スカンデルベグ(Skanderbeg)(1405年~1468年)とは、15世紀のアルバニアの君主である。
本名はジェルジ・カストリオティといい、「スカンデルベグ」というのは本名ではない。トルコ語で「İskender Bey」、すなわちイスカンダル(アレクサンダー大王)に由来する敬称である。
バルカン半島西部の小領主、ジョン・カストリオティの子として1405年に生まれる。カストリオティ家はジョンの代にアナトリアからバルカンへと進出してきたオスマン帝国に従属を余儀なくされ、宗教もカトリックからイスラム教へと改宗させられていた。
ジェルジはオスマン帝国の人質として幼少期を過ごしたが、成長するとオスマン帝国の将として前線で戦闘に参加する事になった。若い頃からその戦いぶりたるや見事であったようで、時の皇帝ムラト2世からも目を掛けられており、「スカンデルベグ」という敬称を贈られたのもこの時代であった。やがて父が亡くなると領地を引き継ぎ、ワリ(太守)に任命されるなど順調に昇進を重ねていた。
しかし、1444年に遠征中であったオスマン軍から独断で離脱して領地に戻ると、突如として独立を宣言。イスラムを棄教してカトリックに再び宗旨変えし、イスラムを信仰する住民にも「改宗か死かを選べ」と強硬な姿勢で宗旨変えを強要した。この裏切りにオスマン帝国は「卑劣なイスカンダル」と憤ったという。まだイスカンダルって呼ぶんだ…
以後、オスマン帝国から幾度となく討伐に大軍を差し向けられたがそれらを全て撃退。ムラト2世の跡を継いだ「征服王」メフメト2世が東ローマ帝国、セルビア、ボスニア、ワラキアなどを次々と制覇していく中でもアルバニアだけは陥落せずに持ち堪え続けた。
スカンデルベグは1468年にマラリアで亡くなったが、独立を宣言してから25年の間、ついにオスマン帝国はスカンデルベグが生きている内にアルバニアを落とすことが出来なかった。スカンデルベグの死を知ったメフメト2世は歓喜し、小アジアとヨーロッパの統一事業が完遂することを確信したという。
スカンデルベグを失ったアルバニアは11年後の1479年にオスマン帝国に屈し、滅亡した。
伊達にかの大英雄の名前を授けられていたわけではなく戦争の指揮に関しては天才的なものがあり、名前を贈ったオスマン帝国はスカンデルベグを敵に回した後に、その事を嫌を言うほど思い知る事となる。以下に主な戦いとその結果を挙げる。
1.トルビオールの戦い(1444年6月)アルバニア軍15,000vsオスマン軍40,000
裏切り者スカンデルベグへオスマン帝国が仕向けたアリ・パシャ率いるアルバニア討伐軍4万は、多方向から侵攻を試みたが、これをスカンデルベグは部隊を3つに分けて三日月型に配置し、巧みな指揮でオスマン軍を寸断し、死者8,000~22,000の損害を与えて殲滅し、完勝した。
スカンデルベグの台頭は地中海貿易を牛耳っていたヴェネツィア共和国にとってあまり好ましいものではなく、権益が衝突した両国はやがて対立するようになる。ヴェネツィアは懸賞金を賭けてスカンデルベグの暗殺を試み、更にはオスマン帝国と結んで同時にスカンデルベグ打倒の兵を動かした。
二方向からの侵攻に対し、まずスカンデルベグはヴェネツィア軍に標的を絞って迎え撃つ。時間を惜しんだアルバニア軍はドリン川の渡河を強行し、これを背にする形になったが、弓兵と騎馬を自在に用いてヴェネツィア軍に死傷者2,500・捕虜1,000という損害を与えて打ち破った。アルバニア側の死者はわずかに400人であった。
