初月(はつづき/しょげつ)とは、
- 初めの月、転じて1月の意味。
- 陰暦でその月の初めに出る月。新月、三日月とも。特に陰暦8月初めの月を指す。
- 大日本帝國海軍に所属した秋月型駆逐艦4番艦初月。2に由来する。読み方は「はつづき」。
- ブラウザゲーム「艦隊これくしょん」に登場する、3をモチーフにした艦娘「初月」。詳しくは→初月(艦これ)
である。本項では3について記述する。
概要
大東亜戦争中に建造された秋月型駆逐艦4番艦で1942年12月29日竣工。エンガノ岬沖海戦で味方を逃がすために単艦で優勢な敵艦隊へ挑みかかり、そして撃沈された壮絶な最期が有名。
秋月型/乙型駆逐艦は帝國海軍最大の巨躯を誇る艦隊型駆逐艦であり、空母の護衛を主眼に置いた事から対空・対潜・雷撃力・航続距離に優れた傑作艦。秋月型が擁する長10cm高角砲は従来の12.7cm高角砲より多くの面で凌駕する最新式で、対艦攻撃にも使用出来た他、電動式かつ給弾も半自動式と帝國海軍にしては珍しく機械化が進んだ砲であった。性能は間違いなくトップクラスだが、その代償に工程の複雑化を招き、どうあがいても建造に1年以上が掛かってしまうのが最大の欠点。もちろん帝國海軍はその欠点を把握し、前期型(秋月型)、後期型(冬月型)、最終型(満月型)と後になるほど設計の簡略化を進めている。初月は最も手間暇かけて造られた前期型に属する。
要目は排水量2701トン、全長134.2m、全幅11.6m、出力5万2000馬力、最大速力33ノット、乗員253名。兵装は九八式10cm連装高角砲4基、25mm連装機銃2基、次弾装填装置付き61cm四連装魚雷発射管1基、爆雷投射機2基、爆雷投下台6基。
艦歴
1939年に策定された海軍軍備充実計画(通称マル四)にて、乙型一等駆逐艦第107号艦の仮称で建造が決定。建造予算は1209万円であった。
開戦直前の1941年7月25日に舞鶴工廠で起工。9月22日に内示された海軍戦時編制によると姉妹艦「秋月」「照月」とともに空母「鳳翔」を基幹とした第7航空戦隊を編成する予定だったが、実現前に大東亜戦争が勃発したため頓挫した。1942年3月1日に駆逐艦初月と命名され、4月3日に進水、10月21日に田口正一中佐を艤装員長とした艤装員事務所を開設し、そして竣工予定より約5ヵ月早い12月29日に竣工を果たす。初代艦長に田口中佐が着任。「初月」は横須賀鎮守府へ編入されたが、残工事のため工廠に留まり続けた。ちなみに同日中に姉妹艦「涼月」も竣工している。
ちなみに「初月」が就役した時には既に2番艦「照月」が撃沈されていた。
1943年
1943年1月5日、「秋月」「涼月」とともに第10戦隊第61駆逐隊に配属。残工事を終えた「初月」は1月7日、「涼月」と一緒に舞鶴を出港し、本籍地の横須賀へと向かう。道中の1月16日未明、潮岬沖で米潜水艦「ハダック」を発見、しかし田口艦長が砲撃を命じる前に潜航されてしまい、「涼月」と爆雷を投下したものの逃げられている。横須賀に入港した「初月」は第3艦隊に編入されて空母直属の護衛兵力となる。
2月19日、トラックから佐世保へ向けて回航中の戦艦「金剛」「榛名」を基幹とした味方艦隊を出迎えるべく横須賀を出港し、艦隊の帰投を援護する。3月9日に関門海峡で触底事故を起こしてしまい、呉工廠で修理を行う。その後は3月下旬まで本土近海の警備任務に従事。
3月22日、駆逐艦「陽炎」「涼月」「夕暮」とともに空母「隼鷹」「飛鷹」の護衛任務に参加して佐伯湾を出港、3月27日に無事トラック諸島まで送り届けた後、続いて「い」号作戦に参加する搭乗員を乗せて3月29日にトラックを出発、4月1日、目的地であるニューアイルランド島カビエンへ入港して便乗者を揚陸した。4月3日夜、カビエン近郊のメウエパッセージ港に退避していた重巡「青葉」が米第4航空軍第43爆撃航空団所属のB-17爆撃機3機に襲われて大破擱座、敵機は返す刀でカビエン停泊中の初月にも襲い掛かってきたため対空射撃で応戦。敵機を退けた後は炎上中の「青葉」に近づいて消火活動を行うとともに乗組員を救助している。ラバウルを経由して4月6日にトラックへ帰投した「初月」はしばらく現地で待機。
