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岩隈久志(いわくま ひさし、1981年4月12日-)とは、東京都出身の元プロ野球選手(投手)である。現在はシアトル・マリナーズの特任コーチを務める。
概要
シアトル・マリナーズ 特任コーチ | |
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岩隈久志 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 東京都東大和市 |
生年月日 | 1981年4月12日 |
身長 体重 |
190cm 86kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1999年ドラフト5位 |
引退 | 2020年 |
経歴 | |
選手歴 | |
国際大会 | |
代表チーム | 日本 |
五輪 | 2004年 |
WBC | 2009年 |
プロ野球選手テンプレート |
1999年ドラフト5巡目で当時の大阪近鉄バファローズに入団。
選手としての特徴は「打たせて取る」という形に特化し、奪三振よりも内野ゴロで抑えるピッチャーで、調子の良い時の岩隈は「ゴロクマ」と形容されるほど内野ゴロを打たせて相手打線を抑え込む。
実は、近鉄時代と楽天時代で投球時のイメージが変わるピッチャーである。その主な理由は2006年から禁止されていた二段モーションと、楽天に入ってから悪化した肩と肘の怪我が原因であり、近鉄時代と二段モーションを修正した楽天時代とで大きくイメージが違う。近鉄時代のフォームを見れば、今の岩隈からは想像もできないほど変態的な特徴的な投げ方をしているのが分かるだろう(関連動画参照)。
制球力も非常によく、2008年には28試合登板、200投球回超で被本塁打が3本という驚異的な数字を残している。
2008年の怪我明けなどでは100球程度の降板を意識していた。そのことを一部解説者は「根性やエースとしての自覚が足りない」と咎めたりしたが、それは医師による指導のものであり、監督もそれを了承して起用をしていた。それに関して、当時の野村克也監督は「繊細で気を遣う投手」とコメントを残しているが、それは例によってボヤキの上でのことであり、実際は厚く信頼を寄せていた。その信頼の証拠が2009年のCSファイナルステージ4戦目のリリーフ起用に凝縮されていると言える。
女房役は藤井彰人。近鉄時代から岩隈をリードし続け、凄まじい成績を挙げた2008年には最優秀バッテリー賞を受賞するなど岩隈にとってなくてはならない存在という声も多いが、2010年オフに皮肉なすれ違いにより離れ離れになってしまった。ちなみに、家庭ではかなりの愛妻家で、奥さん・子供と絵本を出したりしているいいパパでもある。
2007年には当時の野村克則コーチとのベンチ内での喧嘩がテレビ中継中継されてしまい不仲が噂されたが実際はそんなことはない。ちなみに、二人は高校時代の先輩後輩の間柄であり、このときの喧嘩の原因は4回にノックアウトされロッカーに引き上げた岩隈が1時間近く戻ってこなかった事にカツノリコーチが激高したのが原因。
愛称はクマ 。2ちゃんねるの実況野球板では先発登板のとき、クマーのAAが登場する。
ちなみに、元同僚の井坂亮平は「量産型岩隈」と言われ、ウマーのAAが使われる。
年表
2000年~2004年 入団~近鉄時代
1年間の2軍経験を経て入団2年目の2001年から活躍を始め、その年の近鉄のリーグ優勝に貢献。
その後2003年(15勝10敗)、2004年(15勝2敗)と連続して15勝を挙げ、2004年には五輪代表に選出されるなどチーム内外問わずエース級ピッチャーとして活躍する。
しかし、2004年シーズン中に勃発したオリックス・ブルーウェーブと所属球団の合併に端を発する球会再編問題に巻き込まれ、シーズンオフの分配ドラフトで岩隈は合併後の球団となるオリックス・バファローズ所属が決定する。
しかし、岩隈は「移籍先については選手の意思を尊重する」という球団と選手会の交渉で出た申し合わせを理由にそれを拒否し、プロテクトしてまでして岩隈を押さえたオリックス側と対立。ごたごたの結果、一時的にオリックスへ入団後、東北楽天ゴールデンイーグルスに金銭トレードされるという形で岩隈の要求は呑まれる形となった。
