ノルマンディー上陸作戦とは、第二次世界大戦中に連合国がフランスで実施した上陸作戦の一つ。
上陸作戦そのものは「ネプチューン作戦」と呼ばれ、前後して行われた空挺作戦など複数の作戦による「オーバーロード(Overlord)作戦」の一環として行われた。
1944年6月6日に連合軍によって行われた軍事作戦であった。ヨーロッパ戦線の転換となった作戦であり、最も知られた作戦でもある。最終的に200万人を超す兵員がドーバー海峡を超えてフランス・ノルマンディー海岸に上陸した。現在に至るまで最大規模の軍事作戦である。
1941年のバルバロッサ作戦より、ドイツ軍の兵力は対ソ連である東部ヨーロッパに向けられていた。ソ連書記長スターリンは危機的状況を打開する為、西部ヨーロッパに第二戦線を作ることを強く要請した。スターリンはドイツ軍の兵力分散を目的としていた。
これにイギリスは、ヨーロッパ全方位から攻撃することを提案。一方アメリカは、これ以上の戦線拡大を懸念。イギリス案を心配して、北フランスへの上陸を検討するようにイギリスを説得した。
1942年中には北フランス上陸作戦(ラウンドアップ作戦)を立案した。次いで北アフリカ上陸作戦”トーチ作戦”を実行した。さらにイギリス首相チャーチルはイタリア侵攻を提案。彼は侵攻によりイタリアと地中海におけるイタリア海軍の影響を削減することができ、連合国の輸送経路を開ける、また、中東と極東における連合国軍への補給を容易にし、同盟国からソ連への支援を増加させることが簡単になる、加えて、ドイツ軍の戦力を分散させ、計画中のラウンドアップ作戦の地域から戦力を減らすことになると信じていた。
結局、イタリアに上陸したものの、戦線は全く変化しなかった。
ラウンドアップ作戦も1944年までずれ込み作戦名も「オーバーロード」と変更した。
1943年11月28日テヘラン会談において、アメリカ大統領ルーズベルト、イギリス首相チャーチル、ソ連書記長スターリンが討議し、1944年の5月には第二戦線を開くことが正式に合意された。
第二戦線を構築するため、策源地であるイギリスから近いドーバー海峡を渡って兵力を上陸させるプランを検討することになった。作戦目的地は、もっとも狭いパ・ド・カレー(カレー)、あるいはノルマンディーと定められた。結果としてカレーはあまりにも距離が近く、ドイツ軍の要塞化も行われていたため、あえて遠隔地であるノルマンディーが上陸地点として選ばれた。ただし、直前まで周到な欺瞞工作が行われることになる。
連合国軍ヨーロッパ方面軍総指揮官アイゼンハワー元帥の下、地上軍総指揮官モントゴメリー元帥指揮下に上陸担当5個師団、空挺師団3個師団、計8個師団が準備され、兵員15万人余という史上空前の大上陸作戦となる。(上陸後、さらに送りこまれる師団は計47個師団にのぼる)
これにあわせて、様々な装備・施設が準備されることとなる。代表的なものでは、補給物資揚陸のための人工埠頭(マルベリー)などが準備された。
連合軍は上陸に備えて特殊装備を開発した。パーシー・ホバート少将指揮下のイギリス第79機甲師団による特殊車両は「ホバーズ・ファニーズ」「ザ・ズー」と呼ばれた。同師団が開発、装備した車両群は、水陸両用のD.D. シャーマン、地雷除去戦車シャーマン・クラブ、工兵戦車チャーチルAVRE 、火炎放射戦車チャーチル・クロコダイル、架橋戦車チャーチルARKなどである。
1942年のフランス・ディエップ上陸の失敗を顧み、最初の上陸でフランスの港を直接攻撃しないことに決定した。主要作戦目標は、上陸後40日以内にコタンタン半島根元にあるノルマンディーから西側に伸びるコタンタン半島最北にある港町シェルブールおよびノルマンディー東側にあるカーンを抑えること。
特に大規模港湾施設のあるシェルブールを押さえることは兵站路確立のためにも必須だった。そして、第二目標はコタンタン半島からさらに西部のブルターニュ半島以下、フランス西部の港町。そして肝心なのはカーンからパリ方面への進撃路の確保であった。
最終的にノルマンディーの5つの上陸ポイント、西から順に「ユタ」「オマハ」「ゴールド」「ジュノー」「ソード」が定められることとなる。「ユタ」「オマハ」は米軍主体、「ゴールド」「ジュノー」「ソード」は英国軍主体となった。
