具学永殺害事件 単語

クハギョンサツガイジケン

6.8千文字の記事

具学永事件とは、1923年9月6日に起きた殺人事件である。

この事件から5日前の9月1日に起きた関東大震災混乱の中で、警察署内で保護されていた朝鮮人の「具学永」氏が、警察の制止も聞き入れないほどに暴徒化した自警団員によって集団暴行を受け惨殺されたもの。

事件が起きた場所「埼玉県寄居町」から事件名を「寄居事件」としている資料も複数あるが、この呼称は他の複数の事件[1]す呼称でもあるため、本記事では本事件単独を的でこの「具学永殺害事件」の名称で記載する。

なお、犯罪被害者の実名を掲載することには倫理的懸念点があるが、事件発生後100年以上が経過していること、近年の新聞報道でも本事件の被害者実名を記している記事が存在する[2]こと、後述するように彼の名を冠した事件に関する書籍も出版されていることなどから、本記事でも実名で記載することを選択した。

概要

被害者となった「具学永」(ク・ハギョン。旧字だと「具永」)氏は、朝鮮出身だが日本に渡って、売りをしていた人物である。彼は沢村にあった木賃宿に滞在していたが、震災後に流言などによって醸成された「不逞鮮人を討つべし」といった刺々しい雰囲気を感じ取ったのか、自ら寄居町にあった警察署に保護をめ、署内にかくまわれていた。

しかし、そこに隣接する用土などの自警団らが大量に押し寄せて具学永氏を殺することを要した。署長や駆け付けた軍人などが説得を試みるも自警団らの奮はおさまらず、署長に投石したり竹槍を足元に突くなどの暴力行為にまで及び始めたという。当時この署の警官の多くが震災の混乱に対する救援に駆り出されており、この時に署内に警察官は数名しか残っていなかったという言もあるそうで、多数の自警団員には抵抗しきれなかったものか。

自警団は署から出て逃げようとした具氏を発見して襲いかかり、具氏は一時は署内の留置場内に逃げ戻ったものの追いかけてきた自警団らの振るった様々な器により多数の暴行を受け、遂には死に至った。氏は逃げ戻ったときに自らの血で「罰 日本 罪」と書いていたとされ、これは「日本人が罪のない私を罰する」という意味ではないかとも推測されている。

ちなみに後に訴追された加害者の中には、普段この警察署の演武場に出勤して剣道師範を担当していた在郷軍人男性もいた。「警察署内の構造を知っており」「同署の警官に武道導する立場であったため警官に対して精神的優位に立ちやすかった」この人物が加害者中にいたことも、本事件の展開にを与えた可性もある。

事件後、浄土宗寺院正樹院に具学永氏を弔う墓が建てられた。この墓は現存しており、正面に「感信士」という戒名が刻まれ、向かって右側面に「大正十二年九月六日亡 朝鮮慶南蔚山廂面山田里居 俗名 具学永 行年二十八才」と、左側面に「施 宮澤次郎 外有志之者」と刻まれている。この「宮澤次郎」氏は付近で開業していた摩であり、具氏の遺体を引き取ったのだという。

具氏の遺体の様子については、遺体を見た医師による以下のような記述が1974年の書籍『かくされていた歴史 : 関東大震災埼玉朝鮮人虐殺事件』に引用掲載されており、62箇所も傷のある凄惨なものであったと記されている。ただし「興味本位で遺体を見た」というあまり感心しない行為の回想であって、正式な検死記録などではないことに注意。

