永山則夫連続射殺事件(ながやまのりおれんぞくしゃさつじけん)とは、1968年に発生した連続殺人事件であり、少年犯罪である。
概要
犯行当時19歳の少年・永山則夫が、盗んだ拳銃を使用して東京、京都、函館、名古屋で起こした連続殺人事件。初めは拳銃を盗んだことが発覚することを恐れて、後には金目的で殺人を犯した。
少年犯罪に死刑を適用するか否か慎重な検討がなされた結果、最高裁が示した死刑の適用基準は「永山基準」と呼ばれ、現在に至るまで判例の参考とされている。
永山の出自
永山則夫は1949年6月27日、北海道の網走に生まれた。父は酒と博打におぼれた末に蒸発し、母は青森の実家に帰ってしまうなど完全に家庭崩壊した環境で生まれ育ち、学校にもろくに通う事が出来なかった。しかし一方で、妹に頼んで図書館の本を借りてきてもらい読むなどしており、まったくの無学と言う訳でもなかった。貧困と暴力の中で永山は不良少年となり、窃盗なども犯すようになる。
1965年に集団就職で上京した。はじめ果物屋に勤めていたが、この時偶然にも少年ライフル魔事件を目撃し、強い興奮をおぼえている。仕事ぶりは順調だったが、故郷での窃盗の件がばれるのではないかと疑心暗鬼になり、以降は職を転々とするようになる。と同時に、自分を助けてくれない兄たちに対して失望し、再び窃盗を犯して逮捕されている。
1966年に米軍横須賀基地に窃盗目的で侵入し、逮捕される。釈放後も前科者とバレるのではないかという被害妄想から転職を繰り返した。事件を起こす頃には横浜で日雇いの生活を送っていた。
1968年10月初め、永山は再び横須賀基地に侵入すると、拳銃、実弾、ジャックナイフほかを窃盗した。これが事件の幕開けであった。
第1の事件・東京事件
永山は拳銃に弾をこめ、それをポケットに隠し持ったまま東京を遊び歩いていた。10月10日の夜、東京タワーのベンチで寝ていた永山は、目を覚ますと東京プリンスホテルの灯が見えたため、そちらへ向かうことにした。
そして日付が変わって11日未明、プリンスホテル敷地内を徘徊していた永山はホテルの警備員男性(当時27歳)に呼び止められた。「ちょっと来い」とジャンパーを掴まれたため、このままでは窃盗がバレると感じた永山は、とっさに警備員の頭を至近距離から拳銃で撃ち抜いて殺害した。
第2の事件・京都事件
事件発覚を恐れた永山は、まだ訪れたことのない京都へ(観光も兼ねて)逃亡した。
10月13日、京都を歩いているうちに八坂神社へと出た永山はそこで野宿しようと考えた。日付が変わって14日未明、永山は神社の警備員男性(当時69歳)に見つかり、声をかけられた。怪しむ警備員に対し永山はジャックナイフを出して脅したが、警備員がひるまず警察への同行を求め近寄ってきたため、またしてもとっさに警備員の頭を撃ち抜き殺害した。
すぐさま逃走しようとした永山であったが、パトロール中の警官2名が近づいてくるのが見えたため茂みに身を隠した。警官の一人が茂みの物音に気付き「出てこい!」と大声を出したが、もう一人が警備員の遺体に気づき「殺人だ!」と叫び、茂み近くにいた警官もそちらに向かったため、隙を突いて永山は逃走した。
第3の事件・函館事件
二人を殺害してしまった永山は錯乱し、故郷網走で自殺することを考えるようになる。次兄に列車代などを無心して永山は北海道へと渡った。
ところが、死ぬ前にと札幌市内を観光しているうちに自殺願望が薄れてしまった。東京へ帰ろうとしたが旅費がなくなり、なんとか函館に着いたところで「拳銃でタクシー運転手を殺害して金を奪おう」と決意する。10月26日深夜、タクシーに乗った永山は郊外で運転手男性(当時31歳)の後頭部を拳銃で撃って殺害し、売上金7000円と所持金200円を奪い、逃亡した。