「ユタ」「オマハ」の中間地点にはカランタン、その南方にはサン・ローの街があり、サン・ローから東にヴィレルヴォカージュ、そしてカーンがあった。「ゴールド」「ジュノー」「ソード」からカーンまで概ね10マイル(16km)の位置関係だった。
これら上陸作戦「ネプチューン」に先立ち、三個空挺師団による空挺降下作戦(トンガ、シカゴ、デトロイト各作戦)を実施するという計画だった。
1944年5月当時、上陸作戦に備えてイギリス国内に駐留したアメリカ兵は約150万人に上った。
フランスの防衛は西方総軍が担当しており、その総司令官はルントシュテット陸軍元帥であった。1943年11月、ヒトラーは連合軍フランス上陸の兆しをもはや無視することはできないと考えており、北アフリカ戦線帰りのロンメル陸軍元帥をフランス北部防御の任務を負ったB軍集団の司令官に任命した。OKW(国防軍最高司令部)は連合軍側が上陸を仕掛ける地域を、カレー、ノルマンディー、ブルターニュのいずれかであると推定していた。しかし連合軍の欺瞞作戦により、カレーが上陸地点であると考えるようになった。また、同時多発上陸計画が存在すると確信していた。B軍集団の支配下としてカレー付近には第15軍、ノルマンディー付近には第7軍が配置されていた。
「大西洋の壁」と呼ばれた大西洋沿岸の防衛状態は、ヒトラーが計画を強力に推進したにも関わらず進行していなかった。連合軍が上陸する地点だと判断したため最も構築が進んでいたカレー方面でも80%前後、ノルマンディーに至っては計画の20%前後の進行率でしかなかった。
「大西洋の壁」は連合軍の攻撃をはじき返すための強力な防御施設であるとされ「上陸する連合軍を、大西洋に叩き返す」と、内外に宣伝されていた。それを現実のものにするため、ドイツが注いだ力は凄まじいものだった。膨大な量のコンクリート、セメントが集められ、徴用された何万人もの労働者たちが、突貫工事を進めた。だが、あまりにも膨大な建設資材の発注に対して、特に鉄鋼材は少量しか入手できなかったため、旋回レールを備えた大砲陣地などの強力な施設の数は少数にならざるを得ず、フランス軍が過去に構築したマジノ線要塞やドイツ軍が構築したジークフリート線要塞から、設備を取り外してまで建設を進めていた。
そもそも大西洋沿岸すべてを要塞化することが不可能なのは明白だった上にこの時期のドイツは明らかに、西部戦線よりも東部戦線の方に力を注がなければならない状況であった。43年の末にB軍集団司令官に着任したロンメルは、大西洋の壁に関する宣伝を信じ「壁」はほとんど完成したものと思っていたが、ノルマンディー沿岸の防御施設を視察したあと、大西洋の壁の有効性に対する意見は、ロンメルとルントシュテットの間で完全に一致した。それは「敵よりも、むしろドイツ国民に対する宣伝用の記念碑」であり、「大西洋の壁」はドイツ宣伝省によるプロパガンダに過ぎないという事であった。
連合軍が上陸するのはノルマンディーであると考えていたロンメルは着任の後、全力でノルマンディー沿岸の防御施設の構築を推し進めた。ロンメルは手に入る限りの資材・人員・武器・兵器を全て投入したが、その中でも地雷は最も多く投入され、ノルマンディー沿岸の全体に埋められたその数は約600万個以上であった。その他にも波打ち際の海中に立てられた杭には機雷をくくりつけ、砂浜に障害物を置き、空挺部隊が降下しそうな地域を増水させ罠を設置するなど出来る限りの備えをしていた。
ロンメルは北アフリカでの経験から、連合軍の侵攻を防ぐ方法はただ一つ「敵がまだ海の中にいて、泥の中でもがきながら、陸に達しようとしているとき」、水際で徹底的に殲滅することであると確信しており、機甲部隊の海岸近辺への配置を望んでいた。しかしロンメルの考えは西方総軍総司令官ルントシュテットと対立する。ルントシュテットは内陸部に連合軍を敢えて引き込み、連合軍の橋頭堡がまだ固まりきらないうちを狙って撃滅する作戦を支持した。両者の論争を解決するためにヒトラーはフランス北部で運用可能な機甲師団6個のうち、3個をロンメルに与えるが、残りの3個は海岸から離れた位置に温存配備し、ヒトラー直接の承認無しでは運用出来ないとする事で決着した。