5月12日、アメリカ軍がアリューシャン列島のアッツ島へ上陸して攻略作戦を開始。敵の兵力を過大評価した連合艦隊はトラック在泊中の艦隊を内地帰投させる事にし、前線視察中に戦死した山本五十六大将の遺骨の帰国も並行して行われた。5月17日、遺骨を乗せた戦艦「武蔵」を中心に「金剛」「榛名」「飛鷹」「利根」「筑摩」「海風」「有明」「時雨」「涼月」等とともにトラックを出港。アメリカ軍は暗号解析により米潜水艦「ソーフィッシュ」を送り込み、道中の5月20日にレーダー探知されたが攻撃する事は出来ず、「トリガー」も攻撃に失敗して5月22日に横須賀へ帰投。出撃待機となるが5月29日にアッツ島守備隊の玉砕を以って戦闘は終了。「翔鶴」「瑞鶴」「瑞鳳」の瀬戸内海西部回航を援護した後は訓練に勤しむ。
7月9日、南海第4守備隊を乗せた重巡「利根」や水母「日進」を護衛して本土を出撃。再び暗号解析で艦隊の動向を掴んだアメリカ軍は潜水艦を送り、7月11日に「スタージョン」と「シーラヴェン」に発見されるも攻撃を受ける前に振り切る事に成功。7月15日にはトラック目前で「ティノサ」と「ポーギー」を待ち伏せされ、「ティノサ」から「瑞鳳」を狙って4本の魚雷が伸びてきたが全て外れ、艦隊は無傷でトラックに辿り着いた。7月19日に「初月」は「利根」「筑摩」「日進」「大淀」「阿賀野」「嵐」「萩風」「磯風」「涼月」とともにトラックを出港し、ラバウルを経由して7月22日にブカへ南海第4守備隊455名を輸送、「筑摩」「大淀」「最上」「阿賀野」を護衛しながら7月26日にトラックへ帰投した。
8月6日、「涼月」「磯風」とともに第5戦隊の重巡「妙高」と「羽黒」を護衛して出港、8月9日にラバウルへ入港して第3南海守備隊を揚陸する。8月15日、後に「初月」の最期に関わる妹(秋月型駆逐艦六番艦)の「若月」が第61駆逐隊に編入される。
9月、トラックに停泊していた「初月」は、第61駆逐隊の一員としてZ作戦への参加が決まる。Z作戦とは、神出鬼没で通り魔的に日本軍拠点を空襲していく敵機動部隊に対し艦隊決戦を挑む作戦の事で、「翔鶴」「瑞鶴」「金剛」「榛名」といった有力な艦が戦力に組み込まれていた。連合艦隊の総力を結集した艦隊は9月18日にトラックを出撃。敵を求めて東進したが、これを察知した米艦隊は引き上げてしまい会敵できなかった。艦隊は9月23日に一度トラックへ帰投した。10月5日、米機動部隊がウェーキ島を空襲。暗号の解析で、近いうちに米軍が作戦を開始すると推察した古賀長官は再び出撃を命じ、Z一号作戦が発令。10月17日に艦隊はトラックを出撃した。ところが米主力艦隊はハワイに停泊している事が偵察機の報告で判明し、空振りに終わってしまった。10月26日、作戦終了。大半の艦艇はトラックへの帰路についたが、「初月」は「涼月」と練習巡洋艦「鹿島」を護衛してマーシャル諸島クェゼリン基地に向かった。
11月10日午前9時18分、ラバウルからトラックに向かっていた特設運送船「東京丸」が米潜「スキャンプ」の雷撃を受け、沈没の危機に瀕していた。「御嶽山丸」による曳航こそ成功したが、未だ窮地に立つ「東京丸」を救うべく「涼月」と出動し、現場に駆け付ける。翌11日午前9時、「初月」と「涼月」から排水ポンプ4台を借り受けて船内から水をかき出す。しかし浸水は止まらず、特設掃海艇「羽衣丸」への乗員退避が始まり、19時45分には総員退船が命じられた。11月12日午前8時、無人になった「東京丸」を「初月」が曳航しようと試みるが、午後12時10分に「東京丸」が右舷側に傾いた事で曳航断念。曳索を切断し、14時55分に「東京丸」は沈没した。悲嘆に暮れる間もなく、次の救援要請が飛び込んできた。ラバウルからトラックに後退中の軽巡「阿賀野」が米潜「スキャンプ」の雷撃で航行不能に陥ったのだ。すぐさま「阿賀野」のもとへ向かい、満身創痍の「阿賀野」を警護する。また軽巡「能代」に率いられた別のグループも到着し、計8隻で「阿賀野」を守り、無事にトラックまで送り届けた。11月20日、丙輸送作戦に従事するべくトラックを出港し、クェゼリンやエニウェトク環礁へ補給物資を輸送した。
