U-188単語

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U-188とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXC/40Uボートの1隻である。1942年8月5日工。通商破壊により連合軍商8隻(4万9725トン)撃沈の戦果を挙げた。1944年8月25日ボルドーで自沈。

概要

IXC/40とは、1940年に設計された前級IXCの小改良タイプである。

IXCの設計をベースに外径殻を拡大し、同時にバラストタンクも大化させた事で、燃料搭載量が6トン増加、ただでさえ長大な航続距離に更なる磨きが掛かった(IXCの2万370kmから743km増大して2万1113km)。その足の長さはフランスから補給でカナダやケープタウンまで長駆出来るほど。水上速力もIXCから微増しているが、その代償に排水量がやや増加した。

IXC/40160隻が起工、このうち87隻が就役し、残り71隻はXXI型量産優先のため建造中止となる。

排水量1144トン、全長76.76m、全幅6.86m、燃料搭載量214トン、連続航行日数84日、安全潜航深度122m、最大速力18.3ノット(水上)/7.3ノット(水中)、急速潜航時35、乗員44名。武装は53.3cm魚雷発射管6門、魚雷22本、45口径10.5cm単装1門、SKC/30 37mm単装機関1門、20mm連装機関2門。電測装備として電波探知機、電波探信儀、水中聴音機を装備する。

艦歴

1940年8月15日にデシマーグAGヴェーザー社のブレーメン所へ発注。建造資材の調達が了したため、1941年8月18日、ヤード番号1028が刻まれたを造所に設置して起工、兼行の突貫工事を行い、1942年3月31日進水式を迎えた。造所近くの教室では、技術者模型を使って乗組員に武装、設備、配置、数々の技術仕様について説明。というのも乗組員のどがIXC/40の乗艦経験がかったのだ。また同じ造所で建造されていた姉妹U-187が7月23日工した際、U-188とU-189の将兵が祝賀会に招待されたという。

そして8月5日工を果たして第4潜隊群へ編入。記念式典には数人の海軍高官が出席し、初代艦長に任命されたジークフリート・リュッデン少佐が、ヴィリーポルナー伍長とともに、ウィンターガルテン帝国戦旗を掲揚する。正午頃、造所近くのレストラン技術者たちが送別会を開いてくれた。出席者の中にはリュッデン艦長及び機械技師キースリング中尉の妻がいたが、潜水艦女性が乗ると不吉が訪れるという古いジンクスから、2人とも乗艦を許されなかったとか。

リュッデン少佐は開戦時ドイツ空軍所属だったが、1940年4月よりUボートの士官訓練を受け、練習U-141での短期間の任務、10ヶ間の副官任務、1942年6月潜水艦艦長訓練を経て、U-188に就任した新米艦長である。線でやり取りをする際は防諜の的でU-188ではなく「U-Lüdden」と呼称。には、地球儀の前にUボートシルエットを描いたエンブレムが刻まれ、「Weltensegler(世界乗り)」の文字が添えられていた。

1942年8月10日から26日までキール試を実施。その後はバルト方面で各種試験に従事していたが、右舷ディーゼル機関に問題が発生したため、9月29日より12月11日にかけて、東プロイセン首都ケーニヒスベルクの造所で交換作業を行う。

出渠したU-188は予定の遅れを取り戻すかのように、1943年1月2日ダンツィヒで第25潜隊群と魚雷発射訓練、1月3日より16日までヨーテンハーフェンで第27潜隊群と戦術訓練、レンネで集音聴音装置24台のテストを矢継ぎに行い、またシュヴィーネミュンデでの対教練を省いて、1月23日キールへ回航されてドイチェ・ヴェルケの造所で最終調整と最終装に着手。

実弾魚雷24本を搭載し、艦内の隙間という隙間に食糧を詰め込み、管制室の床下には耐圧容器に入った機関銃弾、手榴弾短機関銃弾薬が収められる。銃器類のチェックはリュッデン艦長の手で行われた。2月1日フランスロリアンを拠点とする第10潜隊群へ転属。この異動は実戦投入が近い事を意味していた。3月3日出撃準備了。

1回目の戦闘航海

1943年3月4日午前8時一つないの澄み切ったの下、海軍軍楽隊が勇ましい行進曲を奏でる中、リュッデン艦長と非番の士官は前甲に整列し、見送る人々や高級将校に向けて敬礼をする。U-188の艦体がゆっくりから離れ、急速に速度を上げていく。軍楽隊の演奏、男たちの、女たちの叫びディーゼルエンジンの唸りが混ざり合って騒音となっていたが、次第にエンジン音以外は聞こえなくなった。

出港から4時間後に最初のタイムを迎える。熱々のシチュー、焼きたてのパン果物野菜ジャガイモが出されたが、これほど勢なのは出港直後だけで、生鮮食品が尽きたら缶詰めやドライフルーツなどの貧しい食事で占められる。

対空砲を装備した掃海艇2隻の先導を受けながらカテガット峡、スカゲラ峡、北海北部を通過3月8日掃海艇は護衛を切り上げて退却、ここからは単独での航となる。3月12日午後、北海通過中、ったく円錐形の浮遊物、すなわち機雷原が右舷約200m先に出現したため、ハインリッヒ・コーン長が左へ急転するよう示。あと少し反応が遅ければ機雷原へ突っ込むところだった。ノルウェー南西北上したのち、北大西洋へ進出するべく、アイスランドフェロー諸島間の、イギリス軍の警備が手薄な〝隙間〟を慎重に通り抜ける。

