龍鳳単語

リュウホウ

龍鳳とは、大日本帝國海軍に所属していた空母である。龍鳳の前身は大鯨という潜水母艦であった。
艦名の龍鳳は、鳳凰を意味する。大鯨時代の艦歴はこちら→大鯨

概要

1941年12月18日大東亜戦争勃発に伴い軍は潜水母大鯨横須賀へと回航。空母にするための装工事を始めた。装工事自体は3ヶ程度で終了する予定であったが、不調の多いディーゼルエンジンを蒸気タービンに換装する作業や、4月18日のドゥーリットル襲で受けた被害の修復などで大幅な遅延が発生し、工事が了したのは1942年11月28日だった。

諸元は排水量13360トン、全長215.65メートル、全幅19.58メートル速度26.5ノット、52000、乗員989名。大鯨時代とべて排水量が減少(14400→13360)しているが、空母の中では大の体を有している。
兵装として九六式二五ミリ三連装機10基、十二.七センチ連装高4基が搭載された。航空機の内訳は常用機24機、補用機7機となっている。
装に関しては瑞鳳に準じており、差し詰め龍鳳は準瑞鳳と言えた。所々瑞鳳との差異が見受けられ、対兵装は瑞鳳よりも強化されている。さらに龍鳳の特徴として飛行甲が強度甲となっている。飛行甲の全長も瑞鳳べて約5メートル延伸。排水量に関しても瑞鳳より2000トン多く、船体もやや大化している。
格納庫スペースが乏しいため31機の搭載機全てを格納する事が出来ず、何機かは露駐機となっていた。艦載機の計画定数は艦戦21機、艦攻9機とされている。また瑞鳳と同様に、羅針艦に操室が設けられた。その羅針艦の後方には、両舷に突き出た補助艦があり、左側の艦には防揮所があったため戦闘と呼ばれたという。

瑞鳳と形状が似ている事から、識別のため艦尾に「りゅ」という文字を描いている。

瑞鳳28ノットを発揮できたのに対し、龍鳳は1.5低い26.5ノットが限界だった。この速の差が後に龍鳳の運命を左右する。

戦歴

1942年

1942年11月28日、工事を了し、30日に龍鳳と命名。第三艦隊へと編入され、初代艦長に亀井凱夫大佐が着任。
空母として生まれ変わった龍鳳だったが艦載機を保有していなかった。

11月30日から12月10日にかけて新艦上攻撃機山の運用試験を瑞鶴とともに実施。12日からは同じ空母であるとともに横須賀を出港。トラック基地に陸軍飛行第45戦隊99式双発軽爆撃機22機と付属部隊を輸送しようとしたが、八丈付近で待ち構えていた潜水艦ドラム魚雷が右舷艦橋下に命中。陸軍兵員45名を含む100名以上が死傷した。この損傷で龍鳳は横須賀に引き返し、修理を受けた。初めての外洋航は散々な結果に終わってしまい、龍鳳は修理だけで1942年内を終える事になる。
龍鳳が輸送しようとした陸軍機は瑞鶴によってトラックまで運ばれた。

1943年

年が変わって19431月15日五十戦隊(訓練部隊)が新設される。正規空母ソロモン方面へ派遣されていたため、内地にいた龍鳳と鳳翔が第五十戦隊に編入された。これにより築航空隊と鹿航空隊の訓練に付随し、搭乗員の育成に当たる事となった。
2月10日修理了し出渠。3月19日横須賀を出港しへ回航。瀬戸内にて新搭乗員の発着艦訓練に従事する。また撃訓練の標艦にもなった。

6月10日、被した飛鷹の代わりに艦載機を載せて翌日柱を出航。この時、飛鷹航空隊が龍鳳へ転属。ここでようやく龍鳳は自前の航空隊を得る。
12日に第三艦隊第二航空戦隊所属となる。横須賀に寄港し、飛鷹整備員を乗艦させる。龍鳳には飛鷹航空隊全機を搭載し切れないため、あふれた機は硫黄島、テニアンを経由してトラックに向かった。16日、龍鳳も戦艦金剛らとともにトラックす。トラック入港直前に潜スピアフィッシュに撃されるも回避し、21日にトラック到着。大分の第十二航空隊出身の若手搭乗員を鍛えるため、訓練を開始。

7月2日、龍鳳航空隊の零戦11機と九九式艦爆13機をブインに派遣。三日後には零戦20機、九九式艦爆5機、九七式艦攻12機をブインに派遣した。供出した航空機は、4日と7日に行われた
軍協同のレンドバ攻撃に参加。12日、ニュージョージアライス港を攻撃し、17日にはブインに来襲した海兵隊第13軍を邀撃した。一連の戦闘で搭乗員4名の戦死者を出す。
8月1日、龍鳳所属の九九式艦爆6機がレンドバ魚雷艇基地を襲。PT164とPT117を撃沈した。
米軍機とのしい戦闘により、送り出した航空隊は1ヵ半で消耗。そのまま現地部隊に吸収され、ラバウルカビエンを転戦していく事となる。

