新月(秋月型駆逐艦)とは、大日本帝國海軍が建造・運用した秋月型駆逐艦5番艦である。1943年3月31日竣工。同年7月6日、クラ湾夜戦で敵軽巡3隻から集中砲火を浴びて消息不明になる。
概要
艦名の新月は月が太陽と重なって地球上から見えなくなる状態を指す。読み方は「しんげつ」ではなく「にいづき」だが、「にいづき」は新月の訓読みなので意味としては同じ。
秋月型(乙型)とは帝國海軍最大の巨躯を誇る大型防空駆逐艦である。1920年代から急激に存在感を出し始めた空母と航空機に対抗するべくイギリス海軍は旧式のC級軽巡洋艦を防空艦化し、アメリカ海軍では防空性能に特化したアトランタ級の建造に着手。仮想敵が続々と防空艦を作り出すのを見て帝國海軍も防空艦を意識するようになり1937年頃より本格的な検討を開始、軽巡洋艦の量産は厳しいので駆逐艦サイズで防空艦を作る事とし、1938年のマル四計画において初めて「乙型駆逐艦」の言葉が出された。1939年4月頃には基本設計が纏まった。当初は空母の護衛を主任務に定め、対潜・対空に優れた直衛艦になる予定だったが、直衛以外にも使用出来るよう雷装を追加して八面六臂の活躍をする駆逐艦となっている(ただし魚雷を放ったのは新月のみ)。
船体は長船首楼型を採用、舷側は垂直であり、巧みな兵装配置により高い火力を持つ。他の駆逐艦が満足に電探を装備出来ない中、秋月型は70km先の敵機を探知出来る21号水上電探を装備し、また2基の九四式高射装置が2つの目標に対する同時管制射撃を可能とする。何から何まで新しい秋月型だが、さすがに機関まで新しくするのは難しかったようで、陽炎型に採用されたロ号艦本式缶3基5万2000馬力を流用。性能こそ優れていたが、工程の複雑化と大型なのが災いして大量生産しにくい欠点を抱えていたため、後期になるほど船体が簡略化されていった。
要目は排水量2701トン、全長132.4m、全幅11.6m、最大速力33ノット、重油1080トン、乗組員263名。武装は65口径10cm連装高角砲4基、九六式25mm三連装機銃5基、同単装機銃14丁、次発装填装置付き61cm四連装魚雷発射管1基、九四式爆雷投射機2基、爆雷投下軌条2条、九五式爆雷54個。電測装備として21号水上電探、13号対空電探、九三式探信儀を装備する。
竣工から沈没まで僅か3ヶ月程度(97日)と秋月型最短の命であったが、レンドヴァ島沖の戦闘でPTボート2隻を撃沈し、クラ湾夜戦では米駆逐艦ストロングを協同撃沈、そして自らが囮となって敵の注意を引き付けた事で米軽巡ヘレナ撃沈のきっかけを作り、輸送成功の要因となるなど確かな戦果を残した。余談だが駆逐艦最短の命だったのは橘型駆逐艦の榎である(およそ2ヶ月半)。
戦歴
敵艦隊に暗雲をもたらす新月の夜
1939年度海軍軍備充実計画(通称マル四計画)にて、乙型一等駆逐艦108号艦として建造が決定。
大東亜戦争開戦日である1941年12月8日に三菱重工長崎造船所で起工、1942年5月15日に駆逐艦新月と命名されて6月29日に進水し、1943年2月23日に艤装員事務所を設置、そして3月31日に竣工を果たした。初代艦長に金田清之中佐が着任するとともに佐世保鎮守府に部署。第1艦隊へ編入される。
4月1日、軽巡洋艦龍田を旗艦とした訓練専門の第11水雷戦隊が新設され、就役したばかりの新月も同部隊に転属。同日中に佐世保を出港し、4月4日に呉へ入港して龍田の指導を受けながら瀬戸内海西部で慣熟訓練に従事する。4月28日、佐世保に回航する戦艦日向を駆逐艦浜風とともに護衛して安下庄を出発。翌日佐世保に到着して日向の護送任務を成功させる。5月1日に呉へ帰投して整備を受ける。
