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リージェントブラフ
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リージェントブラフRegent Bluff)とは、1996年生まれの日本競走馬鹿毛

後方からの末脚を武器交流重賞で活躍した、地方の名種牡馬*パークリージェントの代表産駒で、その挑戦が約20年後の快挙に繋がるの一歩を作った

な勝ち
2001年ダイオライト記念GⅡ
2002年川崎記念GⅠ
2003年名古屋グランプリGⅡ

概要

*パークリージェントサリーベル*グッドリーという血統。
カナダで、競走成績は特筆するほどのことはないが、種牡馬入りした日本で2度の地方リーディングサイアーくなど活躍した地方の名種牡馬
青森で5戦未勝利メジロトヤマが示すようにメジロ牝系であり、祖母アサマユリの牝系からはメジロデュレンメジロマックイーン兄弟などメジロの活躍が多数いる。さらに遡ると日本の基礎牝系のひとつである*アスニシメント牝系に属する。
1969年フランスダービー日本種牡馬入りしたが、中央重賞は1頭のみとパッとしなかった。
*ラシアンルーブル)に、1992年フェブラリーハンデキャップ帝王賞勝ちシアンゴールドがいる。

1996年5月2日浦河町吉田牧場で誕生。オーナーと同じ大原
厩舎もと同じく、メジロドーベルなどで知られる美大久保洋吉厩舎に所属した。

※本の現役期間は2001年馬齢表記変更を挟みますが、本記事では現表記(満年齢)に統一します。

摂政のハッタリ

2歳~4歳:どうということもない条件馬

1998年9月13日大久保厩舎所属の吉田豊上に、中山ダート1200mでデビューしたリージェントブラフ。しかし4歳までの彼の戦績には、とりたてて語るほどのことも特にない。
デビュー当初から500kgある大だったリージェントブラフだったが、戦の吉田豊く、脚元が弱く調教でもなかなか動かなかったそうで、じっくり時間をかけて成長していったであった。

そもそも新馬戦から単勝88.8倍の9番人気という低評価で5着。芝を2戦試したあとダートに戻った4戦で勝ち上がるが、500万下をなかなか抜けられず、3歳になって京成杯GⅢにチャレンジしたりもしてみたがあえなく最下位に撃沈。その後ダートに戻って、徐々に後ろからいい脚を使えるようにはなったが勝ちきれず、3歳は5月500万下で3着を最後に休養して終える。

4歳となって復帰すると2着、2着と惜しいところまで行き、勝ち抜け後13戦でようやく500万下を突破。続く900万下も連勝し準OPに昇格したが、1600万下を抜けられず降級。降級初戦を勝って1600万下に戻るが、4着、3着、3着とまた後ろからいい脚を見せるも勝ちきれず、4戦10月富士Sを3身差で快勝しても当時のルールではまだ1600万下の条件。続くブラジルC1600万下)2着、師走S(OP)3着と勝ちきれず4歳を終える。

5歳:開花と善戦と

明けて5歳となった2001年、初戦のアレキサンドライトS1600万下)を勝って30戦にしてようやくオープン入りを果たしたリージェントブラフ。
平安SGⅢダート重賞に初挑戦するも、全な前残りのレースでは後方からの末脚が武器の彼にはどうにもならず7着に敗れたが、続くダイオライト記念GⅡで1番人気川崎の強インテリパワーを差し切って嬉しい重賞初制覇を飾る。

アンタレスSGⅢでは前走競走中止の憂きにあったスマートボーイに6身差ぶっちぎりの逃げ切りを許して2着。東海SGⅡではトップハンデ58kgがいたか直線で末脚不発に終わり6着に敗れる。

そんなこんなで乗りこんだ帝王賞GⅠでは6番人気に留まったが、後方から大外一気、断然の上がり最速375の末脚で追い込み、先行から抜け出した船橋マキバスナイパーに1身半届かなかったものの2着に突っ込む。1番人気が既に衰えの見えていた7歳の前年覇者ファストフレンド(11着)、2番人気が前年その2着だったドラルアラビアン(6着)という手薄なメンバーではあったものの、その末脚が交流GⅠでも通用することを示した。

武蔵野SGⅢからジャパンカップダートGⅠに挑んだが、2001年のこの2レースといえば言わずと知れたクロフネ伝説となった2戦。さすがに全く手も足も出ず5着、6着。

そんなわけで年末の東京大賞典GⅠでも5番人気に留まったが、ここも後方から大外を上がり最速で猛然と追い込み岩手皇帝トーホウエンペラーに半身届かずの2着。中央のエースウイングアロー敗の南関東三冠トーシンブリザードらに先着し、帝王賞よりっぽいメンバーでも好走したことで改めて実力を示した。

