ホクトベガとは1990年生まれの日本の競走馬。永遠なる砂の女王である。
主な勝ち鞍
1993年:エリザベス女王杯(GⅠ)、フラワーカップ(GⅢ)
1994年:札幌記念(GⅢ)
1995年:エンプレス杯(南関東GⅠ)
1996年:フェブラリーステークス(GⅡ)、川崎記念(南関東GⅠ)、ダイオライト記念(南関東GⅠ)、群馬記念(交流重賞)、帝王賞(南関東GⅠ)、マイルチャンピオンシップ南部杯(交流重賞)、浦和記念(南関東GⅠ)、エンプレス杯(南関東GⅡ)
1997年:川崎記念(南関東GⅠ)
1996年JRA賞最優秀ダートホース、NARグランプリ特別表彰馬
概要
血統・デビューからエリザベス女王杯に至るまで
父ナグルスキー母タケノファルコン母父フィリップオブスペインという血統。ナグルスキーはダートに強い馬を多く輩出している種牡馬。ホクトベガも牝馬にしては大きくて力強い馬体、深くて「スパイクみたい」と言われた蹄など、見るからにダート向きの馬体ではあった。
虚弱体質で牧場ではいじめられ、入厩してからもまともに調教できない有様でデビューは遅れ、3歳になってからようやくデビュー。あまり期待されていなかった割にはここを楽勝。4戦目のフラワーカップで重賞を初制覇、一躍クラシック候補に踊り出る。
しかしながら、彼女の同期には奇しくも同じ一等星の名を持つベガがいた。このストⅡのボスキャラ名牝は無茶苦茶に強く、1993年の桜花賞とオークスを制して二冠牝馬となった。ホクトベガは5着6着。秋はクイーンS2着から始動しローズS3着を経てエリザベス女王杯に出走した時には9番人気だった。
しかしながらホクトベガは内を激走してここを勝つ。実況の馬場鉄志アナウンサーが思わず、
と叫んだ事はあまりにも有名。
苦戦の日々
GⅠ馬になったホクトベガであったが、この後は苦戦が続く。もっとも、札幌日経オープンをレコードで勝ったり、札幌記念を牡馬を下して勝っていたりするので強い牝馬の1頭であったことは疑いないのだが。
その間、GⅠ勝ち牝馬としては類例を聞いたこともないような障害競走への出走も検討され、実際に飛越調教までしたのだが、これで足腰が鍛えられたかはたまた精神的な刺激になったのか、5歳になって斤量が軽いから出てみようかと追いきり1本だけで出走したAJCCで僅差の2着と好走し、こりゃ入障なんてもったいないと白紙撤回されてしまう。
砂の女王・爆誕す
しかしその後は元通りの鳴かず飛ばずでさてどうしようかと思った矢先、この年から始まった中央と地方のダート交流競走、川崎競馬場のエンプレス杯に出走する事になった。当時、中央のGⅠ勝ち馬がダート競走しかない地方競馬に来るなど考えられない事であったので、川崎競馬場の関係者は驚いた[1]のだが、レース結果を見て更に驚愕する事になる。
一番人気に支持はしたが、どんなもんだろうと川崎のおっちゃんたちが見守る中、当時のダート最強牝馬だったアクアライデン、ケーエフネプチュンをまとめてちぎり捨て、なんと18馬身差で圧勝。二着がゴールしたのは3.6秒も後だった。鞍上の横山典弘騎手は思わず100m手前からガッツポーズをしたという。
5歳の夏から冬にかけては芝路線を使うも、明け6歳からは完全にダート路線へ転向し、そこからはもう、交流重賞に出れば必ず勝つ。しかも圧勝の連続で、交流重賞10連勝を達成(間に芝レースに出てはいるが勝ててない)。そのあまりの強さに川崎記念ではドバイ遠征の壮行レースだったライブリマウントの陣営を青ざめさせ、南部杯で実況に「女王様とお呼び!」とまで言われた程だった。
なにしろ先行して抜け出してちぎってしまうという、安定感抜群と言うか、他とは次元の違うレースばかり。地方競馬関係者は、中央GⅠ馬というのはこんなに強いのかと震撼したらしい。ただしそれ以降ダートの名馬数多あれど、こんなにぶっちぎりの強さを年単位で持続した馬がいないところを見ると、やはりホクトベガが無類に強かった(ダートが得意だった)と言うしかないだろう。
