U-219とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したXB型Uボート5番艦である。1942年12月12日竣工。ドイツの降伏後は日本海軍に接収されて伊505となった。
概要
新開発のシャハトミーネA係留機雷を搭載するために特別設計されたX型Uボートが前身。そこからサドルタンク内に機雷室を増設したXA型が設計されるも生産には至らなかった。しかし設計自体はXB型に流用され、機雷室や両舷を改造して、24基の垂直式機雷敷設筒と6基の機雷格納筒を装備した事で、合計48個の機雷を搭載可能に。魚雷発射管は2門のみで、いずれも艦尾に装備。機雷も発射管より放出される。魚雷の大部分は甲板と耐圧殻の間にあるスペースに収納。
補助潤滑油ポンプを左右のディーゼル機関室前方に搭載。左舷側に電動式スクリューポンプ、手持ち式潤滑油ポンプがあり、右舷側に補助冷却水ポンプ、手動冷却水ポンプ、潤滑油清浄機を持つ。
ドイツのUボートの中では最大級の艦体を誇り(全長に至っては全Uボート中トップ)、機雷庫に貨物コンテナを詰め込めば、輸送用潜水艦に早変わりする利便性をも持つ。この優れた積載能力から本来の機雷敷設任務よりも、ミルヒクー同様Uボートに対する補給任務に従事する方が多かった。しかし、巨体すぎるゆえに急速潜航秒時と機動性に劣ってしまい、XB型8隻中6隻が撃沈される大損害を出している。終戦まで生き残ったのはU-219とU-234だけだった。
要目は排水量1763トン、全長89.8m、全幅9.2m、喫水4.71m、乗員52名、安全潜航深度100m、燃料搭載量368トン、急速潜航秒時35秒。武装は53cm艦尾魚雷発射管2門、10.5cm単装砲2基、37mm単装機関砲1基、20mm連装機銃2基、魚雷15本、機雷66発。
戦歴
1940年8月6日にクルップ・ゲルマニアヴェルフトAGのキール造船所へ発注、1941年5月31日、ヤード番号625の仮称で起工、1942年10月6日に進水し、同年12月12日に無事竣工を果たした。
初代艦長にはヴァルター・ブルクハーゲン少佐が着任。彼は1891年9月21日生まれ、つまりU-219竣工時は51歳という超高齢のUボート艦長であり、第一次世界大戦にも海軍に所属していたベテランであった。Uボート全体で見てもUD-5艦長のブルーノ・マーン中佐(54歳)に次いで2番目の高齢艦長。
竣工と同時に訓練部隊の第4潜水隊群へ編入。バルト海にて慣熟訓練に従事する。シュテッティン停泊中、未完成空母グラーフ・ツェッペリンより撮影されたU-219の写真が残されているが、空母のように飛行甲板を敷き詰めた特異な迷彩を行っている様子が窺える。1943年7月1日、ドイツ占領下フランスのボルドーに拠点を置く第12潜水隊群に転属。いよいよ実戦投入の時が来た。
1回目の戦闘哨戒
1943年10月5日にキールを出撃、カデカット海峡を通過し、10月8日から翌9日までクリスチャンサンで燃料補給を受けた後、推進軸に故障が見られたため、急遽ベルゲンに寄港して緊急修理を行う。10月17日にベルゲンを出撃。アイスランド・フェロー諸島間の海域、アイルランド西方を通過し、大西洋を南下していく。
当初は北大西洋で機雷敷設任務に従事する予定だったが中止。BdU(Uボート司令部)は、日本軍の協力を受けながらインド洋で活動するモンスーン戦隊に増援を送ろうと、Uボート11隻をペナン基地に向かわせたものの、無事に辿り着いたのは僅か4隻のみだった。損失を補うべく新たに5隻のUボートを出発させる事となり、U-219もケープタウンとセイロン島コロンボ西方に機雷を敷設した後、モンスーン戦隊へ加わるよう命じられる。