その頃、私は折原医者をしていましたが、震災の後、通達があってそれによって医師会が申合せをして、寄居近辺の医者が交代で、寄居駅に設けられた救護所に詰めることになっていました。救護の仕事は何もありませんでしたが、用意された物を配ったり、電車が着くと「気持ちの悪い人は居ませんか」等ふれ歩いたりしました。私は二日程続けて出たことを憶えています。始めの日が、この方も今は亡くなりましたが、寄居の六供の清水先生と一緒でした。その時に、朝鮮人屋が来ましたので、で用意してあった油揚げのすしをやりました。清水先生が「これからどうするのか」と聞いたところ、「おれ今、十円持っている。それ使ってしまったらどうなるかわからない」といっていました。食べ終って出ていきましたが、この人が、その晩警察で殺された人でした。次の日、今度は寄居の幾瀬先生、この方も亡くなられましたが、と一諸でした。警察で騒ぎがあったと聞いて暇でしたので、午後から幾瀬先生と見に行きました。死体にむしろがかけてありました。「署長はから逃げちやった」と聞いて、「署長が居ないんならいいだろう」と二人でむしろをはいで見ました。幾瀬先生が「署長が居ないんだから引っくりかえしてみろ」といっていましたが、とにかくちょびちょびいじめいじめやったと見えてひどい傷でした。傷は合計六十二ヵ所でした。後で検死に立会った野原先生からも同様に聞いています。

山田昭次による『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料 1』では、報道資料などを基に以下のように本事件を概説しており、犯人らのうち13名が検挙・起訴されていたことがわかる。

寄居事件

①事件のタイプ 警察分署を襲撃し、そこに保護をめてきていた朝鮮人虐殺
②事件の月日 1923年9月6
③事件の発生地 埼玉県大郡寄居
④事件の概 9月3日、大郡役所から寄居町と用村その他その周辺村に自警団編成の通達があった。5日、神保原で群衆に襲撃された警察官が用に逃げて来た。群衆はこれを「不逞鮮人」集団の密偵と思い込、いきり立った。そこに熊谷事件などが伝えられ、朝鮮人を殺せとい声が高まった。役場に集まった群衆真下屋という木賃宿にいる朝鮮飴屋具学永を殺そうとし真下屋に向かった。しかし具は状況に不安を感じて寄居警察分署に出かけて保護を受けていた。そのことがわかると、群衆は6日に警察分署を襲撃して具を殺した。検挙、起訴されたのは用村から12名村から1名
⑤判決の月日 1923年11月26
⑥判決の内容
以下略

また、本事件の予審決定書が1963年みすず書房から出版された『現代史資料 第6』に収録されている。


本件被告事件を浦和地方裁判所判に付す。

理由
被告等の居大正十二年九月一日東京横浜及其隣接府県に起りたる大震災に際し之に伴い起りたる火災は……旨の流言ヒ語熾に宣伝せられ尚地方より上京したものは惨状を撃し憎悪の念に駆られをりたる折柄〇〇〇〇[3]は尚又多数地方に入り込み兇暴を逞うする旨の流言熾に宣伝せられたるにより被告等居村民はその襲来に備ふべく警をなし居りたる所同年九月五日午後十二時頃埼玉県児玉警察署勤務警部補坂本武之介の大里用土地内を通行するを鮮人なりと誤認し之を取押へ調のため大里用土役場に拉致したるに用土等の村民余名は之をきゝ伝え同役場に集合したるも真実警察署在勤の警部補なると判明したるところ被告加害者の実名。中略)は右役場庭前において集り居りたる群衆に対し鮮人数名が木賃宿下屋に滞在し居るを以て襲撃殺すべき旨演説し以て群衆を煽動し殺を教唆したるに各被告等及び群衆は之に応じ殺の意思を持つて被告加害者の実名。中略)と共に下屋に赴く途上鮮人は大里寄居警察分署留置場に収容保護せられをることを知り同六日午前二時ごろ被告等は群衆と共に各日本刀竹槍口、棍棒等の兇器を携帯し同警察分署に押寄せ鮮人を引渡すべき旨を交渉し同分署長三は鮮人保護の理由を説明し迫すべからざる旨を懇論したるに不拘被告等は群衆と共にあくまで〇〇〇〇と誤認してこれに応ぜず益々喧騒を極め午前三時過ぎに至るまでの間騒擾をなし其間被告等は左記犯行を敢行したるものなり。被告加害者2名の実名掲載部分のため中略)は同所にて携へ行きたる日本刀を以て同分署に収容保護中の朝鮮人具学永を加害者8名の実名と器を列挙した部分のため中略)を以て同人を殴打し被告加害者の実名。中略)日本刀携帯して留置所内に侵入し被告加害者の実名。中略)ピストル同人に差向け群衆に対し殺を煽動し被告加害者の実名。中略)同人の逃走を防ぐため抜を以て同所裏口の警をなし加害者の実名。中略)に抜を差向け以て共謀して前記具学永を殺す因て前記騒擾を率先助勢したるものとす。

