した描写が平家物語に記されている。
その後、西光を拷問にかけて陰謀の全容を自供させた後に斬首にすると、その自供を元に謀議の参加者を次々と捕らえていった。
処罰となった代表的な参加者
- 西光 - 拷問後斬首
- 藤原成親 - 流罪(流刑地にて殺される)
- 藤原成経 - 鬼界ヶ島に流刑(平教盛の尽力で後に赦される)
- 平康頼 - 鬼界ヶ島に流刑(後に赦される)
- 俊寛 - 鬼界ヶ島に流刑(鬼界ヶ島に流れた中で唯一赦されず、自害する)
- 多田行綱 - 密告したため無罪放免(流罪となったという資料もある)
などが挙げられる。後白河法皇も関連を疑われたがシラを切り通す事で難を逃れた。
その後流刑された師高が平氏の手の者により殺害され、妙雲も配流を解かれ元の役職に戻る事となった。なおこの動きを知った大衆達は、敵を討った事への感謝を伝える為に清盛にわざわざ使者を送っている。
でっちあげと言われる理由
実際の所当時から謀議の実在性については疑われていたようで、西光や成親が清盛の出頭命令に簡単に応じている辺り、当人たちも思い当たるフシは無かったように思える。
ではなぜこのような事件を捏造する必要があったかについては、大きく分けて2つの要因があると考えられる。
延暦寺との対立を回避
延暦寺を徹底的に冷遇した後白河法皇に対して、清盛は延暦寺に対しては友好的な立場を取っており延暦寺座主である明雲が清盛の出家の際には戒師を務めているなど関係性が深かった。
加えてこの時代は崇徳天皇の怨霊などが大真面目に信じられていた時代である。そんな中で京を守護する役目を担う延暦寺を攻撃せよというのは、間違いなく仏罰として祟りを受けると考えるのは普通である。
清盛からすれば後白河法皇の「延暦寺を滅ぼせ」という命令は、「延暦寺を攻撃した因果応報で平氏も滅べ」という後白河法皇の意図が裏にあると感じた可能性は有り得る話である。
高倉天皇-平氏と後白河法皇-院近臣の対立
清盛率いる伊勢平氏の一派は平治の乱の勝利後、二条天皇に近しい立場を取っていたが、二条天皇の崩御以降は後白河派に鞍替えを図る。平氏の力添えもあり、後白河派は政権の中で主導権を握るようになる。その連携の大きな原動力になったのが『建春門院・平滋子』の存在である。
堂上平氏出身で清盛の義理の妹(滋子の姉・時子が清盛の後妻)であった滋子だったが、美人かつ聡明で名高く後白河法皇に見初められて入御すると、法皇からの寵愛を一手に受ける存在となった。以降、堂上平氏・伊勢平氏・後白河法皇の三者の間に入り、利害の異なる各勢力のバランサーとして機能する事で大きな存在感を発揮するようになる。
そしてその連携の象徴と呼べるのが、滋子と後白河法皇の間に産まれた皇子・憲仁親王である。後白河法皇としては寵愛する滋子との子を後継に望むも、対立する二条天皇の存在もあり立太子は絶望的であった。しかし二条天皇の崩御で政敵が居なくなると憲仁親王を立太子までこぎつけ、二条天皇の忘れ形見である皇子・六条天皇をわずか5歳で退位させると、憲仁親王を高倉天皇として即位させる。皇太后となった滋子はさらに政治的な影響力を強めていく。
そして高倉天皇は元服すると、清盛の娘であり自身の従姉でもある平徳子を中宮に迎える。無論だがこれには清盛と滋子の意向が強く反映していると考えられる。
このように後白河政権の要と言えるほどに滋子の存在は大きかったのだが、安元2年(1176年)突然の病に倒れると35歳の若さでそのまま崩御してしまった。バランサーを失った事で各勢力の対立化が表面化するようになるのと同時に高倉天皇が非常に不安定な立場に置かれることとなった。
従来、高倉天皇は"後白河法皇と平氏の間に板挟みにあっていた"という事が言われていたが、近年においては清盛ら平家一門と組む事で自らの政治を進める意思があったと見られており、引き続き院政を敷く事で自らの権勢を保持を目論む後白河法皇とは対立関係にならざるを得なかったようである。実際、後白河法皇は皇子の産まれない高倉天皇に対して退位を狙った政治工作と思われる行動をしている。