11月2日、基地へと帰投するU-91に物資と燃料を補給。2日後、今度は、U-405との合流に失敗して燃料不足に陥ったU-752に給油するよう命じられ、11月6日、作業を終わらせて出発。ところが翌7日にU-343から給油を受けられたためU-219は南方に向かった。南方海域では、U-488より燃料を受け取るはずだったが、そのU-488が爆雷攻撃を受けて損傷、貴重なXIV型を危険に曝せないとBdUが判断した事で、急遽給油は取り止めとなってしまう。
11月30日、日本占領下ペナンに向かうU-510と帰路に就いているU-170に燃料補給。続いて12月3日午前10時よりU-103に給油を実施。十分な補給を受けたU-103はベルゲンに向けて出発していった。間もなくU-219のペナン行きは中止となり、ボルドーへの帰投を命じられる。
12月11日夜、カナリア諸島南西でペナン行きのU-172に予備燃料25トン、食糧1.8トン、予備部品、六分儀などを補給。U-172からはボルクム装置が供給された。これまでの哨戒任務の報告をするべく新任のアルフレート・レフラー中尉がU-219に移乗、作業を終えた2隻はそれぞれの目的地に向かって離れていった。
ところが補給作業中、対潜水艦戦の調整を担当するアメリカ第10艦隊に、U-219とBdUとの間で交わされた暗号電文を解読され、護衛空母ボーグからTBFアヴェンジャー雷撃機2機が急行。U-172は24時間に渡る追跡の末、雷撃機と護衛駆逐艦の猛攻によって撃沈。U-219にも魔手が迫ったが何とか逃走に成功した。ボーグは12月14日まで捜索を続けたものの、一向に発見出来なかったため攻撃を断念する。
1944年1月1日、72日間の戦闘航海を終えてボルドーに入港。1月5日、ブルクハーゲン艦長は補給任務成功の功績を認められ、第二級鉄十字章を授与された。
輸送潜水艦への改装
2月1日から4月30日にかけて、U-219は輸送用潜水艦になるための改装工事を受け、後部甲板の10.5cm砲と37mm単装機関砲を撤去、新たに20mm連装機関砲2門と37mm自動機関砲1門を装備。
第12潜水隊群の技術者を乗せ、貨物を満載した状態で数回の試験航海を行う。最初の潜航試験では予想以上に早く沈降するトラブルに見舞われたが技術者たちが安定化させて事なきを得る。試験の結果、重量低減の目的で37mm機関砲と弾薬は全て撤去された。ただし無防備にならないよう魚雷発射管と20mm機関砲だけは残されている。
5月22日にラ・パリスへ回航。圧油システムの再構築と魚雷調整を行った。5月25日、ボルドーへと戻り、29日より造船所に入渠してシュノーケル、ホーエントヴィール、新型トイレの設置工事を実施。またU-219はモンスーン戦隊向けの物資輸送任務に就く事となり、機雷の代わりにジュラルミン製のインゴット、ディーゼル燃料の予備、作業場設備、手術室を含む医療設備、魚雷やアラドAr196水上機の予備部品、医薬品などを積載する。
工事の完了には3~4ヶ月を要した。その間にボルドーの潜水艦基地が連合軍の空襲を受けたものの、幸いU-219に被害は及ばなかった。しかし6月6日に連合軍がノルマンディーへ上陸。これまで比較的平穏だったフランスが戦場と化し、8月上旬には、ブレストやロリアンのUボート基地を潰そうと、連合軍がブルターニュ半島への侵攻を開始。もはや残された時間は少なかった。
2回目の戦闘哨戒
1944年8月23日、同じく輸送潜水艦となったU-195やU-180とともに、連合軍の包囲網が狭まるボルドーを脱出。ル・ヴェルドンにて護衛の到着を待ち、8月25日午前0時30分に出発した。脱出するUボートを迎撃しようと、連合軍は大量の哨戒機と機雷を用意していたが、危険なビスケー湾をシュノーケル潜航を駆使して突破、無事に大西洋まで逃れられた。以降は夜間のみ浮上航行を行う。
