U-862とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXD2型Uボートの1隻である。1943年10月7日竣工。通商破壊で7隻(4万2374トン)撃沈の戦果を挙げる。ドイツ降伏後は日本海軍に接収されて伊502となる。1946年2月14日マラッカ海峡で海没処分。
概要
IXD2型とは、前級IXC型以上に作戦範囲の拡大を目指した大型航洋Uボートである。これまでのIX型とは全く違う船体と設計を持ち、排水量も1600トン以上と、日本海軍の海大型に迫る巨躯を誇る。
まず最初にIXD1型が建造されたが、搭載していたメルセデス製魚雷艇用エンジンの信頼性が低かったため、IXD2型では、IXC型と同一のMAN社製M9V40/46ターボチャージドエンジン2基に戻し、新たに低速巡航用のMWM社製RS34/5S巡航用ディーゼル2基を搭載。これによりフランスからインド洋やオーストラリア近海まで長駆出来る長大な航続距離を獲得した。またIXC型より船体を10m延伸して燃料搭載量を増大させている。補助用ディーゼル発電機と電動モーターを同時駆動させる事で、水上速力19ノットを発揮。
甲板砲には10.5cmシフスカノーネC/32砲を採用。360度旋回可能、23kgの弾丸を最大1万5300m先まで発射出来るこの砲は操作に3名の人員を要する。戦況が不利になるにつれ、各種Uボートから甲板砲が撤去されたが、IX型のみ何故か最後まで搭載され続けていた。後甲板には強力な重対空砲である3.7cm Flak M/42単装機関砲を装備。IXD2型はVIIC型より大型なので更に2cm Flak38連装機関砲を装備、Flak38はFlak30の改良型にあたり、3倍以上の発射速度を誇る。
U-862には10隻しか装備していない、グルッペン・ホルヒ・ゲラート水中聴音機の改良型バルコン装置が搭載され、これにより目標までの距離や方位を正確に測定する事が出来、条件が良好であれば、単艦なら最大20km、護送船団なら100km先から捕捉可能。
対空レーダーはFuMB 26 チュニスとFuMB 29 バリを装備。チュニスは1944年5月に登場した新型対空レーダーで、アメリカで使用された3cm波域をカバーしているも、耐水性が無いせいで潜航するたびに艦内へ収納しなければならなかった。バリは艦橋上部のブランケットに設置。こちらは耐水性があって取り外す手間が無かった。
またU-862は航空機用のレーダーであるFuMO 65 ホーエントヴィールを司令塔の左舷側に搭載。19個のバルブしかないので保守点検が容易で信頼性も高く、船舶であれば10km先から、航空機であれば20km先から捕捉可能の優れものである。本来ホーエントヴィールはXXI型にしか搭載されていないのだが、U-862は実験艦として先行装備していたようだ。
航洋型Uボートの完成形とも呼べるIXD2型は計28隻生産された。
諸元は排水量1616トン、全長87.6m、全幅7.5m、最大速力19.2ノット(水上)/6.9ノット(水中)、燃料搭載量389トン。兵装は53.3cm艦首魚雷発射管4門、同艦尾魚雷発射管2門、45口径10.5cm単装砲1門、37mm単装機関砲1基、20mm連装機関砲1基。潜航時間を拡充するシュノーケルも搭載していた。
艦歴
1941年6月5日、AGヴェーザー社のブレーメン造船所に発注。建造資材の収集を完了した1942年8月15日、ヤード番号1068の仮称で起工、1943年6月8日進水し、そして同年10月7日に無事竣工を果たした。初代艦長にはハインリッヒ・ティム少佐が着任。竣工と同時に訓練部隊の第4潜水隊群へ編入される。
彼は掃海艇M-7の艇長時代、ヘルゴラント湾で英潜水艦スターフィッシュを自沈させ、U-251艦長時には敵商船2隻を撃沈したベテランであった。またU-862の乗組員はU-251からそのまま引き継いでいるため、士気及び練度は高水準を維持していた。内訳は士官7名(艦長、当直士官3名、軍医、技師2名)、水兵及び下士官57名。
1943年10月9日出渠。ハンブルクに回航されてFu.M.G.レーダーの試験を実施し、10月12日より28日までキールで試験航海、10月29日から11月2日までシュヴーネミュンデで対空射撃訓練を行った後、シュテッティンを経由してバルト海に進出、これより慣熟訓練を開始する。まずピラウ沖とゴーテンハーフェン沖で操艦訓練を実施。続いて12月8日から第20潜水隊群、第25潜水隊群と合同訓練を行う。
1944年1月12日から18日にかけて、ゴーテンハーフェンで第27潜水隊群と戦闘訓練を行い、一通りの慣熟訓練を終えたU-862はブレーメン造船所へ戻り、1月23日から4月6日までシュノーケルの搭載工事を受ける。出渠した後、4月7日と8日、ブレーメン沖でシュノーケルを使った潜航試験に従事。長期の入渠で練度の低下を懸念されたのかシュヴィーネミュンデやヘラ半島で慣熟訓練を再開する。
全ての訓練を修了し、4月29日キールへ入港して残工事に着手、5月1日に第12潜水隊群へと転属し、5月11日からは出撃に向けた機器やシュノーケルの取り付け工事が始まるなど、徐々に出撃の時が迫りつつあった。そして5月19日を以って出撃準備が完了。U-862は一人前の狩人として海に漕ぎ出せる状態となる。
1943年9月頃より、モンスーン戦隊と呼ばれるUボート部隊が、同盟国日本の勢力圏下にある東南アジアに派遣され、ペナンを拠点にインド洋で通商破壊を行っていた。だがペナンの熱帯気候は魚雷の長期保存に向かず戦隊の不活発化を招く。
この問題を解決すべく、ドイツ海軍はU-862にモンスーン戦隊用の魚雷とともに、日本に供与するドイツ製武器の図面と青写真、水銀、鉛、光学ガラス、スチール、アルミニウム等を輸送するよう命令。U-862最初の任務はペナンに物資を送り届ける事だった。
1944年
同盟国日本が占領するペナンを目指して
