U-1224とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造したIXC/40型Uボートである。1943年10月20日竣工。日本海軍に譲渡されて呂501に改名したが、本土回航の途上である1944年5月13日に中部大西洋で撃沈された。
概要
IXC/40型とは、1940年に設計された前級IXC型の小改良タイプである。
IXC型の設計をベースに外径殻を拡大し、同時にバラストタンクも大型化させた事で、燃料搭載量が6トン増加、ただでさえ長大な航続距離に更なる磨きが掛かった(IXC型の2万370kmから743km増大して2万1113km)。その足の長さはフランスから無補給でカナダ沖やケープタウン沖まで長駆出来るほど。水上速力もIXC型から微増しているが、その代償に排水量がやや増加した。
IXC/40型は160隻が起工、このうち87隻が就役し、残り71隻はXXI型量産優先のため建造中止となる。
ヒトラー総統の厚意により、U-1224とU-511は日本側に無償譲渡。帝國海軍は、ドイツ降伏後にU-181やU-862といった複数のUボートを接収しているが、いずれも基地近海での訓練航海までで終わっており、実際に外洋航行したのはU-1224だけと言える。司令塔には日独友好の証として軍艦旗とドイツ海軍旗を重ねたエンブレムを描いていたという。
要目は排水量1144トン、全長76.76m、全幅6.86m、燃料搭載量214トン、連続航行日数84日、安全潜航深度122m、最大速力18.3ノット(水上)/7.3ノット(水中)、急速潜航秒時35秒、乗員44名。武装は53.3cm魚雷発射管6門、魚雷22本、45口径10.5cm単装砲1門、SKC/30 37mm単装機関砲1門、20mm連装機関砲2門。電測装備として電波探知機、電波探信儀、水中聴音機を装備する。
譲渡までの経緯
第二次世界大戦も佳境に入った1943年前半――スエズ及び中東方面の戦況が悪化し、独伊軍首脳が頭を抱えていた頃――日本の大本営から敵海上交通路破壊戦に乗り出すとの意向が伝えられ、大島浩駐独大使、ヒトラー総統、リッペントロップ外相が三者会談を行った。
インド洋における通商破壊促進と、帝國海軍の潜水艦戦力が少ない事を理解しているヒトラー総統は、Uボート2隻を日本に寄贈すると表明。1隻は分解・解析して量産体制の構築に使用、もう1隻は即座に通商破壊戦へ投入してもらう意図があった。リッペントロップ外相は通商破壊戦強化の約束を条件に是非を質問し、大島駐独大使が頷いた事で譲渡が決定する。ドイツ潜水艦の技術と知識を日本側と共有したい駐日海軍武官パウル・ヴェネッガー大将の意向も譲渡を後押しした。
さっそく大島大使は海軍武官にこの事を伝えた。しかし、ドイツ海軍の兵器局長が対価を求めてきたため、大島大使がリッペントロップ外相に「交渉が難航している」と言ったところ、ヒトラー総統が「それはとんでもない事だ。無論、無償でお預けするのだ」と答え、兵器局長は総統から直々に大目玉を喰らったという。
これを受けて駐独中の野村海軍中将は「第一艦はドイツ人乗組員による速やかな日本への回航、第二艦は日本から回航員を送る事にしたい」と希望を提示、ドイツ海軍側は人手不足から2隻とも日本人回航員でやって欲しいと言ったが、野村中将との会談の結果、最終的に日本側の希望が通った。
こうしてU-511はドイツ人乗組員の手で、U-1224は日本人乗組員の手で本土へ回航する運びとなる。
一方でカール・デーニッツ元帥は譲渡に難色を示した。大西洋に全てのUボートを集中させる必要があるため、今は1隻も余裕が無い事に加え、日本人とドイツ人が上手くやっていけるはずがないと考えていたからだった。しかし彼の意見はヒトラー総統によって却下される。
戦歴
総統からの贈り物、U-1224
