能代(軽巡洋艦) 単語

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能代(軽巡洋艦)とは、大日本帝國海軍が建造した阿賀野軽巡洋艦2番艦である。1943年6月30日工。誕生から沈没する時まで一貫して第2戦隊の旗艦を務め上げる。ラバウル襲、マリアナ沖海戦、シブヤン戦、サマー戦に参加し、敵機12機撃墜、8機協同撃墜の戦果を挙げた他、困難な輸送任務を遂。1944年10月26日レイテ沖海戦の撤退中に撃沈される。

概要

阿賀野巡洋艦とも呼ばれる新軽巡洋艦である。当初帝國海軍は5500トン軽巡洋艦を保有していたが、新駆逐艦の登場や発達する仮想敵アメリカの艦艇と較すると旧式化がしく、戦隊の旗艦に向かなくなってきた。そこで新たな旗艦用軽巡洋艦の建造に着手する事になり、阿賀野として結実。

ロンドン海軍軍縮条約以降に設計されており、旧式化著しい5500トン軽巡洋艦から旗艦任務を引き継げるよう造られている。速、航続距離波性、攻撃められ、まず機関には最新の高温高圧6基を搭載して10万馬の出と6000里の航続距離を獲得。戦隊の旗艦として高速襲撃するために、艦首に小さな球状を付けたクリッパーを採用。大きなシアフレアを装備して波性、耐波性、機動性を大幅に向上させた。は重量軽減の的で15.5cmではなく15.2cmを装備。戦艦金剛に装備されていた単装副を連装改造したもので、仰が55度あるので対にも対艦にも使えた。また新の8cm身連装高を艦両舷に1基ずつ装備。この高阿賀野にしか装備されなかった。要部は15cm弾に対する防御が施され、機関室の舷側は60mm、弾薬庫側面は30mm、艦室は40mmのCNCで覆われていた。

排水量6625トン、全長174.5m、線下幅15.2m、最大速35ノット、航続距離6000里(18ノット時)、出10万馬、乗員730名。武装は50口径15cm連装3門、九八式8cm連装高2門、25mm三連装機2基、13mm単装機2基、61cm四連装魚雷発射管2門、九三式一魚雷16本、九五式爆雷18個、21号電探。搭載機として零式水上偵察機2機を運用する。

ちなみに阿賀野は防諜の的で工が発表されず、臣民には知らされていなかった。

艦歴

1939年海軍軍備充実計画にて、二等巡洋艦133号艦として建造が決定。他の阿賀野は佐世保工で建造されているが、能代のみ横須賀での建造となった。開戦直前の1941年9月4日横須賀海軍で起工。1942年5月15日軍艦能代と命名され、5月24日より試運転を行う。少数ながら本土近潜の出現が認められていたため、特設駆潜艇丸が対潜を行っている。7月19日に進し、命名式に伏見殿下が参列された。1943年6月より東京湾で全試と終末試験を行い、6月30日工。横須賀鎮守府第1艦隊第11戦隊に編入され、初代艦長に田原大佐が着任した。

艦名の能代とは、秋田県北部を流れて日本海に注ぐ下流域の名称。

1943年

7月1日に物資の積載を行い、7月7日から9日にかけて工に入渠して残工事を実施。瀬戸内海にいる第11戦隊と合流すべく、7月15日横須賀を出港し、本州の南に沿って航行。翌16日午前4時45分、淡路島江崎灯台を通過時に第3号駆潜特務艇の間接援護を受け、瀬戸内海に進入して柱島泊地に到着。柱と安ノ拠点に慣熟訓練を行う。ところが悪化する戦況は能代を待ってはくれなかった。アッツ島方面作戦のため一時帰していた艦隊がトラックへ戻る事になり、艦隊とともに能代前線に送りたい第1艦隊は、8月2日18時に直ちにへと回航して戦備を整えるよう示し、8月6日へ入港。陸兵や軍需品を搭載する。本来であれば8月末まで訓練をする予定だったが、8月7日15時13分に「以後の訓練を取りやめて、出撃準備に取り掛かれ」と急かされる。能代側は「対訓練未了につき充分の自信を持てず」と返信するも、聞き入れられなかった。8月10日午前7時20分に前進部隊本隊所属となり、第2艦隊第2戦隊へ転属。コロンバンガラ島沖海戦で撃沈された軽巡洋艦神通に代わり、8月15日に第2戦隊の旗艦を長良から継承。戦隊の高間少将が乗艦した。送りしているかのような性急過ぎる準備に、能代はただ翻弄されるだけだった。

8月16日午後12時45分にを出港し、19時56分に八泊地へ回航。現地で進出待機中の戦艦大和長門扶桑空母大鷹等と合流した。8月17日午前10時駆逐艦海風が八泊地に到着し、南東方面行きの陸兵150名を能代に移乗させた。13時に泊地を出発。艦隊は第三警航行序列を組み、能代が栄えある先頭艦となる。豊後を南下して太平洋に出た後、一路トラックす。能代は航行中に諸訓練を行い、錬度不足の部分を少しでも補おうと努した。順調に航は進み、入港を直前を控えた8月23日能代は艦隊から分離して艦載機を発進。近隣に潜んでいる敵潜水艦を警しつつ、味方艦艇のトラック入泊を支援した。艦載機を収容した後、午前7時45分に能代も泊地内に入港。最初の航事に終えた。8月30日、環礁内で諸訓練を実施。内地で行えなかった訓練をトラック基地で続行する。7月8月だけで第2戦隊は清波、有明、夕暮、江風を喪失する大損を受けた。9月16日午前5時駆逐艦涼風海風を率いて環礁外で訓練を行ったが、涼風魚雷1本が沈没してしまうハプニングに見舞われた。

人事異動により、第3艦隊の空母機動部隊を率いる小沢三郎中将と、第2艦隊の重巡部隊を率いる栗田健男中将は未だ協同訓練を実施した事がかった。2つの艦隊による連合訓練を行うべく、9月17日に24隻の艦艇がトラックを出港。アメリカ軍がいる東方に向けて進撃を開始した。当初能代率いる第2戦隊留守番の予定で、環礁内で海風涼風と訓練に従事していた。翌18日に第15機動部隊ギルバートマキンとタラワ爆撃したとの報告が入り、現地に進出していた第22航空戦隊零戦一式陸攻被害を受けてしまった。これを受けて20時45分、海風涼風、玉波を率いてトラックを出撃。北の対潜掃討を行ったのち第一警航行序列を組み、先発した艦隊の背中を追った。襲は9月19日にも行われ、訓練出動していた艦隊は敵を捕捉すべくそのまま東進9月20日午前11時30分、マーシャル諸島ブラウンに入港する前に艦載機を発進させて近の対潜を実施。14時40分にブラウンへ到着した。ここには第61警備隊の基地用レーダーが備えてあり、艦隊決戦を挑むには打ってつけの前進拠点だった。敵空母来襲の報告を受けた瑞鳳が翌21日に合流。9月22日重巡高雄とともに艦載機を発進させ、近の対潜を行う。南太平洋海戦以来の艦隊決戦が行われるかに見えたが、敵艦隊は素ハワイに引き揚げてしまったため、小沢中将は帰投を命9月23日午前7時16分、2隻の駆逐艦を伴ってブラウンを出発し、9月25日17時12分にトラックへ戻った。

