父を超えることが仔の使命なら、カツラノハイセイコ、
お前ほどの息子がかつていただろうか。父ハイセイコーに似ず小柄な馬体。だが繰り出すフットワークの完璧さ、
並んだら負けない力強さは父を凌ぐ強烈な個性として記憶に新しい。「根性」の真の意味を、「血統」の真の価値を、ターフに全身で主張した闘士よ。
何百万人もの人間を脱帽せしめたヒーローよ。さあ走り続けるがいい、私たちの胸の内に、怪物三世の勇姿の内に。
カツラノハイセイコ(Katsurano Haiseiko)とは、1976年生まれの日本の競走馬・種牡馬である。
主な勝ち鞍
1979年:東京優駿(八大競走)
1980年:目黒記念(秋)
1981年:天皇賞(春)(八大競走)、マイラーズカップ
父ハイセイコー、母コウイチスタア、母父*ジャヴリン。父は70年代初頭に一大旋風を巻き起こしたスターホース。カツラノハイセイコの世代が初年度産駒である。一方の母は不受胎が続き、あわや繁殖牝馬失格となるところだったという馬。この年は元々タケホープをつけるつもりだったが、コウイチスタアが馬体の小さい馬だったので、体が大きくスピードのありそうな種牡馬ということで、中距離が得意で最大540kgでレースに出走した経歴を持つ巨漢馬だったハイセイコーを交配したのだという。ただ、生まれてきたカツラノハイセイコは馬体重450kg程度と小さかったため、ハイセイコーの種牡馬評価を貶める要因ともなった。
父とは正反対の貧相な馬体と言う問題を抱えていたものの、初年度のハイセイコー産駒の中では比較的期待されていた方だったカツラノハイセイコ。しかし、3歳(現2歳)時は6戦1勝と勝鞍はダートの未勝利戦のみ。掲示板は外していなかったが、微妙な成績だった。なお、この時点での唯一の勝鞍は天才の誉れ高き福永洋一の騎乗時に達成している事から、上記の期待度合いも納得していただけよう。
それが1979年、4歳(現3歳)になると突如覚醒。落馬事故でクラシック挑戦時の相棒となるはずだった福永が再起不能という大アクシデントがあったものの、年明けから軽々と3連勝し、スプリングSも2着。皐月賞への期待を抱かせたが、滞在した美浦トレセンの水道水を飲まずに調子を崩してしまいビンゴガルーの2着に敗れ、親子制覇の夢は潰えてしまった。
その後、関西に戻らず東京競馬場で調整。ここではしっかり水も飲んだようで、体調を崩すことなくNHK杯の3着からダービーに出走。ビンゴガルーらを抑えて1番人気に推される。本番はインの10番手あたりでじっくりと進め、直線では馬群を割るように伸びてNHK杯の勝ち馬テルテンリュウを競り落とし先頭に立つ。そこへ8番人気リンドプルバンが不利を受けながら猛然と突っ込んできたが、ハナ差でねじ伏せ勝利。父がタケホープにさらわれた夢を叶えた。そのタケホープは4歳中距離特別を勝ってダービーに臨んでおり、2着に突っ込んできたリンドプルバンも4歳中距離特別を勝ってダービーに臨んでいた。しかも、タケホープの主戦騎手だった嶋田功を乗せて。不思議な運命も絡んだ、まさしく父の無念を晴らす勝利となった。ちなみに、父内国産馬の勝利は1959年のコマツヒカリ以来20年ぶり。当時は、後に内国産種牡馬の雄と言われる戦果を残すことになるトウショウボーイですら繁殖相手に苦慮するなど、内国産種牡馬の評価が低い時代だった。
しかしこの後カツラノハイセイコは夏の間に熱発を見舞われて体調を崩し、秋初戦の京都新聞杯で10着に惨敗。脚部不安や肺炎にも悩まされて結局菊花賞を回避。長期休養に入る。
翌1980年9月に復帰。体調不良の松本に代わって当時関西のニューエースだった河内洋が手綱を取り、初戦のOP特別で2着、京都大賞典3着を経て目黒記念(当時は春秋2回開催)で優勝。堂々1番人気で天皇賞(秋)に乗り込むが、プリテイキャストの大逃げについていけないどころか後続にもズブズブ差され6着惨敗。有馬記念はホウヨウボーイに一度は完全に差し切られながら根性で差し返そうとするもハナ差及ばず。結局この年は1勝に終わる。
1981年、6歳(現5歳)になっても現役を続行。初戦のマイラーズCでは1歳下のダービー馬オペックホースとの、珍しい「マイル重賞でのダービー馬対決(この次が2009年安田記念のウオッカVSディープスカイ)」をすんげー末脚で差し切り勝利。しかし続く大阪杯で不良馬場にやられ6着と惨敗し、さらに体調を崩したという情報も入ったことで、天皇賞(春)はかつてのライバルリンドプルバンに1番人気を奪われてしまう。