1944年5月20日、他のUボートとともにキールを出港。スカゲラク海峡を通過し、5月22日にドイツ占領下ノルウェー南部クリスチャンサンへ寄港して燃料補給、翌日出発するが、大西洋特有の悪天候に見舞われてフレッケフィヨルドへの退避を強いられる。自然の猛威に襲われながらも5月26日にベルゲンで補給。2日後トロンヘイムへと回航する。
5月29日トロンヘイムを出港、長旅への第一歩を踏み出そうとしたその矢先、U-862の航跡に虹色の油膜が広がっているのが確認され、乗組員が燃料タンクを調べたところ漏油が発覚、このままでは容易に見つかってしまうため翌30日にナルヴィクへ緊急寄港、浮きドックに入渠して応急修理を実施。同時に燃料・食糧の補給も行った。
6月3日になってようやくナルヴィクを出港。こうして東南アジアのペナンを目指す旅が始まった。
出港から3日後、連合軍はノルマンディー上陸作戦を開始、ノルウェーから迎撃に向かったUボートはイギリス軍やカナダ軍の哨戒機に追い回され、6月11日から24日までに4隻が撃沈されている。U-862はとても幸運に恵まれていた。後少し出港が遅ければ同じ末路を辿っていたかもしれないのだから。
北大西洋へ出るには難所のデンマーク海峡を突破する必要があった。アイスランド所在の連合軍空軍基地が厳重な対潜哨戒を敷き、また流氷が行く手を阻むなど非常に危険な海域であったが、U-862に装備されたホーエントヴィールや濃霧のおかげで発見されないまま通過に成功。無事北大西洋に進出すると、中央寄りの航路を取りながら南下を開始。引き続き敵哨戒機に見つからないよう潜航しながら慎重に進んでいく。
大西洋を南下するU-862
7月21日、BdU(Uボート司令部)は、アフリカ沿岸沿いの航路か、中部大西洋の真ん中を突っ切る航路か、どちらかを自由に選ぶよう指示を出し、U-862は後者を選択する。アゾレス諸島の敵哨戒圏を突破した事でようやく水上航行が出来るようになった。乗組員たちは新鮮な空気を吸いながら甲板上で洗濯物を干す。
赤道を南下した時、恒例となっている赤道祭がU-862でも催された。新人乗組員はウェルカムドリンクとしてディーゼル燃料、機械油、ひまし油、コショウ、塩を混ぜたものを飲まされた。アゾレス諸島に続いてアセンション島の敵哨戒圏も突破。安堵したティム艦長は一日の大半を水上航行で進むように指示する。
移動中にも通商破壊が試みられ、7月24日朝、U-862は新開発のT5音響魚雷2本をタンカーに向けて発射、ところが、うち1本のT5魚雷がU-862自身のスクリュー音を探知、弧を描きながら戻ってきたため、ティム艦長は急速潜航のち機関停止を命じて息を潜める。迫り来る魚雷の推進音。T5魚雷はU-862の周囲を三周し、やがて目標を見失って爆発した。危うく自分が発射した魚雷に撃沈されるところだった。このようなニアミスがあったからか、以降ドイツ海軍では、T5魚雷発射後は直ちに急速潜航するよう定められた。
沈没の危機を回避したU-862は浮上して先ほどの獲物を探す。7月25日午前2時12分、赤道を越えた先の南大西洋で、単独航行中の米蒸気商船ロビン・グッドフェロー(6885トン)を通常魚雷3本により撃沈。8602トンの鉱石をケープタウンからニューヨークに運送している途中だった。ロビン・グッドフェローが発した遭難信号は英自動車運送船プリアムに受信されるも、救助が行われなかったせいで8名の士官、33名の乗組員、28名の武装警備員全員が行方不明になった。
同日15時29分、敵巡洋艦1隻と駆逐艦3隻を発見したとBdUに報告。
8月8日アデン湾で通商破壊中のU-198から「獲物が豊富にいる」との報告を受け、BdUはU-861とU-862に「ケープタウン周辺には留まらずアデン湾方面へ向かえ」と指示を出した。大西洋を南下していくにつれて天候が悪化、同時に波風も急激に強くなり、速力低下と燃料消費量増大を招く。加えて南極から押し寄せる容赦のない大波によりU-862の艦体は定期的に海中へと呑み込まれ、司令塔での見張り任務を困難なものにした。
8月9日頃、次の難所である喜望峰沖に差し掛かる。この辺りは東西約1600km、南北約320kmに亘る暴風圏ローリングフォーティーズがあり、吹き荒れる風速40mの暴風と逆巻く荒波が、絶え間なく襲ってくる過酷なる世界だった。だがこの暴風圏を避けようとすると南アフリカ連邦の哨戒圏を突破しなければならない。凄まじい大波は艦首を洗いながら、艦体そのものを海の中へ沈めようとし、まともに立っていられないほど艦内が揺さぶられる。唯一の救いは西向きの暴風がインド洋まで押し流してくれた事だった。
インド洋で暴れるU-862
四苦八苦の末に天候が穏やかなマダガスカル島南西へ進出。その先にはご褒美と言わんばかりに良好な狩り場・モザンビーク海峡があった。モザンビークは連合軍の主要な補給港で、インド及びオーストラリア方面と欧州戦線を結ぶ主要補給路の一つでもあったため、周辺には多数の連合軍船舶が往来していた。またインド洋を担当する英東洋艦隊は護衛艦艇を多く持っておらず、船舶の大半は護衛無しでの航行を強いられている。そして独航船はUボートにとって格好の獲物だった。
8月13日、マダガスカル南西沖で単独航行中の英商船ラドベリー(3614トン)を雷撃で撃沈、その後U-862は、救命艇に乗った生存者が他の生存者を海から引き上げる作業を手伝い、彼らにタバコを渡した後、最も近い海岸の方角を教えて海域を去った。敵の警戒が弱いのを感じ取ったティム艦長は、予備魚雷を甲板コンテナから出して発射管に再装填するよう命じた。艦長の思ったとおり作業完了まで敵は来なかった。
モザンビーク海峡に辿り着くと乗組員たちは慣れない環境に直面した。熱帯気候によって艦内は高温多湿となり、室温が50℃に達する蒸し風呂状態となったが、ディーゼル機関室の隅に設けられた即席シャワーを使えるのはごくまれで、個人用ベッドがある士官はともかく、水兵は非番の者が交代で使用する生暖かいベッドで満足しなければならなかった。また暑さは潰瘍、おでき、あせもといった皮膚疾患をも招き、軍医の仕事も急増している。
