若月(秋月型駆逐艦) 単語

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若月(秋月型駆逐艦)とは、大日本帝國海軍が建造した秋月型駆逐艦6番艦である。1943年5月31日工。1944年11月11日マスバテ南西で敵艦上機襲を受けて沈没した。

概要

1939年に策定された海軍軍備充実計画(通称マル四)にて、一等駆逐艦109号艦の仮称で建造が決定。艦艇補充費から建造費1209万円を捻出した。当初の計画では1942年6月起工、1944年5月工の計画だったが、大東亜戦争戦後1942年3月9日三菱重工長崎所で起工。8月20日に駆逐艦若月と命名され、11月24日進水式を迎える。式典には南雲忠一中将が参列した。完成が近づいてきた1943年5月1日鈴木保厚中佐委員長とした装員事務所を開設。そして5月31日工を果たした。工後、佐世保鎮守府に編入され、第1艦隊第11戦隊に部署。

1943年

1943年6月4日、佐世保を出港して翌日瀬戸内海西部に到着。訓練を開始する。その最中の6月8日深い柱島泊地戦艦陸奥が爆沈する事故が発生。第11戦隊所属の艦は生存者の救助にあたり、へ移送した。6月22日トラックから帰投した戦艦武蔵の護衛任務に従事すべく、駆逐艦玉波と瀬戸内海を出港。翌23日に横須賀へ入港するが、敵潜の撃で航行不能に陥った特設運送相良丸の救難命を受け、神子急行駆逐艦航している相良丸を警護した。やがて相良丸は沈没を受けるため6月24日に座礁したため、若と玉波は帰路につき、6月27日瀬戸内海へ帰投した。

7月7日瀬戸内海から横須賀に進出する商改造空母冲鷹の護衛任務に従事し、7月17日瀬戸内海へ帰投。再度訓練に従事する。8月2日に入港。訓練を終えた若8月15日に第3艦隊第10戦隊第61駆逐隊へ編入。8月17日戦艦大和長門扶桑を基幹とした艦隊と八泊地を出港。能代(軽巡洋艦)を先頭に豊後を南下し、太平洋に出た。8月22日能代艦載機の援護を受けながらトラックへ到着。9月8日午前1時から午前5時にかけて、姉妹艦新とともに給油鶴見から燃料補給を受ける。

人事異動により、小沢三郎中将率いる第3艦隊と栗田健男中将率いる第2艦隊は未だ合同訓練を行っていなかった。練度向上を図るべく、両艦隊の24隻は9月17日トラックを出撃。若もこの艦隊に加わり、敵艦隊をめて一路東進。基地用レーダーを有するブラウンに向かい、9月20日に到着。近で暴れまわっていた敵機動部隊と艦隊決戦を挑もうとしたが、敵がハワイに引き上げてしまったため、9月25日トラックへ帰投した。10月に入ると、連合艦隊旗艦の武蔵ホノルル発の電信に新しい電の呼び出し符丁が現れている事に気づき、空母が近く行動を開始すると読んだ。10月17日午前7時4分、再び有艦艇とともに出撃。瑞鶴瑞鳳翔鶴を中心とした輪形を組み、前回同様ブラウンす。10月19日午後12時40分にブラウンへ到着したが、伊36の偵察の結果、ハワイ港内に戦艦4隻、空母4隻、巡洋艦5隻、駆逐艦17隻の停泊を確認。どうやら敵艦隊は動いておらず、肩透かしを喰らった。それでも最近の敵の動向からウェーク島方面への来襲を考え、10月19日に出港。ウェーク南方200里付近に進出して敵艦隊の出現を待ったが、やはり現れず。10月26日トラックへ帰投した。