しかし敵の反攻は留まる所を知らなかった。10月5日、モントゴメリー少将率いる第14機動部隊が北東のウェーキ襲し、第22航空戦隊に再度大打撃を与えた。翌7日未明にも敵艦上機が大挙来襲したため、連合艦隊午前7時20分に作戦第一法警を発し、敵の攻略作戦に即応すべく在トラック上戦に出撃準備を下10月8日午前2時トラックを出港して駆逐艦涼風海風、大波、長波とともに環礁外で訓練を行う。しかし得られた情報を統合した結果、敵に襲の意図以上のものはいと判断され、同日に出撃準備取り止めとなった。以降、敵機動部隊の動静は掴めなかった。

連合艦隊旗艦の武蔵ホノルル発の電信に新しい電の呼び出し符号が現れている事に気付き、空母が近く作戦を再開すると読んだ。今度こそ艦隊決戦を挑むべく、Z一号作戦を発動。10月17日武蔵マストに「出港用意、移動物固縛」の信号旗が上がった。午前7時4分、艦隊とともにトラックを出撃。瑞鶴瑞鳳翔鶴を中心とした輪形を組み、トラックに潜む敵潜水艦への警として速24ノットで航行。危険域を抜けた後は15ノットに落とした。前回のような肩透かしを受ける可性も考慮し、伊36潜にハワイを偵察させてみたところ、港内に戦艦4隻、空母4隻、巡洋艦5隻、駆逐艦17隻の停泊を確認。敵は出撃していないようだった。10月19日午後12時40分にブラウンへ到着するが、決戦の機会を逸したため東進を中止。連合艦隊長官古賀大将は再びウェーキに敵が来ると考え、10月23日午前1時56分に出港。ウェーキ南方に到達し、能代はウェーキ西方域の索敵を実施する。しかし敵空母出現の兆く、10月25日には航空教練で発進した最上艦載機行方不明になってしまう。能代島風が捜索を行ったが見つけられず、帰投命を受けて翌26日に瑞鳳を護衛して帰路につく。10月27日16時54分、トラックへ帰投した。この出撃で艦隊用燃料を多く消費し、敵潜の跳梁で10月だけでも4隻の大タンカーを失っていたため補給すらままならなくなってしまった。

獄炎に包まれるラバウル

11月1日連合7500名がブーゲンビルタロキナ地区に上陸。午前10時55分、大本営は電作第748号を発し、トラック在泊の巡洋艦栗田中将揮下に編入して遊撃部隊を編制。ラバウル方面に進出させて決戦を挑む事になった。能代率いる第2戦隊にも参集の命が下った。しかし官の高間少将は制権を喪失しているラバウル水上部隊を送り込む事に懐疑的であった。トラック方面にも敵機来襲の兆が見られたため、警待機を行っている。翌2日午前4時30分、環礁外の対潜掃討を行って重巡部隊の出港を援護を行ったが、ラバウル方面が熾襲を受けているため1日出港を延期。11月3日午前7時45分に出撃し、駆逐艦玉波、波、波、波、島風を率いて重巡最上鈴谷筑摩の3隻を護衛しながらラバウル急行する。翌4日午前10時55分、アドミラルティB-24に触接されるも対射撃で追い払った。しかし23時43分には4機に数を増やし、照明弾まで投下されるなど執拗な触接を受けた。

11月5日午前6時10分、ラバウルに到着。洋丸に横付けして燃料補給を受ける。シンプソンズ湾は給油と補給を受ける艦で混雑しており、脆弱な状態と言えた。午前9時17分に警報され、その4分後に敵艦上機97機が出現して対戦闘開始。ラバウル基地から零戦71機と彗星5機が迎撃に上がった。能代航空魚雷1本を喰らったが、幸い不発弾だったため負傷者1名だけで済んだ。対空砲火により1機を撃墜し、1機を協同撃墜した。敵艦上機が引き揚げていくと今度はB-24爆撃機27機が出現し、地上施設を爆撃午前11時15分に警解除されたが、敵機は間にも襲来し、19時55分に警報。この襲も何とか傷で切り抜け、21時17分に警報解除となった。重巡部隊トラックに引き返す事になり、大破していた摩耶を除いての間に危険なラバウルから去っていった。一方で能代は「ろ」号作戦支援のためラバウルに留まる事になった。タロキナに上陸した連合軍を排除すべく、第8方面軍を率いる今村均陸軍中将ラバウルから3000名の兵を送り込もうとしていた。しかし敵に制権と制権を握られているため、実際は小規模な戦しか送れなかった。

11月6日13時48分、タロキナに逆上陸を仕掛ける陸兵を分乗させた駆逐艦4隻を援護すべくラバウルを出港。能代波とともに第2支援隊を編制し、大波、巻波長波で警隊を編制した。19時、第958航空隊の水上偵察機からタロキナ西方に敵魚雷艇約40隻を発見したと報告を寄せられた。最短ルートを封鎖された形となり、輸送部隊はブーゲンビルに沿って回。23時頃、タロキナに敵駆逐艦5隻と輸送5隻が揚陸中との情報が入り、一時は輸送中止になりかけるも続行。日の艦隊が11kmにまで近づいたが、戦闘にはならなかった。翌7日午前0時15分に揚陸を開始し、21隻のカッターや艀でラルマ付近に上陸。予定では艦砲射撃による支援を行うはずだったが、付近に敵艦が潜んでいたため実行されなかった。アメリカ軍は逆上陸した日本兵を増援の味方と勘違いし、対応が後手に回ったため迎撃を受けなかった。作業は30分で了。揚陸成功を見届けた第2支援隊は午前1時16分に反転し、帰路についた。中で警隊の駆逐艦3隻と合流し、午前7時10分にラバウル入港。しかし午前10時5分に警報が発され、出現した敵爆撃機の編隊に向けて休む間もなく対戦闘を行っている。連合軍は策地のラバウルを黙らせようと連日襲を仕掛け、8日、9日、10日と毎日のように警報が発された。同時に大機が港内を飛び回り、念入りに偵察している事から大空襲の前兆と考えられた。