しかし3月14日午前11時20分、アイスランド南東にて、右舷側約5000m先に敵駆逐艦がいるのを発見、急いで潜航退避を行うも、合計28発の爆雷が投下されて艦は大きく揺さぶられた。爆雷投下が止んだ隙を突いて聴音したところ、敵駆逐艦は北西方向に移動している事が判明。U-188はまずは東へ、次に南へ逃走し、駆逐艦との距離を徐々に広げていった。敵は何故か北西方向にばかり爆雷を投下していてU-188の逃走に気付いていない。20時8分に安全を確認して浮上。駆逐艦はどこかに去っていったようだ。

大西洋での通商破壊

北大西洋進出後の3月21日、8隻のUボートからなるウルフパック「ゼートイフェル」に参加。航空偵察のデータに基づいてHX護送団とSC護送団を攻撃するのが「ゼートイフェル」の任務である。

周囲には流氷と荒とした域のみが広がる。正確な現在位置を知っているのは士官のみで、乗組員には「グリーンランドの南のどこかにいて、この域に向かうよう命じられた他のと合流する」程度の情報しか知らされなかった。これは不切ではなく情報漏洩対策の一環だった。もし艦が沈没して捕虜になった時、尋問で、どんなに巧妙に練られた質問を受けても、絶対に答えられないようにするための措置なのである。

翌日になっても団が現れなかったので、線を維持したまま西進、3月26日からはケープフェアウェルより南西方向に向かった。その後、「ゼートイフェル」は別のウルフパック「ゼーウルフ」と合流して800里に及ぶ線を形成。

3月27日に「ゼーウルフ」所属のU-305がHX-230団を発見。全戦力を投じてHX-230団を攻撃しようと試みるも、ハリケーンの到来によりが荒れに荒れ、やなむく団から落した船舶を狙って攻撃を続行、だが悪下での攻撃は困難を極め、撃沈出来たのは僅か1隻のみだった。結局3月30日アイルランド北西でウルフパックは解散。U-188は獲物にすらありつけなかった。

4月7日よりSC-125団への攻撃を企図したウルフパック「アドラー」に所属。線を一斉に南下させてSC-125団を探しめる。ところが実際に遭遇したのは船舶46隻と護衛艦艇3隻で編成されたON-176団であった。BdU(Uボート部)はU-188と他3隻に攻撃を命

4月10日午前8時53分、距離8000m先にらしきものを確認、スコールや視界不良に阻まれて何度か見失いつつも追跡を続け、少なくとも、10隻の汽が南西方向に向かっているのを確認。その後もり強く追跡を続け、団の針路、速力、形を逐次報告していく。そんな中、敵護送団が照明弾を打ち上げる。何の意図があっての事かは分からないが、間のように明るく照らし出された事で、団の配置がハッキリと掴み取れた。

4月11日午前5時49分、ON-176団のタンカーを狙って魚雷4本を発射、流れ弾の形で、後方にいた旧式駆逐艦ベヴァリー(1215トン)に命中してこれを撃沈せしめる。艦長を含む139名が戦死。不運な事に、ベヴァリーは、2日前に蒸気ケアンヴォローナと衝突事故を起こし、対潜機と消磁機を喪失、駆逐艦としては機不全に陥っていたのだ。またベヴァリー姉妹U-187の撃沈に関わっており、図らずもU-188が姉妹艦のを討つ形となった。間もなく敵の駆逐艦がすっ飛んできたため急速潜航。その間にON-176団は逃げ去った。

リュッデン艦長の報告書によると、ベヴァリーに加えて3隻(1万8000トン)を撃沈したとあるが、いずれも該当は存在しない。


ON-176団に対する作戦終了後、「アドラー」はニューファンドランド北東で「メイズ」と合流。4月13日ニューファンドランド西方にて遊中、ユンカース製コンプレッサーの故障に伴い、Eコンプレッサーが頻繁に故障し出すようになり、確実な動作をしなくなってしまう。リュッデン艦長と機関長が綿密に協議した結果、4週間に渡る悪が原因でディーゼル機関コンプレッサー、補機、潜望に脆弱な箇所が発生したと判明、幾つかの故障は艦上では応急修理出来ない深刻なものであった。やむなく4月15日戦闘を中止して帰路に就く。

4月23日21時58分に北大西洋でU-487と合流。燃料、メトックス逆探装置、複眼レンズ、予備部品の補給を受け、翌24日午前1時35分に作業了。

4月30日よりビスケー湾に進入。イギリスの眼前に位置するため、湾内の航空は苛を極めていた上、Eコンプレッサーの不調で出力が通常の60程度しかなく、圧縮空気の少なさから、潜航して進むという常套手段が使えない危機的状況であった。加えて左舷排気ガス配管裂が生じ、漏れ出たガスが艦内にゆっくりと広がって乗組員を不快にさせている。このような脆弱な状態でビスケー湾を突破しなければならなかった。