10月27日連合軍がモノに上陸。ここはラバウル2時間で到達できる近距離であり、戦闘機基地を建設されるとラバウルの防衛に大きな綻びが生じてしまう。翌28日、連合艦隊部は迎撃の的で「ろ」号作戦を発し、トラック所在の搭乗員を前線基地ラバウルへ運ぶ事に。搭乗員と基地物件を積載した若10月30日、第10戦隊旗艦の軽巡洋艦阿賀野駆逐艦初風長波とともにトラックを出撃。11月1日ラバウルに到着した。しかし数時間前に連合軍がブーゲンビルタロキナへと上陸したため、物資揚陸後の14時30分にすぐさま出撃。26ノットの速で敵が上陸しているエンプレスオーガスタ湾へ急行した。11月2日午前0時50分、タロキナの西方38里で軽巡洋艦4隻と駆逐艦8隻からなる第39任務部隊と交戦(ブーゲンビル戦)。アメリカ軍レーダーを使い、日本側より18分もく接近を探知。手軽巡4隻を配置して待ちせていた。第3戦隊旗艦の川内は敵軽巡4隻から集中火を浴びて沈没駆逐艦初風も撃沈されて突入失敗。午前3時20分に戦場を離脱し、午前9時17分にラバウルへ帰投した。更に11月5日帝國海軍の反撃を阻止するためアメリカ軍ラバウルに大規模襲を仕掛けてきた。湾内はトラックより進出してきた重巡補給艦で混雑していたため湾外に脱出し、対戦闘。至近弾を受けて線付近の舷側に破孔多数が生じて浸が発生したものの、応急修理いだ。11月6日、南東方面部支援部隊第1支援部隊に部署し、同日13時阿賀野風雲浦風と出撃。タロキナ地区に上陸させる増援を乗せた輸送隊を間接援護する。ブカ西方から南下してタロキナへの逆上陸を支援していた19時55分、敵の襲を受けて小破。事逆上陸は成功し、翌7日午前4時反転帰投。午前7時ラバウルへ入港した。11月11日ラバウルが再び大規模な襲を受け、港外で対戦闘。至近弾により損傷した。旗艦阿賀野魚雷直撃で艦尾を喪失し、急遽トラックに後退する事となった。13時阿賀野やその他ラバウルから後退する艦艇とともに出港。11月12日午前7時頃、カビエン北北西250里で潜水艦スキャンプから撃を受けて阿賀野が被する被害を受けたが、それ以外は何事も11月15日トラックへ到着した。

11月19日駆逐艦山雲とともに練習巡洋艦鹿島と潜水母艦長を護衛して出港。11月26日横須賀へ帰投し、翌日から工修理と機増備工事を受ける。12月21日浦賀船渠修理中に爆発炎上する事故に見舞われて修理期間が伸びた。

1944年

1944年1月9日修理了。1月17日横須賀を出港して瀬戸内海西部へ回航。1月27日から2月4日までに寄港したのち、本に回航。本土には燃料があまり残っておらず、艦隊の大半は燃料不足とは縁の南方の泊地へ次々に送られていた。2月6日リンガ泊地に進出する空母翔鶴瑞鶴を護衛して出港。2月14日シンガポールへ寄港し、2月20日リンガまで回航された。3月12日初月リンガを発ち、シンガポールにて本土向けの輸送物件を積載。3月15日に出港し、3月21日へ帰投。輸送物件を揚陸した後、徳山で燃料補給を受け、瀬戸内海西部に移動。就役したばかりの大空母大鳳と合流してで直衛訓練を実施。3月28日リンガに向かう大鳳を護衛して出港し、4月4日シンガポールまで到着した。2日後、リンガに回航。

5月11日第61駆逐隊(涼月欠)はリンガを出港してベンラップに寄港。6月6日に出港し、タウタウイへ寄港したのちバリクパパン行きの丸を護衛。中で敵潜に沈められた駆逐艦水無月生存者を救助した。6月8日から14日までバリクパパンに寄港し、6月16日に第1補給部隊の護衛に加入。そのまま小沢艦隊に加わってマリアナ方面に進撃する。

6月19日マリアナ沖海戦に参加。旗艦大鳳の護衛に回っていたが、敵潜の撃で大鳳が被炎上。14時32分に大爆発を起こして沈没現実味を帯びたため、カッターボートで脱出してきた小沢三郎中将以下部要員を収容。将旗を掲げて機動部隊の臨時旗艦となった。16時6分、旗艦を重巡羽黒へ移した事で旗艦任務を終えた。6月20日17時30分、敵艦上機約200機が来襲。新たな旗艦となった瑞鶴を護衛しながら対戦闘に奔走する。10cm弾440発と機弾4000発を放って襲を切り抜け、19時45分に退却を始めた。6月22日中城湾に寄港して瑞鶴に燃料補給。翌23日に出港し、6月24日に柱へ帰投した。6月28日姉妹霜月軽巡大淀を護衛して瀬戸内海を出港し、翌日横須賀へ入港。マリアナ沖海戦の戦訓から横須賀13号電探の設置と更なる機の増備が行われた。7月5日霜月横須賀を出港して瀬戸内海西部へと戻った。