続いて8月16日朝、モザンビーク海峡で、ダーバン発マダガスカル行きの英商船エンパイアランサー(7037トン)を捕捉し、夜になるのを待ってから魚雷3本を発射、貨物庫の爆薬が誘爆して1分以内に沈没、積み荷の銅2000トンと軍需品1000トンが海に呑まれた。
8月18日朝、聴音手は蒸気船の推進音を探知。早速ティム艦長が雷撃を命じるも、敵船が不規則なジグザグ運動を取っていたため不成功に終わり、日没を迎えてから再度雷撃しようと隠密裏に追跡を開始。19時40分、ザンビーク北東約1kmの地点で、距離1000mまで接近したU-862は魚雷を発射、英蒸気船ナイラン(5414トン)に命中させると、積み荷の弾薬類が誘爆して巨大な炎の花が開く。その激しさたるや、U-862乗組員に「魚雷攻撃を受けた」と勘違いさせるほどだったが、幸い飛散した破片はU-862に損傷を与えなかった。攻撃後、浮上して生存者の捜索にあたる。しかし爆発で全員消し飛んでしまったため誰一人として発見出来なかったという。
8月19日夕刻、モザンビーク東方約150海里にて、ジグザグ運動中の英商船ウェイファーラー(5068トン)に2本の魚雷を発射するも回避され、90分間の追跡の末、狙いすました1本の魚雷を左舷に命中させる。敵船は銅3000トンと石炭2000トンを抱えながらあっさりと沈没した。
朝陽が昇るとU-862の狩りは一旦終了。海中に身を潜めて夜の帳が下りるのを待つ。U-862により4隻の輸送船を立て続けに失ったイギリス軍はコモロ諸島の第265飛行隊を投入。航空機7機、軍艦7隻を以ってモザンビーク海峡北方で潜水艦狩りを開始する。
8月20日の朝、司令塔で見張りをしていたカイテルという下士官が、こちらに何かが向かってくるのを発見、その正体はPBYカタリナ飛行艇で、U-862目掛けて急降下してくるのが見えた。急速潜航するにはもう時間が足りない。ティム艦長は対空射撃で応戦する決断を下す。カタリナは海上100mの低空を飛行しながらぐんぐんと迫り、銃座についた乗組員は1000m先の敵機に狙いを付ける。
艦長は敵機を引き付けようと発砲許可を敢えて出さなかった。彼我の距離が500mにまで縮まる中、ようやく艦長が許可を出し、甲板砲と機関砲による猛烈な対空射撃がカタリナを襲う。途中で甲板砲が弾詰まりを起こすも機関砲がコクピットを狙って銃撃を続けた。やがて炎を噴き出したカタリナは制御不能に陥り、U-862の頭上をかすめて海上へと墜落。
何とか勝利を収めたU-862だったが、連合軍の執拗な捜索は以降も続き、浮上しようとすれば即座にレーダーが反応するので長時間の潜航を強いられ、バッテリーが極度に低いレベルまで放電、艦内の二酸化炭素濃度は上昇の一途を辿る。追い詰められたU-862はレーダーデコイ「アフロディーテ」を使用。これは浮遊板に固定された囮用の気球で、気球に取り付けられたアルミ箔が、Uボートによく似たレーダー反射を放つ事で、連合軍にUボートの位置を誤認させる代物だった。この策略は見事成功して虎口を脱する。
モザンビーク海峡北部に強力な対潜哨戒網があると確信したティム艦長は、今後行う予定のアデン湾通商破壊を中止して一直線にペナンへと向かう。実際、彼の判断は的中しており、護衛空母バトラーを基幹としたハンターキラーグループがモザンビーク海峡に派遣され、U-862の捜索を行う予定だったという。U-862の戦果報告はU-861の中継を経てBdUに送信された。
ペナンまでの道のり
マダガスカルから遠ざかるにつれて敵の脅威が少なくなったので、ティム艦長は24時間水上航行に切り替え、青白く痩せこけていた乗組員たちに新鮮な空気と太陽の光を与えた。
敵に位置を特定されないよう、今まで無線封鎖を続けてきたが、ここでペナンへの接近予定時刻を伝えるべく無線報告を実施、それと同時に最大速力にまで増速し、なるべく無線を打った地点から遠ざかろうとするが、すぐにディーゼルエンジンの14本のピストンが詰まって動かなくなり、損傷したエンジンの過熱でコンパートメント内に火災が発生、保管されていた極東行きの郵便物を焼失してしまう。修理には14時間を要した。ちなみにU-862が放った無線はイギリス軍に傍受されたものの、大まかな位置しか特定出来ず追っ手を繰り出していない。
ペナン近海では暗号解析でUボートの動きを読んだ英潜水艦が待ち伏せている事が大変多かった。このため、ティム艦長の指示でペナン到着までの最後の9時間はずっと潜航し、ゆっくりと警戒しながら移動したという。
9月9日朝ペナン北方で浮上。海上では日本海軍の駆逐艦と、日の丸に塗装されたアラドAr-196A水上機が待っていて、彼らに護衛されながら目的地のペナンへ入港、ドイツの歌と君が代を演奏する日本の軍楽隊や、桟橋に並んだモンスーン戦隊司令ヴィルヘルム・ドメス中佐、第8潜水戦隊の魚住少将たちが苦難の旅を終えたU-862を歓迎した。
東南アジアでの活動
ペナン基地
日本海軍は、ペナン基地にある、最大5隻の潜水艦の停泊が可能な桟橋と貨物クレーン、港の北端にある埠頭1つと倉庫2~3個をモンスーン戦隊に提供、乗組員保養のための娯楽や自由は充実し、仮装巡洋艦トールが拿捕した米冷蔵船ナンキンのおかげで食糧も豊富にあるなど、ペナンは楽園に相応しい場所だったと伝わる。ティム艦長は乗組員たちを降ろして束の間の休息を与えた。彼らはペナンヒルに繰り出して、使い放題のシャワーで体の垢を洗い流し、毎日綺麗なベッドや下着を使える喜びに打ちひしがれる。
ペナンでは酷使した艦体の整備が行われたが、容赦のない太陽光によって区画内は室温50℃/湿度90%に達した他、予備部品、潤滑油、無線機器、電気機器、魚雷などはヨーロッパから輸送しなければならず、特に魚雷不足が深刻であった。加えてUボートの整備には特殊な技能が必要で、日本側にその技能を持った技術者がいないため、乗組員自ら整備せざるを得ず、ヨーロッパの基地なら20日から1ヶ月半程度で済むところを、東南アジアでは70日以上掛かっている。
