U-219とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したXB型Uボート5番艦である。1942年12月12日竣工。ドイツの降伏後は日本海軍に接収されて伊505となった。1946年2月3日スンダ海峡南方で海没処分。
概要
1930年代後半、ドイツ海軍はヴェルサイユ条約による水上艦隊の制限を補うべく、北アメリカ接近路などの遠隔地に機雷を広域敷設出来る特殊な航洋型潜水艦の必要性を認識。魚雷攻撃だけでなく機雷も用いて敵護衛船団を追い詰めようと考えた。
まず最初に、新開発のシャハトミーネA係留機雷を搭載するためのX型Uボートを特別設計。設計にあたっては優れた航続距離を持つIX型を参考にしている。そこからサドルタンク内に機雷室を増設したXA型が設計されるも、第二次世界大戦勃発で優先順位が変わり生産には至らなかった。
しかし設計自体はXB型に流用され、機雷室や両舷を改造して、24基の垂直式機雷敷設筒と6基の機雷格納筒を装備した事で、合計48個の機雷を搭載可能に。設計者は速力や機動性より機雷搭載量を優先したため、Uボートの中では最大級の艦体を誇り(全長に至っては全Uボート中トップ)、それでいて効果的な水上航行を実現、浮力を失わずに大量のペイロードを運ぶ事も可能だった。また堅牢な二重船殻構造により圧壊深度が220mと非常に深い。この強みは敵ソナーから逃れやすくなる恩恵を生み出した。
機雷庫に貨物コンテナを詰め込めば輸送用潜水艦に早変わりする利便性をも持つ。優れた積載能力から本来の機雷敷設任務よりも、ミルヒクー同様Uボートに対する補給任務に従事する方が多かったが、巨体すぎるゆえに急速潜航秒時と機動性に劣ってしまい、XB型8隻中6隻が撃沈される大損害を出している。終戦まで生き残ったのはU-219とU-234だけだった。
魚雷発射管は2門のみで、いずれも艦尾に装備。機雷も発射管より放出される。魚雷の大部分は甲板と耐圧殻の間にあるスペースに収納。補助潤滑油ポンプを左右のディーゼル機関室前方に搭載。左舷側に電動式スクリューポンプ、手持ち式潤滑油ポンプがあり、右舷側に補助冷却水ポンプ、手動冷却水ポンプ、潤滑油清浄機を持つ。長大な航続距離を有するため、理論上は無補給でアメリカ東海岸、もしくはカナダ沿岸への機雷敷設が可能。
要目は排水量1763トン、全長89.8m、全幅9.2m、喫水4.71m、乗員52名、安全潜航深度100m、燃料搭載量368トン、急速潜航秒時35秒。兵装は53cm艦尾魚雷発射管2門、魚雷15本、10.5cm甲板砲2基、機雷66個。
戦歴
1940年8月6日にクルップ・ゲルマニアヴェルフトAGのキール造船所へ発注。ここは先進的な潜水艦設計を専門とする大手造船所で、他の造船所に外注する事無く全作業を一貫して行った。
1941年5月31日ヤード番号625の仮称で起工。だがXB型の設計は大変複雑で、標準的なVII型Uボートと比較して長期の組み立てを要し、1942年10月6日進水、同年12月12日になってようやく竣工を果たした。初代艦長にヴァルター・ブルクハーゲン少佐が着任。竣工と同時に訓練部隊の第4潜水隊群へ編入される。
ブルクハーゲン少佐は1891年9月21日生まれ、つまりU-219竣工時は51歳という超高齢のUボート艦長であり、Uボート全体で見てもUD-5艦長ブルーノ・マーン中佐(54歳)に次ぐ2番目の高齢艦長だった。彼はアメリカ人の母親を持ち、第一次世界大戦でも海軍に所属したベテラン士官で、冷静沈着、自身が輝くような英雄的行為よりも、乗組員の幸せを第一に考える、模範的かつ明るい性格をしていたという。
就役後はバルト海にて慣熟訓練に従事。航行性、推進力、システム統合などの公試も実施した。機雷を扱う乗組員の養成はキールとフレンスブルクの魚雷学校で行われ、シミュレーターを使った機雷敷設の練習、安定性及び重量配分に関する理論講義、練習艦での実地訓練で錬成されていった。