11月11日午前4時40分、ラバウルを出港して湾内で警漂泊。午前6時18分、偵察機が敵空母2隻がムツピナで発見したとの通報が入り、熾襲を予期した能代は湾外に退避。そして午前6時57分に警報が発され、185機の敵機が襲来。陸上台がを上げ、107機の零戦が迎撃に飛び立つ。戦端が開かれた頃、湾外の広範囲に渡ってスコールが発生しており、敵機から逃れるべく能代はその中に飛び込んだ。ところが100機以上の敵機がスコールの中に入ってきて、約1時間攻撃を受け続けた。機掃射と至近弾により小破するも、視界不良に助けられて直撃弾は出なかった。午前8時、敵機の攻撃が一段落ついたため、揮下の駆逐艦に情況を知らせるよう示。波と波は異状しと伝えてきたが、波と長波からの応答がく、対を厳にしながら湾外を捜索。長波は被弾こそしていたが健在、波は港外で沈没していた。午前8時27分、警報解除。午前11時30分頃には身を守ってくれたスコール晴れていった。敵機動部隊は午後に向けて第二波襲の準備をしていたが、ラバウルから飛来した味方攻撃隊の妨により断念した。午前10時45分、大破してラバウルに残留していた摩耶と潜水母艦長を護衛してトラックに回航するよう命じられる。16時49分、大破状態の摩耶や潜水母艦長を護衛してラバウルを出港し、トラックに向けて後退を開始。駆逐艦五月雨風雲、若波、波が随伴する。同日深夜に敵機の執拗な爆撃を受けて五月雨が損傷した。

11月12日先発していた軽巡阿賀野カビエンの北北西でスキャンプの撃を受け、航行不能に陥る。同行していた浦風初月涼月では排水量の違いから航できず、近くを航行していた能代に救援要請が飛び込んだ。波と波を引き連れて現場に急行、同日23時に洋上で立ち往生している阿賀野の姿を認めた。翌13日午前0時より航作業に着手し、航索を艦尾から阿賀野艦首に結びつける。午前1時阿賀野航を始めるが、周囲には敵潜水艦が集まり始めており、いつ撃されてもおかしくない状況だった。午後12時50分、初月が敵潜を探知して爆雷を投下。トラックから救援に来た軽巡長良が合流し、阿賀野護衛の輪に加わった。順調に進んでいるかに見えた11月14日午前7時34分、波浪により航索が切断されてしまう。代わりに長良航を引き継ぎ、午前11時55分に航再開。能代は前路を担った。そして11月15日21時30分、トラックに入港。見事阿賀野を守りきって見せた。

敵勢力圏内への輸送任務に臨む

トラックに帰投したのも束の間、11月19日よりスプルーアン大将率いる第5艦隊がギルバートマキンとタラワ襲し、11月21日海兵隊が上陸した。11月23日大本営は邀撃部隊作第23号を発し、救援部隊を編制。能代率いる第2戦隊は警隊へ編入され、揮下に第61駆逐隊と第17駆逐隊を加えた。翌24日午前4時27分、隊の出港に先立ってトラックを出発。対潜掃討を行ったのち、午前7時43分に環礁内から出港してきた旗艦鳥海鈴谷熊野と合流してギルバート北方にあるクェゼリンへ向かった。しかし11月25日タラワ守備隊から別電が発せられ、マキン守備隊も音信不通となった。輸送中の増援部隊が宙に浮いてしまい、連合艦隊能代にルオット及びヤルートへの輸送を命じた。重巡部隊と別れ、駆逐艦波と波を率いてルオットに向かった。翌26日、ルオットに到着して兵員と物資を揚陸。11月27日15時20分に出港し、次はブラウンに寄港。11月30日午前7時40分に再びルオットへ戻り、不時着した第952航空隊の水上偵察機から搭乗員を救助した。

12月3日19時50分、マーシャル方面への輸送任務を遂してルオットを出港し、12月5日23時9分にトラックへ入港。12月15日、二代艦長に梶原季義大佐が着任し、新たな戦隊早川幹夫少将が就任。12月18日早川少将が艦内を巡視した。12月21日午前5時18分、サイパンに向けて航行中の照丸がトラック北方250kmの地点でスケート撃を受け、大破炎上。急報を受けた能代午前11時52分にトラックを出動、駆逐艦浜風、電、を率いて現場域に急行する。19時11分、闇の中で々と炎上する照丸を発見し、先に到着していた満潮と警行動に移る。しかし照丸は一番倉後部を切断しており、既にの息であった。到着から約1時間後の20時20分、照丸は沈没していった。救難に向かった艦は帰路につき、翌22日午前6時22分にトラックへ入港。能代1号作戦三次輸送部隊の旗艦に定され、カビエンへの輸送任務に従事する事に。12月25日戦艦大和駆逐艦谷風山雲トラックに入港。翌日大和に横付けして第51師団独立混成第1連隊兵員600名と軍需品1500トンを積載し、第4軍需部から300個が貸与された。12月28日午後から陸兵約300名が艦内で宿泊し始め、12月29日に不用品の揚陸及び出撃準備を行う。12月30日13時3分、軽巡大淀駆逐艦秋月山雲とともにトラックを出港。作戦支援として龍鳳から派遣された零戦36機が事前カビエンへ進出しており、防を担った。

1944年

1944年1月1日午前4時45分、カビエンに到着して揚陸作業開始。周辺には襲でやられたであろう商が転覆しており、まさに墓場であった。こそ恵まれていたが、港内は厳重に機封鎖されていて自由に動ける場所が少なく、合いには敵潜が遊、更に敵機動部隊による襲の予兆もあった。このため速やかに揚陸を了して襲圏内から離脱しなければならなかった。エドマゴに入ろうとした秋月の前で第13盛丸が触したため、秋月のみ進入を取りやめて合いから揚陸作業を実施。揚陸作業中にも敵の触接機や敵水上艦隊が確認されるなど緊迫の時が流れた。

午前6時30分、能代山雲秋月の揚陸作業は了。しかし大淀が作業に手間取り、2時間を要すると伝えてきた。その間、3隻は大淀の外側で対を行う。午前8時30分、警報。恐れていた敵機の襲来が始まってしまった。大淀はまだ野数門を揚陸しておらず、身動きが取れない。7分後、大淀の70度方向約50kmに敵機85機を発見。能代大淀の護衛に秋月を残し、敵機を引き離すべく山雲を率いて出港。最大戦速で脱出を図る。午前8時45分、ようやく大淀の揚陸作業が了。敵機は眼前にまで迫り、零戦隊が迎撃に上がっている。午前8時52分、対戦闘開始。敵機は二群に分かれ、能代大淀を襲撃。先頭を走っていた能代に3機編制の敵機が撃を仕掛けてくるも回避に成功。直後、上から急降下爆撃機が突っ込んできてと高で迎撃しながら回避運動を取る。巧みな回避で攻撃を避け続けていたが、ついに艦首へ50kg爆弾2発が直撃。幸い遅発信管付き爆弾だったため炸裂せず、破孔が生じただけで済んだ。被弾位置が弾薬庫に近い事もあり、もし炸裂していれば沈は免れなかったと当時の乗組員が言している。敵機の猛攻は続き、右舷艦首付近に至近弾を受けて火庫に浸するとともに乗員10名が死亡、重軽傷者12名を出す。度重なる至近弾で前部中甲下が浸して一番が使用不能になり、二番測距儀も故障。
中破の損傷を負う。幸い機関の異状はかった。午前9時30分、敵機は北西方向に引き揚げていった。この戦闘能代63発と高1612発を発射。しかしカビエン基地から北東に敵編隊の二群が向かっているとの通報が入り、依然として襲の危険性があった。一時はラバウル逃げ込む事も視野に入れていたが、午前10時15分に敵空母反転離脱した事で危機は去った。一路トラックに向かっていた最中、伴走者の山雲に異変が生じる。至近弾と機掃射により穿たれた55ヶ所の破孔からが浸入し、重101トンが使用不能に。までに尽きてしまう計算だった。