次にスカンデルベグは返す刀でヴェネツィアへの牽制の兵を残して6,000人を率いてオスマン軍の迎撃へと起った。対するムスタファ・パシャ率いるオスマン軍は倍以上の大軍であったが、これも難なく打ち破り、死傷者3,000の被害を与え、総大将ムスタファ・パシャ含む将12名を生け捕りにするという大勝を収めた。一連の戦いの結果、ヴェネツィアとアルバニアは和睦し、ムスタファ・パシャらは多額の身代金と引き換えにオスマン帝国へと引き渡された。
3.第一次クルヤ包囲(1450年5月~11月)アルバニア軍8,000vsオスマン軍100,000~160,000
決死の抵抗を続けるアルバニアであったが、重要拠点であるスヴェティグラド要塞をオスマン軍に奪われた事で、いよいよ本拠地クルヤ城が窮地に陥ってしまう。好機と見た皇帝ムラト2世は10万~16万という大軍を率いてアルバニアにトドメを刺すべく、自ら出馬して親征を開始する。
今までとは比べ物にならない本気の侵攻にアルバニアは絶望したが、スカンデルベグは「聖ゲオルギウスが真の宗教の敵を滅ぼす炎の剣を俺に渡した夢を見た」と力強く演説して味方を鼓舞し、山を利用した神出鬼没の用兵でオスマン軍を大いに翻弄。そして、6ヶ月の攻防の末にオスマン軍は死傷者2万という甚大な被害を蒙り撃退され、陣中で病を得たムラト2世も翌年に死亡してしまう。この勝利でオスマン帝国の圧力が弱まったのを確認したスカンデルベグは奪われた領地を一気に回復していった。
また、この屈辱的な戦にはムラト2世の後継者であるメフメト2世も従軍していた。
4.モドリッチの戦い・メサドの戦い(1452年7月21日)アルバニア軍14,000vsオスマン軍25,000~27,000
ムラト2世の死後、跡を継いだメフメト2世は先の敗戦の雪辱に燃えており、1452年には早くも再びタヒップ・パシャとハムザ・パシャ率いるアルバニア討伐軍を編成して送り込んできた。
これに対してスカンデルベグは敵の指揮系統が一本化されていないのを看破し、先にハムザ・パシャをモドリッチの地で襲って即座に壊滅させてハムザを生け捕りにすると、同日中にタヒップ・パシャの軍勢にもメサドで襲いかかって殲滅し、オスマン軍は指揮官不在のまま逃げ帰っていったという。この戦いでオスマン軍はタヒップ・パシャ含む死傷者を7,000人出し、更にハムザ解放にまたしても多額の身代金を支払わされた。
5.アルブレーナの戦い(1457年9月2日)アルバニア軍8,000~10,000vsオスマン軍50,000~80,000
メフメト2世の攻勢に堪え切れずに1453年に東ローマ帝国が滅亡し、コンスタンティノープルが陥落した事はキリスト教世界にとって大きな衝撃であった。動揺したのはアルバニア国内も例外ではなく、長年の右腕であったモイシ・ゴレミや、スカンデルベグに実子が生まれた事によって継承権を失った甥のハムザ・カストリオティがオスマン帝国に寝返り、苦境に立たされていった。
1457年、メフメト2世はイサク・ベイとハムザ・カストリオティに5万から8万人とも言われる大軍を預け、アルバニア討伐を命じた。イサク・ベイはベラト城防衛戦でアルバニア軍を破っている歴戦の将であり、ハムザは身内として知り得る限りのスカンデルベグの戦術の仔細をオスマン軍に伝えており、万全を期した布陣であった。
一方のスカンデルベグはまずは国境付近で迎え撃とうとしたが、峻険な山脈を物ともせずに浸透してくるオスマン軍を目にして敵に地理を熟知しているものがいると看破し、一旦退いて策を練り直した。そして、スカンデルベグは自軍を数十、数百にも小分けにして山中に散らし、「自分が号令するまで何が起きてもオスマン軍を攻めるな」と厳命する奇策に打って出る。
霞のように消えたアルバニア軍をオスマン軍は不審に思って警戒し、本拠地であるクルヤには取り付かずにアルブレーナの地を占拠し、斥候を出して様子を探ったが、一向にスカンデルベグの軍勢を見つけることが出来なかった。あまりにも無防備なアルバニアの様子に「恐れをなしてスカンデルベグは逃げたのでは?」という楽観論も出始める有様であったが、イサクとハムザは油断をしていなかった。