7月8日リンガ泊地に進出する戦艦金剛長門重巡最上を護衛してを出港。襲を避けて杵湾に退避した後、外洋に進出する。7月10日中城湾に寄港して陸軍部隊を揚陸し、7月12日午前5時に出港。7月14日に中継地のマニラへ寄港して軍需品を揚陸し、7月17日午前6時に出港。潜が跳梁跋扈する危険な域に差し掛かる。7月19日、新南諸北方戦艦金剛撃した敵潜に対潜攻撃を実施。7月20日16時30分、リンガ泊地に到着した。7月末にシンガポールへ回航されて入渠整備を受ける。8月中は第10戦隊に率いられてリンガ周辺の対潜掃討に従事。9月12日磯風浦風浜風とともにリンガを出港し、9月19日へ帰投。10月13日から瀬戸内海西部で待機する。第61駆逐隊の若涼月には台湾への輸送任務が予定されていた。しかし台湾沖航空戦っただ中である事、豊後が敵潜の溜まり場と化していた事から輸送中止をめるが上がるも、結局強行された。

10月17日駆逐艦涼月と出港。九州沿を南下している時に潜水艦ベスゴから撃を受け、涼月が被中破。若が対潜掃討を行ってベスゴを追い払った後、涼月まで護送。翌18日、八泊地に移動して輸送するはずだった基地物件と人員を揚陸した。この日、アメリカ軍レイテ湾スルアンに上陸した事を受けて連合艦隊は捷一号作戦を発10月19日小沢三郎中将率いる機動部隊に編入される。海軍上層部は航空機を失い、もはや「失業」状態となった空母を囮として使い、栗田艦隊をレイテ湾に突入させる一助にしようと考えていた。

10月20日18時空母瑞鶴(旗艦)、瑞鳳千歳千代田戦艦伊勢日向巡洋艦3隻、駆逐艦8隻からなる小沢艦隊は豊後を出撃する。10月24日午前6時、予定地点に到達。囮の役割を果たすべく、わざと立つ行動を取る。15時15分、戦艦伊勢日向を基幹とした前衛部隊に所属して先行南下。敵艦隊に夜襲を仕掛けようとしたものの会敵に失敗し、22時30分に反転北上する。

エンガノ岬沖海戦

10月25日午前7時、本隊に復帰して旗艦瑞鶴の護衛に回る。午前8時21分に敵艦上機170機からなる第一波襲が始まった事でエンガノ戦が生起。対戦闘を開始するも、小沢艦隊はしい攻撃に見舞われる。奮闘する若傷とは行かず、敵機の機掃射により中村予備少尉が戦死する被害を受ける。午前8時50分、駆逐艦秋月が突如爆発して6分後に沈没午前9時37分、直撃弾5発を受けた千歳尽きて沈没した。午前9時58分に敵機36機が出現して第二波攻撃開始。午前10時16分、命中弾により千代田が大破漂流状態に陥り、以降行方不明となる。午前10時54分、小沢中将は旗艦を瑞鶴から大淀に変更。

13時6分、敵機200機による第三波襲が始まり、魚雷7本と命中弾4発を受けた瑞鶴が14時14分に沈没。乗組員、第601、第653航空隊の生存者千数名が洋上に投げ出された。未だ続く敵艦上機からの攻撃を捌きながら、姉妹初月と救助を実施。若艦内では「瑞鶴の乗員、1名たりとも残すな」という示が出されていた。ロープ、縄梯子内火艇カッターなど使える物をフルに使って生存者を献身的に救助する。見事敵機を釣り上げた小沢艦隊は16時47分、陽動作戦の終了を打電。しかし度重なる襲で艦隊は散り散りとなり、広い域に散在している状態だった。18時を過ぎると辺りは暗くなり始め、尽きて沈む者も出てきた。それでも866名が2隻によって救い出された。18時15分、大破漂流中の千代田の救助に向かっていた軽巡五十鈴が姿を現し、若初月千代田の位置を尋ねてきたが、判然としなかったため捜索に協して南下。しかし南からは追撃部隊として放たれた第34任務部隊(重巡2隻、軽巡2隻、駆逐艦12隻)が北上中であり、救助対千代田トドメを刺した後、日本艦隊をめて更なる北上を続けていた。

