U-875とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXD2型Uボートの1隻である。1944年4月21日竣工。終戦まで生き残った後、1945年12月31日、デッドライト作戦で海没処分。
概要
IXD2型とは、今までのIXA~C型とは全く異なる船体を持った、遠距離航洋タイプのUボートである。全長が11mほど延伸され、排水量も500トンほど増加、IXC型より快速を発揮出来たが、操縦性に若干難があったとされる。このような設計変更は南大西洋やインド洋での運用を想定していたためである。
まず最初にIXD1型が建造されるも、生産性を高める目的で搭載した魚雷艇用エンジンの信頼性が低かったため、IXC型と同一のMAN社製M9V40/46ターボチャージドエンジン2基に変更し、新たにMWM社製RS34/5S巡航用ディーゼル2基を搭載、これによりフランスからインド洋やオーストラリア近海まで長駆出来る長大な航続距離を獲得した。10ノットで最大約5万4000kmの航続距離があるため理論上は無補給で地球一周が可能。また、補助用ディーゼル発電機と電動モーターを同時駆動させる事で、水上速力19ノットを実現。
IXD2型は合計30隻が就役。いずれもAGヴェーザー社ブレーメン造船所が建造を担当した。
U-875には、IXC/40型の特徴であるタレットコンバージョンⅡとクイックダイブバックが採用されていた。大型のIX型は急速潜航秒時が遅く、接近する敵機から逃れるため、急速潜航の時間を短縮する目的で前甲板の両側の大部分を切り取る大胆な改造を施した訳である。これを持つIXD2型はU-864、U-873、U-874、U-875の4隻のみで大変珍しい。一応若干の短縮効果が見られたものの改造費用と見合ったかどうかは怪しい。またU-875、U-190、U-883のみ前甲板上に二重の足場を設ける小改造が行われている。
現代ではU-875の模型が発売されており、パッケージ絵にはフォッケ・アハゲリスFa330を運用する様子が描かれているが、今のところU-875が運用した資料は見つかっていない。一方、現存する写真から二色迷彩が施されているのが分かる。起工が1942年10月15日以降のため新型磁気コンパス・アスカニア型を装備。
諸元は排水量1616トン、全長87.58m、全高10.2m、喫水5.35m、出力9000馬力、最大潜航深度100m、急速潜航秒時35秒、最大速力20.8ノット(水上)/6.9ノット(水中)、乗員55名または64名、燃料搭載量441トン。武装は53.3cm魚雷発射管6門(艦首4門、艦尾2門)、10.5cm甲板砲1門、3.7cm甲板砲1門、2cm対空砲1門。電探装備としてFuMO 30レーダーを持つ。
艦歴
桜のエンブレムを刻んだUボート
1941年8月25日発注。1943年5月11日、AGヴェーザー社ブレーメン造船所にて、ヤード番号1083の仮称で起工する。しかしこの頃には既に連合軍のブレーメン空襲が始まっており、10月8日には第381爆撃隊が造船所を正確に爆撃している。その後も断続的に空襲が続いた。
12月末頃よりU-1224の乗組員の大部分がU-875に割り当てられ、短縮された第二次建造訓練コースに従事し、1944年2月16日に進水、3月からは元オリンピック選手のゲオルグ・プレウス大尉が第六海軍造船訓練部にて建造指導を開始、そして4月21日に無事竣工を果たした。艦長にはプレウス大尉が、一等航海士にはヘルムート・コンラッド中尉とローラント・レッヘ中尉が、二等航海士にはハインツ・レーマー少尉が着任。竣工と同時に訓練部隊の第4潜水隊群へ編入される。
かつてプレウス大尉らがいたU-1224は、同盟国日本へ譲渡される事が決まっており、伊8に便乗して訪独した乗田貞敏少佐率いる日本人回航員60名に操艦方法を教えていた。その過程で彼らは食事、国家対抗大水泳競技、合同レスリングなどを通して絆を育んだ。一部のドイツ人乗組員は囲碁を覚えたり、日本語で「春が来た」や「軍艦行進曲」を唄えるほど熟達していたという。
その後、U-1224は日本側に譲渡されて呂501に改名、帰国するべくキールを出港していったが、友好の証として、訓練中ずっと飾っていた神棚をプレウス大尉たちに残していた。彼らはそれをU-875の将校室に飾り、司令塔には、日独共同戦線が張られているインド洋での通商破壊を見越し、桜のエンブレムを描き込んだ。灰色の狼に日本の心が宿ったと言えるだろう。その縁からか、U-875は日本に水銀170トン、光学ガラス、鉛といった戦略物資を輸送する任務に抜擢され、搭載量を増やす目的で魚雷発射管2本を取り外す工事を行う。