9月11日、ティム艦長はU-862に魚住少将と有泉龍之助大佐(当時伊8艦長)を迎え入れ、伊8と連絡を取り合う。
ペナンには大規模な修理施設が無いのでシンガポールへ回航する事になり、翌日夕刻ペナンを出港、道中のマラッカ海峡は英潜水艦に襲われる危険性があるも、浅瀬が多い関係上、潜航して進む事が出来ないので、対策として見張り員の数を増やし、雷撃された時に備えて非番要員全員が救命胴衣着用の上で甲板に出ていた。上空ではアラドAr-196Aが旋回して回航を援護する。
シンガポール基地
9月13時23時45分シンガポールのセレター軍港に到着。ペナンと違ってセレターではあまり歓迎されず、基地司令のドイツ人2名しか出迎えてくれなかったとか。ここでは海岸のコテージを居住区として与えられ、高温多湿の環境により労働時間は3時間に限定され、快適で変化に富んだ自由時間を過ごすが、デング熱やマラリア、赤痢などの熱帯病の脅威が常につきまとった。
9月14日、ティム艦長はモザンビーク海峡の海上交通量が多い事、日中の航空哨戒が殆ど無く夜間に至っては皆無である事、撃墜したカタリナから得られた資料により、航空基地がディエゴスアレス、セイシェレン、パマンジ、トゥレア、モーリシャスにある事を報告する。
U-862は主機関と補助機関を修理するべく乾ドックに入渠。日本向けの物資は全て揚陸され、代わりにドイツ本国で不足しているモリブデンとタングステンを満載した。ただシンガポールの施設使用は日本艦船が優先なので修理は遅々として進まず、本来なら10月20日作業完了のところを大幅遅延している。
U-862の東南アジア到着は本国でも高く評価されたようで、9月19日、ティム艦長には騎士鉄十字勲章が、乗組員50名には第1級もしくは第2級鉄十字章が授与された。その後、艦長は日本軍機に乗って空路でバタビアに移動。日本海軍とオーストラリア方面における船舶交通と対潜能力について協議を行った。
10月1日モンスーン戦隊こと第33潜水隊群へ転属。連合軍の猛攻に耐え切れなくなったモンスーン戦隊は、ペナンを脱してバタビアへと後退し、外港タンジュンプリオクを新たな拠点とする。
11月4日、補給船キトとともにシンガポールを出港、バタビアに向かうが、右舷ドライブシャフトカップリングが激しく振動したため引き返し、セレターにて迅速な修理を受けたのち翌5日正午シンガポールを再出発、ジグザグ運動を行いつつバンカ海峡を通過する。敵潜が撃沈したUボートから士官を捕らえた情報があったので、士官たちは記章全てを外すよう命じられた。11月7日朝タンジュンプリオクの新たなUボート作戦基地に到着。
連合軍は日本軍の通信を解読。U-862の出発日、バンカ海峡通過日、バタビア到着日などを正確に把握していたが、一度シンガポールに引き返した事で迎撃計画に狂いが生じ、結果的にU-862を救った。だが以降も連合軍の諜報機関FECB(コロンボ)、FRUPAC(ハワイ)、FRUMEL(メルボルン)がBdUとモンスーン戦隊とのやり取りを監視し続ける。
バタビア基地
モンスーン戦隊の作戦管理は現地司令のドメス中佐ではなく、パリのBdUであり、彼らは依然アデン湾やペルシャ湾での敵補給路攻撃に関心を払っていたため、オーストラリア方面の通商破壊は特別考慮されていなかった。
一方、1944年5月にU-188艦長リュッデン少佐が豪州沖での作戦の可能性を報告した事、日本側がベルリンの海軍武官を通じて、ドイツ海軍総司令カール・デーニッツ元帥にオーストラリア南西方面での通商破壊を要請した事、そしてティム艦長とU-168艦長ヘルムート・ピッチ少佐が、未だUボートが現れていないオーストラリア近海で通商破壊を行うべきと提案した事で、デーニッツから「オーストラリア方面でU-862とU-168の運用が承認された。出撃準備が整い次第、出港する予定。海上交通路や防御状況など日本側の知識を活かして欲しい」と承認が下った。9月26日には「今後3隻のUボートがオーストラリア海域で活動する予定」と伝えている。
ただペナンの倉庫には魚雷が50本しかなく、割り当てられた魚雷が非常に少なかったものの、ティム艦長の粘り強い交渉で、何とか作戦に必要な14本を取り揃える事が出来た。U-862は長旅をしてきたにも関わらず、乗組員の士気やバッテリーの状況は良好で、またティム艦長はかつて商船に乗ってオーストラリアの航路を通った過去があったので、U-168やU-537とともにオーストラリア方面での通商破壊を命じられる。
しかし、Uボートの行動予定を関係各所に通達した際、連合軍によって暗号解析されてしまう。早速西行きの輸送船団を分散してルーウィン岬の南方450海里へ迂回するよう命令。また連合軍は米英蘭の大規模な潜水艦基地があるフリーマントルに、Uボートが機雷敷設を試みていると考え、増援の対潜掃討部隊をダーウィンから移動させ、航空哨戒も強化するなど万全の迎撃体勢が整えられた。
更に出撃拠点近くに刺客を送り込み、10月6日にスラバヤ沖でU-168が蘭潜水艦ズワードヴィッシュの雷撃で、11月10日にロンボク海峡北端でU-537が米潜水艦フラウダーの雷撃で撃沈され、残されたのはU-862ただ1隻のみとなってしまった。モンスーン戦隊は喪失したU-168の代わりにU-196を出撃させるも、11月30日の出港を最後に消息不明となっている(潜航事故説が有力)。
オーストラリア方面での通商破壊作戦
11月18日正午バタビアを出撃。スンダ海峡を通ってオーストラリア方面に向かう。連合軍はU-862の出撃に関して、適切な情報を得られなかったため迎撃用の潜水艦を送れず、U-862は安全にインド洋へと進出した。U-168、U-537が撃沈された事を知らないティム艦長は、2隻がオーストラリア西部で狩りを行っているだろうと考え、狩り場を南部及び東部に定めて大陸西部を南下していく。