18時40分、五十鈴の右舷に2~30mの柱が高々と築かれた。敵巡洋艦隊が撃してきたのである。若の電探が右110度方向に艦を探知し、線上に複数隻の敵が見えた。日本側の戦軽巡1隻と駆逐艦2隻のみでとても勝ちかった。3隻は煙幕って反転北上を試みるも、レーダーを有する第34任務部隊煙幕は効かず、加えて敵の方が優速なので距離がグングンと縮められていく。まさに絶体絶命の窮地。彼距離が6里にまで縮まった時、突如初月が「、艦載内火艇収容のため引き返す」との手旗信号を送り、反転。単身で16隻の敵艦隊に挑みかかった。初月が自らの命と引き換えに稼いだ2時間により、五十鈴と若が安全圏へ脱出する事が出来たのだった。その後、戦闘を視認して夜襲をかけるべく進撃してきた戦艦伊勢日向軽巡大淀駆逐艦霜月と合流。初月の最期を聞き、23時45分に夜襲を断念して北上。生き残ったのは戦艦2隻、軽巡2隻、駆逐艦6隻だけだった。

10月27日正午奄美大島湾に入港。死地から戻った若であったが、南西方面部隊第2遊撃部隊へ編入された事で帰わず、再度危険なフィリピン方面へ舞い戻る。翌28日、帰する伊勢から25mm機弾2万発を、霜月から10cm1500発を受け取り、10月29日午後12時30分に大淀を護衛して出発。11月1日に策地マニラに入港した。ここで待っていたのは、地獄の多号作戦ことオルモック緊急輸送であった。

11月4日、若は第四次多号輸送部隊に編入。2日後に出港する予定だったが、前日の11月5日にマニラクラーク地区が機動部隊襲を受け、重巡那智が撃沈されるなどの被害が生じたため出港を延期。11月8日午前8時30分、高速輸送香椎丸、丸、高津丸からなる第四次輸送部隊を護衛して出港。護衛兵海防艦沖縄占守、第11号、第13号駆逐艦秋霜、潮、朝霜長波、そして若であった。危険な中を突破し、11月9日夕刻に的地のオルモック湾へ到着。泊地の警にあたった。翌10日午前0時45分、ポンソン付近で魚雷艇2隻と交戦して撃退。ところが台風襲による損傷で用意していた50隻の大発がど使えず、重武装の揚陸を断念して第26師団兵員のみの上陸となった。午前10時30分、第四次輸送部隊はオルモックを出発して帰路につく。午前11時25分、湾口にてB-25爆撃機35機とP-38戦闘機が襲来して対戦闘。第11号海防艦高津丸香椎丸が撃沈される被害が生じた。19時15分、一生き残った輸送丸を護衛して先発。マニラに向けて航行していたが、若朝霜長波の3隻は出発が遅れていた第三次輸送部隊と合流するよう命じられる。21時マスバテ東方ブラックロックで第三次輸送部隊と合流。丸の護衛は第三次輸送部隊から抽出された駆逐艦初春が引き継いだ。11月11日未明、マスバテ南西魚雷艇4隻と交戦して撃退に成功。

最期

1944年11月11日午前8時30分、オルモック湾の眼前で第38任務部隊から放たれた敵艦上機347機による襲を受ける。真珠湾攻撃に匹敵する大規模航空攻撃により輸送4隻がく間に沈められてしまう。輸送全滅させると、敵艦上機興味護衛艦艇に移った。午前11時40分、若の艦前後部にそれぞれ爆弾が命中し、沈没。艦長を含む乗組員290名が戦死し、生存若干数がオルモックに漂着した。

1945年1月10日、除籍。

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