5月9日に呉を出港して柱島泊地に回航、龍田の代わりに第11水雷戦隊の臨時旗艦となって訓練を再開する新月のもとに、アメリカ軍がアリューシャン列島アッツ島に上陸したとの凶報が飛び込んで来た。アッツを攻囲する敵艦隊を過大評価していた大本営は艦隊決戦を企図し、トラック諸島に進出中の主力艦隊を呼び戻して横須賀に集結させた。5月17日、新月もまた機動部隊直属となり、翌18日に瀬戸内海西部で待機していた翔鶴、瑞鶴、瑞鳳と合流。5月20日に出発して木更津沖で待機する。ところが先にアッツ島守備隊が玉砕してしまい5月29日に作戦中止、空母3隻を護衛して6月1日に新月は瀬戸内海へ戻った。当日付で新月は南東方面を担当する第8艦隊の指揮下に入る。これは艦隊の防空能力の低さを懸念した軍令部と大本営が、高い対空能力と旗艦設備を持つ秋月型の編入を決定した事による。同時にラバウルへの早期進出を命じられたため6月2日より呉にて出撃準備を開始。
6月11日、第7戦隊(重巡熊野、鈴谷)を護衛して呉を出港して横須賀に回航。現地でトラック諸島に戻る主力艦隊と合流する。6月15日に新任の機関長斎藤勇雄大尉と水雷長石河秀夫中尉が乗艦。
6月16日、空母3隻(雲鷹、龍鳳、冲鷹)、戦艦2隻(金剛、榛名)、重巡2隻(熊野、鈴谷)、新月を含む駆逐艦12隻が横須賀を出港。翌17日、暗号解析により有力な日本艦隊の移動を察知していた米潜水艦フライングフィッシュが雷撃を仕掛けてきたが命中せず。トラック入港を目前に控えた6月21日、今度はスピアフィッシュが空母を狙って雷撃してきたものの、艦隊の速力を見誤っていたため全て外れ、その日のうちにトラックへ入港した。ラバウルへの進出を急かされていた新月は第5及び第28防空隊を急いで収容。
6月23日、ラバウル行きの熊野と鈴谷を、駆逐艦涼風や有明と護衛しながらトラックを出港。道中何事も無く6月25日にラバウルへの進出を果たした。伴走者はトラック方面へと引き返したが、秋月型駆逐艦の配備を強く望んでいた第8艦隊の要請により新月はラバウルに留まり、激戦が続くソロモン戦線に投入される。6月30日、外洋部隊増援部隊直卒部隊に編入され、軽巡夕張から第3水雷戦隊の将旗を継承、戦隊司令の秋山輝男少将が座乗する。
時同じくして連合軍がソロモン諸島中部方面で攻勢に転じ、ニュージョージア島の沖合いに浮かぶレンドヴァ島に約6000名が上陸して魚雷艇基地を設営。ニューギニア東方のウッドラーク島、トロブリアン島、ラエ南方のナッソウ湾にも敵の上陸が確認された。レンドヴァ島と飛行場のあるムンダ基地は10km程度しか離れておらず、ムンダは敵の激しい陸上砲撃に曝された。
事態を把握した連合艦隊司令長官・古賀峯一大将は水上部隊と基地航空隊に反撃を命じ、新月は同日午前9時30分に駆逐艦皐月、望月、夕凪を率いてラバウルを勇躍出撃、レンドヴァ島北海岸にある敵橋頭保攻撃に向かった。ちなみに夕凪は第8艦隊から借りてきた艦である。
レンドヴァ島沖の戦闘
7月1日午前0時、新月率いる小艦隊はレンドヴァ島西方に到達。敵船団と上陸部隊の撃滅を試みたが天候不順に起因する視界不良で会敵に失敗。ひとまず午前7時30分にブーゲンビル島ブイン基地へ寄港した。
7月2日16時、駆逐艦天霧、初雪、長月、皐月、望月の5隻を率いてブインを出撃。陽動として軽巡夕張も呼応して出撃している。23時にレンドヴァ島近海へ到達。するとPT-156、PT-157、PT-161が迎撃に現れ、必殺の魚雷6本が白線を引いて真っすぐに伸びてきたが全て回避に成功、反撃により2隻を撃沈して追い払った。邪魔者を排した新月らはブランジュ海峡に入り、23時30分より上陸地点の連合軍を艦砲射撃。翌3日午前1時に反転離脱を図って午前7時にブインへと帰投した。
第3水雷戦隊旗艦の座を夕張に返還するが、7月4日に夕張が触雷損傷して旗艦任務に耐えられなくなったため、引き続き新月が旗艦に指定されている。
クラ湾夜戦
連合軍のレンドヴァ島上陸に対抗するためコロンバンガラ島に増援を送る事になり、新月、長月、皐月、夕凪の4隻で第一次輸送隊を編制。
7月4日16時40分、第一次輸送隊はブインを出撃してコロンバンガラ方面に急行する。22時15分、コロンバンガラ島とニュージョージア島の間にあるクラ湾を南下中、味方の沿岸砲台と交戦する敵軽巡4隻と駆逐艦4隻(第36.1任務群)を発見。優勢な敵艦隊と判断した金田艦長は輸送の中止と高速離脱を決断するも、魚雷攻撃を一度だけ行って敵を殴りつける事とし、23時18分より反転北上。