1941年8月25日、ヴェルフトAG社のハンブルク造船所へ発注し、1942年11月30日にヤード番号387の仮称で起工、1943年7月7日に進水してU-1224と命名される。
進水から1ヶ月半後の8月31日午前10時30分、1隻の大型潜水艦が、ドイツ占領下フランスのロリアン軍港に入港。この艦は遣独潜水艦作戦で遠路はるばる日本からやって来た伊8で、日本に譲渡されるU-1224を内地まで回航するための要員51名が便乗していた。
彼らは潜水艦乗組員の保養地となっている、シャトーヌフにあるフランス貴族の城館で数日間羽を伸ばす。ここでは日独親善交歓会が行われた。その後、伊8乗組員と汽車に乗ってパリへと移動し、リッツホテルに宿泊しながら思い思いに観光を楽しみ、それが終わると列車でバルト海のUボート訓練学校に移動、9月6日よりハンブルク造船所にてドイツ海軍との協同作業を開始する。
そしてU-1224は同年10月20日に無事竣工、初代艦長に元オリンピック選手のゲオルク・プレウス大尉が着任するとともに第31潜水隊群へ編入される。
竣工したU-1224に少数のドイツ人乗組員と48名の日本人回航員が乗艦。「さつき2号」の仮称を与えられてバルト海で操艦方法を学ぶ。Uボートは伊号潜水艦より機械化が進んでいる上、防振・防音技術など伊号潜水艦が持たない機能を多数持ち、また優れた電気溶接技術により鋼板の堅さが日本潜水艦の2倍となっていて、爆雷への防御力も上がっていた。日本の技術力ではここまで堅くする事は出来ないのでドイツの技術力の高さが窺える。回航員とドイツ人乗組員との間には吉川春夫海軍中佐が通訳に入っていた。
日が経つにつれて日独乗組員は次第に打ち解けて仲良くなっていく。特に乗田少佐とプレウス大尉は協同作業の中で親密な関係となっており、相互理解を推し進めるため、2人の提案で国家対抗の大水泳競技が行われた。結果は日本側の大勝。ドイツ人アンカーがプールへ飛び込んだ時には既に日本人アンカーがゴールしていたという。この競技で日独間の仲は更に深まり、とあるドイツ軍中尉は「我々は本当の仲間同士になった」と綴り、「ニッポンゴ トモダチ」と呼んでいた。
11月からは急速潜航の訓練が始まった。回航員は成績優秀な者で占められており、猛特訓の中で操艦技術を見る見るうちに習熟していく姿は、指導するドイツ側をも感嘆させたという。また急速潜航訓練では毎回日本人チームがドイツ海軍側より3秒速かったと言われている。またダンツィヒ湾にある魚雷試験施設にて同型艦のU-534に乗り込み艦内で訓練を行う。訓練中、日本人乗組員は持ち込んだ神棚を艦内に設置して臨時の艦内神社としていた。
日本人乗組員との交流でドイツ人乗組員の一部が日本語を覚え、戦後になってもなお元乗組員が「軍艦行進曲」や「春が来た」を唄えるほど上達していたとか。また囲碁を覚えた者もいたらしい。U-1224の料理人は1日ごとに日本食とドイツ食を交互に出し、食事を通して日独双方の乗組員がためらいがちに親しくなっている様子が窺えた。ただ白米だけはとうの昔に底を尽きていたため、ご飯だけは出なかったものの、それでも艦の食糧庫から物資が無くなるまで宴は続いた。加えて日独合同レスリングも行われて更に親睦を深めている。
12月末になると、ドイツ人乗組員の大部分はブレーメンで建造中のU-875に振り分けられ、僅かに残ったドイツ人乗組員を除いて、U-1224は日本人乗組員で占められるようになる。時期は不明だが第2潜水隊群の兵営となっているヴィルヘルム・グストロフ号の右舷サンデッキを、ドイツ軍に護衛されながら歩行する日本軍士官の写真があり、どうやらゴーテンハーフェンにも訪れたようだ。
迫る出発の時
1944年2月15日、キールのUボートブンカー内にてU-1224の引き渡し式典が挙行され、正式に帝國海軍籍へ編入。これに伴って最後まで残っていたドイツ人乗組員も退艦、呂501に改名する。ドイツ軍はアジア諸国を見聞したマルコポーロから名前を取って「マルコポーロⅡ」のコードネームを与えた。