1月2日午前9時18分、敵の爆撃で航行不能に陥った清澄丸の救援に大淀秋月名される一方、燃料の問題から能代山雲にはトラック回航が命じられた。応急修理で何とか持たせ、同日19時トラックへ入港。明石から派遣された救難作業隊が待機しており、排ポンプや各種所要器材を持って乗艦。梶原艦長の揮を受けながら応急処置を施す。翌3日、古賀大将近藤中将能代を視察。長らく後方拠点として南東方面の戦況を支えてきたトラック基地にも敵のが見え隠れするようになり、安全な場所ではなくなりつつあった。1月6日工作明石が横付けして損傷箇所の修理を行う。その間に阿賀野能代は各2機ずつ艦載機派遣し、近跳梁跋扈する潜水艦の掃討を実施。1月16日、応急修理了につき明石が横付けを離した。

1月18日午前4時50分、内地に帰投する瑞鳳雲鷹を護衛して北を通過。第一警航行序列を組み、18ノットで航行する。しかしこ行動暗号解析で敵に読まれ、サイパン東方潜ハダック、タリビー、ハリバットが待ちせた。翌19日午前10時42分、距離2000m以下の位置からハダックが6本の魚雷を発射。うち2本が雲鷹の前部に直撃し、大破航行不能に陥る。沈没の恐れがい事が不幸中の幸いだった。13時55分から駆逐艦初霜とともに雲鷹の護送を開始、波が対潜警を担った。応急修理のため急遽サイパンへ寄港する事になり、16時21分に間航行に備えて隊列を変更。能代雲鷹の後ろに回り、電探を使って周囲の警を行う。初霜雲鷹の前路を担当した。1月20日午前11時30分、サイパンの外港に到着。体が巨大な雲鷹は港内に入れなかったため能代護衛艦艇は雲鷹を囲むように警泊し、雲鷹が流されないよう能代に繋がれた。同日中トラックから派遣された駆逐艦海風が到着、便乗していた工作明石の工員が排ポンプを持って雲鷹に移乗する。

1月21日午前11時30分、警任務を海風に託し、能代波を伴ってサイパンを出発。能代の後方800mを波が続航する。敵潜が遊する危険な域を24ノットで突破し、1月24日13時横須賀へ帰投した。最後に本土を出港してから実に約5ヶが経過していた。2月1日から横須賀第5渠に入渠し、本格的な修理を受けると同時に25mm三連装機6基と単装機10基を追加して対兵装を強化。2月14日、第2戦隊の将旗を一時的に高雄へ移譲。3月19日に工事を終えて出渠した。

敵潜が跋扈する南方の地をゆく

内地の備蓄燃料が少ない事から、燃料が豊富な南方地帯への進出が決まり、3月28日横須賀を出港。二戦の旗艦に復帰するとともに、第5戦隊羽黒妙高と合流して東南アジアに向かった。4月3日ダバオへ寄港、第2艦隊のと合流する。4月5日、第4戦隊(高雄愛宕摩耶鳥海)や第5戦隊駆逐艦春雨と出港してリンガ泊地へ向かうが、ダバオ湾から出港する所をスキャンプに発見されており、周囲のデースとダーターが集まってきた。翌6日未明、デースのレーダーに捕捉され、デースとダーターが艦隊を追跡。6本の跡が伸びてくるも、全艦回避に成功した。敵襲を切り抜け、4月9日リンガ泊地に到着。

5月11日、「あ」号作戦に伴ってリンガを出港。戦艦大和長門金剛榛名などの有艦艇と航行し、シンガポールから飛来した第936航空隊の水上機が対潜を行った。ボルネオを北回りで回して5月14日タウイタウイ泊地へ到着。バリクパパンには大本営理を言って強引に引き抜いた1万トン級タンカー3隻が停泊しており、今後の作戦には欠かせない存在だった。能代は入泊直前の駆逐艦朝霜に護衛任務を与え、バリクパパンへ行くよう示した。5月16日、輸送任務の的で駆逐艦沖波とともにタウタウイを出発し、翌日ダバオに入港。5月18日ダバオ湾を出港。23ノットの速ジグザグ運動をしていたが、ガーナードに発見され、「戦艦もしくは大巡洋艦」と報告した後、6本の魚雷を撃ってきた。ガーナードは2回の爆発音を聴音するも実際には命中しておらず、護衛の駆逐艦から32発の爆雷投下を受けて退散した。5月19日タウタウイに帰投。訓練に従事する。

タウタウイは熱帯であり、太陽が昇れば灼熱の暑さとなった。このため艦隊の訓練は原住民生活リズムを参考にし、朝食後の掃除を後回しにして日が昇る前に訓練を実施。食後は長めに休憩を取って14時半から訓練や作業を再開する事で最も暑い時間帯を回避した。6月8日、給糧北上丸から食糧の補給を受ける。

5月27日連合軍がビアクへの上陸を開始。ビアクを失えば第1機動艦隊の西カロリン方面での行動困難になり、「あ」号作戦の成否に関わった。大本営は渾作戦を発動し、ビアクへの増援輸送を企図していたが、既に第一次、第二次ともに失敗。6月9日、来攻する敵艦隊を粉砕するため戦艦大和武蔵とともに能代の参加が決定し、第三次作戦に従事する事に。翌10日16時タウタウイを出港。能代を先頭に沖波山雲波、島風磯風谷風早霜戦艦大和武蔵の順に出発し、在泊艦艇が帽振れで見送ってくれた。しかしタウタウイを監視していた敵潜ハーダーに速発見され、位置情報通報されている。翌11日午前4時30分、敵潜の跳梁がしいセレベス北上し、20時に針路175度へ変針して南下。中で何度か潜望発見や警報が発せられたが撃を受ける事はく、6月12日午前8時にバチャンサムバキ湾に到着。現地で第5戦隊、第16戦隊、第10駆逐隊と合流して急速に作戦準備が進められた。ニューギニアに敵機動部隊が出現した時を想定し、大和武蔵妙高羽黒と攻撃部隊を編制。敵艦隊が出現した時は輸送部隊を守って突撃する役割が与えられた。