このような複雑な事情もあり、岩隈は形式上2004年オフに2度移籍を経験していることとなる。
2005年~2007年 楽天創成期
こういった複雑な経緯で楽天に来た岩隈だったが、シーズン開幕戦の先発を勤め無事勝利。球団史上最初の試合を白星で飾る。その後、肩の怪我などで不振に喘ぎながら9勝15敗の成績でシーズンを終えた。
しかし、2006年は岩隈にとって更に試練となる。特徴的なフォームで投球してきた岩隈にとって致命的な二段モーションの禁止の導入である。 更に肩の怪我の悪化がありフォーム変更どころの騒ぎではなくなり8月まで復帰がずれ込み6試合登板、1勝2敗という手痛い成績に終わってしまった。
岩隈の受難は2007年も続いた。今度は背中・肘・脇腹と続々と故障を連発。本調子を維持することが難しかったが1年間投げとおし5勝5敗の成績を残してシーズンを終えた。
2008年 2009年 岩隈の進化・躍進
岩隈といえば2008年、2009年が特に輝いたシーズンであった。
2008年の岩隈はついに二段モーションの修正に成功。楽天移籍後初の無四球完封勝利に始まり、終わってみれば21勝4敗(1985年以来の23年ぶりの21勝投手の登場)で最多勝、防御率1.87(最優秀防御率)、勝率.870で投手三冠を獲得した。更に沢村賞、パリーグMVP、パリーグベストナイン、藤井彰人と共に最優秀バッテリー賞と列挙したらキリがないほどタイトルを総ナメした。
ちなみに、この年の楽天は65勝76敗3分という成績であり、この年の楽天の勝ち数のほぼ1/3は岩隈が上げたということになる。
ところが、シーズンオフに致命的なエラーをやらかした。岩隈はオフにフジテレビ系列「とんねるずのみなさんのおかげでした」の食わず嫌いに出演。対戦相手は中島美嘉。藤井彰人がいなかったせいか、見事に配球(弱点)を見透かされ、敗北。シーズン4敗だったのに…
ちなみにNGだった食べ物は「アサリの酒蒸し」。本人曰く、「ジャリジャリするから」。その負けを受けて、実況野球板では「イワクマンゴww」のスレが立ってしまった。罰ゲームは野村克也監督のものまねだった。岩隈ェ…。
2009年
WBC日本代表として、松坂大輔、ダルビッシュ有と日本代表の三本柱を務めた。敗者復活戦のキューバ戦では打たせて取るの真骨頂を見せ6回無失点、18アウトのうち15アウトが内野ゴロであった。そして岩隈は決勝戦の韓国戦でも先発を務め、7回2/3を2失点で抑え込み後へ繋いだ。
ちなみに、岩隈の後を継いだのはダルビッシュであったが土壇場で追いつかれ同点に。しかし、延長10回にこの男が神の一打で突き放し、日本はWBC連覇を成し遂げた。
楽天のペナントも大躍進。開幕戦ではWBCで共に世界一に貢献したダルビッシュ有と投げ合い、これに勝利してチームを勢いに乗せ、この年岩隈は13勝6敗という成績を残しチームはシーズン2位、球団史上初のAクラスで終了。
CS第1ステージでは3位ソフトバンクを9回4失点で撃退しファイナルステージへと進出。しかし岩隈はファイナルステージ2戦目を投げるも接戦の末敗北。
そして負ければCS敗退、更に野村克也監督の退任が決まってしまう第4戦。岩隈は2点差を追いかける8回裏にまさかの中1日リリーフで登場。相手は初戦で抑えである福盛和男があの福盛の21球で逆転サヨナラ満塁ホームランを打たれたターメル・スレッジ。岩隈は全力投球で相対し、結果、スレッジにトドメの3ランを打たれ、力尽きた。
2010年 2011年 メジャー挑戦へ…
2010年、岩隈はFAを待たずポスティングによるメジャー挑戦を表明。
シーズンを10勝9敗で終え、入札・移籍交渉へと臨んだ。結果、メジャーのオークランド・アスレチックスが交渉権を獲得し交渉するものの条件面で折り合わずに破談した。
この件に関してはアスレチックスが岩隈獲得を表明したライバル球団を妨害するためにそもそも獲得する気がなかったのに高額入札をして交渉権を奪い、わざと破談させたなどという噂が流れ、ポスティングシステムの日本側の圧倒的不利なシステムの欠陥を証明する出来事となった。ポスティングシステムの入札金は契約して初めて支払われるため、契約をしなかったアスレチックスは何のペナルティも負うことなく(妨害する気があったならば)妨害を成功させたことになる。