第4の事件・名古屋事件
北海道から横浜に戻ってきた永山は港の荷卸しなどの日雇い生活を送るが、逮捕されることを恐れて名古屋へ逃走した。
11月5日未明、ここでも港の仕事を求めて歩いていたところをタクシー運転手男性(当時22歳)に呼び止められた。話し方などから東京(関東)の人間であることを見抜かれた永山は、一連の事件の犯人だとバレるのではないかと疑心暗鬼に陥り、また所持金も少なかったため、ここでも再びタクシー運転手を拳銃で殺害し、売上金7000円などを奪った。
第5の事件・原宿事件 ~ 逮捕
名古屋事件で初めて相手が流血するのを見た永山は、横浜へ戻ると拳銃を土中に埋め、日雇いの仕事に戻った。11月になると東京へ移り、喫茶店で働いた。
警察は京都事件以降、同一犯による連続殺人と判断して捜査を進めていたが、犯行の関連性が薄く捜査は難航していた。
翌1969年になって、永山は埋めておいた拳銃を掘り出した。そして4月6日に明治神宮の森に再び拳銃を埋めることを決意したが、暗くなるのを待っていたところ、神宮への参道が柵で封鎖され、警備員もいたためいったん引き返した。金もなかったため専門学校「一橋スクール・オブ・ビジネス」の事務所に侵入して窃盗を犯していたところ、警報装置にひっかかり、警備員男性(当時22歳)が駆け付けた。逮捕されてこれまでの犯行がバレることを恐れた永山は警備員に発砲したが命中せず、警備員をまいて神宮の森に逃げ込んだ。
これを受けて警視庁が緊急配備を行い、翌4月7日早朝、森の中から出てきた永山を警官が職務質問し、拳銃を持っていることが発覚したため、遂に永山は逮捕された。警察署に身柄を移された永山は、4件の殺人事件に関わったことも認めたため、殺人容疑で改めて逮捕された。
永山は取り調べに対し、金欲しさと家族への当てつけであったと述べた。
第一審
事件の内容については認めたが、同時にこれは資本主義社会のひずみが生み出した事件であると永山は主張。石川五右衛門の辞世の句をもじって「月の真砂は尽きるとも、資本主義のある限り、世に悲惨な事件は尽きまじ」と詠んでいる。
この裁判と並行して、1971年3月に獄中手記「無知の涙」を発行した。これがベストセラーとなり、印税は被害者遺族へと寄付された(受け取りを拒否した遺族もいる)。またこれを読んだ著名人らが永山の助命に動くようになる。
1971年6月、論告求刑で検察は永山に死刑を求刑した。ところが、残すは最終弁論と判決というところで永山は突如弁護団を解任する。これによって裁判のやり直しへと強引に持っていき、以後延々と引き伸ばし策が続いた。
- 裁判長が異動のため交代することになり、その手続きは通常簡略化されるところを、厳密に行うよう要求。
- やり直しになった裁判で、冒頭陳述(原稿用紙2000枚分)を1年かけて朗読。
- 名古屋事件と原宿事件の間に、静岡で発砲事件を起こしていたことを自白。
- 名古屋事件後に既に警察は永山が犯人であることをつかんでいて、敢えて泳がすことで少年法を厳しく改悪しようとしていた「権力犯罪」であると主張。
- 警察が静岡事件を見逃しているのに裁かれず、そこで捕まらなかったせいで原宿事件を起こした永山が裁かれるのは法の下の平等に反すると主張。
- 2回目の精神鑑定を要請して裁判が1年半停止。
- 弁護団が全員欠席して裁判が行えない。
…と言う事が繰り返され、裁判長が3回、弁護団も3回交代した。裁判開始から10年経った1979年、改めて検察は死刑を求刑。同年7月10日、ついに永山に死刑が言い渡された。
控訴審