敵機が現れるたびに急速潜航してやり過ごすのだが、潜航中は、充満する排気ガスによって、苦痛レベルの息苦しさを味わい、中には酷い頭痛や吐き気を訴える者もいたという。当時はシュノーケルいので浮上中以外は換気が出来ないのである。その一方で吉報もあった。西部方面艦隊部がユンカースJu88爆撃機4機を派遣する事を約束してくれたのだ。

5月2日午前10時14分、イギリス空軍第612飛行隊所属のホイットリーが、水上航行中のU-188に機掃射を浴びせてきたため、20mm対機関で反撃し、コクピットに数発の命中弾を与えると敵機は慌てたように爆弾4発を投下、それらは全て艦尾近くに着弾した。U-188はすぐさま潜航退避を始める。艦が中にしていく中、最初の機掃射で左胸を撃たれていたリュッデン艦長は身動きが取れず、第一当直士官の助けを借り、どうにかのハッチから艦内に入る事が出来た。

リュッデン艦長は戦傷の身に打って職務を全うしようとし、全ての武器を艦に集めて水上戦闘に備えるよう示、同時にドイツ空軍戦闘機による支援を要請した。しかし彼は意識朦朧、全身の脱力感、まい、失血による気絶などに悩まされ、潜望攻撃用椅子に倒れ込んでしまう。

15時30分頃、後方より急速に接近してくる機を発見。ショートサンダーランド飛行艇と判断され、艦内は一気にに包まれたが、それと同時に右舷前方からも4つの機が接近、するとサンダーランドが旋回して逃げ去っていった。前方の機は味方のJu88だった。抑えきれないほどの歓が上がり、や甲上にいる者たちが、編隊を組んで勇ましく飛行するJu88に手を振り、またコーン長が照明弾を打ち上げて謝意を示す。それに応えるかのようにJu88が高度を下げてU-188の頭上30mを通過していく。エンジン音は解放感あふれる音楽のようにき、「自分たちは生き残った」という喜びが当直士官たちにを流させる。Ju88はを迎えると基地に帰投するので間は潜航しての移動となった。

5月3日午前8時5分に味方戦闘機の到来を確認。45分後には4隻のM級掃海艇が護衛に加わった。

5月4日午前3時10分にロリアン入港。夜空に煌めく々を塗り潰すかのように、灰色コンクリート天井ゆっくりと頭上に現れる。U-188は襲からUボートを守るために造られたコンクリート格納庫Uボートブンカーの中にスッポリと収まった。リュッデン艦長は救急車に乗せられてパリ病院へと搬送されていった。

5月4日から6月29日までロリアンの造所でオーバーホールを受ける。その間に人事異動も行われ、新たに2名の新人乗組員が配属された他、本来ならXIVにしか配属されないはずの軍医も乗艦する事になっており、この件について乗組員たちは一様に疑問を抱く。リュッデン艦長や士官などの中核要員は引き続きU-188の揮を執る。

6月25日、U-188の乗組員たちは2隻のUボートが隊列を組んで、ブンカーから出撃していくのを撃。もが「ビスケー湾をにも気付かれずに突破できるだろう」と思っていた。が、僅か数時間後、大破したUボートが多数の死傷者を乗せて帰投してくるのを発見、もう1隻は撃沈されて生存ゼロだったという。

2回目の戦闘航海

1943年5月ブラックメイ以降、Uボートの損は増加の一途を辿り、大西洋での戦果に伸び悩んだドイツ海軍連合軍の防御が緩い域を探し始め、その結果、同盟日本が占領する東南アジア・ペナンに新たな基地を設け、インド洋で通商破壊を行うモンスーン戦隊を新編するという考えに行き着く。東南アジアに送る第一波としてU-188を含むIXC9隻とIXD22隻にペナン行きが命じられた。

6月30日14時45分に土砂降りロリアンを出撃。U-188は2番フランスを出発したペナン行きUボートであった。U-168、U-183、U-506、U-509、U-514、U-532、U-533とともにペナンす。

7月11日から12日にかけてアゾレス東方を南下。予定ではセントポール東方でU-462から補給を受ける手はずだったが、U-462は7月30日ビスケー湾で撃沈され、代わりに派遣されたU-487中部大西洋で撃沈、またペナン行きのU-506、U-509、U-514の3隻も相次いで撃沈されてしまう。いくら航続距離が長いIXと言えど補給でペナンまで辿り着く事は出来ない。そこでBdUは帰投中のU-155を臨時の潜タンカー定して急場をぐ。

7月22日午前9時50分、カーボベルデ北西の補給地点にてU-155と合流。へその緒のような給油ホースで両艦を繋いで3週間分の燃料を受け取る。食糧に関してはゴムボートを使って運び込んだ。暗くて低い灰色を包んでくれたため、敵哨戒機に見つかる危険性は低いと言えた。19時15分補給了。別れ際にピニング艦長はメガホンで「航の安全、そして大漁を!」とをかけてくれた。