9月15日、BdUよりペナンからヨーロッパに戻る途上で燃料不足に陥ったU-1062と合流・給油をするよう命じられ、カーボベルデ諸島南西を合流地点に定められる。9月20日にはU-1062より通信が入り、ユンカース製コンプレッサー用シリンダーライナー、予備燃料、ジャイロスコープの補給要請を受けた。しかしこの通信は連合軍の情報機関に傍受され、護衛空母トリポリとミッション・ベイを基幹としたハンターキラーグループが送り込まれる。
9月28日夜、U-1062の到着を待つU-219のもとに、トリポリ所属のW・R・ギレスピー中尉の駆るアヴェンジャー雷撃機が出現。満月の光で昼間のように明るく照らされていたからか、敵機は赤いサーチライトを照射しながら襲い掛かり、左舷前方に爆弾を投下。対するU-219は激しい対空砲火で応戦した。
19時40分、低空よりロケット弾を撃とうとしたギレスピー機を20mm機関砲で撃墜。パイロット3名を戦死へと追いやる。これは大西洋においてUボートに撃墜された最後の護衛空母艦載機であった。しかし安心したのも束の間、今度はジョセフ・W・スティア少尉のアヴェンジャーが8発のロケット弾を発射、次にダグラス・R・ハグウッド中尉のワイルドキャットが、決死に身をよじって回避運動を続けるU-219に機銃掃射を浴びせる。更にスティア少尉機が追尾魚雷ファイドを発射。音源に引き寄せられる恐るべき魚雷だったが、U-219は回避に成功した。
僅かな隙を突いてブルクハーゲン艦長は潜航を命令。U-219の巨体が海中に沈み込む。すかさず敵機がソノブイを投下してきたが、幸運にも捕捉されずに済んだ。BdUに空襲を受けた事を報告しようとするも、再び爆雷、爆弾、多数のファイドを投下され、なかなか報告のチャンスを与えてくれない。9月30日、僅かな時間を浮上してバッテリーを充電。
10月2日にトリポリ所属のアヴェンジャーから再度捕捉され、逃走を図るU-219に爆雷を投下、耳の肥えたソナー聴音手が撃沈確実と考えるほどの手応えを覚えたものの、奇跡的に逃げ延びた。
追い詰められていく中、ブルクハーゲン艦長は最低限のバッテリー消費で移動できる塩分濃度の層を発見し、敵機に見つからないよう息を殺しながら逃げ続ける。だが、69時間の連続潜航で艦内の空気が汚濁し始め、ついに乗組員まで体調を崩したため、10月4日にやむなく浮上したところ、海上はアフリカより吹き付ける砂嵐に見舞われていて、連合軍のレーダーはU-219を捉えられなかった。まさに幸運であった。U-1062への給油を断念してペナンへの旅を続ける。ちなみにU-1062はミッション・ベイの部隊から逃げ切れずに撃沈されてしまっている。
10月30日、ケープタウン西南西で空襲を受けたが被害は無し。11月4日頃にインド洋へと突入。
モンスーン戦隊の拠点であるペナンが連合軍の猛攻を受け続けたため、後方のバタビアへと後退。これに伴って11月20日、BdUはU-219とU-195に新たな目的地として、バタビア外港タンジュンプリオクに向かうよう指示し、船団航路、識別信号、合流地点などを併せて通達した。インド洋にてU-219は敵船に向けて魚雷を発射、爆発音を聞いたとBdUに報告(該当艦無し)。
そして12月12日、110日間の航海を経て、U-195とバタビアに到着した。長旅を成し遂げたブルクハーゲン艦長は入港と同時にUボート従軍章を授与される。
東南アジアでの活動
到着後間もない12月26日に日本の弾薬輸送船が港内で爆発事故を起こす(雷撃を受けたとも)。幸いU-219は軽微な損傷だけで済んだが、港湾施設と人員に甚大な被害が発生してしまった。
東南アジア産資源を積載して、ドイツに帰国する予定であったが、技術的問題が原因で出発が遅れ、しばらくの間バタビアやシンガポールなどで待機を強いられる。