また、日本弁護士連合会による「関東大震災人権救済申立事件調報告書」の作成に携わった弁護士の一人である「澤和幸」弁護士が、自らのウェブサイトにて本事件の判決文を以下のように引用掲載している(被告の実名などはアルファベットに置き換えているようだ)。これは「浦和地方裁判所判決1923年11月26日」であるとのことで、上記の予審決定書での「浦和地方裁判所判に付す」との記載とも合致する。

被告Aはママ)(判決63貢確認) 等余の群衆に対し鮮人人同胞の敵なり沢村ける木賃宿下屋にも鮮人滞在し居れるなれば 何時不逞の所行に出づるや計り知るべからず予め之を襲撃殺するに如かざる旨を演説し以て群衆を扇動したるより被告B,C,D,E,F,G,J,Ⅹ,L, M等及群衆は之に応じAと共に各日本刀竹槍口梶棒等器を携え前記下屋に向い
  (中略)
  一、被告Aは前記鮮人甲畄置場より玄関辺に逃走し来るや同所於て自己有に係る処携の日本証拠略) にて同人に対し二斬付け尚右騒擾中ヤレヤレと叫び群衆の暴行を扇動し

  一、被告Bは右甲畄置場より分署前の庭に引出され群衆の乱撃を受け死瀕し居りたる際自己所有に係る所携のイゴの棒 証拠略) にて同人に対し一回殴打し

  一、被告Cは同所於て同様瀕死の状態に在りたる右甲に対し自己所有に係る所携の檪の棒 証拠略) にて二回殴打し (以下略)[4]

また、埼玉県大里用土青年団の文芸部が出版していた文芸誌『DAMPO』の1924年3月の号には、ペンネーム[5]」という人物による、本事件を批判する文『所謂鮮人事件』が掲載されている。その中では、こういった朝鮮人虐殺事件の背景として「日本朝鮮政策に問題点があることを民衆が認識していたからこそ流言を容易に信じて恐怖にとらわれたのではないか」「朝鮮人に対する侮蔑と冷笑民族偏見があったのではないか」といった趣旨の摘が既になされているとのことである。

本事件をモデルとした作品も存在しており、韓国人牧師のキム・ジョンス氏が『売り具永(ク・ハギョン) 関東大震災虐殺された一朝鮮人青年物語』という絵物語を著している。ただし本書籍はドキュメンタリーノンフィクション書籍というより「事実に基づいた創作」であると明言されており、詳細が判明していない具学永氏の朝鮮時代の生活等については「当時朝鮮から日本に渡って行くことになった一般的な在日朝鮮人の話を取り入れて」執筆されたものであるという。

なお、本事件と非常によく似た経緯の「関東大震災の数日後に、朝鮮人を保護していた警察署に自警団が訪れて朝鮮人の引き渡しを要警察拒否するいきり立った自警団が朝鮮人を殺してしまった」という事件は群馬県藤岡町や埼玉県の本町でも起きている。そちらは「藤岡事件」「本事件」と呼ばれる。

また、当時は「朝鮮人ではない日本人が、朝鮮人と間違えられて自警団に殺された事件」も複数起きているが、そのうち「妻沼事件」では本事件と同じように、警察が制止しようとしたにもかかわらず自警団がそれを無視して殺している。