2月28日には乗田貞敏少佐が艦長に着任、彼は海軍大学校を繰り上げ卒業した生え抜きのエリートであった。また日独友好の証として司令塔に日本の海軍旗とドイツの海軍旗を重ねたエンブレムを描き込んだ(このエンブレムは呂501以外にもU-183が使用している)。翌29日、キールの第5潜水隊群のゲストブックに日本人乗組員が最後の記帳を残した。
その後、2月下旬から3月下旬にかけての数週間、シュヴィーネミュンデに回航して対空学校で対空射撃訓練を行う。シュテッティンにある第4潜水隊群のゲストブックには乗田少佐らが「盟邦独逸の戦友が 心をこめしお別れの 言葉を後に勇み立ち 皇国に今ぞ帰らむ」「大日本帝國海軍」という言葉と、U-1224に乗って帰国の途に就く様子、笑顔で手を振る乗組員の絵を描き残している。
大東亜戦争開戦以降、日独間の人員交流は殆ど断たれた状態であり、今回本土へ回航する呂501は数少ない帰国手段という事で、ドイツにて最新技術を学んだ根木雄一郎技術大佐、江見哲四郎大佐、山田精二大佐、吉川春夫中佐の4名に帰国命令が出ていた。
潜水艦での帰国は極秘事項だったため、吉川中佐は下宿先の家主や公私の友人にさえも、「戦線視察」と言って別れも告げずに去り、新たな宿泊先のホテルアドロンに移動。3月17日の時点で吉川中佐は残務を大方片付け、後は出港を待つばかりだったが、3月27日、航空技術者や陸軍の大谷少将、伊29に便乗して訪独した巌谷英一中佐とともにライプチンガー街へ赴き、呂501に積載するためのメッサーシュミットMe163及びMe262の書類を受領。映写室では映画形式でロケット機の概要を説明された。
巌谷英一中佐の回想によると、吉川中佐は伊29より先に出発するにも関わらず、後から目的地に到着する上、伊29の半分にも満たない艦体によって窮屈な生活を強いられる事から、呂501への乗艦を心底嫌がっている素振りを見せていた。同情した巌谷中佐は「もし許されるのなら乗艦を交換しても差し支えない」と提案。これを受けて吉川中佐は海軍武官を通じてドイツ側と交渉したものの、呂501の出発が近いという事で特別な理由でもない限りは予定通り乗艦するよう回答され、観念したようだ。
3月28日、乗田艦長はキールから連日激しい空襲下にある首都ベルリンへ移動し、呂501で帰国する予定の技術者4名のもとを訪れる。連合軍に察知されるのを防ぐため、呂501の出港は極秘とされ、艦名も一貫して「皐月」の名で呼ぶなど、徹底した情報統制を行った。同日夕刻、技術者たちと乗田艦長は冬空のように灰色の雲に覆われているベルリンから車に乗ってキールへと移動。
キールでは、呂501の艦内に日本へ送り届けるメッサーシュミットMe163の設計資料やエンジンの無い試作機、IX型Uボートの設計図とその資材、複数の金属瓶に入れられた水銀などドイツ製新鋭兵器を積載する作業が行われていた。
予定航路はキールを出港後、アゾレス諸島とカーボベルデ諸島の西を南下して大西洋を通過し、南アフリカの喜望峰を回り、インド洋へ到達。ここで待機している伊8から燃料補給を受け、およそ7月中旬頃に中継点のペナン基地へ寄港、便乗者や設計図を降ろしたのち、日本本土へ向かうとの事だった。異説では第8潜水戦隊に編入されて日本本土までは行かず、ペナン到着後はそのままインド洋で通商破壊を行う予定だったとしている。
皇国に今ぞ帰らむ
1944年3月30日午前8時にキールを出港。操艦していたのは日本人乗組員ではなく、上級操舵手ベルンハルト・ブルヒャルツだった。巌谷中佐の回想だと呂501は出港の際に操舵を破損して1日出発を延期したらしい。