7月15日、補充として飛鷹航空隊が龍鳳へ転属。19日にはとともにトラックを出港し、24日にへ帰投。その後は再び発着艦訓練に従事。8月15日までに、ブインに派遣した龍鳳戦闘機隊は約30機の敵機を撃墜した。しかし損耗も大きかったため二航戦を立て直すべく、9月1日より再編成が行われた。内地は燃料不足だったため航空隊は南方で訓練を実施した。
10月6日を出撃。岩佐伯湾に寄港したあと輸送任務のため、駆逐艦初春に護衛されて三亜とセレターに入港。11月25日、柱を出航。護衛に
駆逐艦初春初霜谷風をつけ、航空機輸送の的で飛鷹とマニラ、セレタータラカンパラオトラックサイパンを巡る。
12月27日カビエン輸送作戦支援のため進藤少佐率いる零戦21機がカビエン基地に進出する。

1944年

1944年1月1日カビエンに派遣された龍鳳航空隊は三号輸送作戦に向かう軽巡能代大淀支援。途中、艦載機に襲撃されるも輸送作戦は成功した。続いて4日、巡洋艦妙高羽黒利根駆逐艦2隻を援護。輸送部隊とカビエンを狙った艦載機を邀撃した。

一方、母艦の龍鳳は1月2日サイパンから帰投しへ入港。17日から因造船所に入渠し整備を行う。
25日、二航戦は零戦69機、九九艦爆18機、九七式艦攻27機をラバウル派遣。配備された航空機はすぐ陸上基地に供出されてしまい、龍鳳の元にはど残らなかった。
龍鳳が送り出した戦闘機隊はラバウル等で戦果を挙げ、敵機を約40機を撃墜した。しかし損耗もしく、2月中旬には稼動機が僅か4、5機という有様だった。これに伴いトラックへ後退、戦闘機隊の戦いはひとまず終わった。

3月4日、第652航空隊を二航戦の各空母に搭載する事になり、龍鳳は久方ぶりに艦載機を手にした。

3月19日を出港。鹿児島で第343航空隊の零戦を、伊勢湾で第523航空隊の彗星を搭載。瑞鳳と合流し、駆逐艦山雲初霜雪風の護衛を伴ってサイパンへと向かった。4月8日へ帰投し岩へ回航される。
5月11日隼鷹等からなる機動部隊とともに佐伯を出港。16日にタウイタウイ泊地へ入り、訓練を行う。しかし泊地が状態だったため発着艦訓練は出来なかった。そして「あ号作戦」が発され、6月13日タウタウイを出港。ギマラス寄港後、龍鳳は第二航空戦隊(僚艦に飛鷹隼鷹)の一員として、部隊に加わりマリア戦に臨んだ。

19日、龍鳳は隊に次いで航空隊を発進させたがこの攻撃は失敗に終わった。しかしその間にも機動部隊は虎の子の翔鶴大鳳を喪失してしまっていた。
20日、薄暮攻撃を実施するも戦果し。そして遂に機動部隊の逆襲が始まり、各艦はしい攻撃に曝された。第六次にも及ぶ敵の執拗な攻撃に僚艦の飛鷹が撃沈され、隼鷹も大破。龍鳳は攻撃を捌きながら、抜けた2隻のを1隻で支えていた。護衛の駆逐艦時雨に護ってもらいながら戦闘を続けていた龍鳳に、頭上から敵機が急降下爆撃を仕掛けてきた。反応が遅れた龍鳳であったが、すんでの所で船体を大きく傾け、奇跡的に回避。直撃弾は至近弾になった。もう少し反応が遅ければ位置的に致命傷を負っていたという。回避の際、あまりにも傾斜させたため艦上の零戦3機がへと転落してしまった。攻撃は続き、18時10分エンタープライズ所属の敵機から投弾を受け小破。再建した機動部隊は壊滅、一連の対戦闘で戦死者を出さなかった事が龍鳳乗員一の慰めであった。第二航空戦隊79機の航空機を失った。

戦終了後、龍鳳ら残存部隊は6月22日に中湾へ退却。24日に柱へと帰投した。7月9日からはで飛行甲の修復と対兵装の強化が行われた。この時、新機運用のため飛行甲が延伸され、船体を対迷彩に染めている。
7月10日、第二航空戦隊は解隊となり、付随していた第652航空隊も解隊された。

