U-177とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXD2型Uボートの1隻である。1942年3月14日竣工。通商破壊により連合軍商船14隻(8万7388トン)撃沈の戦果を挙げた。1944年2月6日、アセンション島西方にて、B-24から航空攻撃を受けて沈没。
概要
IXD2型とは作戦範囲の拡大を目指した長距離航洋型Uボートである。
これまでのIX型とは全く違う船体と設計を持ち、排水量も1600トン以上と、日本海軍の海大型に迫る巨躯を誇る。生産性を優先し、前級IXD1型に搭載したメルセデス製魚雷艇用エンジンが使い物にならない事が判明したため、IXC型と同じM9V40/46 ターボチャージドエンジン2基へ戻し、更に低速巡航用のMWM社製RS34/5Sディーゼル2基を搭載。IXC型より船体を10m延伸して燃料搭載量を増大させた。これにより水上航続距離がIXC/40型の2万1113kmから4万3893kmにまで増加、水上航行中に補助用ディーゼル発電機と電動モーターを同時駆動させる事で、最大速力も18.3ノットから19.2ノットに増加するなど、全体的に性能が向上している。
大型航洋型Uボートの完成形とも言えるIXD2型は計28隻が量産され、南アフリカ沖やインド洋における通商破壊で戦果を挙げた。
諸元は排水量1616トン、全長87.6m、全幅7.5m、最大速力19.2ノット(水上)/6.9ノット(水中)、燃料搭載量389トン。兵装は21インチ艦首魚雷発射管4門、同艦尾魚雷発射管2門、45口径10.5cm単装砲1門、37mm機関砲1基、20mm単装機関砲1基。U-177にはフォッケ・アハゲリス Fa330が搭載されており、全Uボート中唯一Fa330を使って索敵に成功した記録を持つ。
艦歴
1940年5月28日、ヴェーザー社のブレーメン造船所に発注、11月25日にヤード番号1017の仮称を与えられて起工、1941年10月1日進水し、1942年3月14日に無事竣工を果たした。就役式典は質素に行われ、式典後は甲板上でビールパーティーが開催、夕方にはロイドハイムで非公式の集まりがあり、ヴェーザー社の取締役がU-177に電動バリカンを、各乗組員にポケットナイフを贈呈した。
初代艦長にはロバート・ギセー少佐が内定していたが、彼はまだU-98艦長の任が解かれていなかったため、臨時の艦長としてヴィルヘルム・シュルツェ少佐が着任、訓練部隊の第4潜水隊群へ編入される。
就役間もない3月24日に正規の艦長ロバート・ギセー少佐が着任。彼はU-98艦長時代に11隻撃沈の大戦果を挙げて騎士十字章を授与されたベテランである。実際彼は聡明かつ直感的な戦術家で、官僚主義や形式、決まりきったやり方を嫌い、海図を殆ど見ずに操艦及び航行し、敵に対しては大変神経質に攻撃したと言われる。一方、自由時間の多くは士官室ではなく水兵の居住区で過ごし、積極的に部下と交流。まさに理想的な艦長であった。その甲斐あって士気は極めて高く、士官と乗組員との間には友情が結ばれていたという。
1942年7月、最初の出撃に備えてオーバーホール中、連合軍がブレーメンに激しい空襲を行い、陸上の士官宿舎が破壊されてグロッセ上級軍医が即死、ギセー艦長も重傷を負った上で4時間瓦礫の下敷きになってしまう。何とか命だけは助かったものの、両足の骨折と頭部への重傷が認められて急遽入院、これに伴いU-177のオーバーホールは延期、乗組員には2週間の休暇が与えられた。
8月下旬、キールに移動したU-177は燃料、魚雷、6ヶ月分の食糧を積載して戦闘準備を整える。そこへ何とか退院したギセー艦長が現れるも、足の骨折は完治しておらず、松葉杖をつきながらの乗艦となった。工兵長の提案で松葉杖をU-177の象徴として採用。数人の乗組員はUの文字の上に松葉杖を重ねた非公式エンブレムを軍帽の記章にした記録がある。また艦橋には松葉杖1本がお守り代わりに飾られており、乗組員の間で「U-KRÜCKE」(U字の松葉杖)と呼ばれていた。