普通こんなに強ければ、周囲が呆れ引いてしまって、やっかまれたりいい加減にしろ扱いされるものだが、ホクトベガは愛された。当時はバブル崩壊後の不景気や都市部への人口流出が直撃して地方競馬はどこも経営難に喘いでいたが、ホクトベガがレースに出る日はどこの競馬場にもスターホースを一目見ようと超満員の観客が押しかけ、当然ながら馬券も飛ぶように売れて主催者の懐を潤した。ホクトベガは8つもの競馬場で勝ち星を挙げ、始まったばかりだった交流競走を盛り上げるのに一役も二役もかったのであった。
特に凄いのは1996年の帝王賞と翌1997年の国内ラストランとなる川崎記念。前者は大井競馬場のキャパを大幅に上回る7万7818人を集めた現在に残るレコードであり、後者は1990年のロジータ引退レースである川崎記念の記録を抜き去る5万9000人もの集客を叩き出している。
そして彼女は星になった
同じ1997年。ホクトベガは7歳になっていた。彼女は引退レースとしてまだ第2回であったドバイワールドカップを選んだ。
欧州競馬界で名声を得たドバイ太子(当時)シェイク・モハメドの肝いりで創設された、当時ぶっちぎりの世界最高賞金額を誇ったこのレースは、ダートトラックのレースでありながら欧州から芝の王者格の馬も参戦する夢のレースであり、砂の女王の引退レースに相応しいと誰もが思った。レース後はそのまま欧州に渡って、一流種牡馬と配合するという夢のある計画も立てられていた。
しかし、初の海外遠征に加え、当時はドバイへの直行便なんぞ存在しないため乗り継ぎに乗り継ぎを重ねやっとこさドバイ入りした彼女は、すっかりやつれ果てていた。
日本中を飛び回りながら、タフに圧勝を続けた彼女ですら海外遠征は辛かったのである。このままでは絶不調でレースを迎えてしまう。
惨敗するのは目に見えた状態であり、このままではファンにも彼女にも忍びない。回避してそのまま繁殖入りさせようか…陣営はそこまで考えたという。
そして迎えたレース当日、1997年3月29日。レースは…開催されなかった。
数十年に一度のスコールが降り注ぎ、その想定外の雨量の前にナドアルシバ競馬場は排水がおっつかず水浸しになり、レースが4月3日に延期となったのである。
この余波で、出走予定だった凱旋門賞馬エリシオは出走を取り消し帰国するなど万全の体制で迎えた他馬には災難としか言いようがなかった。
しかし、少しでも時間が欲しかった彼女にとっては”天啓”としか言いようのない出来事であった。
わずかだが時間を与えられた陣営は必死に立て直し、なんとか調子を出走してもやれそうなところまで持っていった。
これなら砂の女王に恥じない姿を、世界と戦える女傑の姿をファンに見せられる…陣営はわずかだが手応えを感じていた。
そして、4月3日。仕切り直しとなったレースは行われ・・・。それは起こった。生中継などされていなかったそのレース。レース結果を楽しみにしていた競馬ファンに飛び込んできたのは、ホクトベガが予後不良になったという信じ難い知らせだった。馬群の中で他の馬と接触し足を取られて転倒、そこに後続馬が追突したことにより致命的な骨折を負うという、競馬の事故としてもかなり珍しい、不運という言葉ですら言い表すのが難しいようなできごとであった。
横山ジョッキーは、のちに自分の強引な騎乗が事故につながったと悔い、マスコミからのバッシングなどもあり自殺まで考えるほどであった。「ポツン」と責められがちな彼の騎乗であるが、馬を最優先に考え騎乗するきっかけになった出来事だったのである。
北斗星は今も輝く
その後、ホクトベガが盛り上げた交流競走はすっかり定着し、ダート路線が整備されたのも彼女の活躍が後押ししたのだと言われている。戦績も賞金額も凄かったが、それ以上に後の競馬界に与えた影響も大きかった。
2011年3月26日、ドバイワールドカップでヴィクトワールピサが勝った。その瞬間、ホクトベガを思って涙を流したのは筆者だけではない筈だ。
そして、奇しくもその日は生きていればホクトベガの21歳の誕生日であった。
管理調教師であった中野隆良氏は、のちに彼女をこう評している。
エピソード
- エリザベス女王杯出走時、まさか勝てるはずも無いと思っていた馬主は競馬場に行かなかった。
- 彼女の遺体は検疫の関係で日本には戻せず、日本にある墓にはタテガミだけが埋まっている。