ちなみに、なぜ「朝鮮人だ」と誤解されると「殺しよう」ということになるのかについては、「福田村事件」のニコニコ大百科記事に記載した時代背景について参照されたい。

上記のように関東大震災後には朝鮮人虐殺が各地で起きたことが知られているが、その被害者らは氏名すら不明な例が少なくない。そんな中で、本事件は被害者の氏名・年齢職業・具体的な事件の状況などが詳細に判明しており、かつ「集団慰霊碑」などではなく個人としての墓碑が建てられているしいケースである。本事件以外で個人としての墓碑がその土地に立てられているのは、埼玉県で起きた「片事件」で殺された「姜大」(カン・デフン)氏の例くらいだろうか。

加害者らについて

具学永が実の罪で殺されたという事実は間もなく判明し、加害者らもそれを認識したようだ。事件発生の同年中には既に埼玉県大里用土寺で具学永の追悼会が催されており、「惨殺した被告十三名も悄然と末席につらなり、ねんごろに焼香、血迷った当時の事を追想してひたすら詫入る姿」であったと当時の『東京日日新聞1923年11月3日埼玉版は報じている。

自警団員の一人は、前述の1974年の書籍『かくされていた歴史 : 関東大震災埼玉朝鮮人虐殺事件』での取材に応えて、事件後に警察から温情の言葉を投げかけられたことや、脅迫状が届いたこと、上記の寺での供養についてなどの回想を語っている。

事件後この件で取調べを受けた者達が熊谷警察全員集められまして、警察の方から話しがありました。「諸君らは、流言ひ語にまどわされ国家の為と思いながらも結果としては、犯罪行為をおこしてしまった。しかし事件も落着したことでもあるし、事件はかったことにする。調や経歴上の前科も一切なしにするので安心してもらいたい」というようなことでした。その後、自宅に事件に関する脅迫状が届いたりして、しばらくは落着かない日々をすごしました。用土では、長を中心に全村民をあげて寺でなくなられた朝鮮人の供養を行いその霊をなぐさめ供養の婆を建てたりしました。

その警察からの温情の結果なのか、検挙されかつ実刑判決を受けた自警団員は3名のみとごく少数であったという。その3名のうちの1名は同書籍『かくされていた歴史 : 関東大震災埼玉朝鮮人虐殺事件』における取材に対して以下のように語っており、具学永氏を哀れむ気持ちを述べつつも、自分たちだけが実刑判決を受けたことについて「犠牲を背負いこんだ」という被害感情を表明している。

警察の庭は、人で一杯でした。そのうちに警察逃げちゃって、警察で留置場のをあけて、保護していた朝鮮人を出してきました。私は、警察では「フレー、フレー」といった方だったですね……。日本売りにきて、金をこさえては、にでも送っていたんだろうに、もし日本人が外にいれば、やはり同様なことをしただろうに、考えてみれば、可哀そうなことだと思います。事件の後、警察の取調べがあって裁判になりましたが、私が指揮官だというので三年、井口二が二年、池田治作が一年の懲役の判決をうけました。今、裁判があれば、皆、引っくり返してみせることも出来るが、なにしろがどうしたとはえないし、どうせかが出て犠牲にならなければ済まないというので、わしら三人がその犠牲を背負いこんだようなものです。

関連リンク

関連項目

脚注

  1. *1933年に同じ場所で発生した小作争議も「寄居事件」と呼ばれる。また、1947年7月31日に発生した、復員軍人を多数吸収したテキヤ集団によって2名の朝鮮人が暴行・斬首された事件も「寄居事件」と呼ばれる。
  2. *本記事「関連リンク」の朝日新聞東京新聞毎日新聞の記事などを参照
  3. *伏字となっているが、おそらく「不逞鮮人」であったものかと思われる
  4. *資料  関東大震災人権救済申立事件調査報告書 日弁連exit
  5. *1983年に「寄居町教育委員会町史編さん室」の編集で「寄居町教育委員会」が出版した『行政文書録 (町史編さん調報告 ; 第10集) 』内の記述には、「夫(丸守雄)の筆」とある。また、1989年の『寄居町歴史』内の記述によれば、この丸守雄氏は当時の用土青年団の青年団長であったようだ
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