出港前夜、武装親衛隊員がU-177に来訪、艦内で盛んに飲食したのちハインリヒ・ヒムラー長官の額入り肖像画を贈呈し、士官室の故グロッセ上級軍医の遺影の横に掲げられる。
1回目の戦闘航海
1942年9月17日午前7時に曇天のキールを出撃。翌日正午頃、カテガット海峡を通過中に軍医が重度の中耳炎を患ったため、汽船エルマリフに移乗させた。9月19日午前6時55分から13時までノルウェー南部のクリスチャンサンで燃料、飲料水、食糧の補給を受け、駆潜艇2隻の護衛を受けながら出発、急速潜航テストを繰り返しながらノルウェー西岸を北上していく。
9月23日13時30分、アイスランド・フェロー諸島間の海域を通過中、低高度より敵陸上双発機が接近、潜航退避しようとするが司令塔のハッチが閉まらなかったため失敗、問題を解消してU-177が潜航し始めた時には既に敵機が爆弾を投下しており、着弾を示す水柱が高々と築かれる。潜航後、遠くから航空機爆弾が炸裂する音が数回聞こえてきた。爆撃は日没を迎えるまで続くも敵機は最後までU-177の正確な位置を把握出来なかったようだ。ある日の夜、荒天により艦橋当直のブーツマット・へニングスが艦外に流されて行方不明となってしまう。後に彼の写真は下士官居住区に掛けられた。
IXD2型の長大な航続距離を活かし、U-177、U-178、U-179、U-181はインド洋西部のモザンビーク海峡に向かう。モザンビークは北アフリカ戦線における連合軍の補給港であり、物資を満載した商船が大量に往来する絶好の狩り場だった上、遠方で通商破壊を行う事により、護衛兵力を主戦場から他の海域へ分散させる意図もあった。
10月9日19時45分、水平線上に立つマストヘッドを発見。よく観察してみると、前部には戦闘用マスト、低い煙突、後部には平柱マストまたは三脚マストが確認され、得られた情報を統合するに相手の正体はアメリカ戦艦と思われる。敵戦艦は北西方向に舳先を向けながら16ノットで航行中。不意に現れた大物に対してもU-177は怯まず追跡を開始。21時40分頃、敵戦艦は多数の護衛艦艇に護られている事が判明、彼らと一戦交えるべく全ての砲弾を装填し、ジグザグ運動を取りながら雷撃に適した位置を探る。すると駆逐艦がU-177の存在に気付いたのか突如旋回。荒天や敵駆逐艦の索敵に苦しめられながらも、決死の追跡を続けていたU-177であったが、突如敵戦艦がサーチライトを照射、周囲の駆逐艦が一斉に向かってきたので潜航退避を強いられ、追跡を断念せざるを得なかった。
10月18日午後12時55分にハルテンシュタイン艦長のU-156と合流。13時30分よりゴムボートを使って各種スペアパーツの引き渡しを行った。アゾレス諸島東方とカーボベルデ諸島西方を南下し、10月下旬頃にケープタウン海域に到着。ここで連合軍の強力な対潜網と遭遇したが海の狼を止めるには至らなかった。
11月2日午前5時34分、U-177はTRIN-16船団から分離したギリシャ蒸気船アイゲウス(4538トン)を発見、午前10時22分と26分に発射した魚雷は距離が近すぎて船底下を通過・命中しなかったため、夜になるまで粘り強く追跡を行い、そして21時59分、コロンバイン岬沖の南大西洋にて2本の魚雷を扇状に発射、アイゲウスに命中させた。瞬間、大爆発を起こしてアイゲウスは跡形もなく吹き飛び、降り注ぐ残骸から逃れるべく潜航退避を行うも、その際に司令塔の乗組員1名が軽傷を負った。船長を含む29名全員死亡。
11月9日午前7時47分、喜望峰沖にて水平線上から伸びる煙突を発見して攻撃を開始。しかし午前9時12分と午前10時42分の雷撃は失敗に終わってしまう。ギセー艦長は一度浮上を命じたが再度攻撃を決意。20時4分、21時の雷撃も失敗したので、10.5cm甲板砲による攻撃に切り替えようとするも、直前になって砲塔が旋回しない故障が発覚、やむなく37mm及び20mm機関砲による攻撃を加えたが撃沈には至らず、23時52分に攻撃中止。命からがら助かった英商船セリオンはケープタウンに逃げ込んでいった。
