ハシルショウグンとは、
ハシルショウグンとは、1988年生まれの日本の競走馬である。芦毛の牡馬。
その一見気の抜けたように見える馬名や中央のレースに出走した時の成績から中央競馬のファンからは勘違いされがちではあるものの、地元南関東公営競馬で数々の大レースを勝利した90年代初頭の地方競馬を代表する名馬である。
主な勝ち鞍
1991年:東京王冠賞
1992年:大井記念
1993年:川崎記念、帝王賞、大井記念
※当記事では活躍した当時に合わせて旧馬齢表記(現在の表記+1歳)を使用しています。
概要
父メンデスはフランスG1ムーラン・ド・ロンシャン賞、勝利した翌年にG1昇格となったジャンプラ賞など重賞4勝。フランスで2年間種牡馬生活を送った後日本に輸出された。フランス時代の産駒からはリナミクスがG1プール・デッセ・デ・プーランを勝利し種牡馬としてもフランスのリーディングサイアーに輝くなど活躍、日本ではGI馬こそ出なかったものの地方競馬を中心に実績馬を送り出した。
またメンデスは遺伝的な理由で産駒が全て芦毛になることで有名で、遺伝学の用語「メンデルの法則」になぞらえて「メンデスの法則」と呼ばれていた。産駒であるハシルショウグンももちろん芦毛である。
母ハイビクターは大井競馬で22戦7勝。重賞勝ちこそ無かったものの3000m時代の東京大賞典でアズマキングのクビ差2着になった実績がある。
母父ツイッグはフランスで走りG3コートノルマーンド賞など15戦7勝した後日本に輸入され種牡馬入りした。代表産駒は岩手競馬でグレートホープを破った南部杯勝馬タケデンファイター。中央では皐月賞でカツトップエースの2着に入ったロングミラー。宝塚記念でハギノカムイオーの3着に入ったホースメンワイルドがいる。
1988年4月18日に門別の森永孝志氏(現モリナガファーム)の下で誕生。3歳になったハシルショウグンは89年の金杯(西)を勝利したカツトクシンやメジロライアン産駒でカノープス特別を勝利したハシルジョウオーなどを所有した渡辺典六氏に購入され、南関東大井競馬の赤間清松厩舎に預けられた。
現役時代
1991年8月のサラ系3才新馬戦で鞍上に「大井の帝王」的場文男騎手を鞍上にデビューし1番人気に応えて8馬身差で勝利。2戦目の白菊特別ではリバティブロンコに1番人気を奪われたもののそのリバティブロンコを大差で破り連勝。この2戦のパフォーマンスは圧倒的で、かつて大井競馬の3歳戦で活躍したハイセイコーの再来として噂になり、陣営も翌年の南関東三冠に向け期待を寄せていた。しかし調教中に骨折して春競馬を全休することになってしまい、三冠の内羽田盃、東京ダービーの二冠を不出走という形で逃すことになった。
傷を癒したハシルショウグンは8月末のオミナエシ特別で復帰。当然のように1番人気に推されるとあっさり勝利して完全復活をアピール。その後は一般競走を2連勝しデビュー以来5戦全勝の成績をひっさげ南関東三冠最後の一冠東京王冠賞へ出走。東京ダービー馬アポロピンクこそ不在だったが、それでも羽田盃馬アーバントップ、東京ダービー2着ウエルテンションなどが名を連ねる中ここでも1番人気に支持されるとウエルテンションに4馬身差をつけ堂々勝利。この強さに陣営は「故障さえなかったら三冠馬だった」と口を揃え、その強さを讃えつつ春の怪我を残念がった。
その後は年末の東京大賞典に出走したがさすがに疲れが出たのか東京王冠賞で3着に破っていたボールドフェイスから離された7着に敗れ、デビューからの連勝は6で止まった。
