U-Aとは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用した潜水艦である。本来はトルコ海軍向けに建造したバティレイだった。1939年9月20日竣工。通商破壊により8隻(4万5964トン)撃沈の戦果を挙げた。
概要
第二次世界大戦前、トルコ海軍はドイツにアイ級潜水艦4隻を発注。姉妹艦サルディレイとユルドゥレイは1939年6月に引き渡されたが、キールで建造中のバティレイは第二次世界大戦勃発に伴ってドイツに接収され、U-Aに改名、ドイツ海軍の潜水艦として戦闘任務に投入された。このような背景から海外の資料では他の鹵獲艦同様、外国産Uボートと見なされる。だが実際はドイツ生まれなので外国産と呼べるかどうかは怪しいところ。ちなみにアイ級潜水艦4隻の中でバティレイのみ機雷敷設能力を持つ。
バティレイはトルコ語で「沈める者」を、U-Aは「ausländisches u-boot(外国型Uボート)」を意味する。
機雷敷設用潜水艦を求めるトルコの要望に合わせるため、IX型Uボートに独自の改造を施しており、その艦型はドイツ製でありながらUボートから大きくかけ離れたものに変化。最大の特徴は司令塔と10.5cm単装砲の一体構造であろう。広大なウィンターガルテンのおかげで、荒波に対して良好な防御力を持ち、艦内は他のUボートと比較して広々とし、艦長と機関長にはそれぞれ専用のキャビンが用意されているなど居住性にも優れる。加えて起工だけならIXA型1番艦U-37よりも早かった。元がドイツ製で使い勝手が良かったのか、外国産Uボートの中では最大戦果を叩き出している。
一方、溶接ではなくリベット留めを採用した弊害で、安全潜航深度が80~90mと浅く、ディーゼルエンジンもバーマイスター&ウェイン社製の旧式を積んでいたので、過大な消費電力や騒音問題に度々悩まされた。
要目は排水量1128トン、全長86.65m、全幅6.8m、最大速力18ノット(水上)/8.4ノット(水中)、燃料搭載量250トン、士官4名、兵員41名。兵装は53cm魚雷発射管6門、魚雷12本、10.5cm単装砲1門、エリコン製20mm単装機関砲2門。魚雷発射管に機雷36個を搭載可能。
艦歴
1930年代、近代化を推し進めていたトルコ政府は、ドイツのハイテク産業に着目し、ヨーロッパを追われたドイツ系ユダヤ人科学者約300名を受け入れたり、ハインケルHe111爆撃機24機を発注するなどして技術の吸収を行っていた。その中で最も重要な試みは、1936年にトルコ海軍がドイツにアイ級潜水艦4隻を発注した事である。
1番艦サルディレイと2番艦バティレイはドイツ国内で、3番艦アティレイと4番艦ユルディレイはドイツの監督を受けながらトルコ国内で建造される運びとなり、1938年1月17日、ムスタファ・ケマル・アタチュルク大統領が直々に手紙を送って潜水艦4隻に名前を与えた。この大統領令は今もイスタンブール海軍博物館に展示されている。潜水艦4隻と魚雷の代金は1573万7000オランダ・フローリン。
1937年2月10日、キールのクルップ社ゲルマニア工場にてヤード番号575の仮称で起工、建艦工事は他の姉妹艦と比較して遅れ気味に進み、1938年8月28日に進水式を迎える。バティレイの建造に関しては一悶着があったらしく、1939年5月にドイツはトルコに対し潜水艦の引き渡しを中止すると宣言、ポーランド侵攻が秒読み段階に入っていた1939年8月24日午前11時には、第一海軍参謀本部のフレースドルフ少尉がUボート艦隊に「バティレイの建造を中止して新艦の建造を急ぐべき」と提案している。