それから間もなくしてU-177はインド洋に突入。モザンビーク海峡の手前には連合軍の主要港ダーバンがあり、ここには北アフリカ戦線やイタリア方面に送る兵力を乗せた船が集まるため、モザンビークに負けず劣らずの良質な狩り場であった。11月15日午前2時、連合軍が出したと思われる600メートル波長でUボートの警報警告を受信、インド洋では既にU-178とU-181が通商破壊を行っており、どちらかの艦が戦果を挙げたと思われる。
11月19日22時50分、ダーバン東南東約200海里にて、PA-8船団から分離した英蒸気タンカースコティッシュ・チーフ(7006トン)を発見して急速潜航、23時7分、2本の魚雷を発射して2本とも命中させる。スコティッシュ・チーフはケープタウンに輸送する海軍用燃料1万3000トンを積載しており、被雷の際に引火して大爆発を起こし、激しく炎上しながら沈没。船長、船員32名、砲手3名が死亡した。U-177の周辺に多くの残骸が漂っていた影響ですぐには浮上出来なかった。
11月20日午前4時5分、3本のマストと貨物デリック、高層デッキ貨物を備え、甲板に積み荷を積んだ米蒸気商船ピアース・バトラー(7191トン)を発見、午前10時55分より急速潜航し、午前11時40分に魚雷2本を発射、2本ともピアース・バトラーの右舷へ命中した。ピアースの船員は船首と船尾にある銃座にしがみつき、U-177の潜望鏡や延長ロッドアンテナに向けて発砲。同時に遭難信号を放って周囲の友軍艦船に異状を報せた。しかし既にピアースは致命傷を負っていたようで、被雷から15分後、4隻の救命ボートを降ろして船を放棄、午後12時10分に船尾から沈没していった。その後、救命ボートの1隻を捕まえて三等航海士を尋問。
11月28日午前7時15分、アデンからダーバンに向けて、イタリア民間人抑留者780名、郵便物3000袋を輸送中の英蒸気旅客船ノヴァスコシア(6796トン)は、ロウレンソ・マルケス南東にてU-177から雷撃を受け、魚雷3本が立て続けに命中、たちまち猛火に包まれた。その状態に陥ってもなお、果敢にU-177の潜望鏡とロッドアンテナを狙って発砲したが間もなく船首より沈没。海上にはライフジャケットを着た生存者やゴムボートに乗った生存者が多数浮いていた。ざっと見てその数は約400名。
状況を確認するべく、1隻の筏に近づこうとしたところ、四方八方から生存者がU-177に向かって泳いできて、このうち2名の男性が同時に到着、彼らはイタリア商船隊員という事でひとまず艦内に収容する。ギセー艦長は悩んだ。生存者を救助したいが、3ヶ月前に発生したラコニア事件に伴い、カール・デーニッツ提督は生存者の救助を禁じたラコニア命令を発令しており、この命令に従うのなら彼ら全員を見捨てなければならない。たとえ同盟国イタリアの人間であっても。
ギセー艦長はBdUに指示を求めると、BdUから「作戦を継続せよ、戦闘を最優先せよ。救助活動は行うな」との返信があり、U-177はそのまま海域を立ち去った。代わりにBdUはポルトガルに救助要請を行い、ロウレンソ・マルケスからフリケード艦アルフォンソ・デ・アルブケルケが出撃、194名を救助したが、858名が死亡、死者の多くがイタリア人抑留者であった。
11月30日17時29分、乗客150名と一般貨物300トンをダーバンへ輸送中の英軍隊輸送船ランダフ・キャッスル(1万799トン)に距離520mから2本の魚雷を発射、2本とも命中させ、船尾部分沈下、右舷側への傾斜、洋上停止させる被害を与えるも、沈没には至らず踏みとどまる。このため更に魚雷2本を発射してランダフ・キャッスルの息の根を止めた。ギセー艦長が救命ボートに乗る生存者に船名を問うたところ、「ハードシップ」「クイーン・メアリー」など適当な回答をされ、また負傷者の有無を問う質問には「ただ濡れているだけだ」と返されたので、U-177側は面白がって海域より離脱したという。
12月2日14時11分、インド洋で敵船を発見して急速潜航。ところが相手がイギリスの病院船第23号だと判明したため攻撃を中止。翌3日午前8時51分、サウサンプトン級と思われる軍艦を発見するも、敵の速力がU-177を上回っていたので潜航退避。距離が大きく離れているせいで雷撃も困難であった。12月4日午前7時48分にマストヘッドを発見して潜航。2000mまで接近したところで中立国スウェーデンの標識が見えた事から攻撃中止、水平線の向こう側へと去るまで潜航を続けた。