12月7日、内地帰投する重巡「筑摩」と空母「瑞鶴」を護衛してトラックを出発。12月12日に呉へ入港し、工廠で修理を受ける。12月23日、「涼月」と宇品港に回航し、ウェーキ島に配備する独立混成第5連隊と戦車第16連隊主力を乗せた特設巡洋艦「赤城丸」と合流。翌日、宇品を出発した。
1944年
1944年1月1日、ウェーキ島に到着して物資を揚陸。内地に帰投して次なる輸送任務に臨む。1月15日、今度は砲兵大隊や工作隊等を乗せた「赤城丸」を護衛して瀬戸内海を出発。しかし今度の航海は平穏なものではなかった。翌16日、豊後水道で米潜「スタージョン」の雷撃を受けて「涼月」が大破。輸送は中止となり、「初月」は瀕死の重傷を負った「涼月」を曳航して宿毛湾に退避。宙に浮いた「赤城丸」を横須賀まで護送した。
内地の備蓄燃料は減少の一途を辿り、今や訓練にすら支障が出始めた。このため連合艦隊は燃料が豊富な南方の泊地へと追い立てるように艦艇を逐次出発させていた。2月6日、洲本沖で空母「翔鶴」「瑞鶴」、重巡「筑摩」、軽巡「矢矧」と合流して出発。2月13日にシンガポールへ到着し、リンガ泊地に回航して訓練を行う。3月15日、内地向けの物資を積み込んでシンガポールを出港し、駆逐艦「若月」とともに3月21日に呉へ帰投。第61駆逐隊司令天野重隆大佐が座乗し、戦隊旗艦となる。3月28日に物資を積載して呉を出港し、八島泊地で待機中の新鋭装甲空母「大鳳」と合流。「大鳳」を護衛して、4月4日にシンガポールまで辿り着いた。翌日リンガ泊地に移動して対潜掃討と発着艦訓練を行う空母の警備艦を担当する。
5月11日、「あ号作戦」発令に伴ってリンガを出港。5月15日午前10時30分に想定した戦場により近いタウイタウイ泊地へと進出し、湾外の対潜掃討を行って安全確保に努める。しかし湾外では米潜水艦が跳梁跋扈しており、思うように空母の発着艦訓練が出来なかった。5月22日には千歳が実際に雷撃され、被害こそ無かったものの訓練が中止となる一幕もあった。対潜掃討を行う駆逐艦も立て続けに撃沈されてしまい、駆逐艦の派遣が取りやめになるほどの損害を受けた。敵機動部隊のマリアナ諸島来襲の報を受け、6月13日午前9時30分、小沢治三郎中将率いる機動部隊の一員に加わってタウイタウイを出撃。翌14日14時にギマラス泊地へ到着して夜通しの燃料補給を行い、6月15日午前8時に出発。サンベルナルジノ海峡を通過して太平洋に進出し、道中で渾作戦に参加していた戦艦「大和」「武蔵」、軽巡「能代」等を加えてサイパン方面に進撃する。
6月19日、マリアナ沖海戦に参加。旗艦「大鳳」の左舷後方1500mに占位して護衛任務に従事する。しかし右舷側から敵潜「アルバコア」が放った魚雷が伸びてきて「大鳳」が被雷。姉妹艦「秋月」とともに主隊から分離し、下手人の「アルバコア」を追い回して爆雷を投下。追い詰める事には成功するが、結局逃げられてしまった。被雷から約6時間後、「大鳳」は沈没。小沢中将は体勢を立て直すため西方への退避を命じた。翌20日早朝、3つのグループに分かれていた艦隊が一ヵ所に集結して燃料補給を受ける。「初月」は臨時旗艦となった「瑞鶴」の左舷側に占位。夕刻、米機動部隊から発進した約200機の敵艦上機と交戦。機銃3000発以上と砲弾189発を撃って奮戦し、「瑞鶴」を守り通した。「あ号作戦」は中止となり、小沢艦隊は沖縄の中城湾に退避。湾内にて「初月」は「瑞鶴」に対し数百トンの給油を行っているが、駆逐艦から大型艦に給油するのは異例との事。6月24日、瀬戸内海に帰投。呉工廠で入渠整備を受ける。