そして1939年9月20日に無事竣工を果たした。初代艦長にハンス・コーハウス少佐が着任するとともに第7潜水隊群へ部署。コーハウス艦長によりしばらくオプティミスト(楽天家の意)の愛称で呼ばれていたが、翌21日にU-Aと改名してドイツ海軍に編入。
開戦時、ドイツ海軍のUボート部隊は56隻中46隻が作戦行動可能、しかし、そのうち大西洋の作戦に適していたのは僅か22隻のみで、後の24隻は250トンの小型Uボートなので北海の作戦にしか使えなかった。IX型の艦体を持つU-Aは大西洋での作戦が可能な1隻だったためドイツ海軍が接収したのも頷ける。
1回目の戦闘航海
1940年4月9日、ドイツ軍は北欧からの鉄鉱石輸送ルートを確保するべく、ノルウェーとデンマークに対する進駐作戦を開始(ヴェーゼル演習作戦)。イギリス・ノルウェー軍の抵抗を受けながらも作戦は順調に推移しつつあった。U-Aに与えられた最初の任務は、未だ戦闘が続くノルウェー方面に物資を輸送する事で、その任務に備えて一時的に輸送潜水艦へと改造された。
4月27日午前1時、ガソリン、ドイツ空軍用潤滑油5.2トン、8.8cm砲弾1116発、同小型砲弾50発、8.8cm高射砲、250kg航空爆弾16発、Uボート用カリ弾400発を抱えてキールを出港。カイザーヴィルヘルム運河を通り、寄港先のブルンスビュッテルで護衛と合流したのち、北海に向かう。4月30日午前11時3分、水平線上よりイギリスのA級駆逐艦が接近してくるのが見えたため急速潜航。どうやら敵はU-Aに気付かなかったようで5000m先を横切っていった。
5月2日午前1時23分に目的地のトロンハイムへ入港。運んできた物資を揚陸するべく、午前9時3分、イトレ港へ移動するとともに、コーハウス艦長と港湾責任者プフェンドルフ艦長と協議して周辺の情報交換を行う。U-AとU-101が輸送したガソリンのおかげでドイツ空軍の動きが活発化、スツーカによる大規模な作戦でイギリスの巡洋艦と輸送船を撃破出来るかもしれないとして、乗組員は確たる満足感を覚えたという。またイギリス艦隊がアンダルスネスとナムソスからの撤退を支援している事が判明し、トロンハイムの警戒態勢が徐々に緩和されていった。
5月5日19時にトロンハイムを出発。5月9日正午から14時30分までヘルゴラントの潜水艦港に寄港、ブルンスビュッテルとカイザーヴィルヘルム運河を経由し、翌10日午前10時45分、U-101とキールへ帰投して輸送任務を完了させた。任務後、通常の戦闘用潜水艦に改造。
2回目の戦闘航海
6月6日、キールを出撃して第二次戦闘航海に向かう。無事大西洋に進出したU-Aはカナリア諸島やフリータウン沖など南アフリカ西岸方面で通商破壊を行う。
6月15日23時30分、レイキャビク南方110kmにて、U-Aはイギリスの補助巡洋艦アンダニア(1万3950トン)を狙って魚雷2本を発射、このうち1本が船尾に命中する。アンダニアから防御射撃を受けながら更に3本の魚雷を発射するが、こちらは全て外れてしまい退却を強いられる。しかし、アンダニアは最初の被雷で致命傷を負っており、数時間浮いていたものの、損傷が酷くて復旧は困難で、やがて船尾からゆっくりと沈没していった。こうしてU-Aは1万トン級の初戦果を挙げたのだった。
アンダニア撃沈後、次の狩り場であるカナリア諸島・カーボベルデ諸島間の海域に向けて南下。
6月26日午前2時、リスボン南西にて、リオデジャネイロに燃料油6300トンを輸送中のノルウェー商船クルックス(3828トン)を捕捉、27分後、U-Aはクルックスに向けて魚雷を発射し、船中央に命中、短時間火柱が立ったのち僅か10分で沈没させる。