12月7日17時20分、イニャンバネ南方約55海里のモザンビーク海峡にて、護衛無しで単独航行中のギリシャ蒸気商船サロニコス(3548トン)に魚雷2本を発射。うち1本が機関室に直撃して船体を真っ二つに折りながら2分以内に沈没させる。アレクサンドロス・A・パパテオファヌス船長、船員28名、砲手2名が死亡。U-177は筏の上の生存者2名に尋問を行い、包帯と食糧を与えた。
12月8日午前4時から18時8分まで中立標識を点灯させながらロウレンソ・マルケス島の入り口を監視。しかし中立船舶以外の停泊は認められず獲物は存在しなかった。
12月12日21時51分、モザンビーク海峡にて、ダーバン発ボルモチア行きの英蒸気商船エンパイア・ガル(6408トン)に向けて魚雷2本を発射、うち1本が船首部分に命中するが、エンパイア・ガルの行き足は止まらず、また盛んに無線連絡を取っていたため、22時3分より水上砲撃を開始。初弾命中後、船員は救命ボートを降ろして船を放棄した。無人船となったエンパイア・ガルに焼夷弾70発と榴弾100を発射し、約140発の命中弾を与えた結果、翌13日午前0時28分にあえなく沈没。死者2名を除く全船員が英駆逐艦インコンスタントとコルベット艦フリージアに救助された。19時20分にU-177はエンパイア・ガルの撃沈を報告。
12月14日16時36分、ダーバン南東沖を単独航行していた蘭蒸気船サワロエント(3085トン)はU-177から雷撃を受け、被雷の直前に見張り員が雷跡を発見したものの時既に遅し、右舷機関室付近に命中して7分後に船尾より沈没。船員は4隻の救命ボートに分乗して脱出。しかし16時43分、ボイラーの爆発に巻き込まれて3隻が転覆、乗っていた生存者の大部分が溺死してしまった。U-177は唯一残った救命ボートに近づいて尋問を実施。撃沈船舶がサワロエントである事、ベイラ発ダーバン行きである事を把握した。今回の雷撃で魚雷を使い切ってしまったので帰路に就く。
12月28日、ウルフパック「スピッツ」に対する燃料補給を命じられるが、U-177はこれまでの通商破壊で燃料がかなり減っており、任務に従事出来ないとして補給地点へは行かなかった。
1943年1月11日18時、ダカール北西沖にてインド洋に向かうU-182と会同、識別信号を交換した後、通商破壊任務の引き継ぎとケープタウン作戦海域の状況をU-182に通達し、19時45分に両艦は別れた。
1月20日頃、最後の難関であるビスケー湾に差し掛かる。イギリス本国の眼前にある関係上、ビスケー湾の航空哨戒は非常に厳しく、湾内の大半を潜航状態で進まなければならないため、機銃の整備はごく短時間だけ行う浮上中に是が非でもやる必要があった。そして1月22日17時45分にドイツ占領下フランスのボルドーへ帰投。127日間の航海で商船8隻(4万9371トン)撃沈の大戦果を挙げたのだった。
次の出撃に備え、フォッケ・アハゲリス Fa330と、新型甲板兵装を搭載するための大規模改装工事を実施。新たに20mm単装機関砲1基とMG-15機関銃3丁を追加装備した。その間、乗組員には長期休暇が与えられて各々自由に羽を伸ばす。ちなみにFa330を操縦するのはドイツ空軍の下士官。これはヘルマン・ゲーリング元帥が打ち出す「空を飛ぶ物は全て空軍の管轄」という方針に基づく。
2回目の戦闘航海
1943年4月1日15時10分に哨戒艇2隻の護衛を受けながらボルドーを出撃。今度はインド洋のマダガスカル島南東で通商破壊を行う。4月10日20時、艦首魚雷発射管に装填されたG7e魚雷のジャイロスコープアセンブリのモーターから、バッテリースイッチの不適切な接続が原因で火災が発生、最悪魚雷に誘爆して爆沈する危険すらあったものの、幸い二酸化炭素消火器で大事になる前に消火成功。
4月下旬頃、U-177を含むIXD2型7隻がケープタウン沖に進出。