6月13日23時、攻撃部隊はバチャンを出港。増援部隊を乗せた駆逐艦5隻を間接援護するが、同日中アメリカ軍の大部隊マリアナ諸へ襲来。渾作戦どころではなくなり、「あ」号作戦決戦用意が発。原隊への復帰を命じられ、タウイタウイ泊地を発った小沢三郎中将率いる機動部隊と合流すべく北上する。6月15日午前4時30分、サイパン西方アメリカ軍団が出現して上陸を受ける中、ミンダナ東方シーホースに発見されて位置を通報された。同日18時、第1補給部隊と合流。翌16日より補給を受けながら小沢艦隊との合流地点をし、15時30分に艦隊との合流を果たした。6月17日15時30分に補給作業が了、小沢艦隊の一員となってサイパン方面に進撃する。6月18日21時小沢艦隊は3つのグループに分かれ、第3航空戦隊戦艦群で構成された前衛部隊に所属。この前衛部隊は言わば囮であり、本隊が受ける圧を少しでも減らす事を期待されていた。

6月19日マリアナ沖海戦に参加。未明より各空母から索敵機が飛び立ち、敵艦隊の位置を特定しようと躍起になっていた。そして敵よりも先に敵艦隊の捕捉に成功、攻撃隊を発進させた。午前8時20分、大和の見り員が西方より接近する敵味方不明機を発見。重巡高雄照明弾を発射して出方をったが、無視して接近を続けた。前衛部隊は敵機と断定、能代は僚艦とともに対空砲火を上げた。しかしその正体は本隊から出撃してきた第601航空隊で、味方だった。味方機だと見抜いていた大和武蔵から射撃中止を要請されるも、対空砲火は止まらなかった。最終的に味方機がバンクした事で同士討ちは終わったが、すっかり編隊が乱れてしまい、彗星艦爆数機が母艦に引き返した。攻撃に向かった航空機の大半は帰ってこず、またか後方の本隊は敵潜の襲撃を受けて旗艦大鳳翔鶴を喪失。小沢中将は一時的に羽黒へ旗艦を移し、補給と再編制を行うべく西方への退却を示。17時10分に艦隊は北上22時45分に変針して西方に退避した。

翌20日小沢艦隊は一ヶ所に集結。午前4時30分、能代艦載機を発進させ、僚艦の偵とともに東方域を索敵。午前7時までには5隻が合流し、午前11時29分より給油を開始。正午頃、旗艦を瑞鶴に移す。午後に入ると東方約240里に敵味方不明機が多数出現するようになり、愛宕が通信傍受した結果、敵飛行艇が触接を行っている算大と判断された。小沢中将は更なる西方への退避を命じ、14時45分に移動を開始。15時5分には小沢艦隊の全容を正確に報告した通信が傍受され、その15分後に敵の偵察機が触接した事で攻撃は不可避と考えられた。そして16時15分、敵艦上機約20機が東方約200里を西進中との報告が入ったが、未だ給油作業が終わっておらず、防備な給油が同行している状態だった。

17時30分、200機以上の敵機が出現。いよいよ本格的な襲が始まった。敵機は空母を最優先標に定め、囮の能代戦艦群を無視して突撃。敵の航過を対空砲火で阻んだ。第2戦隊は約40機に攻撃されたが、能代傷で乗り切った。しかし飛鷹が撃沈され、逃げ後れた玄洋丸と清洋丸も犠牲となった。マリアナ沖海戦で虎の子の大空母3隻と400機以上の航空機、700名の搭乗員を失い、やっとの思いで再建した機動部隊は壊滅した。19時45分、連合艦隊部から「あ」号作戦の中止が命じられ、沖縄方面に向けて退却。

6月21日午前8時頃まで敵触接機に追い回されたが何とか振り切り、6月22日13時中城湾へ寄港。ここで燃料補給と負傷者の移乗を行い、翌23日午前11時出港。荒れている玄界を突破し、6月24日18時柱島泊地へと帰投した。で入渠整備を受けた際、マリアナ沖海戦の戦訓で更に対兵装を強化。25mm三連装機8基と25mm単装機8基を増備しつつ、新たに13号電探と22号水上電探を搭載。相変わらず内地に燃料が残っていないため、艦艇ともども東南アジアへの進出が決定。

7月8日シンガポール方面に輸送する陸兵を収容してを出港。7月10日沖縄方面に向かうグループと別れ、7月16日リンガ方面へ向かう戦艦部隊と分離。第4及び第7戦隊とともに7月19日シンガポールへ到着。運んできた物資と陸兵を揚陸したのち翌日出発、リンガに回航されて月月火水木金金の猛訓練に明け暮れた。8月1日、第2艦隊は第1遊撃部隊名。9月8日北上丸から食糧を受け取る。10月3日15時20分、対潜訓練のためリンガを出港し、翌4日午前11時30分に帰投。10月8日ガランで出動訓練に従事。続いてシンガポールに回航され、セレター軍港の浮きドックに入渠して修理と補給を実施。25mm三連装機2基と同単装機10基を追加装備した。10月12日から翌13日にかけて行われた台湾沖航空戦で大戦果を挙げたため、敗走する残余の敵艦を撃滅すべく能代の工事が切り詰められた。

絶望の世界のレイテ沖海戦

10月17日アメリカ軍の大部隊レイテ湾のスルアンに上陸。同海軍所から「敵艦発見」の緊急電が発せられ、午前8時に連絡が途絶した。レガスピーから飛び立った偵察機から戦艦1隻、巡洋艦2隻、駆逐艦8隻が遊していると寄せられ、午前8時10分に連合艦隊長官豊田副武大将が捷一号作戦の発動を命じた。午前9時18分、日吉連合艦隊部より栗田健男中将率いる第1遊撃部隊は「速やかにブルネイに進出すべし」との命電を受け、能代シンガポールでの修理を中止して緊急出港。同日夕刻、リンガに到着して第1遊撃部隊と合流した。10月18日午前1時駆逐艦波、長波朝霜波、波、沖波時雨秋霜早霜清霜島風を率いてリンガを出港。第2戦隊が先を切った。二戦、第4戦隊、第5戦隊、第1戦隊、第10戦隊、第7戦隊、第3戦隊、第2戦隊の順に縦列を組み、リネーを通過するまで線封鎖が敷かれた。午前6時、リネーを通過して南シナに進出。旗艦愛宕から「対潜警を厳にせよ、第一警航行序列となせ」と信号が送られてきた。未だは暗かったが、明けが近づくにつれ明るくなってきた。縦列から警航行序列に隊形を組み替え、能代率いる第2戦隊は第4戦隊の左側に占位する。敵潜情報によれば、今進んでいる域は数日前に敵潜を探知した危険な場所であり、速21ノットに上げて一斉回頭之字運動X法を行って警する。午前8時30分、ぎらぎらとした太陽に昇り、暑い陽が降り注ぐ。