2ヶ月間快適な地上生活を送ったせいで、乗組員たちはすっかり潜水艦生活の感覚を失ってしまい、第一当直士官が「艦内はとても暑く、眠る事が出来ない。誰もが頭痛を抱えている。ひどい下痢もあって4日間まともに食べていない」と回想するほど、本領の発揮が出来なくなっていた。
航空哨戒を警戒して日中は潜航。11月25日、チュニスのキーキー音が敵機のレーダー波を探知、頭上で敵機が捜索している様子が窺えた。
11月26日にオーストラリア南西端へ到達、11月28日にルーウィン岬沖へ到着して東進を開始、大陸南部のグレートオーストラリア湾で通商破壊を行うが、通信傍受によりオーストラリア海軍がU-862の侵入に気付き、運航中の船舶に航路の変更を命じた事で、獲物の殆どが姿を消してしまう。南極より吹き付ける冷たい暴風雨と対潜哨戒機のみがオーストラリア湾にあった。1週間かけて索敵を行ったにも関わらず敵船を発見出来なかったため、ティム艦長は敵船団が航路を変えている可能性を疑い、より沿岸に近い海域に進出しようとスペンサー湾に移動、アデレードへの進入航路で待ち伏せる。
12月9日正午、アデレード南東ヤッファ岬沖150海里にて、悪天候の中を進むギリシャ貨物船イリオスを発見。海中から雷撃するには発見が遅すぎたので水上砲撃で仕留める事にした。砲撃については先任士官が反対したがティム艦長は退かなかった。距離を縮めようとイリオスに接近するも、荒波に阻まれて思うように進めず、また波に揺さぶられて上手く照準も合わせられなかったため、痺れを切らした艦長が機関砲より前に甲板砲を撃つよう命令、しかし1発目の砲弾は外れてしまう。
砲弾が外れた事で当然イリオスはUボートの存在を感知。すかさず4インチ砲で撃ち返してきた。もし砲弾が命中すれば艦体に穴が穿たれて潜航不能、最悪撃沈の可能性すらありうる。U-862に残された道は潜航退避しかなかった。
13時頃、イリオスからの通報を受けたオーストラリア海軍は、U-862の出現位置から南東約130海里にいたコルベット艦バーニー、マリーボロー、リズモアの3隻を差し向ける。だが荒天の中を無理やり進んだせいか、道中でリズモアの左舷エンジンが故障、単身メルボルンに引き返した。19時バーニーとマリーボローがイリオスと合流。翌10日正午まで捜索を行ったがU-862を発見出来なかった。
一方のU-862は水中聴音機でソナーの波長を逆探知。雷撃を行おうと浮上するも、海上は荒れていてコルベット艦が見えず、とても魚雷を発射出来るような状況ではなかったので、この悪天候を隠れ蓑にして南方へと高速離脱していった。
12月14日夜、タスマニア島南方を通過した時に灯台の光を視認。ようやく艦の位置を正確に把握する事が出来た。オーストラリア海軍はU-862がバス海峡に機雷を敷設したと考え、バーニー、マリーボロー、リズモアにバス海峡航路の掃海を命じている(第一次世界大戦でもドイツ水上艦隊が海峡内に機雷を敷設した事がある)。
タスマニア南方を抜けて太平洋に進出した後、主要補給路2本が通るオーストラリア東岸を北上していく。
バス海峡東方を北上中、ニュージーランドに向かっている4000トン級タンカーを発見して急速潜航、ところが、そのタンカーは思いのほか高速で移動しており、浮上追跡に切り替えるも、今度は闇夜と大雨による視界不良に阻まれて接近がより一層困難になる。そこへ敵哨戒機が飛来。幸運にも敵機はU-862を味方と誤認していて、識別信号を交換しようとしてきたため、タンカーへの攻撃を断念して潜航退避を行った。予想された爆雷攻撃は無かった。
間もなくして聴音手が高速で移動する大船団の推進音を聴音。しかし雷撃するには距離が遠すぎる上、支援してくれる他のUボートもいない事から攻撃の機会を逸する。ティム艦長は「もっと多くのUボートがいれば、アメリカ沖のようなパウケンシュラーク作戦に繋がったのに」と残念そうに呟いた。
クリスマスが近づいてくると乗組員は箒の柄、ワイヤー、緑色の防水シート、電球を使ってクリスマスツリーを自作し、艦首区画に設置する。クリスマスイブの日にはデーニッツの演説をラジオで聴きながら、コックが作ったクリスマスに相応しい料理とお菓子を食べて楽しい時間を過ごす。演説の中には東南アジアのUボートの活躍も含まれていた。そして運命のいたずらか、U-862にはクリスマスプレゼントが贈られた。
ロバート・J・ウォーカー撃沈
12月24日午前10時頃、見張り員が水平線上に浮かぶ2隻の蒸気船を発見、魚雷の本数を考慮して1隻だけを攻撃する事にし、16時30分、シドニー南東約165海里でジグザグ運動中のリバティ船ロバート・J・ウォーカー(7180トン)に1本の魚雷を発射、右舷船尾に命中させて推進軸とステアリングギアを破壊、航行不能へと追いやる。
南に向かって漂流するロバート・J・ウォーカーにトドメを刺すべく、18時20分に距離約1000mから右舷側に向けて魚雷2本を発射するも、雷跡を気付かれたらしく、距離100mまで迫ったところで20mm機関砲に破壊された挙句、煙幕まで展開されて45分間ほど敵船の姿が見えなくなる。その間に救難信号を打たれてしまった。またロバート・J・ウォーカーは威嚇のため機関砲を撃ち続ける。
艦内ではティム艦長と士官が、敵船にトドメを刺すか退避するかで議論していた。艦長はデーニッツの「複数の船を損傷させるより、1隻を完全に沈めた方が効率が良い」という教えを思い出し、攻撃続行を決意。
20時頃、粘り強く機会を窺っていたU-862が三度目の雷撃を敢行。ロバート・J・ウォーカーは目ざとく雷跡を発見、ハロルド・ストーン一等水兵は20mm機関砲を操作して4分間銃撃、再び早爆を狙ったが、今度は失敗し、魚雷が命中した右舷船腹に大破孔が発生、そこから燃料が漏れ始める。遂にこれまでと判断した船員68名は救命艇3隻と筏4隻に分乗して脱出。無人船と化したロバート・J・ウォーカーは20時間以上漂流したのち、翌25日17時頃に人知れず沈没。Uボートが太平洋で挙げた唯一の撃沈戦果となった。
ロバート・J・ウォーカーの木製プレートはニューサウスウェールズ州サセックス湾付近のバーヴェルビーチに漂着。現在はオーストラリア戦争記念館で保管されている。