補給作業を終えて南下中、ここでリュッデン艦長より、U-188がモンスーン戦隊に編入された事が乗組員に明かされる。「的地はマレーシアのペナン。その航中、価値のある標的は全て撃沈しなければならない。この航は、幾つかの回航路を挟みつつも、約4ヶかかる予定である」と告げた。スピーカーからリュッデン艦長のが止まると乗組員一同は奮。「直下の洗礼!」「熱帯の暑さ!」「喜望峰!」「アフリカを一周!」「モンスーンのが吹き荒れるインド洋だ!」「マレーシアは同盟日本に占領されている!」といったが聞こえてきた。

8月5日を南下。リュッデン艦長の示で恒例の祭は潜航中に行われた。

8月27日頃に喜望峰を通過してインド洋へ進出。9月7日BdUはインド洋で独補給ブラーケと合流するよう示を出し、翌8日午前3時にU-188、U-183U-532、U-533の4隻がブラーケと会同。敵に見つからないよう補給地点は航路から遠く離れた場所に設定されている。本来であればイタリア潜水艦アミラリオ・カーニも合流するはずだったが一向に姿を現さない。彼らのにもイタリア無条件した情報が入ってきており、「安全な港に入る事を選んだのだろう」と結論付けた。

速U-188はブラーケの右舷1000mに移動し、U-533とともに燃料補給を受ける一方、順番待ちのU-183尾側、U-532は左舷側の警任務を行う。補給作業はとても順調に進んだ。U-188とブラーケの間をディンギーが活発に往来、缶詰めのバナナパン、その他味が入った木を艦内に収容していく。午前8時頃より潤滑と燃料の移載作業が始まった。9月10日、敵に見つかる事く4隻の補給は了。

9月11日イタリアの降によって、ペナンから逃走した通報エリトリアに補給ルーチンを乱される危険性を憂慮したBdUは、モンスーン戦隊ブラーケ南方への退避を命。悪の場合は北東に逃げるよう命じられた。

9月12日モーリシャス南方450里の補給地点でブラーケU-168、U-183U-532、U-533と合流。ディーゼル燃料、潤滑弾薬、食糧などの補給を各艦約4時間かけて実施する。手すきのUボートは敵水上艦及び敵機に対する警を担った。補給了後、U-188は北上してソマリア沿

インド洋での通商破壊

9月21日午前5時30分、インド中部水上航行中、線上に立つマスヘッドを発見し、15分後に急速潜航。息を潜めながら追跡を行う。午前8時3分、距離800mより単独航行中のリバティ船コーネリア・P・スペンサー(7176トン)に向けて魚雷2本を発射、このうち1本が左舷第5倉に命中してハッチカバーを吹き飛ばす。敵の武装警備員は、左舷後方約90mにU-188のが浮かび上がったのを見逃さず、3インチ2門や20mm8門を使って75発を発射、しい応射を受けたU-188は中に潜らざるを得なかった。

午前7時15分、2本魚雷が左舷後部に撃ち込まれ、後部弾薬庫が誘爆員2名が死亡するとともに後部座の員が衝撃に投げ出される。爆発で致命傷を負ったコーネリア・P・スペンサーは急速に沈み始め、生き残った員たちは救命ボート4隻と筏2隻に分乗してを放棄。午前7時52分にトドメとなる3本魚雷が左舷中央部に命中して10分後に尾から沈没した。ソマリア域でUボートが活動している事を隠すため尋問は行わなかった。

9月27日午前4時52分、クルジャ・ムンジャ湾で新駆逐艦1隻、汽3隻、タンカー7隻からなる団を発見。上には護衛と思われる陸上双発機が旋回している。攻撃しようと中から接近したところ、2回に渡って敵双発機が向かってきたため、リュッデン艦長は既に位置が特定されていると判断、16時15分に浮上し、ひとまず2倍以上の距離を開けて水上航行で追跡する。ところが18時40分、機関長が右舷ディーゼル機関の停止を報告。潤滑の圧力が著しく低下しているらしい。このまま運転を続けると、ディーゼル機関が破損する恐れがあったため、泣く泣く団追跡を断念しなければならなかった。

9月28日午前3時40分に北行きの団を発見。午前6時、急速潜航を行って団前方から隊列内部に潜入、右舷側に大旅客貨物船、タンカー、中央にアメリカン・スタンダード貨物船、左舷側前方にタンカー2隻、中央縦隊の前方をジグザグ運動をする護衛艦艇を確認する。団の観察をしていると、距離600~700m先より、護衛艦艇が向かってくるのを見つけ、深20mまで潜ったものの、予想された爆雷の投下はかった。だが再び潜望を上げた時には既に団はいなくなっていた。

アラビアの高温により電気魚雷バッテリーが損傷、何本かは上手く起爆しなくなってしまう。元々このような環境での運用は想定されていなかったのだ。

10月5日19時36分、ホルムズ峡にて西北西に向かっているタンカーを発見。22時30分にマスカット北西で距離1000mから魚雷1本を発射し、単独航行中のノルウェー蒸気タンカーブリタニアの命中、火災を発生させたものの、員の消火活動により消し止められる。ブリタニアはジグザク運動と発を行いながら高速で離脱していった。10月7日19時42分にリュッデン艦長はブリタニア沈没を報告しているが、実際はバンダレ・アッバースまで逃げられている。

