|
この記事には、実際にあった怖い出来事が記されています、 |
津山事件(つやまじけん)とは、1938年(昭和13年)5月20日から21日にかけて起こった、大量殺人事件である。
別名として津山30人殺し、犯人の名前をとった都井睦雄事件という表記もある。横溝正史の代表的な推理小説・八つ墓村はこの事件をモデルとしている。
岡山県苫田郡西加茂村大字行重、現在の津山市加茂町行重における、貝尾・坂元の両集落に跨って発生した。
2022年現在、我が国において起こった、放火を除く殺人事件において、最も多くの人が殺された(30人)事件である。日本を揺るがせた大量殺人と言えば、オウム真理教事件が記憶に新しい。これによる犠牲者は29人(裁判で立件されたものに限る)であるが、これは長期的かつ組織的に行われたものである。
しかし、この津山事件はたった1人の成人男性によって、2時間足らずで30人が惨殺されている。
悲しむべきことに、2019年7月に発生した京都アニメーション放火事件で国内の殺人事件における犠牲者数の最大記録は更新された(36人死亡、33人重軽傷)。ただ、こちらは火災により建物内の人間をまとめて巻き込むという手法であり、全ての犠牲者を個別に殺害した津山事件と単純な比較は出来ないかもしれない。敢えて比較するならば2016年7月に発生した相模原障害者施設大量殺戮事件(19人死亡、26名重軽症)かと思われるが、やはり及ばない(及んでほしくはないが……)。
惨劇を引き起こした犯人・都井睦雄(とい・むつお)は事件の前年、徴兵検査によって結核にかかっていることが明るみに出てしまう。以前からその兆候はあったものの、睦雄は病のことを伏せながら個人で出来る限りの手を尽くしていた。しかし、検査でそれが村中に知れると、彼の扱いは激変した。
特に、以前から夜這いで性的な関係を持っていた女性達に蔑ろにされるようになったことは、睦雄がこの事件を起こす最大の引き金になったと言われている。
この事件が起こる前、阿部定事件が世間を震撼させた。この事件のことを知った睦雄は「いつか阿部定以上のことをやってやる」と友人に話していたという。
この大量殺人の計画は極めて念入りに練られたものだった。睦雄は結核用の病院に入院するための費用と偽って、借金をして武器を調達し、凶行に備えた。
一度は祖母の勘違いによって(孫が自分を毒殺しようとしていると騒いだ、実際は気付け薬だった)で警察に家宅捜索を受け、武器は一通り没収されたものの、再び別のルートから武装を手に入れた。
当時、集落にいた駐在は出征していたため、通報するにはどう頑張っても二時間以上はかかった。睦雄は、殺し損ねて村から逃げ出した者が、こうして警察に事件を伝えにいくまでの時間も計算に入れていた。
5月20日の夜、睦雄はついに計画を実行に移した。この日(厳密には21日の深夜)を選んだのは、睦雄と関係を持ちながら結核を理由に拒絶し、そのまま他の村に嫁いだ憎き娘が帰ってきていたからである。
睦雄は貝尾集落だけを停電させるため、電線を切って貝尾の送電を停止させた。村人は驚いたものの、当時はこうした突然の停電は日常茶飯事であり、特に気に留めなかった。むしろ「電気が止まったなら今日は早く寝よう」と、どの家もいつもより早く就寝していたという。
集落が寝静まった頃、睦雄は自宅の屋根裏で用意していた装備を身につけた。革のベルトで止めた軍刀、匕首を携え、手には猛獣退治用の9連発ブローニングを持った。胸には自転車用のライトをぶら下げ、頭には手拭いで作った鉢巻を撒いた。鉢巻の両端に懐中電灯が収まるように細工がしてあった。その姿たるや、正に悪鬼のようだった。
全総重量は20キロほどと言われているが、そんな重荷をさほど苦とせず睦雄は事に及んでいる。
睦雄は集落を歩きまわって、次々と村民を襲いかかり、次々と殺していった。以下に、襲った順で被害者の状況を記していく。()には犠牲者の累計を記していく。
わずか2時間にも満たないうちに30人もの人間を殺した睦雄(厳密にはその時点では28人、2人は搬送先で死去)は、坂元の集落で知り合いだった家を尋ねた。家人は武装し血まみれとなった睦雄を見て硬直したが、彼は遺書を書くための筆と紙を所望し、手に入れると家人を襲うことなく去っていった。去り際、知り合いだったこの家の子供に対し、「うんと勉強して偉くなれよ」という言葉を遺している。
睦雄はその後、3.5kmほど離れた峠まで移動し、遺書を書き始めた。既に遺書は用意されていたが、これは凶行に及んだ後の懺悔にも似た別の内容のものだった。遺書の中で睦雄は「うつべきをうたず、うたいでもよいものをうった」という後悔の念も綴っている。うつべき、とは、恐らくは4件目の四女のことを指していると思われる。