18ノットで南シナグルートナッツ北方回し、10月20日午後12時15分に前進拠点ブルネイに到着。現地で燃料補給を行う予定だったが、タラカンを出発した団が敵潜の襲撃を受け、被害こそかったものの到着が遅れていた。栗田中将は第2戦隊駆逐艦沖波清霜に命じて団護衛に向かわせた。少しでも時間の遅れを埋め合わせるべく燃料搭載量に余裕がある大艦から小艦へ前もって給油を行う事とし、能代と第2戦隊駆逐艦戦艦大和に横付けして送を受けた。給油了後、能代は湾口に移動して可燃物を陸揚げする。作業が一通了した夕刻、総員集合の号が下され、梶原艦長が訓示を行う。その後、各分隊ごとに異例の宴が開かれた。こたびの出撃は味方機の上支援が一切受けられず、もが最後の出撃になると覚悟していた。ブルネイ湾で作戦準備を行っている間にも刻々と戦況が伝えられ、日本側の可動航空機が徐々に減っていくのが分かった。翌21日午前8時沖波清霜に護衛された光栄丸が到着。給油作業が始められた。

10月22日午前5時、全艦艇39隻の燃料補給が了。午前8時、旗艦愛宕に率いられてブルネイを出港。後に出撃する西村艦隊の面々が見送ってくれた。戦艦7隻、重巡11隻、軽巡2隻、駆逐艦19隻からなる第1遊撃部隊は五列二群の対潜警航行序列を組み、第2戦隊は前面に配置。戦隊旗艦の能代栗田艦隊の最前に立って先頭艦となった。この対潜警航行序列はリンガでの苦心の研究により生み出された新たな隊形だったが、駆逐艦の不足から全な対潜警わなかった。午前10時3分にアベノロック北方を通過し、針路15度に変針してパラワンの入り口に向かった。14時30分、40度方向に潜望が確認され、対潜戦闘と之字運動を行ったが、レンズを付けただけの擬潜望(流木とも)と判明した。16時15分、針路40度に変針。21時矢矧魚雷音を探知して赤色信号を放ったため、緊急左斉動を行ったが、実のところ矢矧探知だった。

初動で重巡3隻を失う

10月23日午前0時頃、最初の難所であるパラワン道南口に差し掛かった。新南諸とパラワンに挟まれた狭いレイテ湾への最短ルートであると同時に敵潜水艦が潜む難所だった。午前2時50分、旗艦愛宕が特別緊急信を送信中の敵潜電波を極めて明瞭に探知し、全艦艇に宛てて通報。より一層の対潜警に励む。午前5時30分、速18ノットで之字運動を開始。各艦とも総員配置につき、訓練に臨んでいた。午前6時33分、6本の跡が栗田艦隊掛けて伸びてきた。その跡は能代の右斜め後方2kmを航行している旗艦愛宕に向かっていき、回避する間もなく愛宕の右舷に4本が命中。高雄に2本が命中して大破落。艦隊は大混乱に陥る。直ちに対潜戦闘を開始し、取りをしつつ速20ノットに増速。午前6時36分、155度方向4000m先に潜望を発見するが敵潜の跳梁を抑えられず、午前6時53分に愛宕が大傾斜して沈没した。午前6時57分、左舷80度方向より4本の魚雷が伸びてきて、今度は摩耶が犠牲となる。防甲斐なく午前7時5分に沈没していった。戦う前から重巡2隻を失う大打撃をこうむった。午前7時14分に速を24ノットに上げ、敵の魔手から脱出した。

午前8時27分、危険域を突破したとしてY二三航行序列に変更。能代左前方の先頭に占位する。いつ何処から撃されるか分からない恐怖の中、見り員は極度に神経らせて上を凝視する。13時3分、350度方向に潜水艦らしき音を探知し、早霜爆雷を投下。13時9分に潜望が確認され、全艦緊急右45度一斉回頭を行う。4分後に今度は230度方向に潜望が確認され、左45度一斉回頭。13時34分、能代から偵が発進。対潜を行ったのち、サンセホ基地に向かった。15時40分、栗田艦隊はミンドロ西方で漂泊。撃沈された愛宕摩耶生存者を大和武蔵に移乗させ、16時25分に作業了。戦艦大和が旗艦となった。18時42分に日を迎える。潜水艦の時間だった。聴音器が上手く機しない時間帯であり、見り員だけでなく総員が漆黒を監視する。22時15分と22時50分の2回に渡り、能代は敵潜水艦の交信らしきものを極めて明瞭に探知。栗田艦隊が敵潜に監視されている事を如実に物語っていた。日付が変わる頃、ミンドロ峡の北西の入り口付近に到達。

10月24日午前2時、艦隊の前方にミンドロ山々が姿を現した。日の出を迎えた時、第1遊撃部隊の敵に航空機が加わった。ここから先は敵空母襲圏内である。くも午前7時30分頃には敵触接機の気配が感じられた。午前7時59分、襲に備えて輪形整形。前方を島風に、後方を戦艦大和に挟まれる形となった。その後、タブラス峡にて3機のPB4Y-2が出現。午前8時28分には敵艦上機数機も出現し、襲は避けられない事態となった。午前8時47分、能代から艦載機が発進。フィリピン東方域の索敵を実施した。午前9時30分頃からB-24が触接してくるようになった。午前9時55分、能代は90度方向に潜望を発見し、艦隊は左45度の一斉回頭を行った。午前10時4分頃、能代の電探が90度方向110km先に敵攻撃隊らしき編隊を探知。続いて大和130度方向85km先に敵機を探知し、同方向より飛来する艦上機6~9機を羽黒が発見した。敵攻撃隊の第一波で、戦闘機21機、急降下爆撃機12機、撃機12機の計45機で構成されていた。敵機は編隊を崩す事距離2万mまで接近してくると三群に分かれ、太陽を背に襲い掛かってきた。シブヤン戦の始まりである。

巨艦が沈んだシブヤン海海戦

大和長門の長距離撃を突破した敵機は第1遊撃部隊に突撃し、能代には爆撃機撃機30機が襲い掛かる。速を24ノットに上げて・高・機が火を噴く。戦艦大和武蔵長門重巡妙高が集中攻撃を受け、妙高が損傷により落した。戦闘自体は約18分で終わり、午前10時40分頃に敵機は引き揚げていった。しかしこれは地獄序曲に過ぎなかった。次の襲まで約1時間半ほど間隔があったが、上には常に触接機が飛び回って報告を打ち続けるなど気の休まる暇がかった。