乗組員52名と便乗者4名を乗せた呂501は北上し、カデカット海峡、スカゲラク海峡を突破してドイツ占領下ノルウェー方面に向かい、翌31日20時にクリスチャンサン潜水艦基地に寄港、燃料と物資の補給を受ける。ここでベルンハルトが退艦して呂501は日本人乗組員で占められた。一方、ヴェルナー・K・ホフマンが1987年に提出した資料によると、最新型の捜索受信機を操作するための無線通信士、航海士2名からなるドイツ人が乗艦していたとの事。
そして4月1日18時30分、U-859とともに出発して長旅への第一歩を踏み出した。4月16日にロリアン軍港から伊29が、4月23日にシンガポールから伊52が出発し、呂501を含めて計3隻が訪独もしくは帰国の途に就いていた。
今やドイツ海軍は大西洋の戦いに敗れ、制海権・制空権ともに喪失して中部大西洋より撤退、対する連合軍は護衛空母やレーダーを駆使して、空と海の双方から厳重な対潜哨戒網を敷き、西ヨーロッパ侵攻時期を探ろうと気象観測に従事するUボートを狩り続けている。4月中だけでU-68、U-302、U-311、U-342、U-448、U-515、U-550、U-856、U-962、U-986の10隻が北大西洋で撃沈され、通商破壊作戦は事実上停止。このため昼間は潜航、夜間のみ水上航行を行って進むしか無く、かえって非常に危険な大西洋からの脱出を遅らせる結果となった。
4月下旬、アゾレス諸島西方で補給用UボートのU-488と合流し、燃料補給を受ける予定だったものの、4月26日にU-488が撃沈された事で合流に失敗。補給を受けずに航行を続ける。
5月1日深夜、呂501の位置から僅か数マイル離れた場所で、U-66が護衛空母ブロックアイランド率いる第21.11任務部隊の哨戒機に発見され、ブロックアイランドより飛び立った多数の哨戒機、護衛駆逐艦による大規模な捜索及び攻撃が始まった。捜索に巻き込まれる形で呂501も爆雷攻撃を受けるが、何とか虎口を脱している。
翌2日、ドイツ海軍作戦部は「敵空母が中部大西洋に出現した。松(伊29)と皐月(呂501)はドイツ海軍作戦部が指定した航路を厳格に従う必要がある。ドイツ艦艇による皐月への補給は不可能である」と発し、在独ベルリン武官によって呂501に届けられた。
東京の軍令部や、阿部勝雄海軍中将との間で交わされた暗号電文をアメリカ軍に傍受・解読され、5月5日、護衛空母ボーグと護衛駆逐艦5隻からなる第22.2任務部隊がバージニア州ハンプトン・ローズを出撃。ブロックアイランド隊と交代する形でカーボベルデ方面に向かう。無線傍受により呂501の針路と位置情報は毎日正確に把握されていた。
5月6日、呂501は「本艦は北緯30度西経37度の海域を通過。我々は合流地点での燃料補給を受けていない。付近の警戒が厳重であり、3日間に渡って爆雷攻撃を受けたが無事だった」と報告。この情報はドイツ占領下フランスに向かっている伊52に中継された。
5月9日、北緯40度線を南下した際に第22.2任務部隊と遭遇して急速潜航。潜り続けて敵をやり過ごそうとしたが、長時間の潜航でバッテリー切れになり、艦内の空気も薄くなってきたため、5月11日に位置情報通達とともに追跡を受けている旨の暗号を打つ。これをHF/DF高周波方向探知機ハフ・ダフで傍受され、逆に正確な位置を把握されてしまう。ハフ・ダフはUボートにとって最も危険な連合軍の技術だった。
最期
1944年5月13日19時、カーボベルデ北西930kmにて、17ノットの速力で対潜哨戒中の米護衛駆逐艦フランシス・M・ロビンソンは約750m先に潜航中の呂501をソナーで捕捉。呂501が音響魚雷で反撃してくるのを警戒し、「フォクサー」を作動させた後、対潜迫撃砲ヘッジホッグを使って24発のMk.10爆雷を投下。すぐさま転針して更にMk.8爆雷5発を投下した。
7秒後、ヘッジホッグのものと思われる2回の爆発音が聞こえ、続いて深みのある爆発音が海中から突き上げるように轟き、水面に大きな水柱が築き上がった。