永山側は控訴したが、事実関係は認めたため、控訴審では情状面について争われることになった。
ここでは永山と獄中結婚した妻(のち離婚)や「無知の涙」出版元の元編集長などが情状酌量を求めた。また永山も裁判で反抗的な面を出さずに素直に応答するなど心境の変化を見せた。
1981年8月21日、東京高裁は永山に無期懲役を言い渡した。
上告審
検察はこれに大きな衝撃を受けた。しかし、量刑不当だからという理由で最高裁へ上告することは出来ない。上告理由は控訴審に「憲法違反・判例違反があった場合」に限られている。検察は過去の事件を徹底的に洗い、反論材料を探して、上告することを決めた。
- 1948年の死刑合憲判決で、死刑の威嚇力で社会を防衛するとしている。本件は著しい社会悪である。
- 過去に小松川事件(当時18歳の少年が女性2人を殺害して死刑)などの判例があり、年齢や生育環境は死刑判決を回避する理由にならない。
- 控訴審は永山の情状を不当に重く評価しており、他の事件と比べ量刑が軽すぎる。
対して、上告を受けた最高裁もこれを重く受け止め、過去の事例と比較しながら慎重な審議が行われた。この事件を担当したのは第二小法廷だが、第一・第三小法廷にも意見を求めており、佐木隆三はこれを「事実上の大法廷」と評した。
結果、上告は受け入れられた。1983年7月8日、最高裁は控訴審を破棄し、審理の差し戻しを命じた。量刑不当を理由に最高裁が差し戻しを命じたのは戦後初の事例であった。
この時、最高裁が初めて死刑適用基準を詳細に明示した。以後、これは「永山基準」と呼ばれるようになり、拘束力はないが大きな影響を持つことになった。(以下はウィキペディアより引用)
1.犯罪の性質
2.犯行の動機
3.犯行態様(特に殺害方法の執拗性、残虐性)
4.結果の重大性(特に殺害された被害者の数)
5.遺族の被害感情
6.社会的影響
7.犯人の年齢
8.前科
9.犯行後の情状
それぞれの項目を総合的に考察したとき、刑事責任が極めて重大で、罪と罰の均衡や犯罪予防の観点からもやむを得ない場合には死刑の選択も許される。
差し戻し控訴審
永山は無期懲役が望めなくなってきたことに憤り、弁護団と対立するなど言動は過激化し、妻とも離婚した。1987年3月18日、東京高裁は第一審を支持し、永山に死刑を言い渡した。
差し戻し上告審
永山は上告。死刑は憲法違反、当時の永山の精神年齢は18歳未満の未成熟であった、といった理由で減刑を求めた。が、1990年4月17日、最高裁は永山の上告を棄却した。それでもなお判決内容に誤りがあると申し立て書を提出するも棄却され、5月9日、永山の死刑が確定した。事件から20年以上が経ち、時代は平成になっていた。
作家活動
これらの裁判と並行して、永山は作家として数々の作品を発表していた。1983年には小説「木橋」が新日本文学賞を受賞している。このため、日本文藝家協会への入会を申請したが拒否された(これに反発して筒井康隆らが会を脱退している)。死刑確定後は国際人権擁護団体が助命を訴えるなど、世界的に影響力を及ぼした。
死刑執行
独房から出された永山は、すぐに刑務官に囲まれたことで死刑が執行されることを悟り激しく暴れたが、刑務官たちに(暴力的に)制圧された。そして気を失ったまま、縄をかけられて処刑されたという。通常は死刑囚の遺体はそのまま引受人に受け渡されるが、永山の遺体は荼毘に付され、遺骨が弁護士に渡された。「制圧」でボコボコに腫れあがった遺体を引受人に見せたくなかったためと言われている。遺骨は故郷の網走の沖、オホーツク海に散骨された。
関連項目
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