10月15日ボンベイで潜航して港内の潜望偵察を実施、と港には活気ある生活が垣間見え、また潜望焦点が非常に鮮明だった事から、まるで実際に陸に上がったかのような錯覚を覚えたという。

ペナン入港

10月29日午前0時25分に日本の小巡視船3隻を確認。U-188は識別信号に応答する。午前1時45分、巡視船の1隻が近づいてきて、識別信号の交換を行うも思いのほか難航、そこで互いに友好的に手を振る事で識別信号の代わりとした。左舷前方を飛行する水上機は識別信号に応答しなかったので、リュッデン艦長が機関銃手を配置して警。緊迫した空気が流れる中、コーン長が日本軍の記章を発見した事で味方と判明、水上機側もドイツ籍を確認すると旋回を開始し、リュッデン艦長は落ち着いたで「今日は全て時計仕掛けのように順調だ」と安堵。間もなく2隻のUボートも姿を現す。

日本軍所属の魚雷艇が3隻のUボートのもとに駆け寄ってくる。魚雷艇には「ペナンまで護衛する」という意味の際旗が、明かりに照らされながら翻っているのが見えた。夕方頃、入港に備えてか着替えの命が下り、乗組員はカーキ色のショートパンツと半袖シャツに着替える。

10月30日午前6時、艦内のスピーカーから「要人員を除き、全員前甲集合せよ。間もなくペナンに入港する」とのいた。数分もしないうちに前甲に乗組員が集まって三列に並ぶ。彼らは一様に奮していて、おしゃべりが止まらなかったが、の士官は一人それを咎める事はかった。

午前6時10分にペナンへ入港、スウェッテンハム埠頭に停泊する。を着た日本の軍楽隊がバーデンヴァイラー行進曲を奏でてU-188の到着を歓迎、リュッデン艦長は「全員静止せよ」と命じ、乗組員たちに演奏を傾聴させる。ちなみにバーデンヴァイラー行進曲ヒトラー総統のお気に入りの一曲であった。次に奏でられたのはベートーヴェン交響曲第3番「英雄」で、完璧に奏でられるメロディーは乗組員に喜びの慢させなければならなかった。

その後、日独の官の出迎えを受け、港からそう遠くない宿舎へと行進、イギリスが使っていた学校の体育館に泊まる事となった。とある乗組員は地元の切な日本軍伍長と出会い、地元の理店へ案内してくれた上、中国ドルで料金まで払ってくれたというエピソードがある。食事勢で、テーブルクロスの上にはバナナオレンジパパイヤ、パイナップルキウイ、新鮮な野菜ご飯鶏肉などが並べられ、よく冷えたビールも付いてきた。

食事の席ではリュッデン艦長が「みんな、よく聞け!ここの指揮官は皆、自分の乗組員に責任がある。日本人の客人として、々がペナンで守らなければならない行動規範を発表しよう」と告げ、基地として提供されているバタビアとスラバヤでは連合軍が盛んに諜報活動を行っているため軽率な発言は避ける事、日本人は非常に礼儀正しいが、同時に非常に疑い深い同盟で、彼らの招待を断るのは失礼にあたるので従うように、といった注意事項が伝達される。

10月31日から造所で入渠整備に着手。日本海軍工作部は非常に熱心に作業に取り組んでくれたが、自軍艦艇の修理を優先して人手不足ゆえ、U-188乗組員も、全員で作業にあたらなければならなかった。平日は毎午前7時半から13時まで、ぎらぎらに照り付ける太陽の下で休みなく作業に従事。一方、日本側は必要に応じて修理工場機械、資材、憲兵隊が選抜した現地支援要員を派遣して、あらゆる面で便宜を図ってくれた。

今回の戦闘は乗組員全員に通常の範囲をかにえる要を課した。特にオマーン湾の熱気と、ディーゼル室の異常高温(最高温度73℃)は、大西洋にいた頃とは比にならないほどの過酷な環境を生み、また高温多湿のインド洋ではディーゼル機関に大きな負荷が掛かり、故障の頻発を招いた。健康上の必要条件を考慮せず行われた作戦、難と失望に満ちた航海ったにも関わらず、乗組員の士気は旺盛で、素晴らしい姿勢を示し続けたとリュッデン艦長は報告している。

東南アジアでの活動

線通信により、ペナンより大きな造所があるシンガポールへの移動を命じられた。

12月12日23時53分にペナンを出港。マラッカ峡には敵潜水艦出現の報が出ていたが、日本軍側は護衛艦艇を用意出来なかったため、リュッデン艦長は手すきの乗組員に救命胴衣を着せ、甲上で見りをするよう示。狩る立場から狩られる立場に逆転したからか乗組員の士気は著しく低下した。翌13日午前7時頃、コックが朝食付き焼きたてパンと最高級コーヒーを持ってきて、見り任務中の各乗組員に手渡す。

シンガポール入港直前、右舷側から2本の雷跡がU-188に伸びてくるのを発見、間一、しかし巧みにこれを回避し、全速力で危険域を離脱、翌14日午前4時47分に何とかシンガポールまで逃げ込んだ。UIT-25(元イタリア潜水艦ルイジ・トレッリ)に横付けする。日本軍はU-188乗組員のために郊外のビーチ沿いにある数軒の別荘を宿泊場所として提供。そこから毎日所まで送ってくれた。