シュテッティン停泊中、未完成空母グラーフ・ツェッペリンから撮影されたU-219の写真が残っており、それによると空母のように飛行甲板を敷き詰めた、特異な迷彩を施しているのが分かる。1943年7月1日ドイツ占領下フランスのボルドーに拠点を置く第12潜水隊群に転属。
1回目の戦闘哨戒(1943年10月~1944年1月)
1943年10月5日にキールを出港、グレートベルト海峡とカデカット海峡を通過し、10月8日から翌9日までノルウェー南部クリスチャンサンで燃料補給を受けるが、推進軸に故障が見られたため、急遽ベルゲンに寄港して緊急修理を行う。そして10月22日ベルゲンを出撃。イギリス軍の監視を掻い潜りながらアイスランド・フェロー諸島間、アイルランド西方を突破し北大西洋を南下していく。
当初は北大西洋で機雷敷設任務を行う予定だったが中止となる。
BdU(Uボート司令部)は、日本軍の支援を受けながらインド洋で通商破壊中のモンスーン戦隊に増援を送ろうと、Uボート11隻を東南アジアのペナン基地に向かわせるも、連合軍の妨害により無事辿り着いたのは僅か4隻だけだった。損失を補うべく新たに5隻のUボートを派遣する事になり、U-219もケープタウンとセイロン島コロンボ西方に機雷を敷設した後、モンスーン戦隊に加わるよう命じられる。
僚艦への補給任務に従事
11月2日、ニューファンドランド東方500海里の地点で、U-420とU-584を撃沈されて帰投に必要な燃料が足りないU-91に物資・燃料を補給。この補給のおかげでU-91は無事ブレストまで戻る事が出来た。11月4日、今度は、U-405との合流に失敗して燃料不足に陥ったU-752に給油をするよう命じられ、2日後に合流地点へ向けて出発するが、11月7日、U-343から給油を受けられたとの報が入り、次はU-488から給油を受けるべく南方海域に向かう。
しかしU-488は米第21.16任務部隊の攻撃で損傷。貴重なXIV型をこれ以上危険に曝せないとして、11月13日にBdUが帰投命令を出し、これに伴って給油は取り止めとなってしまった。
11月17日にはペナン行きのU-510と、帰投中のU-170に燃料補給するよう命じられ、11月30日、カーボベルデ諸島西方で2隻と合流して給油を実施。U-510は食糧と燃料を満載、U-170は帰投に必要な分だけ補給した。12月3日午前10時よりフリータウン近海でU-103に給油。十分な補給を受けたU-103はベルゲンに向けて出発していった。
自身の燃料を僚艦に譲渡した影響でU-219のペナン行きは中止。ボルドーへの帰投を命じられる。
その後も給油任務は続き、12月11日夜カナリア諸島南西でペナンに向かうU-172へ予備燃料25トン、食糧1.8トン、予備部品、六分儀などを補給。U-172からは逆探装置FuMB-10ボルクムを受け取る。これは先月使用禁止となったワンゼに代わる逆探だが、新型を開発するまでの時間稼ぎ的要素が強く、仕組みも非常にシンプルなものであった。また、これまでの哨戒任務の報告を行うべく新任のアルフレート・レフラー中尉がU-219に移乗。作業を終えた2隻はそれぞれの目的地に向かって離れていった。
補給作業中、護衛空母ボーグから飛び立ったE.C.ゲイロード中尉のTBFアヴェンジャー雷撃機が、合流地点の南方40海里付近を哨戒するというニアミスが起きていた。さらに対潜水艦戦の調整を担当するアメリカ第10艦隊が、U-219とBdUとの間で交わされた暗号電文を傍受・解読、位置情報を付近のボーグに送信し、すぐさまアヴェンジャー2機が攻撃に向かう。
U-172は24時間に亘る追跡の末、雷撃機と護衛駆逐艦の猛攻によって撃沈されてしまう。U-219にも魔手が迫ったが何とか逃走に成功した。その後ボーグは12月14日までU-219を捜索したものの、一向に発見出来なかったため捜索を打ち切る。