7月14日午前7時15分、カーボベルデ諸島北西で水平線上に立ち昇る煙を発見して追跡開始。午前11時45分、単独航行中のノルウェー蒸気船サリタ(5824トン)を雷撃して船尾に命中、船体が傾斜し始めたため、船員は救命ボートを降ろし始める。次いで午後12時40分にU-Aは浮上。水上砲撃で直撃弾11発を与えて左側へと転覆させたが、右舷側のタンクが空で浮力になっていたので、機関銃でタンクをハチの巣にしてトドメを刺した。
7月18日、ダンケルクからの撤退に掛かりきりなイギリス艦隊の隙を突き、デンマーク海峡を突破してきた味方の仮装巡洋艦ピングィンとサン・ピエトロ・サン・パウロ諸島沖で合流。7月25日まで燃料、潤滑油、焼きたてパン、飲料水、洗濯用水、砲弾、魚雷7本、食糧の補給を受ける。燃料節約の目的でU-Aはピングィンに曳航され、フリータウン近海まで移動。U-Aはドイツ海軍のUボートの中で初めてフリータウン沖まで進出した艦となった。7月28日にピングィンと分離。
8月3日16時12分、大西洋中部のバンジュール南西で、ユーズコラビア蒸気貨物船ラッド(4201トン)を発見。当時ユーゴスラビアは中立国だったため、19時にまず威嚇射撃を行って停船させ、ラッドに積み荷と行き先を問いただしたところ、過リン塩酸をイギリスの植民地ダーバンへ輸送している事が判明、船員の退避を待ってから魚雷で撃沈する。
間もなく機関故障のためフリータウン沖から退却。本国への帰路に就く。
8月15日20時15分に水平線上の向こう側から立ち昇る煙を発見。22時2分、マデイラ島北西で、マンガン鉱石を満載してワーキングトンに航行中のギリシャ蒸気貨物船アスパシア(4211トン)へ向けて魚雷2本を発射、このうち1本が直撃してボイラーが爆発。船長と船員18名全員を巻き込んで海底に沈んだ。
8月19日午前4時、アイルランド南西でハンガリーの蒸気貨物船ケレット(4295トン)を発見。威嚇射撃で停船させる。ハンガリーは中立国とはいえ枢軸寄りであり(実際3ヶ月後に日独伊三国同盟へ加入)、味方とも言える立ち位置だったが、提出させた書類によると、どうやら沈没船の敵国生存者を乗せているらしく、利敵行為を働いたとして拿捕規則第38/3条及び第40条に基づいてコーハウス艦長が撃沈処分を決定、午前9時10分、魚雷を発射してケレットの船体中央に大穴を開けたものの、なかなか沈まなかったので水上砲撃で撃沈。
同日20時、アイルランド北西でパナマ蒸気船トゥイラ(4397トン)を発見して追跡、翌20日午前0時28分、U-Aから魚雷を撃ち込まれてボイラーが爆発を起こし、8分後にあえなく沈没していった。その後、尋問のため生存者14名が乗った救命ボートに接近している。
8月30日、キールに帰投。85日間の戦闘航海で7隻撃沈(4万606トン)の戦果を挙げた。今回の戦闘航海はカール・デーニッツ提督が戦後書いた回顧録『10年と20日』で触れられており、「大型で機動性が限られていたため、北大西洋での船団攻撃にあまり向いていない」と綴られた。
ドイチェヴェルケのキール造船所に入渠して、主機関の換装及び改造作業、魚雷射撃管制装置の設置を行う。11月、二代目艦長にハンス・エッカーマン少佐が着任。1941年1月20日出渠。1月28日から31日にかけて、西バルト海で試験・訓練航海を行うも、流氷の影響を受けて航行不能に陥り、2月1日から20日まで修理を実施、そのまま造船所内で出撃準備を整えた。
3回目の戦闘航海
1941年2月25日午前8時にキールを出撃。この日のキールは濃霧に包まれており、流氷も広がっていたため、タグボートに曳航されながらの出撃となった。翌26日16時22分より17時34分までヘルゴラント沖でゲルマニアヴェルフトのホッペンラート技師による水中推進音測定に従事。U-Aはトルコ向けに建造されたので、ドイツ製船舶と比べて騒音問題の配慮が低かったと言われる。