1945年2月末に修理が完了し、3月中旬に戦備を整えた。4月22日、日本の第10方面艦隊司令部はスラバヤの第102工作部に対し、5月1日より10日間、U-219のシュノーケル修理と船体の整備を行うよう命令。U-219艦内に生ゴム、錫、その他軍需物資を積載して帰国するための準備が着々と進められた。一方、BdUからは現地に留まるよう指示が下される。
5月5日、ドイツ駐日海軍武官パウル・ヴェネッガー大将は東南アジアの全Uボートに暗号信号「リューベック」を送信。これはドイツが降伏して連合国とのあらゆる敵対行為が停止した事を意味していた。
5月8日、いつものように艦上でU-219乗組員が作業をしていると、日本兵の一団が行進してきて、「日本海軍が伊505として本艦を接収する」と告げ、直ちに立ち退くよう要求する。戦えなくなったブルクハーゲン艦長以下乗組員を一度は収容所へ移送したが、ドイツ側はモンスーン戦隊司令ドメス中佐、U-181艦長カート・フライワルド少佐、水雷長デェアリング中尉、機関長ヒレー少尉などを立てて日本側と交渉、速やかに締結された紳士協定により、ドイツ人乗組員はU-219の整備を行う日本軍の支援を義務付けられる代わりに、収容所ではなくチコポの休憩所を与えられた。修理自体は予定通り行われたようで、5月14日14時50分に今後の修理スケジュールを示した電文をバタビア基地が発している。
5月16日にBdUが連合国に降伏するよう指示を出すもドイツ人乗組員は無視。連合軍も「港を出て、連合軍無線局に報告し、最寄りの連合軍の港に向かうように」「デーニッツ大将は諸君に期待している」と揺さぶりをかけたが、結局誰一人として日本軍への協力を止めなかった。
伊505
7月15日にU-219は伊505に改名して大日本帝國海軍潜水艦として再就役。呉鎮守府第2南遣艦隊所属となる。しかし南遣艦隊に訓練を受けた潜水艦乗組員がおらず、本土より送られてきた要員は伊501と伊502に割り当てられたため、伊505用の乗組員を確保出来ず、半ば係留放置される。
ただ、8月5日20時5分に第10方面艦隊参謀長が発した電文によると、「伊505は乗組員の乗り組みを完了」「船体と兵装は概ね良好」と書かれていて、乗組員の調達に成功した可能性がある。また「伊505には機雷30個を収容出来る機雷室があり、約130トンの航空燃料を積載可能。更に約35トンの貨物が搭載可能」といった性能調査の結果が併記されている。8月12日、連合軍は伊505の乗組員の準備が整い、積み荷も積載して輸送準備が完了しているとの情報を得た。
伊505は伊506とともに南方地域、特にインドシナ、離島、香港への石油及び重要貨物輸送に充てられる予定だった。実際インドシナへの輸送は秒読み段階まで進んでいた模様。ところが実戦投入を前に8月15日の終戦を迎える。
終戦後の9月10日、英巡洋艦カンバーランドに投降し、9月12日、伊505は進駐してきたイギリス軍に引き渡される。11月2日にチコポがイギリス軍に占領され、ブルクハーゲン艦長がドイツ側との交渉役を担った。11月30日除籍。12月15日、アメリカ海軍のロバート・L・ゴーレリー中将はジェフリー・J・A・マイルズ中将に「U-219、U-181、U-195、U-862の海没処分はイギリスの責任である」と通達した。
1946年2月3日13時40分、スカッパード作戦により、スンダ海峡南方でオランダ駆逐艦コルテナーの砲撃と爆雷を受けて海没処分。
12月9日、シンガポールでイギリス軍の捕虜となっていたブルクハーゲン元艦長が釈放される。インドネシアに残留していたU-219の元乗組員たちはそれぞれ違う道を歩んだ。降伏してイギリス軍に協力する者もいれば、正反対にインドネシア軍に味方して英蘭との戦いを継続した者もおり、自身のノウハウを活かして、ジャワ島のジョグジャカルタ鉄工場でインドネシア軍用の特殊潜航艇を設計・建造したという。
関連項目
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