最後の魚雷が爆発して10分後にイギリス空軍の哨戒機が現場に到着、シドニーからは多数のコルベット艦や軍艦が、メルボルンからは英第4駆逐隊が派遣され、11機の航空機と12隻の軍艦が2週間以上に亘って大捜索を行う。オーストラリア近海で行われた対潜掃討の中では最大・最長のものだったが、1943年を最後に同方面での通商破壊が全く行われていなかった背景もあり、人員の経験不足や対潜兵器の不足でU-862の捕捉に失敗、なかなかUボートを追い払えずに苦慮する。
その頃、U-862は連合軍の索敵から逃れようとニュージーランド方面に向かっていた。クリスマスの宴はより良い時期にまで延期され、出来るだけ多くの電気機器を停止して電力を節約、40時間後には艦内の二酸化炭素濃度が許容値を超えるため、非番の者はベッドに寝かせて艦内の空気汚濁を少しでも遅らせようと試みた。
1945年
ニュージーランド方面での通商破壊
乗組員たちは1945年の始まりを洋上で迎える。艦内では新年パーティーが開かれたが、大荒れの天候のせいでお祝いのディナーが殆どひっくり返って台無しになってしまった。
1月5日、ニュージーランド北方で汽船を発見して雷撃、だが雷跡が見つかって回避され、追跡しようにも、荒天と汽船の回避運動が重なって上手く雷撃に繋げられず、このまま取り逃がしてしまった。艦長はこの事を「海岸近くで汽船を追跡しようとしても、夜間だと発砲出来る位置まで十分に近づけない」と憎々しげに戦時日誌に綴っている。
艦内で行われた士官会議で今後の行動について議論され、「ニューギニア沖で通商破壊を行い、オーストラリア・フィリピン間の航路を通って日本に帰投する」意見と、「ニュージーランドを南から回ってオーストラリア南東部に抜け、バタビアに帰投する」意見が出された。残りの食糧と燃料が乏しい事から艦長は後者を選択した。
1月7日ニュージーランド最北端レインガ岬沖に到達して東海岸方面へ移動。ティム艦長の計らいによりU-862は毎晩浮上し、乗組員に新鮮な空気を吸わせて戦意を維持させる。1月10日にブレット岬で、13日早朝にイーストケープ沖で敵商船を発見するも、適切な雷撃位置に就けず取り逃がす。
1月15日深夜、ポバディ湾に侵入してキズボーン港を潜望鏡偵察、陸岸ぎりぎりまで艦を寄せつつ、水深1mに潜航し、獲物となりそうな船舶を大胆不敵に探し回る。「日中は歩いている人々が潜望鏡を通して見える」と、夜間の偵察では「埠頭が明るく照らされ、その後ろに大きな工場がある」と記録している。しかし、数隻の小型船はいたものの、獲物となりうる大型船はおらず、やむなく小型船の1隻に狙いを付けて雷撃したが失敗、これほど派手に動いたにも関わらずU-862は住民に見つからなかった。この様子を見てティム艦長は「ここの人々は皆、驚くほど疑いを持たない」と皮肉る。その後、闇夜に紛れて港から脱出した。
この事を10年間に亘って調査した、キズボーン在住のジェラルド・ショーンは「(キズボーンは)第二次世界大戦中、ドイツ人がニュージーランドの海岸に最も近づいた場所」「キズボーン港に侵入するというのは極めて異例の決断だった。キズボーンのような小さな港に入る大型潜水艦の大胆さは、非常に危険な行為だった」と評している。
1月16日夜ネイピア港ホークスベイを潜望鏡偵察。「真っ赤な照明が灯るビーチカフェが見え、ダンスミュージックが古い曲を演奏している」と記録した。岸壁には沿岸貨物船(地元海運会社リチャードソン&カンパニー所有のプケコ号)が波に揺れているのが見える。ティム艦長は大胆にもU-862を浮上させ、数班に分けて乗組員を甲板上へ送り出し、戦争中とは思えないあまりにも平和な光景を見物させたという。その際「農場から新鮮な牛乳を盗むために乗組員を上陸させた」という都市伝説を戦後ティム艦長が冗談で広めたとか。
港内から脱出したU-862は沖合いにて獲物を待ち伏せる。数時間後、ネイピア港に停泊していたプケコ号が出港、航海灯を点けながらU-862の方へ迫ってきたので急速潜航、夜明けとともに雷撃を仕掛けるも、狙いが甘かったせいか外れてしまう。雷跡はプケコ甲板の水兵に目撃されていた。しかし前線から遠く離れたネイピアで攻撃を受ける事などあまりにも考えにくく、彼は幻覚だと思って報告しなかったという。
まだ魚雷が7本残っていたので、ティム艦長は、ニュージーランドの首都で、最大の港を擁するウェリントンを目指す事とし、一等航海士が分度器やコンパス、定規などを使って適切な航路を探り始めた矢先の1月19日、シンガポールのドメス中佐からバタビアへの帰投命令が出される。日本軍はマウント・バッテン率いるイギリス軍が近いうちにマラヤへ侵攻すると予想、更に強力な連合軍部隊がビルマ方面から南下しており、もしシンガポールを失陥すればU-862は帰る場所を失うとドメス中佐は考え、帰投命令を出すに至った。
だが高い戦意を維持していた艦長以下乗組員はしばらく電文の意味を理解出来なかった。やがて冷静さを取り戻した艦長は「これもう抗えない。引き返すしかない」と自分に言い聞かせ、ニュージーランド南方を通って帰路に就く。1月21日にスチュワート島南方を通過、タスマン海で荒天に巻き込まれるも何とか突破し、キング島南方を通過して西進する。
敵の索敵網から逃れるべくオーストラリア大陸の更に南方を迂回するが、それは南極からの自然の猛威をもろに受ける事を意味していた。南から10mに及ぶ高波と、猛烈で冷たい風がU-862に襲いかかり、艦内はまるで巨大なブランコに乗っているかのように、左右に大きく揺さぶられる。定期的に波が頭上より覆いかぶさり、艦外へと押し流そうとしてくるため、もはや司令塔での見張りは困難であった。
第一当直士官は当時の様子を「風はますます強くなり、海は非常に荒れ、我々はそれと戦う事を余儀なくされた。家ほどの大きさの波があるとは今まで信じていなかったが、今日、高さ10mを超える波を直接見た。艦首区画では常にエレベーターに乗って3階まで上へ行ったり下へ行ったりしているような気分だ。これが丸一週間続いた」と述懐する。