6歳:栄冠と苦戦と、あと一歩と

明けて6歳となった2002年の初戦は川崎記念GⅠ。末脚が武器のリージェントブラフには、大井ならともかく直線の短い川崎は合わないと見られたか、単勝3.4倍とはいえプリエミネンスと同期武豊ハギノハイグレイドに次ぐ3番人気に留まった。
例によって後方に構えたリージェントブラフは、群の詰まった展開をその群の後ろでじっくりと進め、3コーナーから群の中に突っ込むようにして進出開始。直線でも入口では前に進路が開かず、外にいたハギノハイグレイドが先に仕掛けて抜け出しを図るが、リージェントブラフは内に進路が開くのを見てすかさずそのスペースに突っ込む。地方2頭と4頭横並びの接戦になったが、最後はアタマ差抜け出してゴールを駆け抜けた。
吉田豊く、「ゴールした後もなかなか止まろうとしなかったから、もう1周した」そうな。534kgまで成長した格に見合ったパワースタミナが身についての結実という感じの勝利であった。吉田豊マイネルラヴ1998年スプリンターズS以来4年ぶりのGⅠ勝利となった。

続いてフェブラリーSGⅠに挑んだが、アグネスデジタル変態ローGⅠ4連勝の後ろで見せ場なく11着に敗れると、その後はしばらく苦戦が続く。昨年同様のダイオライト記念アンタレスS東海Sローテを走ったが、末脚不発で4着、トップハンデ58.5kgがいて4着、また末脚不発で8着。帝王賞では大外から末脚を見せるもカネツフルーヴ敗の4着。蛯名正義が騎乗したJBCクラシックGⅠアドマイヤドンに11身以上ぶっちぎられて4着。

そんな調子だったので、中山ダート1800mでの開催だったジャパンカップダートでは単勝124.6倍の13番人気という全な人気薄だった。前走ぶっちぎられたアドマイヤドンに加えてゴールドアリュールもいるし、中央実績ほぼなしでは致し方なしである。
しかしいつも通り後方から進めたリージェントブラフは、3コーナー群の後ろにまで押し上げていくと、直線で外に進路を確保して鋭く追い込む。前にいたトーホウエンペラーゴールドアリュールプリエミネンスらを次々とかわし、ついにアドマイヤドンをクビ差捉えてゴールを駆け抜けた。――ただし、その1身前にランフランコ・デットーリに導かれたイーグルカフェがいたので2着念。吉田豊は勝ったのがイーグルカフェだと気付いた「なんで芝ここにいる!?と思ったそうである。アドマイヤドンゴールドアリュールもかわしたのに、負けた相手がNHKマイルカップじゃそりゃそう思うよなあ。

その後の東京大賞典ではゴールドアリュールにきっちりやり返され、逃げ切りを許して3着

7歳~8歳:届かぬ日々と、挑戦と

7歳となった2003年は、まず連覇をして川崎記念に乗りこんだが、ここからリージェントブラフの前に立ちはだかったのが、大逃げスタイル確立したカネツフルーヴだった。最後方から断然の上がり最速380で追い込んだが、上がり421だったカネツフルーヴを捕まえられず1身差の2着

フェブラリーSはやっぱり距離が短いのか末脚不発で9着に敗れ、続くダイオライト記念オグリキャップ記念GⅡではどちらもカネツフルーヴ大逃げにいいように翻弄されて2着。特にオグリキャップ記念は9身もぶっちぎられてしまった。

帝王賞では断然人気ゴールドアリュール喘鳴症の悪化で撃沈したが、ネームヴァリューの会心の逃げ切りにしてやられて3着武蔵野SJCダートと見せ場なく7着、8着と敗れたが、名古屋グランプリGⅡで4歳イングランディーレや、いつものプリエミネンス・ハギノハイグレイドらを蹴散らして久しぶりの勝利を挙げる。

8歳の2004年も現役続行。川崎記念は例によって後方から追い込むも青森エスプリシーズにちぎられて3着。そして勇躍を渡り、アドマイヤドンサイレントディールとともにドバイワールドカップGⅠに果敢に挑戦したが、中の追走にも苦労して見せ場なく9着。
後はマーキュリーカップに向かう予定だったが、ここで屈腱炎を発症、さすがに現役引退となった。通算57戦9勝 [9-12-8-28]。