3月2日午前6時、北大西洋に進出するべく、フェロー諸島・アイスランド間の海域の突破を試みる。防波堤と敵哨戒艦隊の間には僅か60海里の隙間があり、ここを12~14ノットの夜間水上航行で強引に通り抜けるのである。翌3日17時、哨戒中のフォッケウルフFw200コンドルから「駆逐艦6隻に護衛された40隻の大船団が出発した」との報告が入り、U-A、U-47、U-70、U-99、U-95、U-108、U-552で哨戒線を形成するよう指示される。
3月5日午前0時39分、アイスランド付近で、明るく照らされた汽船がゆっくりと航行しているのを発見、近づいて確認してみるとフィンランドの標識が確認されたため攻撃せず素通りさせた。北大西洋の荒波と荒天は想像以上に凄まじく、しばしばU-Aの活動に制約を課す。BdU(Uボート司令部)からの通信によりU-37とU-108が既に敵船団と接触・攻撃を仕掛けている事が分かった。U-Aは依然として敵船団から約280海里離れている。
3月7日16時、前方の水平線上に多数の蒸気船からなるOB-292船団を発見、夜の帳が下りた後に追跡を開始し、船団の北側から西側にかけて回り込んで、22時30分、U-Aは「船団は8列の広い船列を組んで進んでいる。小型の蒸気船が2~3隻、中型の蒸気船が1隻が見える。各駆逐艦は船団の前路と後方を護衛。月光が明るく攻撃するのは不向きであり、船団前方より監視する」と詳細をBdUに報告。だがOB-292船団は高速でジグザグ運動を行っており、追尾のための転舵を何度も強いられた結果、時折視界から消えかけるほど大きく距離を開けられたので、翌8日午前1時15分、エッカーマン艦長は賭けとして距離3300mより3本の魚雷を発射、アイスランド南方でイギリス貨物船ダナフ・ヘッド(5258トン)を撃沈した。
ダナフ・ヘッド撃沈直後の午前1時21分、OB-292船団が赤と緑の星弾を数十発発射、位置が露呈したU-Aは敵船団の進路を横切って逃走しなければならなくなり、英駆逐艦ウルヴァリンに発見される。ウルヴァリンはジグザグに逃走するU-Aを追跡。彼我の距離が600~800mにまで縮まったところでU-Aが甲板砲で攻撃、ウルヴァリンが怯んだ隙を突いて急速潜航に成功する。午前1時28分より3時間半に渡って不快なほど正確な爆雷攻撃を受けるが、その状況下においても乗組員の行動は極めて冷静で自信に満ちており、聴音装置の性能と聴音手の洞察力のおかげで、常に最適な方法で爆雷を回避でき、遂に爆雷32発全てを避け切った。
とはいえU-Aも無傷では済まず、電圧低下によって艦内照明が30%低下、制御室と司令塔の各種計器はほぼ全て機能停止、ジャイロコンパスシステムの異常、Eメーター室のメーター焼損などの被害が発生。特に深刻だったのが後部潜航板と舵が使用不能になった事だった。これによりU-Aは艦尾を大きく下げた姿勢で水深80mから身動きが取れなくなってしまう。何とか浮上には成功したものの、機関長のあらゆる努力を以ってしても再潜航は不可能であり、このような状況で敵駆逐艦の襲撃を受ければ撃沈は免れない。進退窮まったエッカーマン艦長は自沈を決断する。が、午前4時41分、司令塔から全周を見渡したところ、幸運にも駆逐艦の姿は無く、両舷のディーゼルエンジンを全開にして急速離脱、今のうちに清掃、応急修理、朝食を済ませた。