その一方で清盛としては徳子から皇子が産まれる前に高倉天皇に退位されてしまうと、天皇の外戚として絶大な権力を握るチャンスを失うためとてもではないが容認できない。よって清盛としては高倉天皇に皇子が産まれてくるまでの間、後白河法皇の政治的影響力を削いでおく必要があり、そのために側近である院近臣達を排除する必要性を感じていたと考えられる。
実際に謀議があったの無かったのかどうかは現在でも明確にはわかってはいないものの、清盛からしてみると少なくとも「延暦寺攻撃の回避」と「後白河法皇の影響力を下げる」という当面の2つの政治的課題を一気に解決しており、仮にでっちあげであれば大成功と言える結果に終わっている。
その後
清盛は後白河法皇の影響力を下げる事に成功したものの、この事件を期に後白河法皇と清盛の関係性は完全破綻する事となり、後白河法皇にとっては遺恨を強く残す事となった。
そして事件の翌年、高倉天皇の中宮・徳子が懐妊し出産。言仁親王と名付けられた皇子は出産、即座に立太子される。皇子の側近達は平氏や親平氏派の公卿で固められていく。高倉天皇にとってのアキレス腱であった後継問題が解決したことで、清盛は後白河法皇に対して引退の圧力を強くかけていくことになる。
しかし上記にも書いたとおり後白河法皇は「絶対に諦めない男」である。この後に「鹿ヶ谷の陰謀のお返し」と言わんばかりに、重盛や清盛の娘である盛子(摂関家の莫大な所領を相続していた)の所領を没収し、清盛が後見する20歳の近衛基通を差し置いて、父に反平氏の急先鋒である松殿基房を持つ8歳の松殿師家を権中納言にしてしまった。これは基通ではなく師家を摂関家の正当な跡取りにさせるための措置である。
これらの後白河法皇の挑発行為に完全にブチギレた清盛は治承三年の政変を引き起こし後白河法皇を幽閉。言仁親王を即位させ安徳天皇とし、高倉上皇を傀儡とした平氏政権を樹立させるも、高倉上皇の崩御で清盛の目論見は頓挫、後白河法皇を政治の表舞台に復帰せざるを得ない状況になってしまう。そして強引な政変への反発から以仁王の挙兵を招き、全国的な反平氏の流れの中で清盛は熱病で死に、治承・寿永の乱へと連なっていく。
平重盛の受難
実はこの事件で一番ダメージを負ったのは後白河法皇ではなく、平重盛である。
重盛は正室に藤原成親の妹・経子を迎えており、長男維盛と三男で経子との初子である清経は成親の娘を妻にしているなど重盛一族全体で成親との関係性を持っていた。このため平家一門の中では最も後白河法皇と近い立場におり、滋子の崩御以降は院近臣として重要な役職にある成親を窓口にする事で後白河法皇と平氏の関係性を保っていた。
当然ながら成親が捕縛された際も「命だけは助ける」と成親を励ましており、清盛に対しても左大臣を辞する事で抗議を示したりや配流先の成親への物的支援をするなどあらゆる努力で成親を救おうとしたのだが、結果的に成親を守りきる事が出来ずに配流先で成親は惨殺されてしまう。
実は成親は平治の乱の際に妹が嫁いでいた事から清盛の敵方である藤原信頼についており(信頼を経由して後白河法皇の側近になった)、この時は重盛の助力で軽い処分で助けられている。清盛がこれを覚えていた可能性は十分にあり、重盛の頼みと言えど"二度目はない"という意思表示だったのかもしれない。
一族ぐるみで付き合いのあった成親が打倒平氏の謀議の首謀者の一人であった事、そしてその成親を救うことが出来ず死なせてしまった事で、重盛の政治的な地位は失墜してしまった。
以後完全に消沈した重盛は政治の表舞台にはほとんど現れず、病を患い亡くなってしまった。死因に胃潰瘍が有力視されているというのが重盛の晒されていたストレスが想像を絶する物であったことを感じさせる。
そして重盛の死後、母に平時子という圧倒的な存在を持つ宗盛が平家一門の棟梁として台頭していくことになり、重盛の一族は平家一門でもかなり浮いた存在になってしまう。
そして最期は自身の死に伴う知行国の扱いが要因の一つとなり治承三年の政変が引き起こされることになる。後白河法皇と清盛が対立しないように命を磨り減らしながら調停役をしていた重盛にとってはあまりにもむごい結果になってしまった。成親に目をかけてしまった事が重盛の全ての不幸であった。
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