午前11時33分、能代170度方向より迫る跡を発見して通報。艦隊は緊急左45度一斉回頭を行う。アメリカ軍側の資料によると近くに潜水艦はいなかったという。午後12時6分、第二波攻撃の28機が襲来。この襲は約8分で終わり、大和武蔵に攻撃が集中した能代被害皆無だった。13時19分、艦爆約50機からなる第三波が出現。多くの攻撃を吸収した武蔵艦首が陥し、艦隊から落し始める。14時18分に第四波の18機が現れ、更に別方向から13機が突撃してきた。襲は14時40分頃に終了したが、僅か15分後に第五波攻撃が行われ、左後方から敵艦爆30機が接近。敵機の数は徐々に増え始め、本日最大規模の襲が始まった。利根長門清霜が続々と損傷し、武蔵トドメと言わんばかりの猛攻を浴びて大破状態に追いやられた。能代零式120発、8cm210発、機1800発を発射し、撃墜確実3機、不確実2機、協同撃墜7機の戦果を挙げた。損は乗員2名が死亡、4名が負傷、舷外電路1本切断。

5回に及ぶ襲で延べ250機に襲われ、あたかも自艦隊のみが集中攻撃を受けているかのような猛攻に切り札的存在の戦艦武蔵は死の淵を彷徨っている。加えて日18時12分まではまだ時間が残っており、このまま襲を受け続ければ更なる被害を招きかねない。第五波攻撃が終わった15時30分、栗田中将は左に一斉回頭して針路290度にするよう下。輪形のまま290度回頭を行い、18ノットで西方に退避。この行動は効果的だったようで、ハルゼー艦隊は栗田艦隊に壊滅的打撃を与えたと判断。北東方向に現れた囮の小沢艦隊へと向かっていった。栗田艦隊は回路のマスバテ峡を通ってレイテ湾をそうとしたが、このルートでは到着予定時刻に5時間の遅れが生じ、レイテ湾口スルアンの手前60里で明けを迎えてしまって熾襲を受ける羽になる。仕方なく当初の予定通りサンベルナルジノ峡を突破する事にし、17時15分に120反転20時30分にサンベルナルジノ峡へ差し掛かった。この時点で栗田艦隊の戦戦艦4隻、重巡6隻、軽巡2隻、駆逐艦11隻にまで減少していた。実に16隻が脱落している事になる。

乱戦のサマール沖海戦

最も危険なサンベルナルジノ峡に敵艦の姿はく、翌25日午前1時55分に峡を通過して太平洋に進出した。サマーの東に沿って南下し、午前4時に針路150度に変更。午前11時レイテ湾突入をす。み始めた午前6時25分、旗艦大和の電探が前方50kmに敵機を捕捉。午前6時39分、能代鳥海が同時に左90度方向に飛行機を探知する。直後、第7戦隊旗艦の熊野110度方向に米軍機2機を発見して通報。対戦闘に備えて輪形を組もうとしたが、その矢先の午前6時45分、南東方向35kmの線上にマスト数本が発見された。当初は小沢艦隊の戦艦伊勢日向かと思われたが、距離が縮まるにつれ艦載機を発進させている敵空母だと判明。栗田中将は「戦艦戦隊巡洋艦戦隊進撃せよ」と命を下した。敵は快速空母だろうから隊形を整える時間を惜しんで、各艦ばらばらに敵艦隊に突入した。敵の正体は第4任務群第3集団(タフィ3)で、護衛空母6隻と駆逐艦7隻からなる支援艦隊であった。午前6時58分、戦艦大和が東南東31km先のタフィ3に先制撃を仕掛けた事でサマー戦が生起する。

思わぬ襲撃を受けたタフィ3の護衛空母群は退避を開始し、駆逐艦煙幕って援護する。敵護衛空母逃げながらも95機の艦載機を放ち、更に近隣のタフィ1とタフィ2から艦載機を呼び寄せ、100機以上の敵機が上を乱舞。散発的ながら執拗な襲を仕掛けてきた。第2戦隊は敵空母と同等の速こそ持っているが魚雷であり、よほど接近しなければ価を発揮できないと考えた栗田中将午前7時戦艦戦隊の後方に続航するよう命じた。このため敵艦と交戦する機会に恵まれなかった。午前7時14分、70度方向約18.5kmに敵駆逐艦が発するのを認め、6分後に針路90度に変針して敵艦のもとに向かった。午前7時30分、距離1万7000mで敵駆逐艦と交戦開始。3分後、右舷艦首方向に向かってきたグラマン1機を対空砲火で撃墜。その直後、スコールに飲み込まれて敵駆逐艦を見失ってしまった。午前7時43分、戦艦戦隊の後方に戻った。150度方向7.3kmにいる敵巡洋艦から撃を受けた能代は一旦左へ回避し、射撃を加えて撃沈した(該当艦し)。間入れずに栗田中将の「全軍突撃せよ」の電文が届き、戦艦部隊の後方を離れて南西方向に向かった。艦首方向6km先に敵駆逐艦3隻を発見し、7300mから射撃開始。敵艦も負けじと撃ち返してきたが、散発的で全く当たらず、逆に能代弾を命中させた。午前8時30分、180度方向に変針した時に炎上中の敵空母を視認するも、距離が遠すぎたため撃は控えた。午前8時33分、110度方向で同航する敵駆逐艦に対してを発射。5分後、右舷側に敵10cm弾が直撃し、乗員1名死亡、3名が負傷する。幸い被害は軽微だったが、最大速が32ノットに低下した。被弾直後、20度転して敵との距離を延伸しようとしたが、午前8時44分に敵駆逐艦が転覆沈没。標的を艦首方向の敵空母2隻に変更して速を28ノットに上げた。午前9時、敵巡洋艦を発見して射撃開始。6分後、敵艦は大火災を起こし、午前9時13分に爆発。間を置かずに沈没した。タフィ3は護衛空母ガンビア・ベイ、駆逐艦サミュエルロバーツ、ホーエルジョントンを喪失して域より離脱。厳しい燃料事情から追撃は断念された。

執拗極める敵の空襲

午前9時16分、旗艦大和より北上と集結命を受ける。各個にタフィ3へ突撃したため、栗田艦隊の艦艇は広範囲に散在している状態であり、どの艦が健在であるいは沈没しているのか把握し切れていなかった。午前9時35分、大和と合流。戦艦榛名南方より敵機の飛来を報告し、午前10時14分に輪形へと整形する。午前10時20分、撃機と爆撃機約30機が出現して対戦闘。第一波が引き揚げていくのと入れ替わりに第二波が出現。午前10時33分、350度方向より接近する敵撃機20機が編隊を解いて襲い掛かってくる。今回の攻撃では大和長門に加え、能代榛名鈴谷標にされた。敵機から投下された魚雷2本が能代に伸びてきたため、面で回避。その後、炎上中の巡洋艦を発見。早川少将はボルモチと判断し、「270度ボルモチ巡洋艦一を認む、空母を認めず」と栗田中将電話報告を行った。金剛からも同様の報告が寄せられ、榛名が迎撃に向かう事になったのだが、その正体は鈴谷であった。誤認によって危うく味方艦を攻撃するところだった。