午前6時15分、後方より現れた敵駆逐艦から砲撃を受けて急速潜航。3時間半に及ぶ追跡と爆雷攻撃が再び始まった。今回の爆雷攻撃も正確無比であったが、1時間以上の間隔を空ける事もあってか投下数自体は少なく、余裕を持って回避できたので、午前8時30分に魚雷を発射して敵駆逐艦を撃破しようと試みる。しかしその前に爆雷が炸裂して射撃管制システムが機能しなくなってしまった。恐る恐る潜望鏡を上げて海上の様子を探ってみると、既に駆逐艦はいなくなっていた。これについてエッカーマン艦長は「我々を撃沈したと勘違いした」と予想している。午前9時45分浮上。
一連の攻撃で戦闘任務の続行が困難になったU-Aは、ドイツ占領下フランスに向かうべく移動を開始、艦内では可能な限りの応急修理と清掃が行われ、BdUにも被害状況を報告するが、BdUとしてはなるべくU-Aに作戦参加してもらいたい思惑があり、帰港を遅らせようと新たな哨戒任務を言い渡す。このためU-A側は改めて作戦能力に大きな制約が課されていて船団攻撃は出来ないと報告しつつも、何とか命令に従おうと満身創痍の艦体を引きずって哨戒任務に従事。
だが3月12日午前8時、大時化に巻き込まれてベントの損傷が悪化してしまい、激しい振動に見舞われた上、このまま行くと最悪バラストタンクが破裂する危険性まで高まってきたため、午前9時10分にエッカーマン艦長はBdUへ哨戒を中止するよう要請、すると午前11時21分、BdUから「ロリアンに帰投せよ」と指示が下った。
3月18日午前7時45分にロリアンへ入港。4月よりロリアンを本拠とする第2潜水隊群へ転属した。
4回目、5回目の戦闘航海
4月14日、ロリアンを出撃して北大西洋に向かう。ところが操舵装置の深刻な故障が発覚、戦闘航海を早々に中止して引き返し、4月26日にロリアンまで帰投。12日間、水上2441海里/水中51海里の短い航海だった。
5月3日、修理を終えて再度ロリアンを出撃、中部大西洋、カナリア諸島、フリータウン沖、カーボベルデ諸島近海で遊弋する。5月18日、戦艦ビスマルクと重巡プリンツ・オイゲンがゴーテンハーフェンを出撃。2隻の活動を支援するべく、西はラブラドル、南はカーボベルデに至る広範囲に給油船7隻とタンカー2隻が配置された(ライン演習作戦)。
戦艦ビスマルクが壮絶なる最期を遂げて間もない5月28日、ライン演習作戦支援用に配備されていた補給船エゲルラントと合流。U-Aは排気口を開きっぱなしにしていたせいで、海水と潤滑油が混ざり合っている状態であり、燃料、洗浄水、飲料水、食糧1360kg、潤滑油5400リットルを供出してもらっている。翌29日にエッソ・ハンブルクとの合流を命じられたエゲルラントはU-Aと分離した。
6月1日、フリータウン沖にて、U-A、U-38、U-69、U-105、U-106、U-107で哨戒線を形成。6月7日に6隻からなる高速船団を発見してBdUに報告しているが、中々獲物に巡り合えず、遭遇する船は全て中立国船籍で手出しが出来なかった。戦果の不振は、U-69がギニア湾のラゴスとタコラディ港に機雷を敷設し、被害を受けたイギリス海軍本部がこれらの港を閉鎖、船舶の往来が一時的に途絶えていた事、フリータウンには当時未参戦のアメリカ船舶が集結していた事に起因する。6月18日、給油船ロートリンゲンから燃料補給。
そして7月19日に「南部航路に交通渋滞はない」と報告して帰路に就く。7月27日、U-562とU-126が敵船団を発見・通報するも、燃料不足でU-Aは攻撃に迎えず。
7月30日ロリアンに帰投。10月6日まで造船所でオーバーホールを受ける。
6回目の戦闘航海