1944年1月1日、72日間の戦闘航海を終えてボルドーに入港。1月5日ブルクハーゲン艦長は第二級鉄十字章を授与された。
輸送潜水艦への改装
2月1日より4月30日まで輸送用潜水艦になるための改装工事を受ける。後部甲板の10.5cm甲板砲と37mm単装機関砲を撤去し、新たに20mm連装機関砲2門と37mm自動機関砲1門を装備。
第12潜水隊群の技術者を乗せ、貨物を満載にした状態で数回の試験航海を行う。最初の潜航では、まるで石のように、予想以上に早く沈降するトラブルが発生、経験豊富なフローティラ機関士が5時間かけて応急処置を行い、かろうじて浮上する事に成功。あやうく技術者もろとも海底に沈んでしまうところだった。試験の結果、重量低減のため37mm機関砲と弾薬は全て撤去、幸いXB型はIX型以上の巨体を持っていたので、魚雷発射管と20mm連装機関砲だけは何とか残された。
5月22日ラ・パリスに回航。圧油システムの再構築と魚雷調整を行った。5月25日にボルドーへと戻り、29日より造船所に入渠してシュノーケル、FuMO 61ホーエントヴィール、新型トイレの設置工事を実施。艦内にはモンスーン戦隊や日本向けの物資としてジュラルミン製インゴット、ディーゼル燃料の予備、魚雷及びアラドAr196水上機の予備部品、作業場設備、手術室を含む医療設備、医薬品、分解したV2ロケット12基の一部、水銀、光学ガラス、3~4ヶ月分の物資を積載した。
工事の完了には3、4ヶ月を要した。その間にボルドーの潜水艦基地が連合軍の空襲を受けたものの、強固なUボートブンカーに護られていたU-219に被害は無かった。ところが6月6日に連合軍がノルマンディーへ上陸。これまで比較的平穏だったフランスに戦火が及び始める。そんな中、ボルドーでは6月25日に水泳大会が開かれたようで、U-219乗組員が入賞・表彰されている。
7月20日のヒトラー総統暗殺未遂事件以降、ボルドーでも緊張感が漂うようになり、未遂事件について話しても、口出しする事は無かったという。また連合軍の前進に伴ってフランス国民の対独感情も徐々に悪化しつつあった。8月1日夜ボルドーからUボート2隻が脱出。だが2日後に2隻ともビスケー湾で沈没したとの噂が広まる。8月上旬には、ブレストやロリアンのUボート基地を潰そうと、連合軍がブルターニュ半島への侵攻を開始。もはや残された時間は少なかった。
翌22日、基地司令官カーリ・ウェーバー少将がボルドー残留の艦艇に脱出を指示。ボルドー基地では既にレジスタンスによる破壊工作が盛んに行われており、同日午後には爆薬を収めた13号格納庫が爆発した他、アルザス系の水兵が脱走してレジスタンスに加わるなど士気崩壊も激しく、急ぎ出港準備が進められた。
2回目の戦闘哨戒(1944年8月~12月)
ボルドー脱出
1944年8月23日朝、U-180、U-195、U-437とともに連合軍の包囲が狭まるボルドーを脱出、護衛には駆逐艦Z24がつく。同日夜ル・ヴェルドンに到着し、翌24日午後に水雷艇T-24が遅れて合流した。
しかし19時頃、東の空から、E.W.タコン中隊長率いる第236飛行隊・第404飛行隊所属のブリストルボーファイター計18機が出現、U-219は潜航中だったため難を逃れたが、凄絶な航空攻撃でT-24が撃沈、Z24が大破したのち転覆させられる。
護衛を失ったU-219は8月25日午前0時30分にル・ヴェルドンを出発。最初の関門であるジロンド河口の機雷原テオダールを突破して、ビスケー湾を潜航中、小型哨戒艇と思しき敵艦からソナーによる捜索を受ける。次はモスキート戦闘機とショートサンダーランド飛行艇の襲撃を受けて交戦、両軍とも被害は無かった。敵機を振り切った4隻は潜航して各々の哨戒地点へと向かう。
午後に潜望鏡を上げてみると、ビスケー湾から来たドイツ船2隻が約40機のモスキートに襲われている様子が見えた。U-219のシュノーケルには問題があったが技術者の尽力で何とか解決し、イギリス軍が繰り出す大量の哨戒機をシュノーケル潜航でやり過ごして北大西洋に進出、以降は夜間のみ浮上航行を行う。
