スプリングゲント(Spring Ghent)とは、2000年生まれの日本の競走馬。鹿毛の牡馬。
障害転向から怒濤の6連勝を挙げ、屈腱炎を乗り越えて中山グランドジャンプを制した障害馬。
主な勝ち鞍
2006年:東京ハイジャンプ(J-GⅡ)、京都ハイジャンプ(J-GⅡ)、京都ジャンプステークス(J-GⅢ)
2009年:中山グランドジャンプ(J-GⅠ)
父*オペラハウス、母スプリングマドンナ、母父ニッポーテイオーという血統。
父はイギリスのSadler's Wells産駒で、1993年のキングジョージなどG1を3勝。日本に種牡馬として輸入され、平地でもテイエムオペラオーやメイショウサムソンを輩出したが、産駒は特に障害競走に強く、マジェスティバイオやコウエイトライを輩出した。スプリングゲントは6年目の産駒。
母は7戦2勝。スプリングゲントは第2仔。第3仔を出産後は死産や流産が続き2006年に死亡してしまったため、産駒は3頭しかいない。
母父は1987年の天皇賞(秋)とマイルCS、88年の安田記念を制した「マイルの帝王」。種牡馬としては中央重賞馬3頭を出すに留まり、最も有名な産駒はハルウララになる。
2000年4月30日、様似町の堀弘康牧場で誕生。オーナーは「スプリング」冠名を用いた加藤春夫。黄色いメンコがトレードマークであった。
馬名意味は「冠名+都市名(ベルギー)」。ベルギーの名門大学・ゲント大学がある都市(オランダ語の発音は「ヘント」。「ゲント」は英語発音)。
キョウエイマーチやカネトシガバナーを管理した、栗東・野村彰彦厩舎に入厩。2002年12月1日、阪神・芝1600mの新馬戦にて石橋守を鞍上にデビュー、93.6倍の8番人気という人気薄ながら3着に好走(ちなみにこのとき96.4倍の9番人気で2着だったのが後に重賞2勝のギャラントアロー)。同条件の折り返し新馬戦も3着としたあと、明けて3歳初戦の小倉・芝1800mの未勝利戦で勝ち上がる。
クラシックを目指して中距離の500万下に挑むが、5着、8着、3着に終わり、距離を短縮して1400mの500万下を4着、5月の京都・芝1600mのあやめ賞(500万下)で2勝目を挙げる。しかし中1週で挑んだ葵ステークス(OP)は10着に終わり、その後は芝1600m~2000mの1000万下を走るが掲示板入りが精一杯。4歳となって3戦目でダートに切り替えると初戦こそ2着に好走したが、その後はまた惨敗が続く。
500万下に降級後もなかなか勝ちきれず芝とダートの中距離帯をうろうろし続け、5歳となって通算30戦目でようやく3勝目を挙げたが、復帰した1000万下ではやはり通用しなかった。
6歳となった2006年、初戦を8着に敗れたところで陣営は障害転向を決断。すると一転、水を得た魚のようにスプリングゲントの快進撃が始まる。白浜雄造を迎えた転向初戦を4馬身差で快勝すると、それぞれ中2週で向かった阪神、中山のオープンを連勝。平地で3勝を挙げるのに2年半、30戦を要したスプリングゲントは、転向1ヶ月強で3連勝を飾る。
勢いに乗り、5月の京都ジャンプステークス(J-GⅢ)で小坂忠士を鞍上に重賞初挑戦すると、前目でレースを進め、早め先頭から悠々と押し切って3馬身半差で快勝。単勝2.0倍の支持に応え、4連勝で重賞初制覇を飾る。
白浜雄造が戻った6月の東京ハイジャンプ(J-GⅡ)でも1.8倍の断然の支持を受けると、好位から徐々に進出して直線で悠々抜け出す横綱相撲で2馬身半差の完勝。障害転向後無傷の5連勝で、一躍スプリングゲントは障害界の新星となった。
もちろん暮れの中山大障害を目標に定め、一休みして11月の京都ハイジャンプ(J-GⅡ)から始動。雨の中、今度は序盤から逃げを打つと、そのまま他馬を全く相手にせず後続をぶっちぎり8馬身差で圧勝。これで障害転向から無傷の6連勝。小坂忠士騎手はこの年コウエイトライでの3勝を含めて障害重賞年間5勝の新記録を達成した。
これはもう中山大障害では絶対的大本命、このまま障害の絶対王者に! ……なるはずだったのだが。
京都HJの2週間後、右前浅屈腱炎が判明。中山大障害を前に無念の戦線離脱、長期休養に入ることになってしまった。
休養は実に丸2年に及び、スプリングゲントが競馬場に戻ってきたのは8歳となった2008年の秋だった。障害コースで脚に負担をかけないためか、10月のダートの平地1000万下で白浜雄造を鞍上に復帰。以降は引退まで白浜騎手が騎乗することになった。