5月28日19時44分、南大西洋でCD-20船団を発見して追跡を開始。23時53分に艦首発射管から2本、艦尾発射管から2本の魚雷を発射し、およそ5分後、米蒸気商船アグウィモンテ(6679トン)とノルウェーの自動車運送船ストラーアス(7886トン)に命中させる。2隻ともまだ浮いていたが、翌29日午前0時46分の雷撃でアグウィモンテを、午前1時10分の雷撃でストラーアスを撃沈した。これまでの雷撃で搭載魚雷24本のうち11本を消費。
6月5日16時30分に遠方で炸裂する爆雷音を探知。近くに敵船団がいると悟ったギセー艦長は思い切って接近を開始、18時55分、前方にジグザグ運動中の敵駆逐艦を発見した事で護送船団の存在を確信し、宵闇に紛れながら隠密裏に追跡を行う。ところが翌6日午前8時44分、南アフリカ南西部にて濃霧を隠れ蓑に水上航行中、突如として霧が晴れてしまった事で、コルベット艦2隻と砲艦1隻に見つかり、2隻から爆雷攻撃を受ける。午前10時20分にはカナダ空軍第413飛行隊所属のカタリナ飛行艇より3発の投弾を受けたが幸い無傷で済んだ。
6月10日から15日にかけて喜望峰南西300~400海里でU-195と会合。U-195はボルドーに帰投する途上であり、病気を患っていた火夫のシュレーダーを引き取ってもらった他、焼き切れた左舷発電機のコイルを修理するのに必要な予備部品や、インド洋で使用する航海図と船舶データなどを受領。会合を終えた後はインド洋に進出する。
十分な魚雷を持つUボートの作戦期間を少しでも延長するべく、インド洋には独給油船シャルロッテ・シュリーマンがダーバン南東で待機しており、既にU-178、U-181、U-197、U-198が給油を受けていた。
6月24日午後12時30分、シャルロッテの船影を探すU-177の前にU-178が現れ、識別信号交換後、U-178がシャルロッテの下まで誘導してくれる事となり、15時20分にシャルロッテと給油作業中のUボート4隻を発見。翌25午前9時より燃料と真水の補給を受け、14時からはシャルロッテで艦長会議が行われた。6月27日17時30分補給作業完了。マダガスカル島南東端で通商破壊を開始する。
7月5日21時25分、サントマリー岬南南西沖で、ダーバン発ニューブランズウィック州セントジョン行きのカナダ商船ジャスパー・パーク(7129トン)へ2本の魚雷を扇状に発射、うち1本がジャスパー・パークに命中するも、魚雷防御網に阻まれて損傷を与えられなかった。翌6日午前10時5分の雷撃で2本を命中させて船体を僅かに沈下させるが沈没に至らず、午前11時4分の雷撃は外れた。やむなくギセー艦長は水上砲撃で仕留めようとし、浮上して照準をジャスパー・パークに合わせた瞬間、力尽きて沈没していった。2隻の救命ボートに近づいて尋問を行った後に海域を離脱。
7月10日13時49分、護衛無しで航行中のリバティ船アリス・F・パーマー(7176トン)は、U-177から2本の雷撃を受け、うち1本が左舷第5船倉で炸裂、船尾、舵、推進軸が吹き飛ぶとともに機関室と第5船倉が浸水し、後部銃座は機能を停止した。U-177は脱出した生存者に20分間尋問した後、45度の角度で傾斜しながらも、一向に沈まないアリス・F・パーマーに冥府への片道切符を渡すべく、左舷側から焼夷弾14発と榴弾85発による砲撃を加え、16時頃、燃え盛る船体はゆっくりと海中に沈んだ。
7月15日午前11時10分、9日前に撃沈したジャスパー・パークの放棄された救命ボートを発見。
7月29日午前3時35分にマダガスカル南東で石炭9600トンを抱えた英商船コーンウォールシティ(4952トン)を捕捉。日中に攻撃を行うべく攻撃を控えながら追跡を開始する。午前9時、距離300mからウォールシティ目掛けて魚雷2本を発射し、12秒後に1本が船体中央部に命中、石炭を積んでいたせいで沈没が非常に早く、1分以内に水面下へと没した。船長、船員31名、砲手5名が死亡、生き残ったのは船員5名と砲手1名のみだった。