9月15日、BdUより、ペナンからヨーロッパに戻る途上で燃料不足に陥ったU-1062と合流・給油をするよう命じられ、カーボベルデ諸島南西を合流地点に指定。9月20日にはU-1062からユンカース製コンプレッサー用シリンダーライナー、予備燃料、ジャイロスコープの補給要請を受けた。しかしこの通信を連合軍の情報機関に傍受され、護衛空母トリポリとミッション・ベイを基幹としたハンターキラーグループが送り込まれる。
そうとは知らずにU-219は合流地点へ到着。そこで2日間待機するが一向にU-1062は姿を現さない。
トリポリ艦載機との戦い
9月28日夜、トリポリ所属のウィリアム・R・ギレスピー中尉が駆るアヴェンジャー雷撃機が出現、赤いサーチライトを照射しながらU-219に襲い掛かり、左舷前方に着弾を示す水柱が高々と築かれる。XB型は潜航に時間を要するため、ブルクハーゲン艦長は潜航退避ではなく対空射撃による応戦を選んだ。
19時40分、低空よりロケット弾を撃とうとしたギレスピー機を20mm機関砲で撃墜。パイロット3名全員が戦死した。ギレスピー機は大西洋においてUボートに敗北した最後の護衛空母艦載機となる。
安心したのも束の間、今度はジョセフ・W・スティア少尉のアヴェンジャーが8発のロケット弾を発射、次にダグラス・R・ハグウッド中尉のワイルドキャットが、決死に身をよじって回避運動を続けるU-219に機銃掃射を浴びせる。およそ500発の機銃弾が司令塔に叩き込まれた。後にスティア少尉は「戦闘機が発射した50口径の弾丸で(司令塔が)完全に覆われているように見えた」と語る。
雷撃機と戦闘機から同時に攻撃を受けて苦戦を強いられる中、スティア少尉機がMk24機雷を発射、これは音響追跡魚雷とも呼ばれるもので、音源に引き寄せられる恐怖の対潜兵器であったが辛くも回避に成功した。
僅かな隙を突いてブルクハーゲン艦長は潜航を命令、U-219の巨体がゆっくりと海中に沈み込む。19時58分、潜航前に仕留めようとスティア少尉機が1発の対潜爆弾を投下、しかし狙いは外れ、右舷後方に着弾して大きな水柱が築かれる。潜航を許したスティア少尉機は一度旋回したのちソノブイを投下。現場に到着したばかりのスミス中尉機に攻撃を指示し、20時57分にMk24機雷を投下するも、機雷の爆発音は探知出来なかったという。
一方、何とか潜航に成功したU-219であったが、BdUに空襲を受けた事を報告しようにも、再び爆雷、爆弾、多数のMk24機雷を投下され、なかなか報告のチャンスを与えてくれない。水上ではスティア少尉機がミッション・ベイと護衛駆逐艦2隻を、ソノブイ投下地点にまで誘導しており、必殺の構えでU-219を追い詰める。が、ここで思わぬ幸運がU-219に助太刀した。ソノブイからの信号が混乱していて護衛駆逐艦はU-219の正確な位置を掴めなかったのである。やがて撃沈と誤認して敵艦は去っていった。
9月30日短時間だけ浮上してバッテリーを充電。この時、右舷前方及び左舷に油膜が広がっているのを目撃、手早くBdUに報告している。
10月2日、トリポリ所属のアヴェンジャーに再び捕捉され、逃走を図るU-219に爆雷を投下、耳の肥えたソナー聴音手が撃沈確実と考えるほどの手応えを覚えたが奇跡的に撃沈を免れる。次第に追い詰められていく中、ブルクハーゲン艦長は、最低限のバッテリー消費で移動できる塩分濃度の層を発見し、潮流に身を任せながら、敵機に見つからないよう静かに逃げ続ける。
だが69時間の連続潜航で艦内の空気が汚濁、乗組員に体調不良を訴える者、あるいは気絶寸前まで意識が朦朧としている者が出たため、10月4日やむなく浮上したところ、海上はアフリカより吹き付ける砂嵐に見舞われていて、連合軍のレーダーはU-219を捉えられなかった。こうしてU-219はハンターキラーグループの魔手から無事逃れられたのだった。大幅に時間を浪費したのでU-1062との合流を断念。ペナンへの旅を続ける。