8月10日、第三艦隊第四戦隊に編入。22日に屋へ回航。
9月29日からは、岩、屋、徳山、大分、門、油湾、佐世保など内地を転々とする。

艦載機の不足により龍鳳に空母らしい戦闘を行う機会は二度と訪れなかった。その後は輸送任務に従事し続ける事になる。10月下旬に行われたレイ決戦には不参加となり、龍鳳は内地で待機した。台湾沖航空戦航空機を払底してしまい、龍鳳に載せる分がかったのである。龍鳳の速が26ノットと低速だったのも、残留を後押しした一因であろう。10月25日台湾航空機を輸送するため佐世保を出港。海鷹に護衛されて27日に基へ到着した。11月2日に戻る。
11月7日に停泊していた龍鳳は、雲龍から小沢三郎中将の将旗を継承。第一機動艦隊の旗艦となるが、8日後に解隊されたため龍鳳が機動部隊最後の旗艦になった。そして第一航空戦隊へと編入された。
12月21日、ミンドロに特攻機桜花を輸送する事が決定。龍鳳は58機の桜花を積載したが、先に輸送していた雲龍が撃沈された事を受け、行き先を台湾へ変更。31日、ヒ87船団に加わり門を出撃。護衛を伴って台湾に向かった。

1945年

1945年1月3日襲警報により船団は舟北方泊地に退避。襲を避けるため船団を分離、基港で合流を果たした。9~10日、高雄寄港中に米軍機の襲に遭う。龍鳳はTBFアベンジャー12機と交戦し、1機を撃墜。翌日、基へ赴き、磯風とともにタモ35船団の護衛してへ帰投。ちなみにこの航日本空母最後の外洋航だったという。
帰投後、龍鳳は練習空母となり瀬戸内で訓練に勤しむ。2月中旬から下旬にかけて、龍鳳乗組員には二泊三日の休暇が与えられた。それまで龍鳳での生活は休だったという。三班に別れて上陸し、束の間の休みを堪した。

3月19日軍港が大規模な襲に見舞われる。警報が発せられた時、龍鳳は空母としてはしく港のに停泊していた。そこへ艦載機が襲い掛かり、飛行甲に直撃弾を喰らう。この時、火柱が100メートル以上にまで昇ったという。火災が発生し、大きな煙を噴き出しながらも微速で港外へと脱出。吉で回避運動をすると同時に反撃を行った。反撃してくる上、空母だった龍鳳は集中攻撃を浴びた。三次に渡る襲により、龍鳳は3発の爆弾と2発のロケット弾を喰らう。この猛攻撃で飛行甲に10メートルもの大が開いて大破、第一ボイラー室は使用不能、左舷側部にも大破孔が生じるなどのダメージを受け、乗員12人が死亡した。さらに艦尾が1.8メートル沈下している。
23日、鳳翔とともに第二艦隊へ編入。かなりの損傷を負ったにも関わらず龍鳳は31日、を機封鎖しようと来襲したB-29に対し対戦闘を行っている。

4月1日修理不能と判定され、飛行甲に開いた大穴を塞ぐ応急処置だけ受けた。6日、沖縄救援のため出撃準備をしていた軽巡矢矧から若手の補生たちが退艦し、龍鳳へ移乗してきた。日本未来の担い手を水上特攻に費やすのは妥当ではないという上層部の判断によるものだった。その後、出撃する戦艦大和以下第二連合艦隊を龍鳳乗員たちが見送った。20日、第二艦隊は解隊され、龍鳳は呉鎮守府第四予備艦となる。

6月1日江田島に回航され、戦艦榛名の前方に係留された。特務警備艦となり、対要員以外は下艦。防台として扱われる。
7月1日から米軍を誤魔化すため、擬装する作業が始まった。

7月24日28日の襲では係留されたまま対戦闘。高、機のみならずロケットまで使って抵抗。34名の戦死者を出すも、事に二度の襲を生き延びている。30日、呉鎮守府長官の示により、大破着底した各艦から25ミリ単装機が集められ龍鳳周辺に対地が築かれた。軍軍需部から借り出された25ミリ単装機10基が艦側の陸上に配置され、翌日には利根から譲渡された25ミリ単装機10基が龍鳳の防地に転用された。

そして8月15日の敗戦を迎えた。大破していたが、の上に浮いた状態で生存11月30日、除籍。
相当な被害を受けていたにも関わらず一見事のように見えた事から復員船として修理する計画があった。しかし航行不能なのと損が酷すぎる事から復員船にはなれず、1946年4月2日に播磨造船の手により解体開始。9月25日、解体が終了し龍鳳は静かにこの世を去った。大鯨として生まれてから約11年4ヶもの間、波乱に満ちた艦歴はここで幕を下ろしたのだった。

関連商品

龍鳳に関するニコニコ市場の商品を紹介してください。

関連コミュニティ

龍鳳に関するニコニコミュニティを紹介してください。

関連項目

【スポンサーリンク】

スマホ版URL:
https://dic.nicovideo.jp/t/a/%E9%BE%8D%E9%B3%B3

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

龍鳳

1 削除しました
削除しました ID: FpXe0oAzYu
削除しました
2 TL_BASIC
2016/05/26(木) 13:34:57 ID: eCr8SyuAWQ
劉邦
3 ななしのよっしん
2016/05/26(木) 15:03:00 ID: XeBklpx/ol
項羽セットだな。
4 ななしのよっしん
2016/05/26(木) 17:25:48 ID: VDnyAIUfUF
マイナーな艦扱いされているけど、
生き残って終戦を迎えただけでも凄いんだよなあ・・・。

急上昇ワード