それから2、3分後、フランシス・M・ロビンソンの聴音手は海底深くで爆発音を耳にする。それは船体が圧壊するような音であった。その後、深海で再び爆発音が発生して何も聞こえなくなった。これが呂501の断末魔であり、52名の乗組員と4名の便乗者全員が死亡。ヘッジホッグ攻撃で失われた最初の日本潜水艦となってしまう。
撃沈後、海面には大量のチーク材、生ゴム、日本軍の装備品が浮いていて、駆逐艦バーフィールドがそれらを回収。しかし日本人乗組員に関する物が何も見つからなかったため、フランシス・M・ロビンソンの乗組員は「Uボートを撃沈した」と推測。その正体が呂501だと彼らが知ったのは戦後の事だった。
一方で連合軍の暗号解析班は呂501が健在だと誤認。6月22日、南アフリカのケープタウン沖へと到着すると読んだ他、7月7日にインド洋を航行中と推測、伊8と合流して燃料補給を行う旨の通信も傍受し、8月11日には「沈没しなかった可能性がある」と考えるなど、いまいち撃沈を確信出来ていない様子であった。
ベルリンでは6月7日以降に呂501との連絡が途絶したと判断し、帝國海軍は8月26日にインド洋で亡失したとして、1944年10月10日に除籍する。死後、乗田艦長は中佐に特進。呂501を撃沈したフランシス・M・ロビンソンは大統領部隊表彰を受けた。
1944年から1945年にかけて呂501を含む24隻のUボートがペナンを目指したが、このうち14隻が撃沈、1隻が投降したため成功率は実に半分以下であり、如何に突破が困難であったかを物語っている。ちなみに呂501が沈んでいる場所は潜水服の耐圧強度を遥かに凌駕するほど非常に深いため、伊52と違って未だ潜水調査が一切行われていない。
その後
かつて日本人乗組員と交流したU-1224の元乗組員はU-875へ異動。日本人乗組員たちが贈った神棚も一緒にU-875へ持っていき、司令塔には桜のエンブレムが描き込まれた。そして図らずも遺品となってしまった神棚はプレウス大尉らに幸運をもたらした。
U-875は一度も最前線へ出撃する機会は無く、誰一人戦死者を出さないまま、1945年5月8日の戦闘中止命令まで生き延びたのである。記録には「最後の演習ではしばしば日本語による会話が交わされた」とある。
ノルウェーでイギリス軍に降伏した際、将校室に飾られていた神棚を見て、イギリスの軍医が「子供のおもちゃにちょうどいい」と言ったのをドイツ人乗組員が偶然聞き取って、衝撃を受ける。仲間が遺してくれた大事な物を踏みにじられる訳にはいかない。みんなで相談したのち、イギリス軍先任将校に「調理のごみをデッキから廃棄しても良いか」と要望して許可を取り、その生ごみに混ぜて分解した神棚を海へ投棄。乗田少佐や仲間たちと同じように大西洋へ沈んでいく神棚を見て、やるせない怒りが込み上げると同時に「ああ、これで良かったんだ」という気持ちを抱いたのだった。
1965年3月、来日した西ドイツ練習艦隊の乗組員が自ら希望して靖国神社に参拝、境内の銀杏を持ち帰り、駐独日本大使を招いて、呂501乗組員の合同慰霊祭を実施した。その後、キール軍港の慰霊塔に銀杏を植えている。1970年、空軍総監のヨハネス・シュタインホフが返礼として靖国神社に樫の苗を奉納。
日本側に渡ったU-511とU-1224の2隻は公式記録から抹消されたらしく、ラーボエ海軍記念碑やモルタノート潜水艦記念碑にも艦名が残っていなかった(敗戦時に焼却処分されたり連合国の手に渡ったりしたためと思われる)。1995年、この事を知ったとあるドイツ人が記憶を風化させてはならないと決起し、当時U-1224の乗組員だった人物を訪ね歩いて、調査結果を1冊の冊子にまとめ上げた。こうして記録が残っているのは彼のおかげでもある。
関連項目
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