曹操とは、後漢末期の英傑の一人である。字は孟徳。諡は武帝。魏武帝と称することもある。軍事大国・魏の礎を築いた。
詳しくはwikipediaなどを参考にして頂くとして、ここでは要点を絞って説明する。
西暦155年に曹嵩の息子として生を授かる。祖父は宦官である曹騰。
父である曹嵩は夏侯氏からの養子であるため、血筋的には夏侯氏である。
身長は七尺余りとも言われており、当時は一尺=23センチ程度だったのでおおよそ161センチくらいであろうか。一方で小男であったとも言われており、それにしては大きすぎる気もするので、どちらかの説が間違っているのかもしれない。
若いころはかなりやんちゃをしていたようで、後に宿敵となる袁紹と一緒に他人の嫁さんを強奪していたらしい。
二十歳を過ぎた頃にはちゃんと官職に付いており、最も有名なのが洛陽北部尉であろうか。
漫画『蒼天航路』に見られるように、曹操の職務はかなり厳しかったという。
後に発生する黄巾の乱の時には騎都尉(今で言う少佐くらいなものであろうか)となり功績を挙げている。
しかしその後しばらくは病気だ何だと言い張り隠遁生活を送っていたようである。
宦官を一掃した董卓の専横を見かね、曹操は袁紹を盟主に担ぎ出して諸侯と共に反董卓連合軍を結成する。
しかしながら、董卓に恐れをなした諸侯との連携がうまく図れず、なかなか積極的に動けなかったとのこと。さらに、自身の兵力が非常に寡少だった為まともな戦果も挙げられなかった。その後、董卓が洛陽を焼き払い長安に遷都した為単独での追撃を敢行する。しかし、董卓配下の勇将・徐栄の反攻により壊滅的に蹴散らされ、貴重な協力者と兵を失い自身も討ち取られる寸前まで追い込まれた。
(董卓に関しては皆が知っているとおり王允と呂布により誅殺されている。連合軍に関しては董卓撤退後の洛陽に孫堅が上洛したのをもって解散となった)
案外、出だしは良くなかったと見るべきであろう。
青州の黄巾残党軍を平らげ、その勢力を青州兵として自らの勢力に加えた。
この軍をもってして袁紹と仲たがいしていた袁術を打ち破りその名を中国全土に轟かすのである。
しかしその直後に彼の父である曹嵩が徐州太守である陶謙の部下に殺される事件が発生した。
このことに怒った曹操は徐州に兵を向けてお礼参りを敢行、後に言われる徐州大虐殺となる。
この件は後世の歴史家から非難され、三国志演義に見られる悪役の名を残すこととなった。
それから数年は対呂布戦に費やすこととなる。
自分の死後の事を頼むと約束しあった張邈や、元々は自分の参軍であった陳宮らの裏切りに遭い、緒戦は苦労したようである。
また、同時期に攻め落とした宛城において張繍の寝首をかくつもりが、逆に先手を取られて息子の曹昴と忠臣の典韋を失ってしまうなど、いささか精彩を欠いている事もある。(それがきっかけで最初の正室である丁夫人が実家に帰ってしまっている)
それでも最後には張邈と呂布を打ち滅ぼし、張繍を帰順させている手腕は侮れないのも事実である。
公孫瓚を打ち滅ぼしたかつての親友である袁紹と、中原の覇者を決める戦いをすることとなる。
物量差を前にして敗北が必至であったものの、袁紹サイドのミスを見逃さずに襲撃を成功させる。
曹操の優れたる面は相手のミス、自爆を見逃さない観察眼にあると言っても過言ではない。
曹操と袁紹。両者の大軍団を率いる将としての差が明確に現れた戦いであったと言えよう。
中原の覇者となった曹操は次なる地として荊州、劉表陣営に目を向けるのである。
しかし戦闘準備をする最中にターゲットである劉表が死去してしまう。
これに対して劉表の後を引き継いだ息子の劉琮は曹操に降伏し、あっけなく劉表陣営を確保するに至るのである。
そのまま水軍を手に入れた曹操は長江沿いに軍を進めて行くが、孫権軍の反撃に遭い撤退を余儀なくされるのである。