ちなみに当のU-1062はミッション・ベイの部隊から逃げ切れずに撃沈されてしまっている。U-1062の給油失敗を最後に、大西洋でUボート同士の給油を行う事は一切無くなった。
ペナンまでの道のり
U-219の苦難は続く。隠密性の要とも言うべきシュノーケルが故障したのだ。艦長は士官を食堂に集め、「Uボート、特に我々の艦はもはや今日の戦争に不向きである」と落胆しながら語った。10月30日、ケープタウン西南西で空襲を受けたが被害無し。
11月初めにU-219は喜望峰沖へと差し掛かった。喜望峰一帯には、南緯40度線を中心に東西約1600km、南北約320kmに亘って一年中天候が荒れている暴風圏ローリングフォーティーズがあり、常に40mを超える西向きの風が吹きつける過酷なる海域が広がっていた。追い風ではあるものの、数分ごとに艦後部から15~18mもの大波が襲い掛かり、司令塔で見張りを行う者は荒波にさらわれないようシートベルトを着用しなければならず、想像を絶するような自然の暴威がU-219を容赦なくいたぶる。その凄まじさたるやフランツ・クルンプ主任操舵手が自身の航海日誌に「私の10年間の海軍キャリアで最悪の海上日々」と綴るほど。この過酷なる海域を突破するのに2週間を要した。
インド洋に到達すると波風は穏やかになった。だが入れ替わりに英東洋艦隊の脅威がU-219に圧し掛かる。一度は日本海軍に大敗して、インド洋を追われた英東洋艦隊であったが、この頃になるとすっかり息を吹き返し、元気良く哨戒と護衛に勤しんでいた。このためインド洋でも潜航して進み、2.5ノットの水中速力で慎重に歩み続ける。
ペナンに対する連合軍の猛攻に耐えかねたモンスーン戦隊は後方のバタビアへ後退。11月20日、BdUはU-219とU-195にバタビア外港タンジュンプリオクへ向かうよう指示を出し、船団航路、識別信号、合流地点なども併せて通達した。道すがらU-219は敵船に向けて魚雷を発射、爆発音を聴き取ったとBdUに報告している(該当船なし)。
そして12月12日、110日間の長い航海を経て、U-219は目的地のタンジュンプリオクに入港。長旅を成し遂げたブルクハーゲン艦長にはUボート従軍章を授与された。
東南アジアでの活動
到着から2日目に積み荷の揚陸作業を行い、それが終わると今度は生ゴム、錫、キニーネ、大量のアヘン、その他軍需物資の積載作業が始まった。12月26日、敵潜の雷撃により日本の弾薬輸送船が港内で大爆発を起こす。U-219への被害は軽微だったが人員と港湾施設に甚大な被害が発生してしまう。乗組員は港内に浮かぶ多数の死体とサメを目撃した。爆発の影響で翌日スラバヤに回航する計画が取り止めとなる。
U-219とU-195が輸送したFuMB-10 ボルクムとFuMB-26 チュニスは当時東南アジアにいた全Uボートに装備。このおかげでオーストラリア国防省は、ペナンのドイツ無線局が送信した電文を、傍受する事は出来ても解読出来ない状態に陥り、モンスーン戦隊の防諜能力が大きく向上している。
予定では東南アジア産の資源を持ってドイツに帰国する予定だったが、技術的問題が原因で出発が遅れ、しばらくバタビアでの待機を強いられる。乗組員たちはテルク・ベトゥング地区の大きなバンガローを住居として与えられ、日本側が用意した娯楽も手伝って滞在をかなり楽しんでいたとか。
1945年1月から2月末にかけて修理を行い、3月中旬頃には戦備も整った。4月22日、日本の第十方面艦隊司令部はスラバヤの第102工作部に対し、5月1日より10日間、U-219のシュノーケル修理と艦体の整備を行うよう命令。これを受けてU-219はスラバヤ基地に回航した。帰国準備が着々と進む一方、BdUからは不可解にも現地に留まるよう指示が下る。