オーストラリア南西部から北上を始めると次第に天候は回復。しかし今度は赤癬が流行り出し、艦内は感染症病棟と化す。原因はバタビアで積み込まれた低品質の肉の缶詰めとキノコだった。患者の体を洗ったり、ベッドシーツを変える機会が無かったせいで、驚異的なスピードで感染が広まり、士官4名が高熱を出してしまったがためにティム艦長まで見張りに立たなければならなくなる。感染症のせいで乗組員はすっかり戦闘不能となった。
ピーター・シルベスター撃沈
2月6日16時頃、西オーストラリア州ルーウィン岬西方1400kmのインド洋にて、メルボルンからコロンボに向かっていたリバティ船ピーター・シルベスター(7126トン)のマストを発見。この船はビルマ戦線に輸送するアメリカ兵107名、ラマ317頭、装備品2700トンを積載していて、軍事的価値が非常に高かった。
16時40分頃、水上のU-862から発射された2本の魚雷がピーター・シルベスターの右舷側に命中、船橋前方の甲板を破壊するとともに、ハッチカバーを吹き飛ばして浸水被害を生じさせる。急速潜航したU-862は17時10分に再度2本を発射、2本とも右舷側に叩き込んで大破炎上へと追いやった。
船員や便乗者たちは4隻の救命艇と6隻の筏に分乗して船を放棄。間もなくピーター・シルベスターはトドメの魚雷1本を喰らって真っ二つに折れ、前部はすぐに沈没、残った後部も2月8日夕刻に積み荷もろとも沈没した。この戦果がオーストラリア近海・インド洋における枢軸国軍潜水艦最後の攻撃となった。
漂流者を救助するべくオーストラリア軍、イギリス軍、アメリカ軍は使用可能な全ての艦艇、航空機を投入して捜索を行い、見つからなかった救命艇に乗っていた33名を除いて全員が救出されている。U-862はFuMO 65 ホーエントヴィールを巧みに使って捜索網から脱した。
余談だが、2月14日に西オーストラリア州カンデリン飛行場から、ピーター・シルベスターの生存者救助のため飛び立とうとしたイギリス空軍第25飛行隊所属のB-24リベレーターが離陸直後に墜落、満載していた燃料や爆弾が誘爆して大炎上し、パイロット5名が焼死する事故が起きている。機体の残骸は尾翼以外ほとんど残っていなかったという。
U-862のリバティ船2隻撃沈は、戦争末期においても潜水艦に連合軍後方補給路を脅かす能力がある事を証明し、捜索に戦力や資源を投じさせ、護送船団に迂回を強いるなどして、太平洋戦線への増援を一時的とはいえ遅延させた。
バタビア帰投
U-862に散々振り回された連合軍はジャワ近海でU-862を撃沈しようと考え、英潜水艦15隻を忍ばせ、インド洋北東部にハンターキラーグループを配置、位置情報を送信するのを今か今かと待っていた。
オーストラリア西部を北上してスンダ海峡の合流地点へ到着した時、U-862は初めて無線封鎖を破って電文を放つ。直後に敵哨戒機がすっ飛んできたが、攻撃を受ける前に、高度な警戒レーダーであるFuMB 26 チュニスが反応を示して潜航退避が間に合った。この電文も連合軍に傍受・解読されたが合流地点までは割り出せなかったため取り逃がす。
2月14日ジャワ島近海で浮上。17時頃に対潜哨戒機のアラドAr-196Aが飛来してU-862を出迎え、日本の誘導船の後に続いて翌日バタビアへと帰投した。前代未聞のオーストラリア・ニュージーランド沖の通商破壊を成し遂げたティム艦長以下U-862乗組員は他のUボート乗員から労いの歓待を受けている。最後に艦長は「作戦計画上のミスは海域が広すぎた事だった。シドニー南北の海上交通路を集中攻撃すれば、より良い結果が期待出来る」と締めくくった。
2月18日、独補給船ボゴタとバタビアを出港。修理を行うべくシンガポールに向かう。連合軍の諜報機関はU-862の行動に関する電文を即座に傍受、しかし何故か司令部への報告が遅れて迎撃体勢の構築が間に合わず、シンガポール近海に配備していたズワードヴィッシュは日本軍機の爆撃で損傷、退却させられていたため、U-862は何ら妨害を受ける事無くバンカ海峡を通過し、2月20日セレター軍港に到着。第101工作部にて入渠整備を行う。ここで回転翼を持つ艦載偵察機フォッケ・アハゲリスFa330 A-1を新たに装備、操縦士のショブスト・シェーファー軍医には脱出用のパラシュートが支給される。
日本軍から提供された低品質の燃料を使った影響で、U-862のディーゼルエンジンは摩耗して特に状態が悪く、バッテリーの状態も大変不安が残るものだったが、完全な修理を行うには日本まで回航しなければならない上、連合軍の空襲で現地の諸施設が破壊されて修理が思いのほか長引いてしまった。
いよいよ次の出撃で帰国する事が決まり、ドイツ本国で不足している生ゴムを可能な限り積載、道中アフリカ南東で通商破壊を行うべく魚雷8本を搭載した。日本海軍は帰るついでにインドのマドラスへ工作員を上陸させて欲しいと依頼したが帰国を優先したいベルリン側に拒否されている。
4月25日に主機関のテストが完了、出港日は5月12日と定められた。
日本海軍の接収
1945年5月初旬、第十方面艦隊司令の福留繁中将から参集の命が下り、ドイツ軍の司令官と士官がセレター軍港に集められる。福留中将は彼らに間もなく抑留される事、東南アジア残留のUボートは接収される事を伝えた。福留中将の言葉に怒りは無かった。むしろこれまでの対日協力に感謝している様子さえ垣間見えた。
5月5日、ドイツ駐日海軍武官パウル・ヴェネッガー大将は、神戸の潜水艦基地司令ケントラット少佐を通じて東南アジアの全Uボートに暗号信号「リューベック」を送信、これはドイツが連合国とのあらゆる敵対行為を停止した事を意味する。当時シンガポールにはU-181とU-862の乗組員を含む230名以上のドイツ軍人が残っていた。すぐに各艦長が集まり、戦争継続か自沈かで協議を行い、全員一致で戦闘継続を決定。