周瑜、黄蓋らの活躍などの手馴れた水兵による火攻めに加え、不慣れな地においての疫病や飢えの蔓延など踏んだり蹴ったりもいいところであった。
しかし曹操はそのままで終わる男ではなく、涼州の馬一族を追放し、その一帯を治めている。
また、攻めあがってきた孫権軍を合肥において張遼の活躍もあり撃退させることに成功している。
それから暫く経った時期に魏公と名乗っており、張魯の軍勢を破り漢中をも手にしている。
しかし219年に蜀軍による攻撃でその漢中が奪われ、旗揚げ時から付き従ってきた夏侯淵を失ってしまう。
これに対して軍を派遣するも苦戦し撤退を余儀なくされるのである。
その後彼の陣営は後継者争いの様相を呈するも部下の諫言もあり、曹操は曹丕を指名し事なきを得る。
そして220年の3月。彼は65年の生涯を閉じた。
遺言として「今は戦時中だから喪に服す期間は短く、墓に金銀は入れないでくれ。」と語ったという。
戦場に生き、多くの戦いを潜り抜けた男の気概が見える言葉である。
孫氏の兵法に注釈を入れて一つの文献に纏め上げた功績が一番大きいと思われる。(孫子の兵法書。孫子魏武注とも)
これにより後代の運用技術が大幅に上がったのは言うまでもない。
さらに配下の韓浩らの献策により屯田制度を施行するなど幅広く部下からの意見を聞くとともに、後漢末期に乱れた政治の改革を行っている。
後の人間が人材マニアと称するほど彼は人材発掘、育成に力を注ぎ、彼が見出した人材は後の魏国の大きな基盤となった。
また、詩家としての才能も非凡で数多くの作品を残している。自身と三男の曹丕、五男の曹植の三人は「三曹」と称され、名詩文家の代名詞となった。曹操の詩は、戦争の悲哀や行軍の苦行、兵や将、民を憐れむ気持ちを自身の戦場経験を添えて詩に乗せている。しかし、スケールが大きく彼の持つ大望が表れた素晴らしい詩である。彼ら「三曹」が中心となり、建安文学と呼ばれる時代を築く礎となった。
余談だが、曹操の治世において彼は禁酒法を発令しているが、彼自身で醸造法を編み出してもいる。
音楽にも造詣が深く、現存する詩は全て楽府(音楽に合わせて読み上げる詩)であり、酒宴などで歌いながら詩を詠んだのであろう。
簡素に説明したが、三国志の著者・陳寿をして「非常の人、超世の傑」と評価されており、武官一直線だった人物にしてはやりすぎと言える程に多方面での業績がある。
曹操は儒家と常に対立していた。
理由は至極明快で献帝を担ぎ上げる曹操は所詮、簒奪者でしかなかったからで、儒家はたとえ時代の流れに沿っていようともその教えに反する者を糾弾するのが常である。
ある日、数々の素行不良を天秤にかけて儒家である孔融を処刑したことがある。
孔融の自業自得な面もあったが儒家にとって孔子の子孫を抹殺されるのは耐え難く、上に書かれている徐州大虐殺と相まって儒教の下で曹操は近代に至るまで常に悪役であり続けた。
しかし、時代が革新を求めていた上で、彼のような合理主義者が天下を治める必要性があったのも事実である。
三国志演義で見られる厳格で辛辣なる征服者のイメージがあるものの、プライベートに関しては女性に関するものが特に目を引く。
上にある宛城の悲劇に関しても、曹操が張繍の叔父の未亡人である鄒氏に惚れてしまったのが原因である。この事に鄒氏の甥である張繍が腹を立てていると知った曹操は彼を抹殺しようとする。しかし、先にそれを察知した張繍側から手早く襲撃されてしまっている。
その時に亡くなった曹昂をわが子の様に育てていた丁夫人は曹操に腹を立て、一方的に離縁されてしまったのである。
丁夫人が名残惜しい曹操は幾度と無く手紙を書き復縁を迫ったのだが遂に諦めて「仕方ないね」というようなことを呟いている。
また、例えどのような身分であろうとも一度惚れたら簡単には手放さないのが曹操流恋愛哲学である。