1944年6月1日。BBC放送はヴェルレーヌの詩「秋の歌」第一節の半分を読み上げた。「秋の日の ヴィオロンの ためいきの」。これは、対独レジスタンス向けの連合国軍上陸を知らせる暗号だった。
連合軍が徹底的にオーバーロード作戦を秘匿したにもかかわらず、カナリス海軍大将が率いるアプヴェーア(国防軍情報部)は、オーバーロード作戦が開始される前兆として、BBC放送がヴェルレーヌの「秋の歌」第一節の前半分、すなわち「秋の日の ヴィオロンの ためいきの」を暗号として放送するという情報をつかんでいた。アプヴェーアはOKWとカレー方面を防衛する第15軍司令部、西方軍集団総司令部、B軍集団司令部に警告を発する。カレー方面を守備する第15軍は警戒態勢に入ったが、ノルマンディー方面を守備する第7軍はなんの連絡も受けなかった。OKWで連絡を受けた作戦部長ヨードル大将は陸軍参謀本部の第三課長レンネ大佐に警告の件を伝えたが、レンネ大佐は格別な措置をとらなかった。
この日以降、フランス北部は悪天候にさらされる。ドイツ軍は6月9日まで天候は回復しないと判断した。ドイツ軍は大西洋方面の気象観測基地を空襲で多く失っており、予報にかけては連合軍が有利であった。連合国軍は遅くとも6月5日より回復すると判断(それは正しかった)。
ロンメル元帥は連合国軍の作戦開始の意図を読んでいたが、上陸開始時期を9日以降の12日と判断し、あらかじめ準備していた休暇にはいる。これはドイツ軍全般もそうで、現場の指揮官らは演習のために持ち場を離れ、さらにこれは空軍および海軍も同様だった。
連合国軍側は、作戦開始日を5日から6日へとずらすことを決定した。
6月5日午後9時。BBC放送が48時間以内の上陸作戦開始を知らせる暗号である「秋の詩」第一節後半「身にしみて ひたぶるに うら悲し」を読み上げた。この「身にしみて ひたぶるに うら悲し」はアプヴェールによって傍受される。これは「放送された日の夜半から48時間以内に上陸は開始される」との暗号で、アプヴェールは直ちに関係する各部隊へ警報を発したが、しかし各部隊は表立った対応をとらなかった。西方軍集団司令部参謀長ブルーメントリット大将は「商業ラジオで作戦を予告する軍司令部など、この世にあるはずがない」と、この情報を無視した。しかしB軍集団情報主任参謀シュタウブヴァッセルは別ルートから情報を得てB軍集団参謀長ハンス・シュパイデル中将に連絡した。しかしシュパイデル中将も情報を重視せず、西方軍集団司令部に相談せよと言ったのみであった。シュタウブヴァッセルは西方軍集団司令部に連絡したが「第7軍への警戒指令は必要ない」と連絡された。またしても、警戒態勢をとったのはカレー方面に展開した第15軍のみであったが、上級司令部に通報を行わなかった。
6月5日真夜中。戦線後背の要衝地への夜間の空挺部隊(落下傘及びグライダー歩兵)の降下から始まった。アメリカ第82空挺師団、第101空挺師団、イギリス第6空挺師団が降下作戦(デトロイト、シカゴ、トンガ作戦)を行った。しかし、ドイツ軍からの高射砲による散発的な反撃と、ロンメルの人工的な沼を構築しており、少なくない空挺隊員が溺死した。それでも、少ない兵力で砲兵陣地の破壊・占領と内陸へ進撃をする為に必要な橋の確保を実行した。結果的な話をすると成果は限定的なものでしかなかった。夜間空挺降下のため降下範囲が広範囲になり兵力が分散してしまった点があげられる。
6月6日早朝。5つの上陸ポイントに対して上陸予定地への空襲と艦砲射撃、上陸用舟艇による敵前上陸が行われた。5つのポイントは明暗がくっきり分かれることになる。特に激戦だったのは「オマハ」および「ジュノー」で、特に「オマハ」ではアメリカ第1師団とドイツ軍でも東部戦線から再編成中の経験豊富な第352師団と衝突することになり、様々な不幸もあいまって「ブラッディ・オマハ」と呼ばれる激戦と大損害を受けることとなった。一方英軍担当エリアは「ゴールド」「ジュノー」「ソード」とも大した影響を受けず上陸に成功することになる。
これにたいしてドイツ軍側は、イギリス側上陸地点近傍にヘルマン・フォン・オッペルン・ブロウニコフスキー大佐率いる第21装甲師団・第22装甲連隊(第21師団の戦車すべてを運用していた)があり、初日で英国軍の排除に動いたもののこれに失敗、一日で兵力を半減させてしまう。