5歳になった1992年は3月の大井金盃から始動し、前走で離されたボールドフェイスと同着、勝ったゴールセイフと2着ダイコウガルダンからも僅差の3着。次走の当時数少ない中央地方交流の帝王賞では中央から来たラシアンゴールドとナリタハヤブサの同着1着からは5馬身ほど離されたものの掲示板入りとなる5着とし、6月の大井記念を5馬身差で勝利して重賞2勝目。休養を挟んだ次走には帝王賞と同じく数少ない交流競走として札幌競馬場で行われていたブリーダーズゴールドカップに出走したが、中央馬どころかボールドフェイスなど地方馬からも離された8着に敗れた。翌月には大井競馬に所属したまま前年優勝した同厩の先輩ジョージモナークと共にオールカマーに出走して2頭揃って逃げを打ったものの、道中3番手に押し上げてきてそこから上り2位の末脚を見せたイクノディクタス以下中央勢に差し切られ6着。しかし地方勢ではハナ差5着のジョージモナークと共に最先着であり、1番人気ヌエボトウショウや2番人気カリブソングを破っている。
大井に戻ってきたハシルショウグンは90年から始まった新設重賞グランドチャンピオン2000に出走。的場騎手がこの年の南関東三冠を共に戦うナイキゴージャスに騎乗するため鈴木啓之騎手に乗り替わりとなり、そのナイキゴージャスとシノサクシードに次ぐ3着。次走は再び中央へ向かい地方代表枠としてジャパンカップに参戦したが、流石に適性外だったか14頭立て最下位に敗れた。年末は前年と同じく東京大賞典に出走し5着。しかし前走までと比べると1着からの着差は縮まっており、やはり本拠地に戻れば強さを取り戻すことが出来ていた。
6歳になった1993年は年始の東京シティ盃こそ前走の疲れかはたまた1400mの距離が合わなかったかウエルテンションに敗れたものの、2戦目の川崎記念ではかつて中央でガーネットステークスを勝利したオープン馬タケデンマンゲツとのハナ差の大接戦を制し見事勝利。前年5着に敗れた帝王賞では中央から来たカリブソングやナリタハヤブサ、同じ大井のスルガスペインにも及ばない5番人気に留まったが、逃げたスルガスペインとそれを追うダイカツジョンヌに次ぐ3番手で直線に入ると後方から来たカリブソングとグレイドショウリも含めた5頭横一線での追い比べに勝利して重賞4勝目を挙げ、続く大井記念も前年より着差こそ縮まったものの58.5kgのトップハンデを物ともせず連覇達成。破竹の重賞3連勝で大井競馬を代表する競走馬へ成り上がった。
その後ハシルショウグンは夏を休養に充て、秋初戦は前年と同じく中央競馬のオールカマーに出走することになったのだが、本番の1週間前に挫石の影響で歩様に異変が起きてしまった。担当する獣医師からは大事を取って休養した方がいいのではないかと助言されたが、陣営は今一番の充実期を迎えたハシルショウグンであれば中央の重賞にも勝利できるのではと考え、蹄を手術してダメージを受けていた個所に脱脂綿を詰めて出走した。93年のオールカマーには前年優勝馬イクノディクタスの他最強馬メジロマックイーンを天皇賞で破ったライスシャワー、91年の桜花賞馬で当年の安田記念4着シスタートウショウなどが出走。ハシルショウグンはジャパンカップの惨敗で8番人気に留まっていた。レースでは大逃げを仕掛けたツインターボとそれを少し離れた位置で追うホワイトストーンを見ながら抑えた後方集団先頭の3番手につけた。鞍上の的場騎手はツインターボとの対戦は初めてであったものの長年の経験からかツインターボが余力を残していることを見抜き直線手前からホワイトストーンを抜いて必死に前を追ったが、時すでに遅し。ツインターボの大逃げの前に5馬身差の2着に敗れた。しかしハシルショウグンは他の地方参戦馬が下位を独占する中ライスシャワーを始めとするGI馬含む中央の強豪馬達を抑えて2着に入り、春から続く強さが中央の舞台でも通用することを証明して見せた。
その後は前年と同じローテーションでグランドチャンピオン2000からジャパンカップへと挑んだものの、オールカマー出走の為に手術してまで間に合わせた影響が時が経つごとに深くなり、グランドチャンピオンこそ3着だったもののジャパンカップは16頭立て16着と2年連続での最下位。地元大井ならと年末の東京大賞典では1番人気に支持されたが10着に敗れてしまった。