睦雄の両親は彼が幼い頃に結核で死に、祖母は自分の手にかけている。後にこの世に残っているのは親愛なる姉だけだった。幼くして両親を失った睦雄にとって、姉は母に近い存在であり、姉が嫁いで村を離れると学業を疎むようになるほど慕っていた。
遺書には姉に対する懺悔をはじめ、祖母を殺した理由、夜這いの風習の告発などがしたためられていた。遺書を書き終えた睦雄は、自分の心臓に猟銃をあて、引き金を弾き、自らその惨劇を終結させることとなった。21歳だった。
21日の朝、睦雄の遺体は発見された。彼を合わせれば死亡者は31名となる。
睦雄は、親戚の家を襲わなかったため、村人は「事前に殺害の計画を知っていたに違いない」と、睦雄が襲わなかった家々を村八分同然の扱いをしたという。村自体も働き手を失ったり、一家全滅に追い込まれたことで労働力が落ち込み、その後の生活に暗い影を落とした。
睦雄と祖母の遺体は、姉が引き取ったという。町の外れにある墓地に、二人の遺体は埋葬されており、今でも現存している。
ただしおおっぴらに睦雄の名を記した墓石を作るには忍びなかったのか、睦雄の墓は祖母の墓の隣に拳大の石を置くだけに留められている。その前にはプラスチック製の簡素な花入れが置かれているだけで、そう言われなければとても墓とわかるものではない。睦雄本人も「墓はいらぬ、野にくされれば本望」と遺書に綴っている。
姉は死去する1990年代後半までうどん店を経営し、元気に働いていたという。
もっとも執拗に追われた4件目の四女は、その後嫁ぎ先に帰ったそうである。が、テレビの取材によると事件のことをずっと気にかけ、山の奥でひっそりと暮らしたという。その後については不明瞭である。
テレビの取材では、「犠牲者は30人と言われてるけど、自分は35人と聞いている」と、その犠牲者数がやや曖昧である。ただしこれはあくまでテレビにおける、地元住民への取材であり、しかもかなり時間が経ってからのものであるので、信憑性はやや疑わしい。
睦雄の事件は、1913年9月14日に起きた大量殺人事件、ドイツで起こったワグナー事件との類似性が指摘されており、事実事件の流れは非常に酷似している(家族を殺してから村の人間を次々と殺める)。ただしワグナー事件の犯人は自殺こそ企てていたが、その前に村人のリンチにあい、警察に捕縛されたことで生きたまま逮捕されている。
この事件は、単独犯かつ短期間で行われた大量殺人事件としては前代未聞であり、長期的に同一人物によって行われてきた大量殺人事件とは一線を画す事態の異常性を持つ事件だった。
ミステリー好きがたまに貝尾を訪れることがあるそうだが、この事件のことは集落でもタブーとされており、面白半分で行くことは遺族やそこに住む人達の気分を著しく害することとなる。
検索すると、実際に現地に赴き、取材を試みたブログを見ることが出来るが、それは著者がしっかり相手の立場や気持ちを考えたうえで真摯に事件のことを聞いたからであり、そもそも無理に聞きにいくようなことではないということを理解しよう。
事件当時住んでいた人は、事件のことを思い出して辛くなるとして、今はもういないとのことである。
村に点在する古い墓地には、津山事件のあった1938年5月21日が没年となっている墓石がたくさん立てられており、ここで本当に事件があったことを静かに証明している。
掲示板
168 ななしのよっしん
2025/06/27(金) 15:20:01 ID: z1xg9pTco8
言われてみれば結果的に元気な病人である
そして結核に関わらず理由を付けて差別する人間は現代も多い
169 ななしのよっしん
2025/11/22(土) 20:44:01 ID: InPapvDP2m
境遇だけ見て可哀想!って言われてるけど祖母を始め無関係な人◯しとるやんけ
同情の余地なんて1ミリもねーわ、やっぱ凶悪犯は凶悪犯やな
170 ななしのよっしん
2025/12/04(木) 05:00:36 ID: MZfZnmWv/A
結核以外は本人の責任ではある
爪弾き者なのは結核が原因ってだけではなかったが
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/22(月) 07:00
最終更新:2025/12/22(月) 07:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。