10月7日18時30分にロリアンを出撃、翌8日午前1時40分頃、ショートサンダーランド飛行艇と思われる敵機が南方より接近。鳴り響くエンジン音で敵機の存在に気付いたU-Aは急ぎ潜航退避を行った。しかし今回も漏油という不具合に苛まれ、2回に渡ってロリアンへの帰投を強いられた。造船所にて潜望鏡パッキンと予備燃料タンク及び主バラストタンクの緊急遮断弁を修理。
修理を終えて10月21日15時、U-106とともにロリアンを出撃。翌日午後よりドイツ艦プーマの護衛任務を開始、4隻のM級掃海艇に護衛されながら、航空哨戒が非常に厳しいビスケー湾の突破を試みる。10月23日午前8時、M級掃海艇による護衛が終了、代わりに3機のハインケルHe115が上空援護に参加し、また偵察のコンドルが頭上を通過していった。
10月28日午後12時45分、プーマからの燃料補給を開始。しかし海上はうねりが激しく、送油作業は困難を極め、甲板上に立つプーマの船員は何度も波を被った挙句、士官候補生が落水して引き上げられる一幕もあった。18時5分作業完了。翌29日15時にプーマと別れて大西洋方面に向かう。
ビスケー湾突破後は中部大西洋、フリータウン沖、南大西洋、セントヘレナ島南方で通商破壊。この頃、イギリス軍は商船に水上機用カタパルトと、ハリケーン戦闘機1機を搭載したCAM船を就役させ、航空援護を受けられない空の隙間を埋めようと躍起になっていた。またUボートの大多数が主戦場を離れた事で大西洋方面の作戦が不活発となりつつあった。
11月8日、カーボベルデ諸島を通過後に南方戦隊の指揮下に編入。狩り場となるフリータウン沖の海上交通は少なく、先着していたU-103、U-107、U-125が既に通商破壊を行っていたものの、思うように戦果を挙げられていない様子だった。11月23日にU-AはU-68、U-124、U-129とともにフリータウン沖へ派遣。ただプーマに対する護衛任務で多くの燃料を消費していたので、3日後、潜水艦補給船パイソンとの合流を命じられる。
12月1日午前5時45分、セントヘレナ島南方780海里の補給地点にてパイソンと合流。船尾には既にU-68が接舷していて送油を受けており、U-Aも船尾側へ移動して燃料補給を受ける。午前中は燃料と潤滑油の移載が行われた。ところが14時頃、食糧や燃料の補給作業中に英重巡洋艦ドーセットシャーが出現。暗号解析によりパイソンの位置を特定されていたのだ。
17時25分、水平線上に2本のマストと茶色の煙を発見したU-Aはパイソンに警告を出し、速やかに給油ホースを切断して各々退避を図る。U-Aの甲板上にあった食糧を急いで艦内に運び込み急速潜航。ドーセットシャーはパイソン目掛けて急速に接近しており、U-AとU-68の潜水地点を回避しながらジグザグ運動を行う様子が見えた。
18時18分、距離3000mからドーセットシャーを狙って魚雷3本を扇状に発射するが命中せず。雷跡に気付いたのか敵艦は更に速力を上げた。1分後、ドーセットシャーは突然方向転換して今度はU-A側に向かってきたため、艦尾発射管から2本の魚雷を発射、しかしこれも命中しなかった。その間にパイソンは東へ向かって逃走。U-Aへの興味を失ったドーセットシャーもパイソン追跡を再開する。18時35分よりドーセットシャーがパイソンを砲撃、単なる補給船に過ぎないパイソンはろくに抵抗出来ず、19時32分に爆薬を使って自沈した。
20時25分、U-Aはパイソンの沈没地点に移動。ゴムボートで漂流中の生存者たちをU-68とともに収容する。間もなく視界内にドーセットシャーが再度出現。どうやら敵艦はUボートの存在に気付いておらず、パイソンの生存者を救助するために現れたようだ。このため20時52分に2隻は潜航退避しなければならなかった。