レースでは中団馬群でしっかり脚を溜め、淀の坂を下りてペースが上がってもじっと我慢。4角を回った瞬間に素早く動き、馬群を割るように先頭に躍り出る。そこへ外から襲い掛かったのが、奇しくも父ハイセイコーと同じ大井出身のカツアール。勢いはカツアールが優位かと思われたが、カツラノハイセイコは驚異の粘りを見せ、全く先頭を譲らない。杉本清が「見てくれこの根性だ!」と叫ぶ中、カツラノハイセイコは200m近い叩き合いでついに一度も抜かれることなくクビ差振り切ってゴール。またも父が敗れた舞台で勝利して見せた。
この後宝塚記念ではカツアールの雪辱を許すが、絶望的な位置から突っ込んで2着を確保。その後は脚部不安もあって出走せず、そのまま引退。11月に京都競馬場で引退式を行った。その約1ヶ月後、かつての相棒だった松本善登が48歳の若さで逝去。実はカツラノハイセイコに騎乗していた頃には既に肺がんを患っており、この年の2月から療養していたのであった。
父ハイセイコーとは似ても似つかぬ小柄なステイヤー体形ながら、父譲りの凄まじい根性で八大競走2勝を挙げたカツラノハイセイコ。この活躍で、貧相な馬体の産駒が多かったことが災いし種牡馬としての人気が落ちていたハイセイコーに再び光が当たり、サンドピアリスやハクタイセイなど後の活躍馬の誕生につながった。なんという孝行息子。
カツラノハイセイコ自身は、生産の中心から外れた青森県で種牡馬入り。恵まれた環境ではなかったが奮闘し、オークス2着のユウミロクや栃木三冠のカネユタカオーなど複数の地方重賞馬を輩出。ユウミロクは母として名障害馬ゴーカイなどを送り出し、カツラノハイセイコの名を血統表に残らしめている。
種牡馬引退後は栃木県で余生を過ごし、2009年に33歳で大往生を遂げた。
20世紀の名馬大投票では62位。8位の父には遠く及ばなかったが、それでも高い支持を得た。実はテスコガビーやカツラギエース、サクラスターオーより上の順位である。ひょっとしたら父の夢と共に歩んだそのストーリー性ゆえかもしれない。
ちなみに、父ハイセイコーの引退時に増沢末夫騎手が「さらばハイセイコー」を歌い50万枚を売り上げたのは有名だが、これに味を占めたのか1979年に増沢末夫騎手が歌った「いななけカツラノハイセイコ」が発売され、7万枚を売り上げたという。増沢騎手、カツラノハイセイコには乗ったことないんだけど…。
ハイセイコー 1970 鹿毛 |
*チャイナロック China Rock 1953 栃栗毛 |
Rockefella | Hyperion |
Rockfel | |||
May Wong | Rustom Pasha | ||
Wezzan | |||
ハイユウ 1961 黒鹿毛 |
*カリム | Nearco | |
Skylarking | |||
*ダルモーガン | Beau Son | ||
Reticent | |||
コウイチスタア 1968 黒鹿毛 FNo.3-l |
*ジャヴリン Javelin 1957 黒鹿毛 |
Tulyar | Tehran |
Neocracy | |||
Sun Chariot | Hyperion | ||
Clarence | |||
ミタケ 1960 鹿毛 |
タカクラヤマ | *セフト | |
峰城 | |||
第三スターリングモアノ一 | トビサクラ | ||
第三スターリングモア | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Hyperion 4×4(12.50%)、Nearco 4×5(9.38%)、Harina=*プリメロ 5×5(6.25%)
掲示板
2 ななしのよっしん
2018/06/21(木) 22:56:59 ID: 7hgrNyexXT
実は母コウイチスタアも33歳まで生きた超長生き
自身やユウミロクの長命は遺伝だったのだろうか……
3 ななしのよっしん
2018/06/24(日) 17:19:29 ID: CfDTkJWEGn
>>1
この記事の製作者ではありませんが、その辺の修正をしてみました。
なお、先日出来上がった福永洋一ネタ絡みの修正メインなのは内緒だ!
4 ななしのよっしん
2021/08/06(金) 12:47:04 ID: M7eJ8/FLc4
父と違って長い距離で活躍した辺り、母系の影響もあったのだろうか?競走成績を見ると、間違いなく父を超えたと言える。ハイセイコーのファンだった人が彼のダービーでの激走を見た時は、何とも言えない感慨を抱いた人が多かっただろう。
急上昇ワード改
最終更新:2024/04/19(金) 10:00
最終更新:2024/04/19(金) 10:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。