ポスティングが成立しなかったことにより楽天と再契約した2011年シーズンはFAによって女房役の藤井彰人が阪神タイガースに移籍。一部ファンの間では岩隈がいなくなることによる出場機会の消滅を危惧してのFAだったと噂されただけにポスティング破談による岩隈残留は何とも複雑な結果になってしまった。
調子の方は統一球の影響が幸いし、開幕から勝ちを重ね続けるが、突如肩に違和感を訴えて5月から7月まで間を開けてしまい、さらに復帰後も調子が思わしくないのか怪我前のように勝つことができなくなり、6勝7敗と少々沈んでシーズンを終えた。
2011年オフ、FA権取得で再度メジャー挑戦を表明し、2012年1月5日、シアトル・マリナーズと1年契約を結んだ。
2012年~ メジャーリーグでの躍動
2012年、マリナーズに加入した岩隈は先発投手として登板することを目指すが、日本で行われた巨人とのオープン戦にてジョン・ボウカーにホームランを浴びるなど打ちこまれてしまい、開幕は中継ぎで迎えることとなる。
しかし開幕してからもしばらくは出番が回ってこず、4月17日には開幕ロースターに入った投手で唯一出番が無いという記録を作ってしまうが、4月20日にメジャー初登板を果たし、5月30日には3失点ながら3イニングを投げメジャー初セーブを記録、6月16日には6回から登板し2回を無失点に抑えメジャー初勝利を挙げる。
中継ぎとしては防御率4点代と微妙な成績だったが、マリナーズの先発投手の一人であるヘクター・ノエシが不振に陥っていたことで岩隈にチャンスが回ってくる。
7月2日に初先発を果たすと、7月30日には8回を投げ1失点13奪三振という素晴らしい投球で先発初勝利を挙げ、その後もシーズン終了まで先発として登板し続け、9月14日にはテキサス・レンジャーズに所属するダルビッシュ有とメジャー初対決を迎え、強打のレンジャーズ打線を5と1/3回2失点に抑えるがダルビッシュも7回1失点と好投し岩隈は敗戦投手となった。
最終的にメジャーでの一年目は125と1/3回を投げ9勝5敗、防御率3.16という成績を残す。
なお先発での成績を見ると8勝4敗、防御率2.65というエース級の数字を残している。
2013年はチームのエースであるフェリックス・ヘルナンデスに次ぐ二番手として4月2日の開幕二戦目の試合に登板し、6回1失点で勝利すると、12日には再びレンジャーズのダルビッシュ有との投げ合いとなり、今度は6と2/3回をソロホームランによる1失点に抑え、試合は3-1でマリナーズが勝利しリベンジを果たした。
4月は好投しても打線の援護に恵まれず、上述の開幕2戦目とダルビッシュとの投げ合いでの2勝しか挙げられなかったが、防御率はリーグ4位、WHIPに限ってはリーグトップという素晴らしい成績を残している。なぜかマスコミは全く取り上げてはくれないが・・・
5月にはマリナーズにしては珍しく打線の援護もあり4勝を挙げ好調をキープしていたかに見えたが、6月中旬から7月始めにかけて5試合連続でクオリティスタートに失敗するなど調子を落とす。
しかし8月以降は本来の調子を取り戻し、9月は6日にタンパベイ・レイズ戦以外の試合で全て無失点に抑えるという素晴らしい投球を見せた。
結局2013年は219と2/3回を投げ、14勝6敗、防御率2.66という成績を残す。ちなみに登板機会はなかったが、選手間投票により初めてオールスターにも選ばれている。
この年は投球回と防御率はリーグ3位、WHIPもリーグ2位という非常に優秀な数字を記録、マリナーズ内どころかリーグ屈指のエース投手となった。サイ・ヤング賞投票では3位に入った。なんでこんなに凄い成績なのに14勝しか挙げてないのかって?それはこの年のマリナーズは打線も守備もリーグ最低レベルだったから仕方ないね。(打率はア・リーグ最低のリーグ15位、打点も12位)
2014年は1月20日の練習中にネットに中指を引っ掛けて第1関節を痛め、しばらく投球を禁じられ開幕に間に合わなかった。
それでも手術に至るほどの重症ではなかったようで、シーズン開幕後もきっちりとリハビリをこなし、5月3日に故障者リストから外れると、同日行われたアストロズ戦に先発登板し、6と2/3回を6安打4失点に抑え、シーズン初勝利を挙げた。
その後も安定した投球でフェリックス・ヘルナンデスと共に先発ローテーションを守り、8月終了時点では13勝6敗、防御率2.90と申し分ない成績を残していたが、9月に入ると打ち込まれる試合が増え(故障が影響したと言われている)、最終的に防御率は3.52にまで悪化したが、179回を投げて15勝9敗を記録した。