21時41分、ドーセットシャーの退避を見届けてから浮上。少しでも多くの生存者を収容出来るよう、砲弾を投棄して弾薬庫を空にし、魚雷を発射管に装填してスペースを作るなどの工夫を重ね、何とか艦内に104名を収容したものの、海上のボートには依然として約200名が乗っており、やむなく生存者を乗せたままボートを曳航。ちなみにパイソンは、撃沈前に仮装巡洋艦アトランティスの生存者を収容していて定員以上の人間、合計404名が乗っていたという。U-Aはパイソンの撃沈をBdUに報告するとともに応援を求めた。
12月3日、まず最初にU-129が到着し、パイソンの全乗員109名を収容、続いて12月5日にU-124も到着して収容し切れないボートの生存者を収容、12月14日から18日にかけて、カーボベルデ近海で同盟国イタリアの潜水艦ルイージ・トレッリ、エンリコ・タッツォーリ、ジュゼッペ・フィンツィ、ピエトロ・カルヴィがアトランティスの生存者を収容して各々サン・ナゼールに向かった。この時、U-Aは生存者55名を引き取ってもらうと同時にルイージ・トレッリへ余った食糧と潤滑油を供出している。
12月24日午後12時20分、U-68やU-581とサン・ナゼールに寄港して生存者51名を降ろし、17時45分、U-68と船団を組んでサン・ナゼールを出発、12月25日午前10時45分にロリアンへ帰投した。
7回目の戦闘航海
1942年2月15日に再びハンス・コーハウス少佐が艦長に就任。2月21日にロリアンを出港、が、ビスケー湾内で右舷ディーゼル機関の故障が起き、今回も早々に引き返して翌日帰投。直ちに造船所へ送られて機関の修理が行われた。3月1日にシュテッティンの第4潜水隊群へ異動。
クラーラ、アトランティス、パイソンを立て続けに失い、南大西洋に展開中のUボートへ有効な補給が行えなくなったBdUは水上タンカーによる補給任務を断念、代わりにUボートでの補給任務が可能かどうかを確かめるべく、U-Aに作戦行動中のUボートへ燃料補給を行うよう指示。アメリカの参戦に伴い、アメリカ東海岸では大規模通商破壊を企図したパウケンシュラーク作戦が行われており、その海域へ小型のVIIB型やVIIC型を送り込むには、どうしても洋上補給が必要だったのだ。
3月24日午前10時にU-203と、3月28日午後12時30分にU-202と、4月2日正午にU-84と合流して給油を施した。U-84への給油を以って補給任務を完了、ベルゲンに向けて出発する。U-Aの献身的な補給任務のおかげで3月と4月は最も戦果が挙がった月となり、これはUボート第二の黄金期到来を意味していた。潜水艦による補給が可能と実証されたと言える。
ベルゲン、スタヴァンゲル、クリスチャンサンを経由し、4月24日にキールへと帰投した。以降はバルト海で訓練艦となる。
その後
1942年8月から1943年2月28日までヨーテンハーフェンの潜水学校に所属。後進に実習の場を提供した他、対潜部隊の標的艦を務めたり、短時間ながら実験用潜水艦としても運用された。バルト海にて、就役したばかりのU-604を相手に燃料及び物資の交換訓練を行っている様子が写真に収められている。
ソ連軍のバグラチオン作戦により東部戦線が崩壊、バルト海にも敵の脅威が迫る中、1944年11月に第24潜水隊群へ転属、メーメルからヨーテボリハーフェンに避難した。
1945年3月15日除籍。ドイツの敗戦が決定的になると、U-Aは他国から鹵獲した潜水艦7隻を撃沈、そして5月3日、キール造船所内にて乗組員の手で爆破処分された。
関連項目
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- 0
- 0pt