7月23日、連合艦隊から海上護衛隊に貸し出された「初月」は、南方方面に向かう輸送船団の護衛に従事する。7月25日に「秋月」と瀬戸内海を発ち、横須賀へ回航。7月30日、空母「瑞鳳」を護衛して出港し、父島を経由して硫黄島に向かう船団の間接援護を実施。8月1日に無事船団が硫黄島に到着したため任務を終了。横須賀に帰投した。約2ヶ月前に撃沈された夕雲型駆逐艦「風雲」の艦長、橋本金松中佐が二代目艦長として着任。
余談だが、8月25日にはあの幸運艦「雪風」と対潜訓練する機会を得ている。
10月17日、アメリカ軍の大部隊がレイテ湾スルアン島に上陸。これを受けて連合艦隊は翌18日に捷一号作戦を発令する。ブルネイに進出中の栗田艦隊がレイテ湾に到達できるよう、艦載機を失って失業状態となっていた空母を囮にするという非情の決断が下された。10月20日、空母「瑞鶴」「瑞鳳」「千歳」「千代田」、戦艦「伊勢」「日向」、巡洋艦「大淀」「多摩」からなる小沢艦隊を護衛して豊後水道を出撃。台湾への偽装航路を取りながら、フィリピン北東沖を目指す。10月24日、戦艦「伊勢」や「日向」とともに夜襲を仕掛けるべく先行。敵を求めて南進したが、会敵せず本隊へ復帰。
10月25日午前8時15分、第一波の敵艦上機群180機が大挙して襲来してエンガノ岬沖海戦が生起。小沢艦隊は激しい攻撃を受け、次々に艦が被弾。午前8時50分、「秋月」が突然爆発を起こして6分後に沈没。5発の直撃弾を受けた「千歳」もまた午前9時37分に息絶えた。軽巡「多摩」は被雷により戦線離脱した。午前10時頃、第二波の36機が襲来。被弾により「千代田」が大破漂流し、以降行方知れずとなる。4隻の空母から発進した18機の直掩機がいて17機を撃墜したが、米軍機の反撃で12機にまで減少。敵の第二波攻撃が終わると、これらの直掩機は燃料切れで午前11時頃から次々に着水。「初月」は機から搭乗員を回収した。13時頃、第三波の約200機が襲来して生き残っている「瑞鶴」と「瑞鳳」を滅多打ちにする。戦闘の影響で小沢艦隊は散り散りになり、広い海域に点在している状態となる。
最期の突撃
14時14分、旗艦の「瑞鶴」が沈没。乗組員、第601、第653航空隊の生存者千数百名が波間に漂っている。「初月」と「若月」は敵機の攻撃を捌きながら、戦闘の間隙を縫って救助活動を実施。ロープ、縄梯子、内火艇をフルに使って生存者を救い上げる。「若月」では「一名たりとも残すな」との指示が出ていたという。2隻の献身的な救助により、瑞鶴乗員866名が助けられた。すっかり辺りが暗くなった18時15分、北方より軽巡「五十鈴」が姿を現した。「五十鈴」は南方で大破漂流中の「千代田」救助の任を帯びており、「初月」と「若月」に位置を尋ねてきた。しかし2隻とも詳しい位置を知らなかったため、「五十鈴」に協力して一緒に南下する事に。
18時44分、「五十鈴」の右舷側に突如として水柱が高々と築かれた。追撃のため派遣されてきた、デュボース少将率いる米第34任務部隊からの砲撃だった。デュボース艦隊は漂流中の「千代田」にトドメを刺したのち、貪欲に戦果を拡張しようと北上を続けていたのである。敵の戦力は重巡2隻、軽巡2隻、駆逐艦12隻の計16隻。軽巡1隻と駆逐艦2隻の日本側に勝ち目は無く、逃走を図る。「五十鈴」は小沢中将に敵艦隊と遭遇した事と捜索中止の旨を打電し、「初月」は煙幕を張ってジグザクに航行。攻撃を振り切ろうとするもレーダーを標準搭載している敵艦隊には無意味だった。加えて敵の方が優速であり、このままでは追いつかれてしまう。彼我の距離が6海里にまで縮まった時、「初月」は大きな決断を下す。
「我、艦載内火艇収容のため引き返す」