敵機を退けた第1遊撃部隊は、再びレイテ湾をして進撃。しかし先のサマー戦で鳥海筑摩が落熊野艦首大破の損が生じていた。熊野は自航行可だったのでコロン湾に向かわせ、鳥海には波を、筑摩には野分を警備艦として派遣し、域に置いていく事となった。午前11時1分、重巡鈴谷が爆沈する様子を撃。至近弾によって生じた火災魚雷誘爆してしまったようだ。栗田艦隊の数は23隻から16隻に減少。出撃時の半分以下になってしまった。9分後、210度方向41km先に機を探知するも、正体は味方の一式陸攻であった。午後12時17分、タフィ2の敵艦上機約50機が間より出現。で迎撃し始めたその直後、艦首方向に急降下爆撃してくる敵機を確認し、機と高が火を噴く。至近弾数十発を受け、後部機械室に5mの破孔が生じ、左舷の体の一部が屈折してが流入。摩擦熱により左舷外軸が使用不能に陥った。

午後12時45分、栗田中将レイテ湾突入を諦めて反転を下。突入が遅れた事で敵輸送団がいないと思われた事、付近に敵機動部隊が潜んでいる可性を捨て切れなかった事が理由とされる。13時10分、艦隊は反転して帰路についた。その1分後、北東より接近する100機の機を探知し、続けざまに襲が行われた。敵機の襲来は執拗を極め、能代は傷ついた体で応戦し続けた。

15時49分、長門210度30km先に敵機を探知。15時55分より対戦闘を行う。355度方向から急降下して突っ込んできた2機を対空砲火で迎え撃ち、1機を撃墜して追い払った。16時16分に襲が終わると同時に、九九式艦爆零戦からなる60機以上の味方機が北方を飛んでいるのが発見された。第6基地航空隊の総攻撃部隊で、サンベルナルジノ東方の敵艦隊を攻撃するためにクラーク飛行場から飛び立ったのだった。襲を受けた直後だったため一時は敵の編隊かと思われたが、味方だと分かると艦隊に生気がった。今次作戦中、初めてにする味方の大部隊に士気が上がった。味方機を見送った直後の16時40分、艦爆と艦攻からなる敵機40機が出現。16時43分、180度方向より敵機4機が突撃、至近弾1発を受けるも反撃で1機に煙を引かせた。14分後、今度は艦首から6機が現れ、高と機で2機に命中弾を与えて煙を吐かせる。今回の襲で駆逐艦早霜が被弾落した他、2機の九九式艦爆が味方艦を誤爆する様子が撃された。報告を受けた栗田中将基地航空隊誤爆を受けた旨の電報を送った。17時6分、襲は終わった。17時44分、左舷上を西進する九九式艦爆32機を発見。大和が発信号で攻撃したかを尋ねると、「敵を発見せず」と返ってきた。

18時43分、日に伴って灯火管制永遠に続くかに思えた敵機の襲撃は終わり、この日だけで栗田艦隊は延べ487機から攻撃を受けていた。21時35分、サンベルナルジノ峡に到達し、敵艦との遭遇に備えて総員戦闘配置につく。間もなく190度方向に潜水艦音を探知、爆雷2個を投下する。

最期の時

10月26日午前未明、パナイブラス峡北口に到達。日の出に伴って午前6時57分に灯火管制を解いた。午前8時35分、スールーにて264機の敵機が出現して対戦闘能代は輪形の先頭にいたため、西方からの攻撃を最も受けやすい状況にあった。午前8時46分、艦首方向から敵機4機が急降下し、高弾薬供給所に直撃弾1発を喰らって小規模火災発生が発生するも速な対処により鎮火に成功。しかし間入れずに左舷から6機の撃機が迫り、放たれた6本の魚雷を全て回避。午前8時52分、後続の撃機から放たれた3本の魚雷が左舷艦尾方向から伸びてきて、2本までは回避したが、最後の1本をかわし切れず左舷中部に直撃して大破。この一撃により炉内レンガが崩壊してしまい、生じた破孔からが流入して第1及び第3室がたちまち満、他の室も浸し始めた。午前9時10分に襲が一旦止まり、その隙を突いて乗組員は応急修理と復元に奔走。左へ16度傾斜したため、右舷前部機械室に注しつつ第2内火艇や左舷錨や錨鎖といった重量物を投棄。8度まで傾斜を回復させる。航行不能となった能代は漂流し、本隊から落しつつあった。栗田中将は護衛に駆逐艦波を残し、ポートプリンセサへの航を命じた。午前10時30分に被航準備を了、あとは波に航してもらうだけだった。

午前10時31分、敵の第二波が襲来。本隊から落して北方で孤立している能代に敵機20機以上が群がり、回避運動が一切取れない能代を痛めつける。至近弾多数と撃を受けるが、魚雷は外れて左舷側を通過した。午前10時39分に2番右舷側に直撃弾2発と魚雷1本を喰らい、前部弾薬庫へ注誘爆の危険を排除したが、この注により艦から前の全区画がで満たされ、その艦首沈没してしまう。艦としては瀕死の状態になる能代だったが、最期のを振り絞って6機の敵機を撃墜し、敵の撃退に成功した。午前10時46分、次第に前甲が沈下。上甲が波で洗われるようになる。傾斜は深まり続け、午前10時51分には左舷上甲面が同じ高さになる。もはやこれまでと判断した梶原艦長は総員上甲を下。艦後部に乗組員が整列する中、午前11時5分に軍艦旗と将旗を降下。乗組員一同がを流しながら君が代を斉唱する。嗚咽混じりに歌われる国歌は、死にゆく能代に手向けられた鎮魂歌のように聞こえた。それが終わると総員退艦が命じられ、に飛び込んで急いで艦から離れる。やがて能代は逆立ち状態となり、4本のスクリューに掲げた。南海太陽スクリューに反射してく様子は、能代が流したのようにも見える。乗組員たちに看取られながら、午前11時13分に中へと沈んでいった。

待機していた駆逐艦波が乗員の救助を開始し、また早霜の護衛から本隊に合流する途中だった秋霜が偶然通りがかり、救助を手伝ってくれた。ところが上に敵機数機が出現し、急降下爆撃を仕掛けてきたため2隻は作業を中断。浮き輪代わりになりそうな弾薬を投下して退避した。取り残された面の乗組員には容赦なく機掃射が浴びせられ、は鮮血に染まった。敵機が引き揚げていくと波と秋霜が戻ってきて、13時過ぎまで救助を行った。乗組員82名が死亡し、梶原艦長以下約300名が波に、328名が秋霜に収容。波が第2戦隊の臨時旗艦を務めた。

1944年12月20日、除籍。総合戦果は敵機12機撃墜、8機協同撃墜。

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