4月下旬、ブルクハーゲン艦長は乗組員に「諸君、我々はまさにネズミ捕りの中にいる。ここから脱出しよう。鉄条網の向こうの楽園よりも、打ち砕かれた祖国にいる方がマシだ」と告げ、万が一に備えて大砲を岸に向け、小火器を準備し、艦内の主防水弁に爆薬を仕掛けた。最後に艦長は「ただし念のため!最後の手段だ!馬鹿な事をするな。さもないと日本軍と揉める事になるぞ」と釘を刺す。その日以来、甲板上には昼夜を問わず砲兵が常駐するようになった。
ドイツ人乗組員はチューブトップの下に水着を着て、三交代制で整備作業に従事。しかし、元々熱帯の気候に慣れていない彼らは、50℃にも及ぶ酷暑に耐え切れず、暑さにやられて次々に倒れていった。間もなく戦争はドイツの敗北で終わるだろう。しかしそうなれば自分たちは日本軍に逮捕、投獄されるのでは?という恐怖が彼らの心を恐怖させる。
日本軍の接収
5月初旬、第十方面艦隊司令の福留繁中将から参集の命が下り、ドイツ軍の司令官と士官がセレター軍港に集められる。福留中将は彼らに間もなく抑留される事、東南アジア残留のUボートは接収される事を伝えた。福留中将の言葉に怒りは無かった。むしろこれまでの対日協力に感謝している様子さえ垣間見えた。
5月5日、ドイツ駐日海軍武官パウル・ヴェネッガー大将は、神戸の潜水艦基地司令ケントラット少佐を通じて東南アジアの全Uボートに暗号信号「リューベック」を送信、これはドイツが連合国とのあらゆる敵対行為を停止した事を意味する。当然ドイツ人全員が衝撃を受けた。すぐに各艦長が集まり、戦争継続か自沈かで協議を行い、全員一致で戦闘継続を決定。
そして5月8日ドイツが降伏。この時シンガポールにU-181とU-862が、スラバヤにU-195とU-219が所在していた。BdUはモンスーン戦隊に「U-181以外は日本に引き渡す。無償の贈り物として受け取るか、有償で受け取るか尋ね、乗組員は退艦せよ」と命じる。
5月8日午前10時頃、いつものように乗組員が作業をしていると、突然ブルクハーゲン艦長が「全員桟橋に整列しろ。時間だ」と命令を出し、訳も分からぬまま言われた通りに整列。するとライフルを持って直立不動の日本兵の一団が見えた。彼らは、開戦前まで東京帝国大学で講師をしていた、ライプツィヒ出身の独身老人フプファー博士を通訳とし、「ドイツ国防軍は降伏した。一国が降伏して、もう一国が戦闘続行した場合、前者は後者に軍需品を提供する合意がある」「日本海軍が伊505として本艦を接収する」と告げ、直ちに立ち退くよう要求してきた。
日独は初期にリューベック協定を結んでおり、U-219の接収はこの協定に基づく行為であった。ゆえにブルクハーゲン艦長は反論せず、部下を制止しつつ「旗を降ろせ」と短く命令、日本海軍の提督が敬礼する中、艦長自らペナントを外した。そして艦尾の旗竿には日本の軍艦旗が掲揚。接収作業はつつがなく完了した。
退艦した乗組員たちは促されて日本軍の輸送トラックに乗車。各トラックには銃剣を持った日本兵4名が警備にあたっている。ほんの数分前までは友好的な表情を浮かべていた彼らは、今は無表情となり、引き金に指を掛けている。リューベック協定は艦長しか知らないので乗組員は一様に不安な気持ちになった。
戦えなくなったブルクハーゲン艦長以下乗組員はスラバヤで1週間抑留された後、ボゴールとバンドンとの間にあるプレアンジェルランドの茶園に収容。シンガポールでは戦隊司令ドメス中佐やU-181艦長クルト・フライヴァルト艦長などを立て、日本側と交渉した末に紳士協定を結び、対日協力を義務付ける代わりに収容所から解放されており、スラバヤのドイツ兵も同様に解放されたと思われる。
5月14日14時50分、バタビア基地が今後の修理スケジュールを示した電文を送信。