8月5日午前11時8分、トラナロ北東にて、ギセー艦長はフォッケ・アハゲリス Fa330を発進させ、高度100mから索敵を行ったところ、5分後にギリシャ商船エフタリア・マリ(4195トン)を発見。これがFa330を使った索敵の唯一の成功例となった。Fa330を艦内に格納した後、午後12時15分にエフタリア・マリを視界内に収め、16時38分急速潜航、そして17時45分、距離1500mから2本の魚雷を扇状に発射し、船体中央部と船尾へそれぞれ命中させて8分以内に沈没へと追いやった。翌6日23時5分、エフタリア・マリの撃沈をBdUに報告。残りの魚雷が1本だけになったので今回の戦果を以って帰路に就く。
8月24日午前9時55分、南大西洋を北上中、南東方向の高高度にショートサンダーランド飛行艇が飛んでいるのを発見。念のため20mm単装機関砲に人員を配置する。が、サンダーランドはU-177に気付かないまま旋回を続けており、午前10時4分に2機目が飛来したものの、接近してくる様子が無かったので潜航退避してやり過ごした。日没を迎えて辺りが暗くなってから浮上。21時、サーチライトの光が暗雲を背景に上空で輝いているのを目撃。どうやら近くで敵飛行艇が難破船の捜索を行っているらしい。
8月28日午後12時45分、豪雨の中で立ち昇る煙雲を発見。1500トン級の小型商船で、煙突は船尾、マストは2本、針路110度、速力8.5ノット。攻撃のためギセー艦長はU-177を前進させるが、16時45分、雷撃直前にブエノスアイレス発のアルゼンチン船バベだと判明、中立船舶という事で攻撃せずに素通りさせた。
10月1日午後12時40分にボルドーへ帰投。183日間の戦闘航海で商船6隻(3万8017トン)撃沈の戦果を挙げた。Fa330の出撃は80回に及び、うち3隻の船舶を視認、撃沈に至ったケースはギリシャ商船エフタリア・マリだけだった。
ラ・パリス方面での活動
1943年10月17日に三代目艦長ハインツ・ブッフホルツ少佐が着任。ギセー少佐は退艦したが、12月、ドイツ国営通信社は、彼が連合軍艦船27隻撃沈(U-98とU-177の戦果を統合)したと報じ、U-177時代の戦果が認められて柏葉・剣付騎士鉄十字章が授与されている。
しかしこの人事異動はU-177に暗い影を落とした。ギセー艦長時代とは対照的にブッフホルツ艦長指揮下では著しく士気が低下、乗組員はギセー少佐の異動に憤慨、またギセー少佐は退艦時に士官全員も一緒に連れて行ったので、新たな士官が配属されたが、士官同士は団結するどころか口論が絶えず、新入組の士官に対して乗組員たちは尊敬の念を抱いていないなど、不協和音が各所で鳴り響く。
3回目の出撃までにU-177は乾ドックで大規模な改装工事とオーバーホールを実施。ディーゼル機関、魚雷発射管、バッテリーのオーバーホールと一部交換、新型自動非常照明装置の設置、ビルジ・内装・艦体・上部構造物の塗装、司令塔に16mmの装甲板を取り付けた。兵装面では37mm機関砲を新型に、搭載魚雷をT5音響魚雷に換装、MG-15機関銃を4丁に追加し、11月から12月までの工事で電動式観測潜望鏡を撤去して新型潜望鏡2本を装備、レーダーアンテナハウジングとレーダーデコイバルーン1個を搭載した。ちなみに新型の37mm機関砲は出撃直前まで入手出来ず、それまでは砲術演習用に四連装20mm機関砲で代用。
造船所での作業中、ドイツに非協力的なフランス人作業員の妨害作業があったらしく、「ディーゼル冷却水の入口フランジに穴が開けられておらず、4つのシリンダーヘッドが過熱により損傷」「左舷発電機コアの損傷」といった被害が確認されている。
12月15日出渠。ブッフホルツ艦長は新装備と乗組員の訓練を行うべく、12月18日午前7時に無線技士、ドイツ空軍将校、造船技師、艦隊技師らを乗せてボルドーを出港、ジロンド河口で試運転を実施する。Fa330の飛行テストも行われたが、パイロットが離陸位置についたその瞬間、突風が吹いて機体が思わぬ挙動をし、左舷側の甲板に激突する事故が発生。幸いパイロットは無事だったものの機体は完全に破壊されてしまった。ひとまず機体の残骸を収容してボルドー帰投。