しかし、そのままおおよそ二ヶ月の間スカンデルベグの軍勢は何の抵抗も行わず、粘り強く警戒を続けていたイサクとハムザもついに楽観論を信じ始める。これこそがスカンデルベグの待っていた好機であった。スカンデルベグの号令により、瞬く間に散開していた兵士は山中で再集結してオスマン帝国の備えの甘い方面へと布陣した。
オスマン帝国の偵察部隊はここに至り、ついにスカンデルベグ発見の報を本陣へと持ち込んだが、この機を見逃すスカンデルベグではなく、太鼓や武器を大きな音で打ち鳴らしながらオスマン軍本陣へと突っ込み、騎馬突撃とマスケットによる斉射を見舞って、長陣で弛緩していたオスマン軍を散々に打ち破った。この戦いの結果、オスマン軍の死傷者は15,000~30,000に達し、ハムザ・カストリオティは生け捕りにされ、オスマン帝国はアルバニアとの3年間の和議を結ばざるを得なかった。スカンデルベグの戦史でも会心の一戦であり、この戦を最高の勝利と位置づける歴史家もいる。
1458年、同盟関係にあったナポリ王のアルフォンソ5世が病没しフェルディナンド1世が即位したが、庶子であった事などから継承はスムーズに進まず、内乱状態に突入する。危地に立たされていたフェルディナンドはスカンデルベグに救援を要請してきており、スカンデルベグは思案の末にイタリア遠征を決意する。
イタリアに上陸したスカンデルベグはまず包囲されていたバルレッタを解放したのを皮切りに、得意の機動戦闘でモンテ・サンタンジェロ城主アロイス・ミヌトゥロを生け捕りにし、あっという間に反抗軍の本拠であるターラントを逆に包囲してみせるなど活躍をし、ナポリ王国の優位を確認すると称賛を受けつつアルバニアへと帰国した。
この遠征ではイタリアの騎兵が1日に10~12マイル(16~19km)の移動速度であったのに対して、アルバニアの騎兵は1日で30~40マイル(48~64km)を行軍するという尋常ではない機動力を見せたと記録に残っている。
7.マケドニア戦役(1462年7月~8月)アルバニア軍vsオスマン軍のべ70,000人以上
イタリアから戻ったスカンデルベグを待っていたのはいつもの如く、オスマン帝国の侵攻軍であった。今度は攻め手をマケドニア方面に絞り、東からの波状攻撃でアルバニア攻略を狙うオスマン軍に対して、スカンデルベグはそれら全てをアルバニア領外で迎え撃つ。
まず、先鋒となったのがシナン・ベイ率いる23,000の軍勢であったが、スカンデルベグは偵察の報告から進行ルートを先読みし、モクラの渓谷に兵を伏せる。予想通りにモクラ渓谷を通ろうとしたオスマン軍はモロに不意打ちを食らい、為す術なく敗走した。
先の失敗にめげることなく、なんと先月負けた場所と全く同じ侵攻ルートを使ってやってきたオスマン軍のハサン・パシャは全く同じように敗退し、腕に矢を受けて生け捕りにされた。そんなにこの地は重要なのだろうか…。
ハサンの敗北を聞いたイスフ・パシャは流石にマズいと考えたのか侵攻ルートやや北にずらし、ポログに布陣したが、これもスカンデルベグはすぐさま察知して取り囲むと、「イスフはハサンと似たような運命を辿り負けた」とごくごく簡潔に書かれている、ちなみにほぼ全滅したらしい。
今度のオスマン軍の刺客である老将カラザ・ベイは北がダメならば南と侵攻ルートを変更し、リバドへと移動し、4,000の偵察兵を放ってスカンデルベグの居場所を探らせたが、これが即座に全滅させられた。カラザは「出てこい小心者めが!」とスカンデルベグを挑発したが、スカンデルベグは全く相手にせず森や山を移動してカラザへと密かに接近し、オスマン軍の野営地へ突撃。突然現れたようにしか思えないような機動力に全く対応しきれなかったカラザは被害を増やさないように撤退するのがやっとという有様で敗走させられた。