またこの年日本で行われた日米野球にもMLB側として参加し、2戦目に登板した。
2015年は開幕から調子が上がらず、3試合連続でクオリティスタートに失敗。3試合目が終了した後に右広背筋を痛めていることが発覚し4月24日に故障者リストに入る。
当初は6月に復帰すると見られていたが、状態が思わしくなかったのか再登録は7月6日までずれ込み、同日のデトロイト・タイガース戦で復帰登板を果たすも5回5失点でノックアウトされたが、次の登板となる11日のロサンゼルス・エンゼルス戦にて8回を無失点に抑えてようやくシーズン初勝利を挙げた。
8月12日の対ボルチモア・オリオールズ戦では9回を116球、3四球、7奪三振で日本人としては2001年の野茂英雄以来2人目となるノーヒットノーランを達成。またこのノーヒットノーランがMLBでの初めての完投・完封となった。8月18日のテキサス・レンジャーズ戦で日米通算150勝を達成した。
9月からは登板した全ての試合でクオリティスタートを満たす等例年通りの安定感を見せたが打線となかなかかみ合わず、最終的に129.2回を投げ9勝5敗、防御率3.54という成績で2桁勝利には届かなかった。オフにFAとなり、ロサンゼルス・ドジャースに入団しようとしていたが、フィジカルチェックで問題が見つかり白紙となる。
その後マリナーズと1年契約を結んだ。サンフランシスコ・ジャイアンツから移籍してきた青木宣親とチームメイトになった。
2016年は1年間先発ローテーションを守り切り、メジャーキャリアハイの16勝を挙げたが、一方でワーストの防御率4.12、12敗も喫し、ポストシーズン進出の可能性を残していた10月1日のオークランド・アスレチックス戦では4回5失点でノックアウトされ、悔し涙を流した。
2017年は右肩のクリーニング手術を受けた影響で6試合の登板に留まり、オフにFAとなった後にマリナーズとマイナー契約を結んだ。
2019年~ 日本球界復帰
2018年12月6日に読売ジャイアンツと契約を結んだ。背番号は21。
右肩のリハビリが長引き、8月に二軍で復帰したが、ルーキー時代の2000年以来となる一軍登板0に終わった。
2020年も肩の状態が改善せず、10月19日、現役引退を表明。
引退後
2021年からはシアトル・マリナーズの特任コーチを務める。
AA
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スチャッ
成績
通算投手成績
通算:17年 | 登板 | 先発 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB:11年 | 226 | 225 | 48 | 6 | 107 | 69 | 0 | 0 | .608 | 1541.0 | 342 | 1175 | 622 | 557 | 3.25 |
MLB:6年 | 150 | 136 | 1 | 1 | 63 | 39 | 2 | 0 | .618 | 883.2 | 185 | 714 | 352 | 336 | 3.42 |
タイトル・表彰・その他
タイトル | |||
---|---|---|---|
NPB | 最多勝 | 2回 | 2004年、2008年 |
最高勝率 | 1回 | 2004年 | |
最優秀防御率 | 1回 | 2008年 | |
表彰 | |||
NPB | 月間MVP | 5回 | 2003年4月、2004年4月・5月、2008年4月、2011年4月 |
ベストナイン | 2回 | 2004年、2008年 | |
最優秀バッテリー賞 | 1回 | 2008年(藤井彰人) | |
WBC | ベストナイン | 1回 | 2009年 |
MLB | 週間MVP | 1回 | 2015年8月 |
その他 | |||
NPB | オールスターゲーム出場 | 3回 | 2003年、2004年、2008年 |
開幕投手 | 7回 | 2004年、2005年、2007年-2011年 | |
MLB | オールスターゲーム出場 | 1回 | 2013年 |
ノーヒットノーラン | 1回 | 2015年8月12日 |
関連動画
近鉄時代
楽天時代
マリナーズ時代
WBC関連
その他
関連項目
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