翌年以降ハシルショウグンは赤間調教師が「別馬になってしまった」と述べるほど調子を落とし、レースの出走にも苦労するようになっていった。7歳時は川崎記念で4着、アフター5スター賞とグランドチャンピオンでは3着と結果だけ見れば悪くないものの3走しか出来ず、中央への遠征どころか帝王賞や東京大賞典などの南関東の大レースにも出走出来なかった。8歳になった95年は春に4走出来はしたものの勝ち馬からは大きく離された。この結果を受けて馬主の渡辺氏は「往年のような活躍はできないだろうから最後に中央競馬で走らせたい」と述べ、美浦の嶋田潤厩舎へハシルショウグンを移籍させることにした。移籍初戦はGI天皇賞(秋)となったがやはりレベルの高さには付いて行けずにブービーのホクトベガからさらに大差の最下位に敗れた。翌96年は中央での初勝利を目指して障害競走に出走したが、初出走となる5月の未勝利戦の最終直線で左前第一指関節脱臼を発症し、予後不良となってしまった。9歳没。通算成績32戦10勝。うち重賞5勝。
オールカマーの強行出場や晩年の中央競馬移籍など、経歴だけを見れば周囲の人間に振り回されたようにも思えるが、ハシルショウグンの陣営は大井だけではなく中央競馬の重賞というタイトルを手に入れるチャンスを逃したくないと考えての事であるし、馬主の渡辺氏も衰えたハシルショウグンにもう一花咲かせるべく中央への移籍など現役を続行する道を最後まで模索するなど決して思いやりのないオーナーというわけではなかった。ただめぐりあわせが悪かったという他ない最後にはなってしまったが、地方と中央を股に掛け活躍した90年代初頭の名馬の1頭として、その名は今も残っている。
エピソード
- 現役中数々の大競走を制して南関東有数の名馬となったハシルショウグンだが、前述のとおり大敗も経験しており、その際は名前をもじってアルクショウグンと揶揄される羽目になった。
- 2018年生まれのハシルショウグンは元々馬主が本馬のファンだったことから名づけられた。現在も園田競馬に所属して現役生活を送っている。
- 競走馬を擬人化したゲーム「ウマ娘 プリティーダービー」において、地方からジャパンカップに挑んだ過去のウマ娘の1人として「走りまくった将軍さん」というほとんどそのままハシルショウグンと取れる説明のウマ娘の話が登場する。
血統表
*メンデス Mendez 1981 芦毛 |
*ベリファ 1976 芦毛 |
Lyphard | Northern Dancer |
Goofed | |||
Belga | Le Fabuleux | ||
Belle de Retz | |||
Miss Carina 1975 芦毛 |
Caro | *フォルティノ | |
Chambord | |||
Miss Pia | Olympia | ||
Ultimate Weapon | |||
ハイビクター 1978 鹿毛 FNo.2-n |
*ツイッグ 1971 黒鹿毛 |
Hul a Hul | Native Dancer |
Week-End | |||
Top Twig | High Perch | ||
Kimpton Wood | |||
マンノージョウ 1967 黒鹿毛 |
*リンボー | War Admiral | |
Boojie | |||
マピーク | シマタカ | ||
*アバロンピーク | |||
競走馬の4代血統表 |
関連動画
関連コミュニティ
関連項目
- 競馬
- 競走馬の一覧
- 1991年クラシック世代
- ダイコウガルダン
- イクノディクタス
- レガシーワールド
- サクラチトセオー
- 的場文男 - 主戦騎手
- ウマ娘 プリティーダービー
- インペリアルタリス(ウマ娘)…本馬をモチーフにした(と思われる)キャラクター
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