※ブロウニコフスキー大佐は、東ではソ連軍相手に42年のスターリングラード戦、43年のクルスク戦、44年のノルマンディー戦と参加した主要な作戦のすべてでキャスティング・ボートを握ってかつ負ける、といういささか稀有な人でもあるのだが。
6月6日~12日。これに対してドイツ軍の対応はいささか低調とも言えた。
ドイツ空軍は上陸地点に対してわずか二機の戦闘機しか送り込めず、その後、航空機兵力を集中させたものの事前準備していた連合国航空兵力を制圧することは出来ず、以後制空権は連合国軍のものとなった。
ドイツ海軍も同様に、開戦当初から満足な艦艇も揃えられず、また空襲を避ける為北海へ移動していた。もはやフランス方面に割ける大型水上艦艇は存在せず、Uボートもわずかだった。水上艦隊は、ハインリッヒ・ホフマン少佐の第5水雷艇隊の水雷艇T28、メーヴェ、ヤグアーが第一陣として6月6日日未明にル・アーブルから出撃した。3隻の水雷艇はソードビーチ沖の艦隊に対して雷撃を行い、自由ノルウェー海軍の駆逐艦スヴェンナーを撃沈した。攻撃後、敵弾を回避し帰還に成功。翌日7日夜間にも出撃し複数の戦艦と10.5センチ砲で砲撃戦を行った。結果的に魚雷艇の攻撃のみで有効な反撃とは程遠い始末だった。
ドイツ陸軍も前述のとおり、指揮官不在(すぐに復帰したが)、兵力分散、対応策の不徹底ということもあいまって苦戦を強いられることになるものの、それでも要所要所で奮戦することとなった。
ただし、カーン方面に配備していた主力の移動は困難を極めた。交通路は連合国軍制空権にさらされており、日中の移動は困難を極めていたためでもある。なんとかかき集めた反撃兵力、第21装甲師団・第12SS装甲師団"ヒトラー・ユーゲント"・装甲教導師団"パンツァーレーア"が艦砲射撃やヤーボ(戦闘爆撃機)の攻撃をうけつつも悪戦苦闘を行うこととなった。制空権を完全に掌握している連合国軍航空機による攻撃は熾烈を極め、6月10日には反撃を行おうとする上記三個装甲師団を指揮する西部装甲集団司令部を失う羽目になるなど苦闘が続く。
英国軍は初期作戦目標であるノルマンディーの地方都市、カーン(防衛は装甲教導師団が担当)を目指してカーン西方を迂回することを決定。サン・ローとカーンを結ぶ街、ヴィレル・ボカージュに英国第7機甲師団所属第22戦車旅団が6月12日に到達する。この出来事はドイツ軍も知らなかった。
6月13日。ノルマンディーに連合国軍が上陸したと知ったドイツ軍は兵力をかき集めたものの、昼間はヤーボの攻撃にあい移動もままならなかったのは前述の通りだったが、1週間後、ようやくパリからカーン南方に到達した第1SS装甲師団"LSSAH(ライプシュタンダーテ・SS・アドルフ・ヒトラー)"に所属するSS101重戦車大隊が展開。
中隊長である戦車兵ミヒャエル・ヴィットマン大尉がティーガー数両でヴィレル・ボカージュに展開するこの第22戦車旅団を発見、攻撃を行い大損害(ほぼ全滅)させるという勝利を得るが、大勢的には連合軍優位なのは相変わらずだった。
とはいうもののドイツ軍は各所で出血を強いられつつも頑強に抵抗を重ね、結果的にカーンをめぐる戦いは英国軍が見積もった初日でのカーン占領もままならず、なんと3週間にわたってノルマンディー北部に足止めを食らう羽目になったのだ。カーンへ英国軍が突入したのは7月9日になってからだった。
一方の米軍は、6月12日に「ジュノー」と「オマハ」を繋ぐ都市、カランタンを占領。戦線を南北へ押し広げることを計画する。北は当初作戦目標であるシェルブール、南はコタンタン半島根元にあたりカーンと並ぶ都市、サン・ローだった。が、ここでも予想外のドイツの手ごわい反撃に会う。シェルブールのある北部ではダムを決壊させ、米軍の侵攻スピードが鈍り、結果的にシェルブール攻撃は6月20日から、10日間をかけてなんとか占領に成功。ただし、ドイツ軍はシェルブールの港を破壊し、機雷を敷設し連合国軍の速やかな使用を妨害することに成功した。この港が満足に使えるようになるのは8月過ぎ・・・それも機雷の完全排除が成功したのは10月という形になったのだ。