平地を2戦叩き、そのまま丸2年越しの中山大障害(J-GⅠ)に向かった。16.3倍の4番人気。レースは断然人気のマルカラスカルが後続を大きく引き離して逃げるのを前目で追走すると、なんとマルカラスカルが大竹柵を越えたところで大きく逸走し、一旦マルカラスカルをかわして先頭に立つことに。立て直したマルカラスカルがまた先頭を取り返してきたのでそのまま2~3番手で進めたが、直線で抜け出し押し切りを図ったメルシーエイタイムと、それを猛烈な末脚で差し切ったキングジョイの争いには割って入れず4着。障害では初黒星とはなったが、故障明けでも一線級に通用するところは示した。
明けて9歳は阪神スプリングジャンプ(J-GⅡ)から始動。キングジョイに次ぐ2番人気に支持されると、大きく逃げるマルブツシルバーを2番手で追走し、レース終盤は前がごちゃつく中をインに構えて距離ロスをなくし、直線抜け出しを図ったが、ゴール前で落鉄してしまい、9番人気の伏兵トーワヒヨシマルとの追い比べにクビ差競り負けて2着。
そして迎えた中山グランドジャンプ(J-GⅠ)。ここではマルカラスカルもメルシーエイタイムも不在となったため、キングジョイとの2強対決ムードとなり、3.2倍の2番人気となった。
いつもは好位先行のスプリングゲントだが、ここでは逃げたコウヨウウェーブを始め、キングジョイを含む先行集団が飛ばしていったため、スプリングゲントと白浜騎手は自分のリズムに徹して中団に構える。大生垣を越えたあたりで逃げるコウヨウウェーブ以外の先行集団が力尽き、スプリングゲントは進出を開始。キングジョイと並んで外回りの向こう正面、残り1000mでコウヨウウェーブを捕まえると、あとは後続を突き放してキングジョイとの完全な一騎打ちとなった。ここでキングジョイのインを突いたことが白浜騎手の最大のファインプレー。1000mにわたった追い比べを、最後クビ差凌ぎきったところがゴール板だった。4コーナーの内外が逆なら勝敗は逆転していたかもしれない。
障害転向からの相棒とともに、6連勝からの無念の故障離脱を経て、屈腱炎という長い冬を乗り越え、スプリングゲントは見事春のJ-GⅠのタイトルを勝ち取ったのだった。
……だが、勝利の代償は大きかった。スプリングゲントは秋に左前浅屈腱炎を発症、再び2年半にわたる長期離脱を余儀なくされる。
11歳となった2011年の秋に復帰。以降は毎年、秋にダートの平地を叩いて中山大障害というローテを走ったが、2011年は5着、2012年は4着に終わり、13歳となった2013年は春に左第3中手骨遠位を剥離骨折。秋には同じローテで中山大障害に挑んだが11着に終わり、11年強の長い競走生活に終止符を打った。通算50戦10勝 [10-4-5-31]。
引退後は千葉県成田市の高橋牧場を経て2014年から茨城県阿見町のホースライディングスクウェア・エボルブルスにて乗馬となったが、その矢先の2014年5月にnetkeiba.comの本馬の掲示板
にて亡くなったとの情報が書き込まれている。報道や公式のリリースはない。
| *オペラハウス 1988 鹿毛 |
Sadler's Wells 1981 鹿毛 |
Northern Dancer | Nearctic |
| Natalma | |||
| Fairy Bridge | Bold Reason | ||
| Special | |||
| Colorspin 1983 鹿毛 |
High Top | Derring-Do | |
| Camenae | |||
| Reprocolor | Jimmy Reppin | ||
| Blue Queen | |||
| スプリングマドンナ 1994 鹿毛 FNo.5-e |
ニッポーテイオー 1983 鹿毛 |
*リィフォー | Lyphard |
| Klaizia | |||
| チヨダマサコ | *ラバージョン | ||
| ミスオーハヤブサ | |||
| *ハイランドファンタジー 1989 鹿毛 |
Alleged | Hoist the Flag | |
| Princess Pout | |||
| *シアーファンタジー | Damascus | ||
| Bold Bikini |
クロス:Northern Dancer 3×5(15.63%)、Damascus 5×4(9.38%)
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最終更新:2025/12/24(水) 14:00
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