- 2021年11月のエリザベス女王杯にてアカイイトが10番人気を覆して勝利。この年の秋華賞を制しこのレースでも本命視されていたアカイトリノムスメにひっかけて「アカはアカでもアカイイト」と取り沙汰され、ホクトベガのことに思いを馳せたファンが多かった。
- ホクトベガ以降、レギュラーメンバー(2001年・9着)・ヴァーミリアン(2007年・4着)・スマートファルコン(2012年・10着)・ホッコータルマエ(2015年・5着、2016年・9着)・チュウワウィザード(2022年・3着)と多くの馬が川崎記念1着をステップにドバイワールドカップに挑み続けたが、2023年についにウシュバテソーロがホクトベガが果たせなかった川崎記念1着からのドバイワールドカップ制覇を成し遂げた。奇しくも彼もまた芝で頭打ちになってからのダート転向で覚醒した馬で、またこの年のドバイワールドカップは現地時間3月25日(日本時間3月26日深夜・ホクトベガの誕生日)の開催であった[2]。
余談
「ダートで無双した芝GⅠ馬」ということで、アグネスデジタルやクロフネなんかと並べて「芝とダートの両方でGⅠを勝った馬」として扱われることも多いホクトベガ。しかし本記事冒頭の勝ち鞍表記にも示されているが、実は厳密にはホクトベガが勝ったGⅠはエリザベス女王杯のみである。
交流重賞に中央との統一グレード格付けが導入されたのは1997年の春から。川崎記念、帝王賞、南部杯はいずれも統一ダートグレード導入に伴いGⅠに格付けされたが、ホクトベガが勝ったときにはいずれも格付け前だったのだ。なのでこれらは「GⅠ相当ではあるが厳密にはGⅠではない」という扱いになる。
もちろんそれがホクトベガの強さや功績において何のマイナスになるというものでもないのだが、「芝とダートの両方でGⅠを勝った馬」(イシノサンデーの記事も参照)とか「ダートの混合GⅠを勝った牝馬」(ファストフレンドの記事も参照)とかの話をする際には、この点の扱いにちょっと注意したい。
血統表
*ナグルスキー Nagurski 1981 鹿毛 |
Nijinsky II 1967 鹿毛 |
Northern Dancer | Nearctic |
Natalma | |||
Flaming Page | Bull Page | ||
Flaring Top | |||
Deceit 1968 黒鹿毛 |
Prince John | Princequillo | |
Not Afraid | |||
Double Agent | Double Jay | ||
Conniver | |||
タケノファルコン 1982 黒鹿毛 FNo.9-c |
*フィリップオブスペイン 1969 黒鹿毛 |
Tudor Melody | Tudor Minstrel |
Matelda | |||
Lerida | *マタドア | ||
Zepherin | |||
クールフェアー 1978 栗毛 |
*イエローゴッド | Red God | |
Sally Deans | |||
*シャークスキン | *シルバーシャーク | ||
Atrevida | |||
競走馬の4代血統表 |
- 半妹カシオペアレディの孫に、2021年の京都2歳ステークス(GⅢ)を勝ったジャスティンロックがいる。
- 近親には4代母Atrevidaの妹の子にライバルベガの3代父Kalamounや、6代母Rivazの全兄に大種牡馬にしてホクトベガの母母父イエローゴッドの祖父でもあるNasrullahなどがいる。
- 8代母は「Flying Filly」Mumtaz Mahal。
関連動画
ドキュメンタリーにもなった
関連項目
脚注
- *ちなみにホクトベガと同厩のヒシアマゾンも出走登録してきており、当時中央競馬最強格の馬の登録にはもっと驚いたことだろう。最終的にはヒシアマゾンは回避し高松宮杯へ回っている。
- *ちなみに2023年を最後に川崎記念の開催時期が1月下旬から4月上旬に変更になったため、彼が最初で最後の川崎記念とドバイワールドカップを連勝した馬になると思われる。
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