相変わらず人手不足なので、乗組員は休息もしに、熱帯気下での過酷な作業に従事する。艦体から殻や石灰岩などの堆積物を取り除き、速性の防錆塗料と新しい迷彩塗料を塗布、転覆を防ぐための、いわゆるバラストウェッジと呼ばれる洞の中に収められたの重りを一つずつ撤去し、ヨーロッパに持ち帰るに置き換えていく。同時にゴム11トンタングステン18トンキニーネ及びアヘン500kgといった戦略物資を積載。だが、物資を満載した事で排水量が約12トン増加してしまい、重量を低減すべく甲解体日本軍用の倉庫で組み直して弾ともども保管する事となった。

12月29日シンガポールの西にて、物資積載状態でトリムテストを行い、重量とトリムが良好である事を確認。

12月30日午前7時2分にシンガポールを出発。日本海軍から、「マラッカ峡には潜水艦2隻が潜んでいる」との情報提供を受け、ワン・ファゾムバンクより出港している。翌31日午前7時53分、事ペナンまで到着。その日のドイツ人にあてがわれた上海ホテルにて、新年を迎えるための盛大なドンチャン騒ぎが繰り広げられ、翌は起床時刻を迎えてもも起こしに来なかったので、心行くまで眠る事が出来た。

1944年1月1日から8日までペナンの造所で最終調整。

3回目の戦闘航海

1944年1月9日午前10時3分にペナンを出港。帰がてら通商破壊を行うべくまず最初にアラビアへと向かう。中で日本巡洋艦駆逐艦が前方からやってきてU-188とすれ違った。U-188側は識別信号を送るも、他の日本艦と同じように反応を示さないまま走り去ってしまった。航の最初の数日間は焼きたてパン野菜果物などが食卓ったが、すぐに缶詰めやドライフルーツで占められるように。

1月14日21時55分、艦首右方向に大を発見して追跡を開始。しかし、向かい風に阻まれて速力が出ず、また大が北の中でも、18~19ノットの高速を発揮していたため、22時50分に追跡を打ち切った。1月17日モルディブ東方へと移動。

1月20日午前3時23分に煙マストの先端を発見して追跡開始。午前7時23分、3本の魚雷を発射したものの命中せず、午前9時6分より浮上して追跡を再開。午後12時56分、機関長が右舷ディーゼル機関の排気ガスが600℃に上昇したと報告するとともに第6シリンダーの排気ガスバルブが破損。右舷ディーゼルの不調が未だU-188を苦しめ続ける。

20時39分、モルディブ北西にて、単独航行中の蒸気フォート・バッキンガム(7122トン)を雷撃し、10分以内に沈没させた。マード・マクロード船長員30名、手7名が死亡。後に排気ガス温度の上昇は、マフラー金属が剥がれまりを起こした事が原因だと判明した。

1月25日20時16分、ソコトラ東北で、一般貨物及び軍需品8130トンを積んで単独航行中の蒸気フォート・ラ・モーン(7130トン)を雷撃、50後に左舷第2貨物倉へ1本が命中して洋上停止させた。聴音装置からは軽い破裂音と泡立ちの音が聴き取れる。そして21時4分、しい破裂音を撒き散らしながらフォート・ラ・モーン沈没していった。沈没を確認した後、上を漂う、最も大きな救命ボートのもとへ行き、生存者に尋問を行った。

1月26日午前0時48分、アデン湾外にて単一のを発見、午前2時25分に魚雷2本を発射し、ソコトラ東北東で蒸気商サムーリ(7219トン)を撃沈せしめた。続いて18時48分、同じくソコトラ東北東で、蒸気スラダ(5427トン)を狙って艦尾発射管から魚雷2本を発射、1本は前部マストに、2本は後部マストと尾の間に命中して、体をっ二つに引き裂いて撃沈。浮上したU-188は救命ボート上の生存者に負傷者や飲料・食糧の有を尋ねた。

1月29日16時13分にを点した小船舶を発見。中立標識いのを確認してから追跡を行う。22時7分、CB-7団から分離して単独航行中のギリシャオルガ・E・エンビリコ(4677トン)は、ソコトラ西方210里の地点で、U-188から雷撃を受け、魚雷1本が左舷第2倉に直撃して僅か2分後に転覆。マイケル・L・マネシス船長員17名、手2名が死亡。U-188は筏に乗っていた生存者に尋問を行うも、フランス語で「分からない」と返されたので、10分で切り上げて去った。

1月30日午前3時41分、左舷前方、高度6000mより、ソコトラ方面より接近する敵飛行艇を確認して急速潜航。16時6分に浮上したが、2分後、左舷後方の高度7000~8000mから敵飛行艇が急襲し、再度急速潜航を強いられる。17時49分浮上。しかし今度は浮上直後に照明弾が打ち上げられ、哨戒艇が向かってきたので急速潜航。ハンターキラーグループに追われていると直感したリュッデン艦長は域からの退避を決断した。

敵の執拗な追跡は続き、時折上げられる照明弾に肝を冷やしながら、レーダーデコイ装置アフロディーテを展開しようとするも、熱帯性気で全て破裂してしまい失敗。それでも翌31日午前0時頃に敵の包囲網から事脱した。