一方、南のサン・ローへの進撃も苦闘が続いていた。この地方特有の生垣により視界がさえぎられた田園(ヴォカージュ)に幾重もの防衛線を気付いたドイツ軍の排除に手をやいた米軍が結果的にサン・ローに到達したのは7月12日なってからだった。
これに前後して6月22日にはノルマンディー上陸作戦に呼応したソ連軍大反攻作戦「バグラチオン作戦」が開始され、東部戦線からの兵力抽出が出来ないこととなった。ドイツ本国にあるわずかな兵力再編途中の部隊を送り込むことしかできない状況だった。
とはいえ、結果的に連合国軍側が完全な主導権を握るのにほぼ一ヶ月を要することになったものの、この時期、人工埠頭「マルベリー」から送り込まれる人員・補給物資によりノルマンディーに築かれた橋頭堡を拠点として、作戦開始から二ヶ月後、連合国軍側はフランス北部を限定的ではあるが手に入れつつあった。
7月18日、カーンの占領を果たした英国軍はグッドウッド作戦を立案する。カーン方面の英国軍が大規模攻勢を行なったのだが、結果的には大失敗。潤沢な航空機による攻撃のあと、戦車部隊が突入し戦線を突破することに成功するが、ドイツ軍側の予備戦線に配備された88mm対戦車砲に迎撃され、7月20日は作戦中止、頓挫してしまう。モントゴメリー将軍の稚拙・硬直化した指揮が原因とされ、敵軍の指揮官である"パンツァー・マイヤー"ことクルト・マイヤー将軍曰く「ダイナミックに欠けるへっぴり腰の戦車攻撃」と言われる始末だった。
7月に入り挽回できないことを悟ったルントシュテット元帥は講和を進言し、ヒトラーにより罷免・更迭される。ロンメル元帥も間をおかず戦線移動中に航空機襲撃に合い負傷。後方へ移送される(7月17日)などのアクシデントが重なり、指揮官が二転三転してしまうことなった。これだけではなく師団長クラスの指揮官がヤーボの攻撃に晒され命を落とすだけでなく、さらに7月20日、ヒトラー暗殺未遂事件が起こるなどドイツは混乱のきわみにあったといえる。
7月25日。休養と補給を万全にした米軍の侵攻作戦がスタートする。作戦名はコブラ作戦。
コタンタン半島西側、モン・サン・ミッシェル湾側のクタンスを制圧し、グランヴィル、そして湾最奥にあるアブランシュを目指す作戦だった。米軍らしい物量にものを言わせた攻撃により、この方面を防衛していた装甲教導師団は崩壊する。
より一層の戦果拡大が望まれ、米軍は最適な人物をイギリス本土から呼び寄せることになる。その男の名前はジョージ・パットン。不祥事で部隊を取り上げられていた彼に、4個軍団を与え第3軍を組織することが決定された。
彼はノルマンディーの戦いに参加できなかった鬱憤をはらすかのように突進、アブランシュを落とすと、大きく進路を東にとることになる。ドイツ軍後背めがけての突進は、カーン南方にあるファレーズを中心とした大包囲網の形成を可能とした。
8月8日、英国軍は再度作戦を行う。トータライズ作戦、大攻勢だったがドイツ軍残余の反撃に遭遇する。
(この日の戦いで、ミハエル・ヴットマン大尉(第101重戦車大隊隊長に昇進)は戦死している)
しかし、ドイツ軍は相次ぐ戦いで疲弊し、ようやく制圧となったカーン南方のファレーズでドイツ軍B軍集団は連合国軍に包囲される。これが「ファレーズ包囲戦(ファレーズ・ポケット)」であり、これにより、大量の兵員を戦死・あるいは捕虜で失うか、なんとか包囲を脱出した部隊もその装備の大半を失っていた。上陸作戦迎撃にあたり奮戦した武装親衛隊”第12SS装甲師団”は最後まで友軍を逃がすため戦っていたが、上陸作戦前2万名までいた人員は、最後の脱出後、300名にまでその数を減らしていた。
ノルマンディー上陸作戦は連合国軍(英・米・仏)の欧州上陸・第2戦線の確立。という点では戦争におけるターニング・ポイント足りえたものの、作戦そのものとして考えると成功とはいい難い結果になったといえるだろう。
上陸後、最優先目標であった港湾施設のあるシェルブールの占領に手間取り(ほぼ一ヶ月を必要とする)、その間にドイツ軍により港湾施設を破壊されてしまう。これはボディブローのように連合国軍を脅かすことになった。