丁夫人の次に正室となった卞夫人は歌妓という事からもそれを伺わせるには十分であろう。
年老いてもなお妾を次々と輿入れさせていたことからも、自己に関しては婚姻を勢力基盤の形成と見ておらず、本当の意味で男の性をありのままに表現していたのかもしれない。(そのかわり有力な部下には自分の娘を嫁がせて基盤を強固な物にしている)
ただし、映画『レッドクリフ』に見られる『国も、愛も、奪う』というキャッチフレーズそのままに
大橋と小橋(演義の記述は大喬、小喬)を手に入れようとして孫陣営に攻め込んだとするのは演義の創作である。
他にも息子の曹丕の嫁さんである甄氏にも目をつけていて、娶った曹丕に恨み節をぶつけたという話が世説新語にあるものの事実かどうかは不明。
しかし、そんなことを現実にやってしまってもおかしくないほど彼は女性に対して色々な意味で”紳士”であった。
戦争や政務の時には冷酷な指導者であるが、プライベートではユーモアのある人物だったと言われている。
彼の詩集「短歌行」には「酒に対しては正に歌うべし。人生などどれ程の物だろうか。ただ、その楽しみは酒だけだ。」と歌っており割と酒好きだった様だ。
酒宴が開かれるといつも朗らかに笑い、皆で詩を即興で作って披露しあったりと、かなり楽しんでいる。また、客人を招いての酒宴の時には、あまりに飲みすぎてフラフラになり、目の前の食器に顔面から突っ込み、顔と冠をべとべとに汚して大笑いしたと記されている。ただ、酒は楽しむ物と思っていたらしく、酔って暴れたとか、無茶な命令を出した等と言うどこかの末弟やどこかの皇帝のような事はしていない。
また、彼は自らの非を認め反省する事が出来る人物でもあった。官渡の戦い後、袁紹陣営が分裂し弱体化していく中で、北方平定の遠征を計画する。しかし、反対の配下が多く、曹操は彼らの進言を無視する形で出撃した。ところが、重度の干ばつに寒さが重なり、飲み水にも困る状態、さらに兵の間に伝染病が蔓延し、まともに戦える状態ではなくなってしまった。粘りに粘って何とか目的は達成するも、ほうほうの体で帰還する。曹操は遠征に反対した諸将を集めて厚く褒美を与え、「今回の戦いは天に幸運を期待するようなものだった。貴殿らの作戦の方が万全であった。これからも遠慮なく意見を述べて欲しい」と語り彼らに頭を下げたという。
さらに、彼は読書家かつ勉強家であった。常に懐に歴史書を持ち、戦場で対陣中でも暇が有れば読んでいた。曹操が死んだ時、その手には本が有ったとする民間伝承すら残っている。とにかく上昇志向が強かったのだと思われる。
征服者、文化人としてのあふれる才能と、女性に対してはただの凡夫でしかない男とのギャップが多くの人々を惹き付けるのであろう。
……ただし、孔融の処刑に見られるように自身に対して無礼な言動をした人物を、君主という立場を利用して処刑したり、自殺に追い込んだりするのはどうかと思われるが。良くも悪くも執念深い人物だと言えるのかも知れない。
ちなみに本当にどうでもいいことだが、ブサイクだったという俗説がある。その俗説が元になって「ゴーストライター」を意味する中国語「捉刀人」が生まれていたりもする(経緯がややこしいので詳しくは「ゴーストライター」の記事を参照)。ただし彼の名誉のために言っておくと、あくまで俗説であり信憑性は薄い。
ガチに名君たる曹操、として描かれる事が一般的なものの、
蒼天航路の登場や世間の見直し評価にもよるが、つかみ所の無い山師的な男として描かれる事もある。
悪役になる場合においても只のかませでなくダークヒーロー的な立ち位置に置かれる事が多い。
何かをしでかした者に対しては「こやつめハハハ」と言うケースが多い。
ボケもツッコミもできる器用なキャラとして存在するケースが多く、動画によって様々な曹操を見ることが出来る。
基本的にボケに回ったときの相方は夏侯惇や荀イク、郭嘉などの曹操陣営の人物が相手であり、