こうして1462年の夏に波状攻撃を仕掛けたオスマン軍であったが今回はアルバニアに一歩も足を踏み入れられず全ての軍勢を敗走させられてしまったのであった。
度重なる敗戦を喫していたオスマン帝国のメフメト2世は「コンスタンティノープルの壁を最初に登った」とされる猛将バラバン・パシャの武勇を見込んで対アルバニア戦線へと投入することを決めた。バラバンの生まれはアルバニアであり、人質時代からスカンデルベグのことをよく知っている人物でもあったという。
バラバンとスカンデルベグはマケドニアのバイカーリ渓谷にて対峙する。スカンデルベグは自らを弱兵と見せて偽撤退をして、有利な地形へと誘い込む戦略を立てた。しかし、バラバンは逃げるアルバニア軍に想定以上の速度で追いついて来たために乱戦となってしまう。
作戦が崩れたアルバニア軍はかなりの危地に立たされ、スカンデルベグ自身も護衛が少なくなってオスマン軍に負傷させられるという局面もあったが、これを何とか打ち破った。しかし、この戦でモイシ・ゴレミ(オスマン軍に寝返ってからまたアルバニアに寝返っていた)など含む将校13人をバラバンに捕縛されるという大きな痛手を被った。
スカンデルベグは人質の返還を金銭で要求したが、メフメト2世は応じずに15日の拷問の末に全員を殺害して細かく刻んで犬に食わせてアルバニアへの敵意をあらわにした。ここでアルバニアの次代を担う若手を失ったことはスカンデルベグの死後に大いな痛手として伸し掛かる事となった。
先の戦から4ヶ月、早くもオスマン軍は再侵攻を仕掛けてきた。オスマン軍はバラバン・パシャとヤク・アリャウティが率いる総勢4万で2方向からアルバニアに侵入し、スカンデルベグが片方とぶつかったら、もう片方が挟み撃ちにするという策を用いた。
スカンデルベグはバラバンの部隊を先に相手する事に決め、オラニクで先手を取って戦い、再びバイカーリの地へと誘い込む策を執る。バラバンはこれを策だと見抜き、深追いを禁じたのだが執拗な挑発に我慢しきれずに一部の兵が動いたところ、スカンデルベグに一挙に殲滅された。しかし、全軍は釣られなかった為にバラバンは撤退を選択した。
一方で別動していたヤクの方はまだスカンデルベグを見つけられておらず、戦略はこの時点で破綻していたのだが、ヤクは「スカンデルベグは先に倍の軍勢と戦って疲弊しているはず」と露骨な死亡フラグを立ててそのまま進軍した。スカンデルベグは騎兵500をわざとヤクの部隊に見せて逃げさせると、ヤクはそれを包囲殲滅しようと部隊を3分割して追ったが、そこをスカンデルベグ本隊に襲われ、ヤクの部隊はそのまま完全に殲滅され、ヤク当人もスカンベルベグに顎を槍で打たれてそのまま討ち取られた。
一連の戦でオスマン軍は死傷者24,000以上という大損害を出している。
9.第二次クルヤ包囲(1466年~1467年)アルバニア軍13,400vsオスマン軍30,000~100,000
1466年、ついにメフメト2世はアルバニアに対して自ら出馬して親征を開始。オスマン軍は破壊と虐殺をしながらアルバニア領内を侵攻していき、これまでになく強硬なオスマン帝国の姿勢にスカンデルベグは12隻の船でアルバニアの住民をナポリへと避難させている。
そして、1466年4月についにクルヤは16年ぶりにオスマン軍の包囲を受けることになる。オスマン軍は大砲の砲撃を加えつつクルヤ城を攻めたが、スカンデルベグと配下の兵は決死の防衛を行い、おおよそ2ヶ月の防衛戦の末にクルヤ城が陥落しないと見たメフメト2世はバラバン・パシャに23,000の兵を与えて、エルバサンに要塞を築いた後に撤退した。比較的あっさりと引き下がったメフメト2世の狙いは初めから親征によって力押しでクルヤを落とすことではなく、経済基盤を破壊し、物資や人的資源を枯渇させてクルヤを孤立させることに主眼があったとも言われる。