手旗信号で僚艦に意思を伝えると、「五十鈴」「若月」を逃がすため「初月」は反転、単艦で16隻の敵艦に突撃を開始した。時刻は19時を指しており、宵闇に隠れながら「初月」はデュボース艦隊に接近。魚雷の発射体勢を取り、敵艦隊に回避を強要する(しかし先の空襲の際に魚雷を投棄してしまっている)。精鋭のデュボース艦隊は魚雷攻撃を警戒して回避運動に徹し、懐に入られないよう9隻の駆逐艦で行動を妨害。そこから包み込むように軽巡と重巡による砲撃と、隙の無い必殺の構えで「初月」を圧倒する。対する「初月」も巧みな回避運動を実施し、米軍のレーダー射撃を不満足なものにした。敵駆逐隊から一斉に放たれた魚雷も回避している。砲撃を受け、火災が発生するも「初月」は怯むことなく踏みとどまり続けた。この炎を遠巻きに見た僚艦は「初月」が沈没したと思ったという。
攻撃を回避しながらも「初月」は反撃し、最新鋭の高角砲を水平に撃ちながら攻め立てる。砲弾の破片で重巡「ウイチタ」乗員一人が負傷した。しかし逃げながらの反撃だったためか思うように命中弾は出なかった。一方、包囲するデュボース艦隊では「初月」を阿賀野型巡洋艦と誤認していたようで、駆逐艦相手の割には及び腰な射撃を米軽巡「サンタフェ」に指示している。「五十鈴」「若月」が米軍のレーダー圏から離脱したのを確認した「初月」は北上し、自身も撤退を開始する。そんな「初月」に20時12分、米駆逐隊は雷撃と砲撃を開始。
1時間もの間、16隻からの攻撃を回避し続け、米艦隊を翻弄する「初月」。ところが彼我の距離が5400メートルになったところで米軽巡「サンタフェ」が照明弾を上げる。これにより集中攻撃を受け、「初月」の速力は20ノットに低下。20時36分、デュボース少将は重巡「ウイチタ」に「9000メートルから攻撃しろ」「可能なら前進して攻撃せよ」との指示を下す。なおも動き回る「初月」だったが、20時45分に浴びた命中弾が致命傷になり、ついに航行不能となる。
そして突撃から2時間後の21時、ついに「初月」は爆発し炎上。その身を海へと没していったが、沈没する寸前まで砲撃を繰り返していたという。「初月」が命がけで稼いだ2時間は、味方の撤退を完了させた。まさに獅子奮迅の活躍と言えるだろう。
沈没していく「初月」を見て、米軍は初めて敵が駆逐艦であると気づいた。秋月型は駆逐艦の中でも大型で、米軍は巡洋艦クラスの阿賀野型、夕張型、青葉型などが交戦中の敵艦(初月)の候補に挙がっていたようだ (ただし「Terutsuki class destroyer」というほぼ正確な予測も候補として挙がっており、全ての米艦艇が誤認をしていたわけではない。)。この戦闘で米巡洋艦が放った徹甲弾は1200発以上。2時間近く足止めされた挙句、燃料も弾薬も消費した米艦隊は小沢艦隊追撃を断念。レイテに引き返さざるを得なかった。敵の正体が駆逐艦だと知ったデュボース少将は「断腸の思いだ」と呟いたと言う。たかだか駆逐艦1隻のためにここまで振り回されたのだから彼の心境は複雑だっただろう。戦いの舞台となったエンガノは、スペイン語で「詐欺」を意味する。なんとも皮肉な地名だろうか。
1944年12月1日、第61駆逐隊は解体され、「初月」も12月10日に除籍された。「初月」の乗員は後述の内火艇に乗っていた者を除き、290名全員が戦死。このため「初月」の突撃は全て米軍から記録されたものである。
その後
突撃前、「瑞鶴」乗員を救助するため1隻の内火艇が「初月」を離れた。この内火艇は回収されず、「初月」突撃後も海に浮いていた。乗っていたのは「初月」と「瑞鶴」の乗員約40名。しかし運が悪いことに内火艇のエンジンが故障しており、彼らは漂流していた。水や食糧は一切無く、雨水や小便まで飲んで生きながらえた。中には発狂し、海水を飲んで死亡した人もいたという。
黒潮の流れに乗って、北へ北へと流された内火艇は21日の漂流を経て、台湾沖の紅頭嶼という孤島に流れ着く。ここでようやく救助され、「初月」乗員8名と「瑞鶴」乗員19名が助かった。
当然ながら、彼らは「初月」最期の突撃には参加していない。
関連項目
- 2
- 0pt