ツッコミに回るときは劉備や呂布といった史実の敵陣営の相手が多い。
もちろん一緒にボケに回る事もあるので、安定と言う言葉は曹操の辞書には無いのかもしれない。
また、コーエーの三國志ゲームを使った動画ではアイドルのプロデューサーになったり、面妖なる人にあらざる者たちと対峙したりと色々と無茶をしているようである。
史実どおりに身長の低さをなじられたりもしているし、子供じみた反抗をすることもある。
曹孟徳を描く人の数だけ曹孟徳が存在する。そう思ってよろしいであろう。
心はいつも17歳。曹操孟徳がアイドルのプロデュースを始めたようです。
「月刊三国志武将紹介」の紫電Pによる劇場版「曹操」 的な解釈。
コーエーの三國志シリーズにおける曹操の能力一覧。
多芸多才と言われている彼は隙のない能力を持っている。特に全能力が90以上というVIIが目を引くが、これは武力と統率が戦闘という能力に統一されているためである。
統率は全武将中トップを誇っていることが多い。11では司馬懿(統率98)や周瑜(統率97)に次いで第三位。
VIII以降の作品では武力がおとなしめになっている。兵法家としての曹操を強調した感であろうか。
また、能力値以外にも特技が充実している点も付け加えておく。
能力一覧 | 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 陸指 | 水指 | 身体 | 運勢 |
三國志 | - | 94 | 93 | - | 100 | - | - | 88 | 97 |
三國志II | - | 91 | 95 | - | 95 | - | - | - | - |
三國志III | - | 89 | 94 | 90 | 98 | 93 | 59 | - | - |
三國志IV | 99 | 88 | 92 | 97 | 98 | - | - | - | - |
三國志V | - | 87 | 96 | 97 | 98 | - | - | - | - |
三國志VI | 100 | 80 | 95 | 98 | 97 | - | - | - | - |
三國志VII | - | 92 | 93 | 92 | 97 | - | - | - | - |
三國志VIII | - | 68 | 91 | 94 | 96 | - | - | - | - |
三國志IX | 99 | 72 | 92 | 96 | - | - | - | - | - |
三國志X | 99 | 71 | 92 | 96 | 96 | - | - | - | - |
三國志11 | 96 | 72 | 91 | 94 | 96 | - | - | - | - |
掲示板
899 ななしのよっしん
2024/09/01(日) 10:23:08 ID: n1pIcem/0S
現代にまで孫氏を残せたのはこいつの功績
900 ななしのよっしん
2024/09/27(金) 16:38:58 ID: JDM28QS/Jz
曹操は需家嫌ってたのは明白だから荀彧と対立するのは不可避だっただろう
孔子の子孫の孔融処刑するぐらいだし
901 ななしのよっしん
2024/10/05(土) 16:16:34 ID: k82eV7Qyy4
1800年経っても未だ評価が定まらないことを考えると、曹操は今後も悪評と再評価を行ったり来たりする人物だろうね
それはそれとして個人的には蒼天航路の曹操が好き
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最終更新:2024/11/01(金) 09:00
最終更新:2024/11/01(金) 09:00
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