吉田豊騎手によると、現役中ずっと脚元が弱く、だましだまし使っていたそうである。……57戦も走っておいて? まあ休めば強くなるというものでもないし、大きな怪もなかったので、営の管理が上手かったと見るべきなのだろう。
後方からの末脚を武器とはしたが、スパッとキレるタイプではなく、地方の深いの方が得意ではあったが、直線の短い地方コースでは前を行くに届かず勝ちきれないというレースが多かった。そんな中でも川崎記念を勝ち5億円以上の賞金を稼いだ彼には「無事是名馬」と言うべきであろう。

引退後

引退後は*パークリージェント初の後継として種牡馬入りしたがなかなか受け入れ先が決まらず、2005年の種付けシーズンも後半になってようやくレックススタッドで供用されたが、は9頭しか集まらず、受胎率もダメで血統登録されたのは2頭だけ。にはレックススタッドを出されてしまう。
別の牧場に移って種牡馬を続けたが2年は3頭に種付けして1頭も受胎せず、2007年リンパ腺腫で種付けできず。結局2頭の子供しか残せないまま、2008年12歳で病死した。

生まれた2頭の1頭、1頭)も出走できたは5戦未勝利に終わり、は未出走で繁殖入りしたもののこちらもを残せず、リージェントブラフの血は全に途絶えてしまった。他に*パークリージェントの後継として種牡馬入りしたもなかったため、の直系の血も絶えてしまっている。厳しい世界である。

唯一の海へと繋がった道

そんなわけで血を残すことはできなかったリージェントブラフだが、彼の現役ラストランとなったドバイワールドカップ挑戦は、約20年後の個性伝説へと繋がることになる。――そう、吉田豊騎手といえば令和競馬ファンにとってはあのに他ならない。パンサラッサだ。

というのもドバイワールドカップ際招待競走なので関係者は遠征費など催者負担で招待されるのだが、同行者も1人まで連れていくことができた。リージェントブラフの騎手として招待された吉田豊独身で特に連れていく人のアテがなく、だったらと誘ったのが、当時厩舎開業前の技術調教師だった矢作芳人だった。ところが吉田豊騎手が急に「行ってみたい」と言いだし、仕方ないので招待に回し、矢作師の遠征費は吉田騎手が自を切って連れて行くことになった。矢作厩舎といえば海外遠征に定評があるが、これが矢作師にとっても大事な勉強になったことは想像に難くない。

それから18年後。中山記念逃げ切ったパンサラッサドバイターフの招待が届いた際、パンサラッサを管理する矢作師は引き続き吉田豊に騎乗を依頼した。もちろんパンサラッサ吉田豊の手が合っているという判断からではあったが、吉田豊が「ドバイで良いんですか?」と聞くと、矢作師は「豊には恩があるからな」と答えたという。

そしてそのドバイターフで、パンサラッサは見事、ロードノースとの1着同着という形でGⅠ初制覇を果たし、「令和のツインターボ」から「世界のパンサラッサ」へと飛躍を遂げた。そのロードノースに騎乗していたのが、他でもない――2002年ジャパンカップダート吉田豊とリージェントブラフに煮え湯を飲ませたイーグルカフェ上、ランフランコ・デットーリであったというのも、なかなかの奇縁である。
また、吉田豊2003年フランス遠征をサポートするなど縁の深かった、リージェントブラフの大原オーナーは、このパンサラッサドバイターフの数日後に逝去。はたして大原オーナードバイターフを見たのかどうかはわからないが、人の縁というものを感じるエピソードである。

その後、吉田豊引退までパンサラッサの手綱を取り、2023年サウジカップでも大仕事をやってのけた。パンサラッサ吉田豊――令和競馬ファンを焼いた名コンビドラマの陰には、リージェントブラフの挑戦が繋いだ縁があったということを、記憶の片隅にでも留めておいてほしい。

血統表

*パークリージェント
1981 鹿毛
Vice Regent
1967 栗毛
Northern Dancer Nearctic
Natalma
Victoria Regina Menetrier
Victoriana
Miss Attractive
1970 鹿毛
Victoria Park Chop Chop
Victoriana
Nice Princess Le Beau Prince
Happy Night
サリーベル
1980 栗毛
FNo.7-c
*グッドリー
1966 鹿毛
*スノッブ Mourne
Senones
*アリゼッタ Alizier
Bella Zetta
メジロトヤマ
1971 鹿毛
*フィダル Arctic Star
Miss France
アサマユ ボストニアン
トモエ

クロスVictoriana 4×4(12.50%)、Alizier 5×4(9.38%)、Nearco 5×5(6.25%)

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勝った2002年川崎記念動画ニコニコにはないのでYouTubeで見てくださいexit

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