事前に準備した人工埠頭(マルベリー)も二つのうち一つを嵐で失ったものの、それでも多数の物資を陸揚げできた、が、その後が続かなかったためでもある。
港湾施設のある都市を手に入れ、シェルブールの港湾施設復旧に二ヶ月を要したために、この間、ドイツ軍の混乱に乗ずることができなかった。さらには大規模港湾施設のあるダンケルクもドイツ軍が立てこもり(これは終戦まで続く)、その後のフランス東部からドイツ領へ向かう物資の陸揚げに問題を残すこととなる。
さらに連合国軍にも問題があった。
上陸部隊が沿岸部から内陸部へ進出するため、陸揚げした物資を最前線に届けるためにはトラックが必要となり、そのためには大量のガソリンも必要になったのである。ここまでは計算のうちだったが、そのあとがいけなかった。連合軍は進撃を急ぐ余り各所でドイツ軍残党を残したままになっていた。残党軍はしばしば前線に向かう補給部隊を脅かした。
連合国司令部は対外的な面もあってかパリに司令部を移すことを決定。この司令部の人員、装備、その他もろもろをパリに届けるために必要な輸送トラック部隊は膨大なものになる一方、パリ市民を生活させるための物資を届ける部隊もさらに必要となり、結果的には貴重な時間を失ったのである。
(パイプラインなどが作られ、補給路が安定化するまで連合国軍の本格的な進軍はストップすることとなった)
ノルマンディー上陸作戦における初期目標が達せられなかったことは、その後の欧州戦線をより複雑なものとすることになる。それはノルマンディー上陸作戦後の連合国内部の政治的要因にも一因があった。
英国のモントゴメリー将軍がノルマンディー作戦後に第21軍集団への補給を最優先にするよう圧力をかけており、連合軍指揮官であるアイゼンハワー将軍もこれに対応するしかなかった。
当のモントゴメリーは連合国軍の兵站路確立というお題目をたてオランダ沿岸部港湾施設および進出を計画。これによりルール地域を掌握するだけでなく英国がドイツ領内へ一番乗りするという名誉も得られる。兵站に苦しむ連合国軍司令部はこのいささか功名にはやるモントゴメリー(と英国)の立案を無視できず、貴重な物資を振り分けることとなった。
この後、モントゴメリーの野心?が大失敗するのがマーケット・ガーデン作戦である。
このようにノルマンディー上陸作戦が行われた結果、ドイツは本格的な二正面作戦を強いられることになり、以後、ヨーロッパにおいてはドイツの劣勢は決定的なものとなった(それは同時に東部戦線でドイツと対峙していたソ連を利することを意味した)。
その意味で本作戦は第二次世界大戦の趨勢を決した決定的な戦闘であり、現在でも第二次世界大戦史の中で最もよく知られる戦いの一つとして数えられる。
掲示板
62 ななしのよっしん
2021/05/13(木) 03:26:35 ID: iuzSUEKZoh
>>59
まあ海洋国家の日本が陸軍大国である米ソに陸軍力で劣るのは当然か。日本史上の侵攻作戦では間違いなく最大規模だろうけど。
63 ななしのよっしん
2022/05/19(木) 22:52:56 ID: aAmkjD9fKx
>>61
とてつもない規模だな。これだけの戦力を展開できる場所は限られるし、どうにか上陸しようとして、あれだけ欺瞞を駆使したのも納得だ
それに、なんだかんだソ連軍がドイツ軍を引き付けていたことはフランス上陸の絶対条件だったことも納得できる。米英の総力を挙げた取り組みでも、これだけの兵力を展開するには40日間は必要だったんだな。
ドイツ軍は東部戦線に200万人規模で展開していたはずだから、仮にソ連軍と戦争を行っていなかったとすると、米英軍が主力を展開する日数からして、海峡の向こうに安定的な地歩を獲得することは難しかっただろうな
64 ななしのよっしん
2024/06/05(水) 21:11:47 ID: Gyg7Iyt7FY
ノルマンディー80周年で式典 フランス北部、欧米首脳が結集へ
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最終更新:2025/01/07(火) 05:00
最終更新:2025/01/07(火) 05:00
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