残ったバラバンの兵は農作物を奪って村を破壊し続け、増え続ける難民はアルバニアを追い詰めており、スカンデルベグはイタリアへ渡ってローマ教皇に謁見し、救援を求めたが口ばかりで大した支援ももらえず、失意の中で帰国の途についた。
年を越してもバラバンの軍勢はアルバニア領内に居座っており、クルヤ城の士気は衰えて来ていた。一刻も早く包囲を解放せねばならないと判断したスカンデルベグは5,000の兵を率いて部隊を3つに分けて速攻を仕掛け、南北からバラバンを襲い東に一つ部隊を伏せさせた。
攻撃の激しさからスカンデルベグの本隊だと察したバラバンは撤退しようとしたが間に合わず、ついにアルバニア兵に討ち取られ、指揮官不在で残されたオスマン軍10,000人ほどがアルバニア軍に囲まれたままの状態となった。
オスマン軍は「降伏するので安全に撤退させて欲しい」と懇願してきており、スカンデルベグはこれを受けようとしたが、他のアルバニア貴族は「このまま殺すべきだ」と激しく抗議し、この剣幕にスカンデルベグもやむなくオスマン軍10,000人を残らず抹殺した。
バラバンの死からわずかに数ヶ月、またしてもオスマン皇帝メフメト2世は親征を行い、アルバニアに侵攻してきた。この時、アルバニア軍は民衆が避難する時間を稼ぐためにあえて平野部に布陣してその姿をさらけ出すという危険な布陣を取った。オスマンの指揮官マフムード・アンジェロビッチは15日の対陣期間があったが、この布陣を逆に警戒して安易に仕掛けず、避難が十分に済んだと判断したスカンデルベグが山の中へと身を隠したので追うのを諦めた。
オスマン軍は再びクルヤ城を包囲したが、やはり陥落しそうな様子ではなかったので、包囲をたった数日で解いて周辺の街で略奪を働いて去っていった。これがスカンデルベグの生涯最後の戦となった。
※無駄に長いので興味がある人だけスクロールして内容をご覧ください。
長年の因縁を想えばメフメト2世が死を喜んだというのも無理からぬ話であろう。
アルバニアは結局のところはオスマン帝国に屈したが、後世においてオスマン帝国のキリスト教世界への浸透を食い止めた英雄として同時代のハンガリーのフニャディ・ヤーノシュ、ワラキアのヴラド・ドラクリヤ(ヴラド3世)などと並んで高評価を得た。
また、オスマン帝国に支配されたアルバニア民族が19世紀後半にナショナリズムを意識した時に民族を代表する英雄としてその存在は再び注目を受け、宗教的な背景を極力隠して「アルバニア民族最大の英雄」として大きくクローズアップされる事となる。スカンデルベグの軍旗であった赤地に双頭の鷲の旗はアルバニアの国旗となっている。
共産主義に傾倒し、無神国家を宣言し、全ての宗教を否定した独裁者エンヴェル・ホッジャもスカンデルベグが敬虔なキリスト教徒であった事はさておいて首都ティラナに巨大な銅像を建造するなど「帝国主義の横暴に立ち向かった抵抗のシンボル」として顕彰し、アルバニア共和国となった今でもなおアルバニア国民の信仰を越えたヒーローとして崇敬の念を集めている。
胸の前で両手の甲をクロスさせてカメラに見せる行為は「スカンデルベグの鷲」のポーズといい、アルバニア人はしばしばこのポーズを行う。
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最終更新:2024/05/14(火) 10:00
最終更新:2024/05/14(火) 10:00
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