12月23日午前11時30分、ブッフホルツ艦長指揮の下で、掃海艇の護衛を受けながらボルドーを出港、ジロンド河口付近で水深160mまで潜る潜航訓練、無線と対潜水艦装備の点検、新型37mm機関砲の試験を行い、クリスマスイブの深夜にラ・パリスへ回航。艦上では短い祝賀会が開かれたという。
ラ・パリスではT5音響魚雷4~5本、37mm砲弾1000~1100発、20mm単装機関砲4門、トラック2台分の予備部品の積載、司令塔の側面に16mm装甲板2枚を溶接する工事を行った。大量の予備部品と装甲板は日本占領下東南アジアに運ばれるとの噂があり、ブッフホルツ艦長も「少なくとも1年間は不在になるだろう」と告げていたため、乗組員たちは東南アジアに行くのだと推測。
実際乗組員たちの推測は当たっていた。連合軍の対潜警戒が緩いインド洋で通商破壊を行うべく、ドイツ海軍は同盟国日本が占領するペナン基地にUボートを派遣していたのだが、道中連合軍の攻撃で撃沈されるUボートが後を絶たなかったため、U-177に増援第三波の先頭艦としてペナン行きが命じられていたのである。本来であればU-198がペナンに行く予定だったものの、前部魚雷発射管に大きな亀裂が入るという、破壊工作を疑われるほどの大きな損傷が発生。出撃不能に陥ったU-198に代わってU-177が選ばれた背景がある。
3回目の戦闘航海
1944年1月2日19時、掃海艇1隻、対空艦艇2隻、Ju52爆撃機2機の護衛を受けてラ・パリスを出港。航空機は約10~18km先を旋回して漂流する機雷を捜索、U-177の前には掃海艇、両舷側には対空艦艇は2400mの距離を保ちながら占位する。出港から数時間後、前方で大きな爆発音が聞こえたためブッフホルツ艦長はエンジン停止を命令。前路の掃海艇が触雷・沈没してしまったらしい。
危険なビスケー湾では、夜間の数時間を除いて、潜航しながら慎重に進む。ブッフホルツ艦長は用心深い性格なので湾内を抜けるまでに二昼夜を要した。無事ビスケー湾を抜けた後は、アゾレス諸島西方に到達するまで針路西を維持、次いで1700度の針路で南進を始め、北大西洋を南下していく。対潜哨戒機を警戒して日中は潜航し続ける。
アゾレス諸島近海を潜航中、第3魚雷発射管に亀裂が発生、損傷の原因は特定出来なかったが、機関士は艦長に対し、今回の哨戒ではその発射管は使用出来ないと伝えた。2月2日に赤道を南下した際、船乗りの慣例に従って赤道祭が行われ、初めて南下した乗組員は毛髪を短く刈り取られたとか。ここに至るまでに船舶や敵機は目撃されず、如何なる攻撃も行われなかった。
最期
1944年2月6日午前11時30分、南大西洋・アセンション島西方にて、南東方向に航行していたU-177はB-24爆撃機の襲撃を受ける。2000m先から迫り来るB-24に向けて20mm単装機関砲が火を噴く。しかし毎日の緊急砲術訓練により砲員は疲弊しており、強力な対空弾幕を張る事が出来なかった。間もなくU-177は右舷側へ急旋回して回避運動を取る。直後、3発の爆弾がU-177の周囲に着弾し、艦は大きく揺さぶられ、飛び散ったガラスなどで乗組員数名が負傷。
するとブッフホルツ艦長は「沈みそうだ、全員脱出せよ」と叫びながら司令塔から脱出。司令塔のハッチより流入した海水が制御室に侵入、が、ブッフホルツ艦長の人望の無さが仇となり、乗組員の大半はまともなダメージコントロールを行わず、約20名の士官と水兵が司令塔を伝って海に飛び込む。逃げ遅れた者は浸水が進む艦内に取り残された。徐々に沈下していくU-177に向けて更に3発の爆弾が投下。これによりブッフホルツ艦長を含む6名が死亡、数名が破片で負傷させられた。次の瞬間、砲弾に誘爆したのか大爆発が起き、U-177の艦体は粉砕された。
U-177の撃沈を確認すると、B-24は攻撃を中止してゴムボートと食糧入り救命胴衣を投下、14名の士官と水兵がボートにしがみついて一息つく。56時間後に彼らは軽巡洋艦オマハに救助されていった。
関連項目
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