23時56分、距離20kmの地点から新月は4本、長月は6本、夕凪は4本の酸素魚雷を発射し、米駆逐艦ストロング(2050トン)の左舷艦首に直撃して大破。20kmからの雷撃は、成功した雷撃の中で最も長距離であり、またストロングに致命傷を与えたのは新月の魚雷だったとされる。ストロングは46名の戦死者を出し、更にエイガイ海岸の日本軍沿岸砲台から14cm砲弾3発を喰らって爆雷が誘爆、シュヴァリエの献身的な救援もむなしく艦体を二つに折って急速に沈没していった。
しかし敵機に発見された事で輸送そのものは断念せざるを得なかった。僚艦をやられて怒り狂う第36.1任務群から激烈なレーダー射撃を浴びせられたが、どうにか離脱して7月5日午前5時19分にブインへ帰投。
最期の戦い
1943年7月5日17時35分、第二次輸送に従事するべく望月、三日月、浜風、天霧、初雪、長月、皐月を率いてブイン北水道を出撃。輸送隊には増援部隊2400名と物資180トンが積載されていた。
同日22時、コロンバンガラ島北方37kmに到達した第二次輸送隊はクラ湾のある南東に舳先を向ける。23時5分に新月のレーダーが左舷方向5000m先に反応を示すが、スコールに阻まれて位置は判然とせず、谷風と涼風を伴って北方への退避を開始。しかし23時48分、急にスコールが止まった事で視界が明瞭となり、新月の右舷7000mに第36.1任務群の敵軽巡3隻と駆逐艦4隻が出現。完全に奇襲を受けた形となる。
秋山少将は急いで輸送中止と駆逐艦に集結を命じ、速力30ノットに増速して右舷側へ魚雷を撃とうとするも、23時56分、先に敵軽巡洋艦がレーダー射撃を行い、初弾の15cm砲弾が新月に直撃。これを合図に敵軽巡3隻から一斉に集中砲火を浴びせられる。艦橋への直撃弾により秋山少将以下第3水雷戦隊司令部が全滅。艦橋を潰された挙句、破壊的な火の雨に曝される新月には最早反撃すらままならない。
だがこの時、最も大型な新月を叩き潰す事に集中していた第36.1任務群は数々の失態をやらかした。火力を新月に集中させた事でせっかくの数の利を活かせず、また新月に気を取られ過ぎたせいで他の日本駆逐艦の動きに全く注意を払わなかったのである。新月をスクラップにして移動しようとした瞬間、涼風と谷風から放たれた必殺の魚雷16本が、不意に第36.1任務群へと襲い掛かった。たちまち4本が米軽巡ヘレナに命中して轟沈。新月の犠牲が勝利を引き寄せたと言える。
7月6日午前0時6分、新月は前部構造物と艦橋を破壊し尽くされ、右側に脱落して力なく漂流。応急修理により何とか無線機能を回復させ、午前0時11分に「我、速力26ノット」と報告したが、無線を傍受されたのか再び敵の砲火が新月を貫き、西に漂流しているところを目撃されたのを最後に消息不明となる。
午前3時15分、ヴィラから戻って来た天霧が新月の遭難地点に到着。漆黒の海から日本語の叫び声が聞こえ、更に生存者が重油の中を泳いでいるのが見えたため、ボートを降ろして救助に移ろうとした。ところがその3分後、見張り員がヘレナの生存者を救助中の敵艦を発見。砲撃を受けたため救助作業を断念し午前3時40分に北西方向に退避した。その30分後には望月が遭難地点を通りがかるも、先ほどの敵駆逐艦2隻と遭遇して退避。このため新月の最期ははっきりとしておらず沈没地点も不明である。全乗組員290名死亡。
1943年9月10日に除籍。約3ヶ月という秋月型駆逐艦の中では最短の命だった。
一方、問題を残した米艦隊に対してチェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令は「レーダーに映った最も大きな目標への攻撃に偏った」「敵艦隊に近寄り過ぎた上に射撃開始の時機を逸したために雷撃のチャンスを敵に与えた」と指摘している。
関連項目
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