2月3日午前7時7分、アデン湾東方にてマスヘッドを発見、午前8時53分より急速潜航を始めたが、魚雷の射程距離圏外逃げられたため、午前10時59分に浮上して水上航行で追いかける。り強い追跡を続け、翌4日午前0時39分、中華民国チュンチェン(7176トン)を雷撃により撃沈。8350トンイルナイト鉱石を積んでいたからか救命ボートすら降ろせないほどの沈没だった。死者20名のうち大部分が中国人乗組員で占められた。ちなみに、Uボート中華民国籍を撃沈した例は、戦争の全期間を通しても、U-188の一例のみである。

2月6日22時33分、リュッデン艦長はBdUに撃沈報告とアフロディーテが使用不能である事、ディーゼル機関が長時間の遊で過負荷状態にある事などを報告。翌7日には撃及び体当たりで帆船4隻をまとめて撃沈する戦果を挙げる。

2月9日19時6分、ソコトラ西方で護衛しのノルウェーヴィヴァ(3798トン)を雷撃。右舷に魚雷1本が命中した際、モーターボートが破壊されたため、員はエンジンを停止させた上で、3隻の救命ボートに分乗してを放棄する。ヴィヴァは右舷側に大きく傾斜していたが沈む事なく浮き続けていた。U-188はトドメを刺すべく19時41分に左舷後部へ魚雷を撃ち込み、ボイラー誘爆させて7分以内に沈没へと追いやる。脱出がかったからか死傷者は出なかった。

2月12日午前6時37分、アラビア中部で浮上した際に帆船3隻の存在を確認。甲を撃ちかけると帆をんで逃げ出すのが見えた。午前7時43分に1隻を、48分に2隻を、54分に3隻を体当たりで次々に撃沈。沈没速度かったので重量のある積み荷を運んでいたと推測される。これらの帆船は全て敵艦への支援物資を積んでいた。

魚雷を全て使い果たしたのでBdUから帰投命を受ける。同時にカール・デーニッツ提督はリュッデン艦長に騎士十字章の授与を決定、乗組員全員に祝杯としてビールが贈られた。

去る2月11日モーリシャス東方900里で、独補給シャルロッテ・シュリーマンイギリス艦隊に撃沈され、給油予定だったU-188、U-168、U-532UIT-24が燃料不足に陥って帰困難となってしまう。このため2月26日ブラーケがペナンを緊急出撃。


3月11日午前6時56分、U-188はモーリシャス南東1000里の補給地点でブラーケU-168、U-532と合流。燃料タンクがほぼ空っぽだったU-188が最初に給油を受け、翌12日午前1時35分に送作業が了した。ブラーケとの合意に基づいてU-168とU-532給油了するまで待機。しかし悪が原因で給油作業が捗らなくなり、午前9時17分に作業を一時中断、波が穏やかな場所をめて南西方向へと移動する。

午前10時56分、ブラーケの上護衛空母バトラーソードフィッシュが出現、ブラーケの後方500mに占位していたU-188の見り員も左舷後方を飛ぶ敵機2機を発見し、約20分後、艦尾方向に投弾を示す柱が高々と築かれた。リュッデン艦長は警潜航を示。U-188、U-168、U-532が一斉に急速潜航するが、ブラーケを守るため、U-188のみ午前11時35分に浮上して対戦闘ブラーケにまとわりつく敵機に火を浴びせかける。ところが午後12時10分、突如として撃と思われる柱が築かれた。ソードフィッシュからの通報を受けて駆逐艦ローバック急行してきたのだ。魚雷を積んでいないU-188は潜航退避するしかなかった。

午後12時19分から13時50分までに148回の着弾音と14回のしい爆発音を探知。ブラーケのすぐ近くで潜航していたU-188にも強衝撃波が届いた。そして13時20分、強い沈没音の後、30分間に渡って軽~中程度の爆発音がき、リュッデン艦長はブラーケ沈没を悟った。

を待ってから15時3分に浮上。それから35分後、北東方向に向かって、高速で移動する2つの小さなを発見、識別信号には応答しなかったが、おそらくU-168とU-532だろうと艦長は考えた。20時28分にU-532より「ブラーケ生存者を救助した」旨の線通信が入る。またBdUからも通信が入り、「U-188は燃料消費を最も抑えた方法で帰せよ」と示され、ブラーケから受け取った最後の燃料を使って帰の途に就く。

インド洋を脱して大西洋へ

3月16日午前2時26分、BdUはペナン魚雷を輸送しているU-1062と合流し、エニグマの新しい暗号表を受領するようU-188に命、同日午前6時11分、インド南部で会同して暗号表入りの郵便袋を受け取った。

3月29日、ケープタウンを航行中、荒波によって右舷側のバンカー被覆材が約6m剥がれ落ち、左舷側も約4mが剥離、更に上甲カバーの約半分が外に流出するなどの被害が発生。4月12日22時30分、連合軍のが厳しい大西洋を突破するべく、リュッデン艦長はレーダー装置ナクソスとボルクムの補給をBdUに要請。U-129が派遣される事となった。4月16日16時、追い討ちをかけるかのように送信機コンバーターの高電圧部品が故障。送信が出来なくなってしまう。