翌6日ティム艦長は全乗組員に甲板へ集まるよう指示。同日正午頃、福留中将や第十三航空艦隊の参謀等が、セレターで入渠中のU-181、U-862の乗組員に対し、ドイツが降伏した事、これからドイツ兵たちを抑留する事を告げた。16時頃、日本軍のトラック数台が埠頭にやってきて、U-862と向かい合わせに武装兵が陣取る。ドイツ人乗組員たちは「もしや武力でU-862を接収するつもりでは」と一瞬考えたが、彼らはU-862から武装を撤去し、数分以内にドイツ海軍の戦闘旗を降ろして、代わりに軍艦旗を掲げただけだった。ドイツ人乗組員は無言で退艦するとともにトラックに乗せられて宿舎へと戻った。その夜、福留中将はヨーロッパ式の夕食会を開き、ドイツ軍将校に対してこれまでの戦争協力に感謝した。
5月7日、ドイツ人乗組員からの自発的な申し出と協力により修理を続行。
そして5月8日ドイツが正式に降伏。ヴェネッガー大将は「リューベック協定が発効した」旨を東南アジアのドイツ軍部隊に送信、この協定は、一方の国が降伏して残った国が戦闘を続行した場合、前者は後者に軍需品を提供するという内容である。翌日、BdUはモンスーン戦隊に「U-181以外は日本に引き渡す。無償の贈り物として受け取るか、有償で受け取るか尋ね、乗組員は退艦せよ」と命じた。
在シンガポールの海軍部隊は、至急日本人乗組員の配置を第六艦隊に要請、海軍部としても本土決戦が秒読み段階に入っている現状を鑑み、一刻も早いUボートの内地回航を実現しようと、迅速な人員配置を行った。内地においても東南アジアのUボートは噂になっていたようで、乗り組み希望者が多かったが、軍令部は要職の艦長、水雷長、砲術長、航海長、下士官(呂500乗務経験がある者限定)を内地から、残りは現地の基地隊員から抽出する事に決めた。
一方、降伏によって戦えなくなったドイツ人乗組員は、トラックでマラヤ南部バドゥパハトにある元イギリス人所有のゴム農園へ移送される。
6月22日、U-181とU-862に配属する要員9名を乗せた伊351が佐世保を出港、7月11日に無事シンガポールまで辿り着き、山中修明少佐(艦長)、木村貞治大尉(水雷長)、鴨野輝夫大尉(機関長)、宮持優中尉(航海長)の4名が着任し、参謀長朝倉少将のもとへ挨拶に訪れた。上層部も接収したUボートに期待を寄せていたようで、各艦にマレー人運転手付き乗用車を配車、艦との往復、セレター司令部への訓練状況報告、特別根拠地隊との連絡業務などに使用され、能率を大幅に上げられたという。シンガポール自体が燃料集積拠点なので燃料不足の心配も要らなかった。
伊502
1945年7月15日、日本海軍はU-862を接収して伊502に改名。呉鎮守府へ編入されるとともに第一南遣艦隊附属に部署する。8月下旬の戦力化を目途に、ドイツ人乗組員約30名が日本人乗組員に操艦方法を教え、シンガポール南側の水深50mの海域で潜航・浮上の操作を行う。
技術大国ドイツの産物だけあってUボートは伊号潜水艦よりも技術が進んでいた。日本潜水艦では何本もの伝声管を使って艦内令達を行うところを、伊502はマイク1本による艦内放送だけで済み、たった一言発するだけで艦全体に命令を伝える事が可能な他、ツリム計算なども設計段階の時点で各タンクへの出入量が極めて容易に計算出来るようになっており、日本側より計算が楽だった。
8月1日からはより高度な訓練を開始。
8月5日20時5分に第十方面艦隊参謀が送った電文には「伊502の乗組員はドイツ人乗組員によって指導され、艤装作業も行われた。間もなく本格的な訓練が始まり月末までに完了する予定。その後、短期間で出撃準備を進め、魚雷16本を搭載する」と書かれている。戦力化後、まず孤立中のアンダマン諸島に物資を輸送、それが終わると内地へ回航し、魚雷発射管を日本式に換装、最終的に本土決戦用の戦力に加える事となっていた。
訓練は順調に進み、そろそろ日独協同訓練も終わりにしようかとの意見が出始めた8月11日午前、各級指揮官が艦隊司令部に集められ、「今後敵の攻撃に対しては反撃するが、敵を見てもこちらからは攻撃しない」方針が伝えられる。またこの日よりポツダム宣言受諾の噂が広まり始めた。
8月15日、日本人乗組員の操艦で、最初の試験航海を行うべくシンガポールを出港、着実に戦力化が進んでいたが、その翌日に終戦の報せが届いて中止となり、セレター軍港に回航して、大破した重巡洋艦妙高の左舷側に横付けする。11月30日除籍。
戦い終わりて
1945年9月12日、シンガポールに進駐してきたイギリス軍によって、ティム元艦長ら乗組員は身柄を拘束されて捕虜となる。そして10月17日にチャンギ収容所へと移送された。その後イギリス軍の監視下で伊502から重要部品を取り外す作業を行った。
1946年2月13日に伊502はイギリス海軍へと引き渡される。翌14日、ダグボートに曳航されてシンガポールを出港、2月15日午後、コルベット艦ロック・ローモンドが装着した爆薬により爆破処分される。竣工から戦没まで誰一人として死者を出さなかった幸運の艦であった。
ドイツ人乗組員は6月28日エンプレス・オブ・オーストラリアに乗せられ、7月20日にリヴァプールへ到着。1947年以降逐次解放されていった。最後まで残っていたティム元艦長も1948年4月に釈放。彼らはドイツに帰国したり、北ウェールズのキンメル収容所に収容されたが、後者の中にはソ連に抑留されるのを恐れてウェールズに定住した者もいた。
余談
一部ネット上では「沖縄戦にUボートが参加し、リバティ船2隻を撃沈した」と語られているものの、実際はU-862の戦果をベースにしたデマである。確かにUボートは太平洋にまで進出したが、ロバート・J・ウォーカーが太平洋での唯一の撃沈記録で、またその船が撃沈されたのは沖縄戦開始のおよそ2ヵ月前。そしてその戦闘哨戒でU-862が挙げた戦果は「リバティ船2隻撃沈」。時期が近いからか混同してしまったのだろうか。
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