しかし5月13日、呂501は中部大西洋で対潜攻撃を受けて沈没。乗田少佐以下全員が戦死した。
出渠後はシュテッティンで慣熟訓練を実施。ダンツィヒ湾では、全裸になって水浴びを楽しむ乗組員の姿が写真に収められている。6月6日、連合軍がノルマンディーに上陸して西部戦線が構築され、6月22日にはソ連軍がバグラチオン作戦を発動、無限に押し寄せる赤き津波により東部戦線が崩壊し、東西を敵に挟撃される絶望的戦況へと陥る。比較的安全だったバルト海やドイツ本国はより一層激しい空襲や機雷投下を受けた。
11月から12月にかけてブレーメンの潜水艦基地に滞在。訓練未了だったからかハンニバル作戦には参加していない。
1945年3月1日にフレンスブルクを拠点とする第33潜水隊群へ転属。ドイツ海軍司令部は連合国との交渉の切り札とすべく、戦闘可能なUボートにノルウェーへの脱出を命令。これに従い、U-875は3月19日、VIIC/41型のU-1010とともに激しい空襲下にあるキールを出港、護衛艦艇と合流するため3月23日までシルク湖で待機した後、3月25日に首都オスロ近郊のホルテン軍港へ辿り着いた。その後、オスロフィヨルドでシュノーケリングを使った潜航訓練を実施。最後の演習では度々日本語による会話が交わされたという。
4月12日にフレゼリクスタ、翌13日にクリスチャンサンへ寄港して物資を補給。
そして日本に出発するべく5月2日、スタヴァンゲルに回航。ところが翌3日午前4時、海軍司令部より全Uボートに対して作戦中止命令が発せられ、5月4日にベルゲンへと移動した。5月7日20時46分、ノルウェー方面のUボートに「出港禁止」「基地間の移動も禁止」「Uボートを沈没させたり破壊するのを禁ずる」「全ての暗号書や航海日誌を破棄せよ」といった命令が下される。
戦後
ベルゲン停泊中にドイツの敗戦を迎え、5月9日、進駐してきたイギリス軍に投降。U-875は生き残ったUボート約470隻のうちの1隻となった。
乗り込んできたイギリスの軍医が、将校室に飾られている神棚を見て「子供のおもちゃにちょうどいい」と発言、これを聞いたドイツ人乗組員らは仲間が遺した大切な物を踏みにじられる訳にはいかないと考え、みんなで相談したのち、イギリス軍先任将校に「調理のごみをデッキから廃棄しても良いか」と要望して許可を取り、その生ごみに混ぜて分解した神棚を海へ投棄。乗田少佐や仲間たちと同じように大西洋へ沈んでいく神棚を見て、やるせない怒りが込み上げると同時に「ああ、これで良かったんだ」という気持ちを抱く。彼らは最後まで仲間想いだったのだ。
6月2日、12隻のUボートと一緒に黒旗を掲げながらベルゲンを出港、スカパ・フローを経由して、6月7日にリサハリーへと回航する。到着後ドイツ人乗組員は退艦してイギリス軍の捕虜となった。乗田少佐らが守ってくれたのか、全員戦死の呂501とは対照的にU-875は一人の戦死者も出さなかった。
U-875とU-874は日本向けの戦略物資が積みっぱなしになっており、これを積み下ろす必要が出てきた。8月25日、英独の乗組員によってリサハリーを出港、翌日リヴァプールへ到着して、グレイソン・ロロ・アンド・クローバー造船所に三週間入渠、水銀の入った金属瓶や鉄、光学レンズなどを揚陸する作業を行った。そして9月11日リヴァプールを出発し、翌12日にリサハリーまで戻る。
イギリスは政治的判断から、接収したUボート116隻を全て海没処分するデッドライト作戦を企図、11月4日に発令し、ライアン湖の86隻、リサハリーの30隻に事実上の処刑宣告を言い渡す。先にライアン湖のUボートを撃沈処分する事とし、11月27日より作戦が始まった。
12月27日21時33分にU-875を撮った写真が現存。実質これが遺影であった。12月30日、リサハリーを発ってモヴィルに回航、フリケード艦キューピットの曳航を受けて同日に出発し、デッドライト作戦の位置まで移動する。本来であれば航空隊や潜水艦による撃沈を予定していたが、天候が極めて悪かったため砲撃での撃沈に変更。そして12月31日午前0時47分、アイルランド北西部の北大西洋にて、英駆逐艦オファの砲撃により沈没した。
戦争が終わっても、U-875元乗組員の心には日本人乗組員との記憶が残っていた。とある乗組員は日独の戦友が写った写真を50年間大切に保管したのち海上自衛隊に寄贈、また別の乗組員は「時々話題がこの悲惨な戦争のことになったり、当時の写真を見たりしていると、心の目にアオキやヤマモトやシミズといった仲間が浮かんできます。名前は多く忘れてしまったけれど、顔を見れば全部の仲間が今でもわかるでしょう」と語っている。
関連項目
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