5月16日BdUが連合国に降伏するよう指示を出すがドイツ人乗組員は無視。連合軍も「港を出て、連合軍無線局に報告し、最寄りの連合軍の港に向かうように」「デーニッツ大将は諸君に期待している」と揺さぶりをかけたが、結局誰一人として日本軍への協力を止めなかった。東南アジアのUボートは日本本土でも噂になっていて、乗り組み希望者が相当数いたという。
伊505
7月15日、大日本帝國海軍に編入されて伊505に改称、呉鎮守府第2南遣艦隊所属となる。ところが第2南遣艦隊には、訓練を受けた潜水艦乗組員がおらず、本土より移送された要員は伊501と伊502に割り当てられたため、伊505用の乗組員を確保出来ず半ば係留放置される。
ただ、8月5日20時5分に第十方面艦隊参謀長が発した電文によると、「伊505と伊506は乗組員の乗り組みを完了」と書かれていて、乗組員の調達に成功した可能性が高い。また「船体と兵装は概ね良好」「伊505には機雷30個を収容出来る機雷室があり、約130トンの航空燃料を積載可能。更に約35トンの貨物が搭載可能」といった性能調査の結果も併記されている。
8月12日、連合軍は「乗組員の準備が整い、積み荷も積載して、伊505の輸送準備が完了している」との情報を得た。伊505は伊506とともに南方地域、特にインドシナ、離島、香港への石油及び重要貨物輸送に投じられる予定だった。実際インドシナへの輸送は秒読み段階まで進んでいた模様。輸送任務後は魚雷発射管を日本式に改めるべく内地へ回航、最終的に本土決戦の兵力として運用する事になっていた。
ところが実戦投入を目前にして8月15日の終戦を迎える事となった。
終戦後
9月10日、伊505はスラバヤに現れた英巡洋艦カンバーランドに投降、次いで9月12日、進駐してきたイギリス軍が艦を接収した。ブルクハーゲン艦長たちは茶園から解放されてスラバヤ基地に移動。
10月中旬頃スラバヤにもイギリス軍少佐が率いる連合軍部隊が出現。しかしこの時には既にインドネシア独立戦争が勃発しており、各地でインドネシア軍とオランダ軍の戦闘が発生、イギリス軍にはキャンプ地のドイツ兵、オランダ人の女性・高齢者・子供を守れるだけの兵力が無かったため、当面の措置として、ドイツ兵に武器を渡した上で英独協同戦線を張る事になり、軽機関銃、重機関銃、グレネードランチャー、手榴弾といった、イギリス正規兵と同じ武器が支給される。
つい数ヶ月前まで敵国だったイギリスのために異国の地で戦わされる。クランプ主任操舵手は「我々は捕虜でも民間人でもない。ただ迷惑な外国人としてオランダの司法に従属している。ここでは世界から完全に切り離されていた」「(捕虜ではないので)ジュネーブ条約が適用されていない」と不満を述べた。
11月30日除籍。
1946年2月3日13時40分、スカッパード作戦により、スンダ海峡南方でオランダ駆逐艦コルテナーの砲撃と爆雷を受けて海没処分。元乗組員の耳にも伊505もといU-219がジャワ海で撃沈されたとの報が届いている。
ドイツ人乗組員たちのその後
1946年10月末、シンガポールで捕虜になっていた乗組員たちに帰国許可が下り、体に着用出来るものと20kgまでの手荷物が携行を許された。まずバタビアからボンベイに向かい、そこで避難者用の1万トン級貨物船スロテルダイクに乗船。12月1日頃にハンブルクへと辿り着く。
だが全員が全員帰国した訳ではなかった。一部の乗組員はインドネシアに留まり、インドネシア軍に味方して英蘭との戦いを継続、自身のノウハウを活かして、ジャワ島のジョグジャカルタ鉄工場でインドネシア軍用の特殊潜航艇を設計・建造したと伝わる。ヴェルナーとレッシェはオンラスト島のグロドック刑務所を脱走してインドネシア軍に加入、このうちヴェルナーはインドネシア軍用の武器を組み立てている時に殺害された。
また、U-219の元副長だったハンス・ヨアヒム・クルークは1981年公開の映画『Uボート』のコンサルタントを務めた。
関連項目
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- 0
- 0pt