4月22日22時中部大西洋でペナンに移動中のU-181と合流。潤滑の補給を受けるとともにインド洋の状況について情報提供を行った。翌日、送信機コンバーターの修理を試みるも全て失敗、やむなくU-181に送信機が故障している旨の報告を代わりにやってもらう。U-181と別れた後、次はU-129との合流地点に向かい、4月27日21時13分にU-129と合流、翌28日午前3時ナクソスとボルクムを受領するが、不運な事にナクソスは故障していて全く使い物にならず、1日半の修理を経てようやく稼働状態となった。

5月1日午前5時50分、BdUはU-188に対し、帰路に就いているU-66と合流して、燃料及び食糧を供出するよう命定された合流地点へと向かう。ただし送信機が故障しているので応答は出来ない。

5月5日22時35分、潜航中のU-188は潜望内に3隻の敵駆逐艦が、ゆっくりと移動しているのを視認、U-66はハンターキラーグループに追跡されている旨の報告をしており、リュッデン艦長は、この駆逐艦ハンターキラーグループの一員と判断する。翌6日からは爆雷爆弾の炸裂音がくようになった。どうやらU-66は攻撃を受けているらしい。

リュッデン艦長としてはU-66を助けたかったが、送信機が故障しているせいで現在の位置すら伝える事が出来ない。そしてU-66はこの日のうちに撃沈されてしまった。このままではいずれU-188もハンターキラーグループに発見されるだろう。23時15分に浮上したU-188は、敵護衛空母探索範囲から逃れるべく、ジグザグ運動を取りながら南東方向に逃走した。

何とか敵の追跡を振り切ったが今度は潤滑不足がU-188に襲い掛かる。今まで通り消費すれば、フランスに帰投する事すら危ういので、潤滑油脂を加えて性を高めたり、ディーゼル電気巡航装置を使用して、潤滑の節約を図るといったぐましい努力で消費量を極力抑える。その甲斐あってか補給を受けずとも自力で帰投出来るようになった。

6月14日に最後の難所ビスケー湾へ到達。この頃には既に連合軍のノルマンディー上陸が始まっていたが、敵の対潜掃討部隊イギリス峡にUボートが侵入出来ないよう、ブレストランズエンド間に集中配備されていたため、幸い湾内の対潜警度は、それほどなものではなかった。またリュッデン艦長は、潤滑の状態が悪いのでロリアンへの入港は不可能と考え、ボルドーへの入港を決めた事も、敵の対潜掃討部隊から離れられる一助となった。

6月19日午前11時ボルドー帰投。モンスーン戦隊の中でヨーロッパに帰できたのはU-188とU-532の2隻だけだった。

ボルドー入港後

163日間の航で乗組員のはぼさぼさ、こけゴルフボールのように腫れ上がり、その様相は差し詰め栄養失調ジャングル戦士であった。潜水艦にいる間、彼らは連合軍がノルマンディーに上陸している事を知る。またモンスーン戦隊で帰投したのはU-188が2番で、この事実は「他の艦はどこにいったのか?」「々の後に帰還する艦はいないのか?」「まだ日本軍と一緒にいる艦もある。全滅した訳じゃない!」と乗組員を酷く動揺させた。

6月20日より造所に入渠してシュノーケルの搭載工事を受ける。乗組員たちは4週間の休暇を与えられ、列車に乗ってドイツへ向かったが、レジスタンスを爆破されたり、連合軍の襲のなどで遅延が頻発し、代替列車乗り換えてやっとカールスルーエに到着した。

連合軍が上陸して以来、フランス方面の戦局は急速に悪化。リュッデン艦長と士官はを徴発して、陸路でドイツへの逃走を試みるも、7月6日、ロモージュ近郊でレジスタンスマキ」の一団に捕らえられてしまう。「マキ」はモスクワ共産党導部から示を受け、捕らえた乗組員たちをや生垣の中で次々に惨殺、またの中にあったU-188の航日誌や機密書類を押収した。3週間後、リュッデン艦長のみ脱走に成功。下着靴下だけの姿での中へ逃げ込み、数マイル先にあったから洗濯物を拝借して厚着し、幸運にもドイツ軍部隊と合流。彼らの助けで何とかドイツまで辿り着く事が出来た。

8月初旬に入ると、アメリカ軍ブレストロリアンのUボート基地を封鎖しようとブルターニュ半島に進撃。とある、2隻のUボートボルドーから脱出しようと出発、しかし2日後に2隻ともビスケー湾で行方不明になったとの報せがU-188乗組員の間で駆け巡った。当初U-188はノルウェーに脱出する予定だったものの、耐航性の欠如と新しいバッテリーの不足により出港出来ず、BdUから「敵にUボートを渡すな」との示を受けて8月20日に退役。

そして8月25日、第12潜隊群のブンカー内で爆破処分された。残骸は1947年に引き揚げられて解体

生き残った乗組員は新たなUボートに異動。連合軍の包囲が狭まりつつあるボルドーを脱出するべく、可な限りを集めるよう命が下り、周辺から押収したを使って、およそ150名の潜水艦乗組員が隊列を組んで基地を出発していった。

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